第12話 正体

 週末、独身男性は遅くまで寝られる権利を有するが、僕の場合、一日が短くなるのが勿体なく思えるから、早目に起きるようにしている。権利は行使するより放棄した方が気持ちが良いから、特に目覚ましを掛けることはしないが、勝手に目が覚める。


 今週末は洗濯物が溜まっていた為に朝起きて直ぐに洗濯機を回した。少なくとも複数回やらないと終わらない。


 朝食を取りながら何度も働かないといけない洗濯機を哀れに想いつつも、同じ境遇のモノがそばにいる連帯感は多少なりとも気持ちを楽にした。


 それにしても詰め込まれた1週間だったと目を閉じた。そんな時、存在を忘れていた携帯が洗濯機に嫉妬したのか、鳴った。


『うーん、ナイスショット。うーん、ナイスショット』


そろそろ着信音の替え時か、と思いながら。画面を見ると片桐からだった。


「もしもし、片桐」

「ああ、もう起きていたか?」

「朝から主婦をやっている」

「結婚したんだっけ!」

「いやいや結婚の準備をしているってとこかな」

「悲しいこと言うね。世も末だ。男が花嫁修業とは」

「俺は順応性があるのだよ。いわゆる進化ってやつ。お前みたいに永遠に侍と言う訳にはいかない。今は男だって家事の一つやふたつこなさないとダメなんだよ。早く刀を捨てろ」


まげは切ったがね。これ以上、世の男性諸君の悲しきさがについては知りたくないので本題にはいる。健康診断やっている人間ドックを見つけた。CT検査、MR検査は勿論、日本でも数台しかないPETがあるところだ。場所は六本木にある。値段は少し張るがね。場所については好都合だろ」


「ああ、それはありがたい。ところで、CTとMRは聞いたことあるが、PETってなんだ?」

「簡単に言うと、PETとは、『陽電子放出断層撮影』のことでこれを使うと全身を総合的に診てくれるのだ。まあ、癌だけが目的でもないがね」

「なんかよく分からないけど、任せるよ」

「当たり前だ。ここまで来て任されなかったら髷を復活させる。後で詳細を送るから自分で予約してくれ。みんなにも連絡しておく。出来るだけ早く受けてくれよ」

「分かった。来週にでも有給を取るよ」


 片桐が教えてくれたのは今村クリニックだった。片桐によると人間ドックに関しては今村クリニックが全国に先駆けてビジネスを展開したそうだ。


 来週は、急ぎの仕事もなかったし前年度からの繰越し有給もあり好都合だった。日高には僕から話した方が良いと思ったが片桐に言い忘れていた。まあ、片桐のことだから最上と違ってこじれる事はないだろう。


 さてと、と思った瞬間来週の食事の事が頭をよぎった。色んな考えを巡らせた。そして漠然と疑問が沸いて出た。女性ってどんな時に男性と2人で食事に行くのだろうか。


もちろん、女性によって理由は異なるだろう。


 本条さんと僕の間に上司と部下の様なパワーバランスは存在しない。友人関係や親族と言ったしがらみもない。部署間の交流も残念ながらない。


 一方的に何かしらの援助を授受する事もない。また、僕が国家機密レベルの情報を持っていてそれを傍受する任務に就いているとも思えないが、この場合、少なくとも僕の名前を知っていた事の説明は付く。だからと言って、エレベーターの偶然を待つ様なスパイにこんな任務を課す事はないであろう。


 死ぬほど暇でとにかく出掛けたいなら夕食をOKするが、その場合、僕のメールを待ちきれず何かしらのアプローチがある筈である。


 ほぼ、会話がなく、稀に、そして偶然、友人との会話の中に名前が出てきたとしても限りなく歪曲された噂であり、それらが食事に行く気持ちにさせるとは思えない。


 つまり、偶然耳にする程度の距離にある相手と食事に行くと言う事は、多少なくともという感情が存在しないと説明がつかない。


 僕は、片桐か最上に意見を求めたかったが、片桐の場合、『何故、相手の気持ちを考える。お前はどうしたい』と呆れるだろうし、最上は、『そんなん、当たり前田のクラッカー』と猪の様に前進あるのみと得意げにアドバイスをくれるだろう。持つべきものは親友である。


