第13話 デート

 月曜日の昼食後、今村クリニックに電話をした。片桐から聞いていた例のPETを一般的なコースに追加するよう依頼した。


 当然、PETは通常のプランに入っておらず別料金が発生するとのことだった。結果、合計8万円近くになった。


 僕の予想を遥かに上回っていたが日高を説得した手前、当初の予定通りPETを受けることにした。そして、来週の水曜日に人間ドックの予約を入れた。


 その後も仕事に追われ、雨宮の事が定期的に思考を遮断し、サラリーマンの責務とミステリーの主人公を兼務すると、数日は、平凡な日常の半日の様に過ぎ、水曜日を向かえた。


 この日も一息付けたのは、21時を過ぎていた。金曜日は、本条さんとの食事である。待ち合わせを何処にするか確認メールをすることにした。


『おはよう。最近変りはないですか?(どれだけ詳細な回答が返ってくるか分からないが、この質問には意味がありひょっとして、出張だったり、体調を崩して会社を休んでいたりすると最近会わなかったことについて納得できる。実は食事の約束をして以来彼女を見かけなかったのだ)

僕の方は相変わらずです。(これまでの人生で最大の出来事があったのだがこんな事を打ち開けられるはずがない。そして、そのひとつが本条さんとの食事なのだから)

さて、金曜日の食事ですが、大丈夫ですか?問題ないことを期待して待ち合わせ場所ですが、会社の裏側の出口を出たところにある広場に18時10分でいかがでしょうか?(現地集合は避けたかった。食事をする前に初対面の、実際には3度目だが、緊張感を取り除いておきたかった)では、沢村』


 今回も開封済みボタンにチェックは入れなかった。返事は思ったよりも早く返ってきた。メールの送信から21分後であった。


『こんにちは。元気にしていますよ。金曜日の件、了解しました。それでは、裏口の広場で。よろしく』


 こんなに早く返事が来ないだろうと思っていたら、あっさり来たし、内容も簡潔で拍子抜けするものだった。


 僕はルーティーン通り何度か返事を読み返した。今度は、やり取りの頭から。最初から最後まで。


 僕の初めてのメールからそれはスムーズに流れていた。お互いの聞きたい事、伝えたい事、文字数はバランスが取れていた。


 これに対して僕が拍子抜けするなら、を持つ本条さんも僕の内容に物足りなさを感じているに違いない。


 リトルリーグ時代に教わった。キャッチボールは相手の胸に優しく投げる様にと。相手が受け取りやすいボールを投げる事が会話の基本である。特に相手のが分からない時には。


 そう思うと、本条さんと僕のやりとりは、横によそれるでもなく、思うがままに問う訳でもなく、無駄のない真っ直ぐなキャッチボールである。この一連の流れが作り出したメールの成果物の中に秘められた宝物を見つけた気がした。炭素が綺麗に並び出来上がる結晶の様に。


 僕は、ダイヤの結晶を創造したメールを、時々振り返りながら、日々を過ごし、本条さんとの食事の日の朝を向かえたが、今日に限ってなかなか起きられなかった。


 食事のことを考えると昨夜眠りについたのはた深夜3時を回っていたからだ。急いで支度をした。時間はなかったがいつもより長く歯を磨いた。


 クローゼットから例のニットを取り出した。そして、それを着た。観た感じは良かったし、着心地も文句ない。だが、それを着るのをやめた。理由は分からないが、これを着るのは今日ではないと思った。ニットにはなんの罪もなく当然ながら冤罪である。このニットを着る日がいつ来るのだろうかと思いながらクローゼットのドアを閉めた。


 会社に着いた後、レストランのホームページにアクセスし一応メニューに目を通してから仕事を始めた。退社直前に目を通す余裕があるか不透明だからだ。


 一日は速かった。時計を見ると既に17時30分を指していた。あと、40分で待ち合わせの時間だった。体が段々硬くなっていくのを感じた。実際に、固まっていっているのではなくて、神経が麻痺しているような感覚だった。


 視覚からの情報が脳で処理される前にクッションの様なものを通ってくる感覚である。しかし、時計からの情報は、何者にも邪魔をされずに直接目から脳へ伝わり約束の時間と引き算を始めている。