 朝食を食べ終えてテレビを付け、洗濯が終わるのを待ちながら、生産性ゼロの時間を持とうと思ったら、


『ピンポーン』


 数ヶ月振りに僕の部屋のインターフォンが押された。出るのを止めようかと思ったが、体が反応していた。


「はい」

「沢村さんですか?佐久間さんのことでお伺いしたいことがありまして。今お時間宜しいですか?」


 どうするかな・・・。オートロックを解除することを躊躇ためらった。画面越しに顔をじっと見た。見覚えが無かったが、佐久間の名前を出されたので、選択肢はなかった。


 オートロックを解除して、玄関前で待った。ドアがノックされたので、ドアを開けた。


「どちら様ですか?」

「突然お邪魔して申し訳ありません。私はこう言うものです」と言いながら名刺を差し出してきた。


「えっ、調査会社」その名刺には調査会社、雨宮真一あめみやしんいちとある。

「実はあるところから依頼を受けまして佐久間氏の死について調査しております」

あるところって言うことは個人的に頼まれた訳ではないって事か。


「どこから依頼を受けたのですか?」

「それは言えません。ただ言える事は、これは合法的なことなので、ぜひご協力ください」


 合法的って威圧感のある言葉を使って従わせようなんてあまり褒められたやり方じゃないな。それに、こいつは佐久間の死に関係があるかも知れない。


「何を知りたいのですか?」

「ご両親以外で佐久間さんが亡くなる前に電話をされた相手のひとりがあなたなのです」


 何故、電話をした事を知っているのだ。ひょっとして政府の人間か。だけど個人情報保護法でそんなこと出来ないのではなかったかな。段々恐怖心を覚えてきた。


「それがどうかしましたか?」

「佐久間氏に何か変わったところは無かったですか。例えば、自殺をほのめかせるような言動とか?」

やけに具体的だな。

「いいえ・・・、何も・・・」

「そうですか。差し支えなければ、お電話の目的は何だったのですか?」


 重村のことは話すべきでないと直感的に思った。あまり考えると怪しまれると思い適当に答えた。


「久しぶりに大学の仲間と飲みにいったのです。そのお礼です」

「なぜ、友人にお礼の電話をするのですか?不自然じゃありませんか?」

「まあ、お礼といってもお互いにお疲れ様といった感じの簡単な電話だったのです。お礼と言ったのは言葉のです」

「なるほど、言葉のあや、ですか。ところで、あなたは佐久間氏が高額の生命保険に入っておられたことをご存知ですか?」


 意表を突かれた質問だったので僕は答えに躊躇した。少し時間が欲しかったので質問で返した。


「高額の保険ってどういうことですか?」

額面がくめんの通りですよ。それでご存知でしたか?」

「いいえ、知りませんでした」これ以上質問が続くと答えられなくなると思い嘘をついた。

「本当ですか?」

何か疑っているような言い草だった。


「本当です。それを聞いて私自身驚いています」

「分かりました。お疲れのところありがとうございました」


雨宮は礼を言って帰ろうとしたが、

「あっ、そうだ。最後にもう一点宜しいですか?」

刑事コロンボのようだったが、僕には断る理由が見つからなかった。


「何でしょうか?」

「この方に見覚えはありますか?」


雨宮は男性の写真を目の前に差し出した。


 意識が遠のいた。僕の動揺に間違いなく雨宮が気づいた。突然の再会に平常心で居られるほど感情をコントロール出来なかった。もう、2度とこの顔に会うことはないと思っていたからだ。その写真の主はあの占い師だった。


「ええ」驚きと同時に言葉を発していた。

「どういったお知り合いですか?」

「知り合いでは有りません」

「では、あなたとのご関係は?」

「関係も有りません」

「では、どこでお目にかかったのですか?」

「この方は占い師でたまたま占ってもらったのです。ただ、それだけです」

「それは、本当のお話ですか?この方が占い師だとは驚きました」


この雨宮がこの占い師について何を知っているのか心の中を覗きたかった。


「それは、どう言うことですか?」

「本当にご存知ではないのですね」

「ですから、何を、ですか?」

「この方が佐久間氏の同僚だと言うことです」

「何ですって!」


 やっぱり、佐久間とあの占い師は繋がっていたのだ。と言うことは、全ては佐久間が仕組んだことなのか。なぜ、こんなことをするのか?


 そして、佐久間の葬儀の日にどうしても思い出せなかったことが頭を金槌で殴られたような衝撃で記憶回路が繋がった。


 この占い師は受付にいた男なのだ。あの時は、葬儀だったし眼鏡を掛けていたので気が付かなかったが、間違いない。


 やつは僕たちに、気付かれる可能性があるにもかかわらず佐久間の葬儀に出席していたのだ。なぜ、そこまでのリスクを犯して葬儀に出席したのか、それも受付の役回りを引き受けて。


「ご存知じゃなかったようですね、本当に。正直に顔に出ますね」

「ところでこの…えっと…」

「正直な沢村さんに免じて教えてあげます。彼は、永井隆二ながいりゅうじと言います」

「なぜ、永井さんを探しているのですか?」

「それは言えません」

「では、その永井さんにお会いになられたのですか?」

「いいえ。まだ会っていません」

「じゃ、これからお会いになるのですね?」

「それが出来ないのです。行方が分からなくて。会社に問い合わせたところ既に退職していました」


僕は返す言葉が見当たらなかった。


「それでは、何か気がついたことがありましたらその名刺にある電話番号にご連絡いただけますか?」

何も連絡することはない。例え何か分かったとしても。

「分かりました」

「お休みのところ失礼しました」

軽く一礼して雨宮は去った。


 早速片桐に電話をしたが直ぐに切った。考え過ぎかも知れないがひょっとしたら携帯や部屋が盗聴されている可能性があると思ったからだ。


 雨宮は必要以上に情報を教えてくれた。ドラマの観すぎかも知れないが、雨宮に泳がされるのはごめんだ。



 調査会社の人間が名刺を偽造せず、正直に身元を明かすのだろうか。それに、雨宮が言ったことは真実なのだろうか。こんな形で物事が進むのだろうか。答えをもらったにも関わらず、疑問が溢れ出した。


 誰が言ったか覚えていないが、一番難しい数学の問題は、白紙であること。つまり、どんな問題より、問題が無いことであると。問題がないと答えようがない。この話を聞いた時は、何をたとえて言ったのか分からなかったが、ふと、僕はこの状況でこんな事を思い出した。


 ただ、盗聴されていたら、雨宮はわざわざ僕のところに尋ねては来ないだろう。でも今は家から電話をするのは得策ではない気がしたので外から電話をすることにした。とにかく1回目の洗濯が終わるのを待って家を出た。洗濯機の働きに応えてあげないと、連帯感を与えてくれた彼は報われない。


 携帯を使うのも避け公衆電話を探したがなかなか見つからなかった。結局、自宅から駅までの間に公衆電話は1台も無かった。ようやく駅で公衆電話を見つけた。小銭は家を出る前に十分に持ってきた。


 公衆電話のボックスに入ると、厄介なことにどこを探しても小銭を入れる穴が見つからなかった。良く見るとこの公衆電話はIC電話と書いてあった。要するに、小銭は使用出来ずにICカードを購入する必要があった。


 携帯を無くしたら大変なことになると再認識した。僕は道路を挟んで向かいにあるコンビニでICカードを購入し、再び先程の公衆電話に戻った。すると、先客が居た。本当は僕が先客なのだが。