 不思議な感覚だった。暗算の答えが残り10分となった頃、パソコンのスクリーンに『新着メール』通知が現れた。本条さんからだった。


『お仕事終わりそうですか?私の方は大丈夫ですよ』


 嬉しかった。楽しみにしていてくれているような気がしたからだ。直ぐに返事を返した。表情は読めないが、数階上の本条さんのスクリーンには僕からの新着メール通知が表示されるはずである。


『そろそろ出ようと思っていました。今からパソコンの電源を切りますので、もうメールは読めませんのでよろしく』


 パソコンを終了しモニターの電源を切った。これで、待ち合わせに遅れることはない。なぜなら、彼女はこれから僕のメールを受信し内容を読むのだから。そして何より彼女は7階にいるのだから、物理的に僕の方が早いはずである。


 予想通り待ち合わせ場所には先に着いた。外はもう暗くさすがに日が落ちると寒く感じた。僕は暗がりで待つことにした。なんと言っても職場は目の前なのだから。


 裏口のドアが開いた。人が出てきたのが足音で確認出来たが、直ぐには見なかった。少し斜めを眺めていた。何か考え事をしている振りをした。足音はこちらに向かってきている。この音は、僕に直線的に近づいているのが解った。僕は振り向いてその足音の主を確認すると、やはり本条さんだった。


 一瞬の違いだったと思うが彼女の方が先に微笑んだ。僕は微笑みを返すのが精一杯だった。最初に伝える言葉を考えていたが言えなかった。それは、動揺もあったが、彼女の言葉のほうが先に発せられたからだ。


「すいません。お待たせしました」

「とんでもない。仕方ないです。僕は、4階にいるのですから」

彼女の微笑みを待ち、続けた。

「では、行きましょうか」

外の暗がりが緊張の加速を抑えてくれた。

「はい」


 勝手ながら二人の関係が発展したような気がした。それは、僕の『行きましょうか』の問いかけに『はい』と協調してくれたこの二言のやりとりが全くの他人からステップアップしたように思えたのだ。そのステップは小幅だったが確実な前進だった。


 僕らは駅に向かって歩き出した。所謂普通のデートより二人の距離は広かった。しかし、友達より近い気がした。実際には友達以上に離れていたが、今まで、エレベータ以外でこんなに近づいたことは無かったし、ずっと憧れていた人が単なる偶然でそばに居るわけでもないことが、僕の遠近感を鈍らせたのだ。