 僕はその先客が意外に若かったのには驚いた。携帯を持っていない人も居るのだなと片桐を思い浮かべた。


 片桐2号の電話は直ぐに終わり、本家に電話した。よもや片桐の家まで盗聴はされていないだろう。僕の家も盗聴はされていないと思うが。


 片桐は電話に出なかった。やっぱりこんな時には携帯が役に立つのだ、と片桐の性格に腹が立った。僕は仕方なく留守番電話に用件を残した。


『これを聞いたら俺の携帯を一度だけ鳴らして欲しい。そして、待ってくれ。俺が公衆電話から掛け直すから。これは緊急なので取り敢えず俺の指示に従って欲しい。では幸運を祈る』


 サスペンス染みて来たのでそれ風に伝言を終わらせた。僕のメッセージが終わっても、留守番電話から煙が出ることはない。


 僕はそばにある喫茶店で待つことにし、窓際の席に案内された。席からは公衆電話と駅までの人の流れも確認できた。携帯のアンテナは3本立っている。


 手持ち無沙汰も手伝ってメニューに目を通した。その瞬間、既にお腹が減っていることに気が付いた。


 サンドイッチとコーヒーを注文し、先程貰った雨宮の名刺を取り出した。住所は、『杉並区上萩一丁目 林ビル三階』となっていた。


 雨宮は何を調べているのだろう。僕は携帯の着信履歴を確認した。確かに、2月23日に佐久間からの着信履歴があった。雨宮は佐久間の携帯を見たのだろうか。それとも、もっと手の込んだことをやったのだろうか?


『サンドイッチとコーヒーお待たせしました』ウエイトレスは笑顔を添えてテーブルに置いた。


「ありがとう」


 僕はコーヒーにミルクを入れた。そして、それを飲みながら窓の外を眺め、人の流れを何気なく追った。特に誰かに目を奪われるでも無くただ外を眺めていた。


 せっかくゆっくりしていたのに雨宮の登場でまた騒がしくなって来た。雨宮はどのように永井を探り当てたのだろう。どうにかして、雨宮のことを調べないといけないと気持ちだけが焦っていた。


『うーん、ナイ』


 僕はドキッとした。着信履歴だけ残して震えは直ぐに収まり、画面に『片桐』を浮かべた。


 残っていたコーヒーを飲み干し雨宮の名刺を仕舞い、支払いを早々に済ませ、公衆電話へ急いだ。僕の邪魔をする片桐3号は居なかった。


「もしもし、片桐。すまないな」

「どうした?緊急の用って?」


覚えている限り雨宮との会話を忠実に片桐に話した。


「思わぬ展開だな。でも、出来でかしたぞ。やっぱり佐久間が何か隠していたな」

僕の手柄は何も無いが、そう云われると何かしたようにも思えた。


「どうすればいいと思う」

「そうだな。その雨宮の名刺持っているよな」

「ああ」

「ようし、雨宮を探るか?」

「どうやって?」

「お前はやつに顔がばれているので俺がやる」

「どうやって探るのだ」

「とにかくその事務所の前で張り込もう。その名刺の情報が正しいか。お前しか雨宮の顔を知らないので一緒に来てくれ」

「一緒に行くのは良いけど上手く行くのか」

「心配要らない。ばれたらそれまでだ」

「それで、いつ行く?」

「善は急げと言うだろう。今からだ」

「えっ、今から」

「何か用事でもあるのか?」

「2回目の洗濯ぐらいでこれといって用事はないが・・・分かった。行こう」

「その前に、その雨宮の会社名を教えてくれ。出る前に調べておく」


 名刺に書いてあった雨宮の会社名、住所、そして電話番号を片桐に伝えた。

こんな時は片桐の言う通り考えていても仕方がない。


 僕らは2時間後にJR荻窪駅で待ち合わせることにした。改札で待ち合わせようと片桐が言ったが僕は駅で雨宮に会うといけないので、人目の少ないところで先に行って待っているから、駅に着いたら片桐から電話をもらうことにした。


 荻窪駅に着くと改札を出て雨宮の存在を気に掛けながら人通りの少ないところで待った。


 もう4月なのだが寒さが震えを誘った。この震えは寒さだけが原因なのか良く分からなかった。


 間もなくして携帯が鳴った。着信は公衆電話からなので間違いなく片桐からの電話である。


「もしもし、片桐。今どこに居る」

「改札出たところの公衆電話から掛けている」

片桐はICカードを常備しているのだろう。


「目の前にロータリーがあると思うが、そのロータリーから3本道が出ている。駅を背にして一番左の道を進んでくれ。それで一つ目の信号を左に。俺はそこに居る」

「分かった直ぐに行く」


片桐が到着した安堵感からなのか急に寒さを感じ、薄着で来たことを後悔した。先ほどの震えはどうも寒さからのようだ。


「沢村待たせたな」

「雨宮の事務所の場所は分かったのか?」

「ああ、もちろん」


 僕らは並木通りを抜けていった。すると片桐が言ったように右手に13階建てのビルが見えた。林ビルとあり、名刺の住所が正しい事が証明された。あれの3階に居るわけだ。


「これからどうする?」

「そうだな」片桐は周りを見渡しながら、

「向かいのファミリーレストランで会社の入り口を見張ろう」

「了解」

「その前にちょっと電話をしてくる」

「なるほど、雨宮が在籍しているか、と確認するわけだな」

「その通り」


 片桐が電話を掛けに行っている間に窓際の喫煙席を確保した。片桐もタバコは吸わなかったがここが絶好の席だった。この際、受動喫煙は仕方ない。


「思ったより待たずに済みそうだ」

「と言うと」

「電話に出た女性の話では、16時頃、帰社する予定らしい」

「今15時過ぎだから後1時間弱か。だけど土曜日も出社とは大変だ」

「ああ、基本的に土曜日は出勤だそうだ。出る前にホームページで調べた。それに調査となると土日じゃないとなかなか人に会えないからな」

「ところで片桐、さっきから気になっていたのだがその荷物は何?」

「これか、これはカメラだよ。しかも望遠レンズ付き。これならここから十分に雨宮の顔写真が撮られる」

「そこまで必要なのかね」

「備えあれば憂いなしって言うだろう」

「お前には負けたよ」

「ところでもう注文した?」

「まだ、していない」


 さっきサンドイッチを食べたばかりだったが、すでに空腹感があった。片桐とこうしていると昔を思い出した。あれは確か、フライデー事件だった。


 大学1年の頃だったと思う、片桐と僕は日高から彼女が浮気をしているので調べて欲しいと頼まれた事があった。その時もふたりで1週間日高の彼女を尾行した。


 尾行するのは全く苦痛でもなく、日高には申し訳ないが、僕は適度なスリルを楽しんだ記憶がある。辛かったのは尾行から1週間目に彼女が浮気している所を目撃してしまった時だった。事実を日高に言うのはとても辛かった。


「あの時は辛かったな」と片桐は渋い顔をして言った。片桐も同じ事を思い出していた。

「俺は今でも事実を伝えたときの日高の顔を忘れられない」と渋い顔を真似た。

「お前に嫌な役を引き受けて貰ったな」

「今となっては楽しい思いでの一つだよ」


あの時の事を思い出しながら僕らは久しぶりに笑った。


「片桐注文決めたか?」

「ああ、俺はカレーライスとアイスコーヒーにする」

「カレーはともかくアイスコーヒーは寒くないか?」

「大丈夫。お前はどうする?」

「俺もカレーにする。でもアイスコーヒーには付き合えないけど」


 片桐は出入り口を注意しながらカメラの準備をしていた。片桐はビルに男が入っていく度に僕が見逃していないか気になっている様子だった。


「今日雨宮にあったとき、どんな格好だった?」

「上下黒のスーツだった。ワイシャツは確か白だったと思う」

「あまり個性的なやつじゃないな。つまらん」

「何を期待しているんだ。ドンパチか。それで雨宮を見つけてどう探るつもりだ?」

「そうだな。まだどうしたらいいか考えていない。ここへ来る途中良い考えが浮かぶかと思っていたが、さっぱり駄目だった。先ずは、やつの顔を見たい。それからだ」


片桐はカメラのピントを確認しながら続けた。


「雨宮を実際に見れば戦略は立てられると思う。まずは雨宮から依頼人をどうにかして割り出さないと」

「また、駄目で終わりそうだが。でも、ひょんなところから占い師の素性が判ったな」

「佐久間は何をしようとしていたのだろう」と言いながら片桐はピントが合ったカメラをテーブル置いた。

「永井に賭けるしかない」と僕は漠然と思った。


『お待たせしました』


 僕たちは無言でカレーを食べた。今すぐにでも店を出る可能性もあるからだ。食事中も外を注意深く見ていが、雨宮らしき人物は現れなかった。


 雨宮が今日本当にオフィスに戻って来るのか不安になってきた。その時だった。見覚えのある男が駅の方から歩いてくるのが見えた。


「片桐、間違いない。向こうから歩いてくるのが雨宮だ」

「ようし、角度も悪くない」


 片桐はスプーンを素早くカメラに持ち替え、カメラを構えた。そして、何度かシャッターを押した。片桐の顔はまるで獲物をそっと影に隠れて捕獲しようとしているトラのような目つきだった。彼のレンズを覗く目をみて確信した。雨宮を捕らえたと。


「よし。上手く行った」

片桐は早速画像を確認した。そしてそのひとつを僕に見せた。


「これで間違いないか?」

顔を確認してそれが間違いなく雨宮であると片桐に告げた。

「ようし、長居は無用だ。今日はこれで帰ろう」


僕らは支払いを済ませお店を後にした。帰り道、片桐に聞いた。


「何か良いアイデア浮かんだか?」

「何も浮かばない。今日はゆっくり休むとしよう。雨宮も何処へも逃げないだろうし」と片桐は落ち着いていた。

「家、盗聴されていると思うか?」

「いや、そこまではしていないだろう」

片桐の言葉で漠然と安心した。




 自宅に戻り洗濯物を取り入れた。今日は気温が低かったが乾燥していたので意外と乾いていた。ひと段落着いた途端にどっと疲れに襲われた。


 片桐から雨宮の写真が送られてくる手筈になっていたがそれを待つ気力は起きなかった。今確認したところで雨宮の顔が変わる事はないのだから。




 僕は随分寝た。時計を見ると既に10時を回っていたがまだ寝足りない気がした。こんなに寝坊してしまうのは珍しかった。こんなに寝ても体が言うことを利かなかった。しばらく布団の中で過ごした。今日は穏やかな一日になるのだろうか?


 昨日とは一転して空は晴れ渡っていた。久しぶりに出かけることにした。今週食事もあることだし買い物でもしようか、と。


 本条さんのことが頭に浮かんだ。彼女のことを思うことで今の不安を追い出せるように思えた。


 本条さんに対して憧れの気持ちはずっと抱いていたのだが、実際に食事に行くことになった事実が憧れの存在からそれ以上のものを彼女に望んでいる自分がここにいる。


 これは純粋な本条さんへ対する思いなのだろうか。それともこの状況が彼女に対する想いを深くしているのだろうか?


 仕度を済ませ家を出た。外は春の香りが漂っていた。寒い冬を耐え抜いた、木々や花そして動物たちが春の訪れを楽しむかの様に、それぞれの生気を発散させて交わり、成しえる成果、それが香り元だった。


 木々が冬を耐え抜いたと思ったが、それは、正しい解釈なのか分からない。人でも冬を好むし、夏を好む人もいる。だとしたら、木々も好みがあって然るべきか。

 木々の好みとは、広い括りの様に、針葉樹、広葉樹ではなく、同じ属性の中での好みである。


 隣合った木々は成長につれて、どこかのタイミングで根同士が交じあうであろう。その確率は高いと思う。偶々たまたま隣に生まれただけで。


 本条さんとの出会いも偶々同じ会社に入っただけに過ぎない。部署は違えど、根が交じあう事もある。声を掛ける切っ掛けは、佐久間が与えてくれたが、自然にお互いの根が距離を縮めたのではないかと思えてきた。


 春とは、ここまで人を前向きにする力があるのだ。


 久しぶりに深呼吸をした。このところ行き届かなかった身体の隅々まで酸素が届いているのが感じられた。


 駅までの道のりを楽しんだ。そろそろ桜も咲きかけていた。そう言えば今年の開花宣言を未だ聞いた記憶が無かった。



 電車を乗り継いで目的のデパートのある新宿に着いた。一通り紳士服売り場を見て回った。久しぶりだったので以前の記憶とは服のスタイルが変わっていて驚いた。その多くは、着るには抵抗があるものだった。


 結局、前から知っていた2つの店に行くことになった。そこのトレンドも流行に乗ってはいたが、確固たる方向性は趣味の範囲に収まっていた。


 軽く羽織れるニット系のカーデガンを探していた。一通り歩いて、第1候補のお店に向かった。入ると直ぐにイメージ通りのものが目に入った。それを手に取った。手触りも良い感じだった。


「いらっしゃいませ。通常、腕と胴の部分は別に編んで後で繋げるのですが、それは一本の糸で作っていますのでお試し頂くとよく分かるのですが、肩の辺りのフィット感が全然違います。それに、これはかなりの伸縮性がありますので着心地が良いですよ。どうぞ、お試しください」


 店員は合気道の達人の様に既に僕の後ろに回り上着を脱がそうとしていた。僕が抵抗しなかったのも手伝って僕の左手はニットに挿入されようとしていた。


「よくお似合いですね。このフロントはダブルジップです。下からでも開けることが出来ますので、これから春になって暖かくなると下の部分を解放するとオシャレに着こなせます」と店員は間髪を入れずに説明した。

「それにデザインもシックですので飽きが来ませんから長く着ていただけます」


 僕自身似合っている気がしたので心の中では購入しようと決めた。先刻から値段が気にはなっていたが、店員の『長く着られる』と言う言葉から僕は値段に関して諦めていた。


「いかがでしょうか?」

「これにします。ところでお幾らですか?」

「3万3千円になります」


 やっぱり、と思ったが家を出る時からある程度の出費を覚悟していた。少しくらい贅沢したい気分だったのだ。しかし、予想以上の金額になった。


「カードでも大丈夫ですか?」

「勿論大丈夫です」

レシートにサインを済ませ、店を後にした。今日はこれで家に帰ろうと思った。


 自宅に帰ると携帯にメッセージが残されている事に気が付いた。再生のボタンを押すと、それは片桐からだった。


『最上と重村に雨宮の写真を送り説明しておいた。重村は週末も仕事らしくあまり詳しく話せなかった。雨宮の調査のこともあるしまた連絡する』


 重村は週末も仕事しているのか。大丈夫かな。前回の飲み会の時に重村は量産に向けて問題があると話していたが未だに目処が立っていないようだった。


 この間、会社の同僚が言っていたが自動車業界も納期とコスト削減に追われて社員はかなりのストレスを抱えているとの事だった。一度会ってみるか。僕は重村の携帯を鳴らした。


『ピー、ピー、ピー、只今電話に出ることが出来ません。20秒以内でメッセージを録音して下さい。ピー』


「重村。沢村だけど、どうしているかと思って電話しました。今度、飲みにでも行こう。あまり仕事ばっかりしていては体に毒だよ」


 僕は制限時間の20秒で必要最低限のメッセージを残す事に成功したがちゃんとメッセージを聞いてくれるのか一抹の不安があった。

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