「今日は何処に連れて行ってくれるのですか?」

彼女の声の調子は、その言葉の次に『楽しみにしています』を従えているように思わせた。


「お肉は好きですか?」

そう言えば、食の好みを聞いていなかったが、肉は好きだと思い込んでいた。どこからそんな自信があったのか分からないが。


「はい」

ここで、ベジタリアンですと言われたらこの後の展開は大変な事になっていたが、想像通りだった。

「良かった。恵比寿の鉄板焼きです」

「楽しみです」

この言葉を聴くのは二回目のような気がした。そう、さっきは、心の中で聴いたのだ。


「恵比寿なので山手線ですよね」

僕は、当たり前の質問をした。もう一度、先程の様に本条さんと共鳴出来るやり取りをしたかったのだ。

「そうですね。恵比寿だったらそうなりますね。それとも、歩きますか?」


 この提案は彼女が積極的に運動を好むとは思えなかったから凄く意外に思えた。無論この発見は僕にとって悪いものではない。確かに歩けない事はない。

「えっ、歩くの好きですか?」

「沢村さんは歩くのはダメですか?」

僕は中学・高校と野球をやっていたので体を動かす事は好きだった。

「僕は歩くのは好きです。じゃ、歩いていきますか?」

彼女は優しく微笑んだ。

「今日は、電車にしましょう」


今から歩いたら予約に間に合わないが、別に食事が出来なくなっても恵比寿まで一緒に歩くのは、それはそれで楽しい。

「そうですね。本気にしてしまいました。でも、歩くのは好きなのですね」

「歩くのは好きですしマラソンもします」


先程以上に僕は驚いた。勿論、今回も嬉しい驚きだった。

「じゃ、結構運動されるのですね」

改札に到着したので、一旦会話が途切れた。僕は改札を入ったところで本条さんを待った。

「ごめんなさい。やはり、金曜日は人が多いですね」

はぐれない様に旗でも持ってくれば良かったですかね」

本条さんは笑ってくれた。

「旗なんて、必要ないです。ちゃんと見ていますから」


 僕たちは左側に縦に並んでエスカレータを上った。恵比寿方面のホームは新宿方面に比べると空いていた。


 僕はあまり恵比寿駅を利用したことが無かったので、どの辺りから電車に乗れば恵比寿駅で便が良いのか解らなかったし、本条さんはオシャレな町に詳しいと思ったので尋ねた。

「どの辺りで待てばいいですかね?」

「鉄板焼き屋さんは恵比寿のどの辺りにあるのですか?」

「タータントホテルです」

「だったらガーデンプレイスに行けば良いですから、この辺りで大丈夫かな」

やっぱり、予想通り彼女は知っていた。

「お腹空きましたね」

僕は空腹感を覚えた。段々お腹が空いてきたのではなく緊張が解けて来たのだ。

「私もお腹ペコペコです」


僕は何かを忘れている気がした。何かを言いたかったような・・・。少し考え込んだ。

「あの・・・」と僕が発した瞬間、彼女も言葉を発していた。

「沢村さんは・・・」

僕は先にどうぞとジェスチャーで彼女に示した。

「沢村さんからどうぞ」

「本条さんは結構運動されるのですよね」


『2番ホームに電車が参ります。黄色の線まで下がってお待ちください』


聞いてはいけないほどの質問をしている訳でもないのに何故こんなに邪魔が入るのか。本条さんは電車の音に負けないように声のトーンを上げた。

「運動は好きで、水泳もします。以前は小学生に教えていました」

今回は驚きより、本条さんと一緒にプールに入っていた小学生に嫉妬した。


「イメージとは全然違いますね!」と言いながら僕は彼女の水着姿を想像しようとしたが本条さんの目の前で別の姿を想像する事は出来なかった。

「どんなイメージを持っていましたか?」


 どんなイメージか?よくよく考えると、特に彼女がどんなスポーツをするのか考えてもみなかった。本条さんの答えが、テニスでもバスケットでも乗馬であっても水泳と同じ様に驚いていたに違いない。


 ひょっとして、何もスポーツはしないと答えられていても驚いたかも知れない。結局、人の想像力には限界があり、全ての側面を一通り考えている訳ではない。


「何となく、想像が付かなくて。でも、水泳が出来るなんて羨ましいです。僕は泳げないんです」

本条さんはただ笑っているだけだった。

僕たちが予約した列車が姿を見せた。そして、それに乗り込んだ。

「息継ぎが上手く出来なくて。どうも息継ぎをする度にブレーキが掛かってしまって」

「何となく原因はわかります。息継ぎの時の目の方向が悪いと思います。恐らく意識が前にあるのでしょう」


 息継ぎの時に目の方向なんて意識したことが無かった。確かに前に進む事に必死だった。本当に水泳が出来るのだと感心した。リラックスして息継ぎをしている自分を想像した。

「なるほど、今なら上手く出来そうな気がしてきました」

「良かったですね」と言って彼女は微笑んだ。

それは、なんだか子供に接する時の様に包み込むような言い方だった。


 泳ぎながら、これから始まる食事のことを考えた。そしてその先の二人の事も考えた。とても幸せな空想だった。ただ、空想の中の自由形でさえ、思った程、指先が伸びていかない。息継ぎがスムーズに出来ているにも関わらず。それは、頭の中で、佐久間のことがぎったからだ。空想なのに三年以降の先が作り出せない。どうしてもっと前に一緒に食事に行くことは出来なかったのかと、もう後悔の念が湧き上がってきた。


「どうしたのですか?あまり考え事は似合わないですよ」彼女は僕に変わらぬ微笑を浮かべて言った。そして僕は答えた。

「今、頭の中で泳いでいました。途中までは上手く泳げました」

「やっぱり、先生が良いのですね。授業料頂かないと」

「それじゃ、今日は僕に奢らせてください」

「冗談ですよ。割り勘にしましょう」

「いえ。それは出来かねます。今回は、僕が誘ったのでおごらせてください。この次は割り勘にしましょう」

「じゃあ、ご馳走になろうかな」

他愛もないが、初めての議論を交わした。


『間もなく恵比寿に到着します。右側のドアが開きます。ドア付近の方はご注意ください』


 僕らは電車を降りて、ガーデンプレイスに向かった。駅からガーデンプレイスまでは思ったより距離があったがその距離を楽しむ事が出来た。


 ホテルに入ると僕はその雰囲気に圧倒された。僕が知っているこれまでのホテルより天井が遥かに高かった。


 床の大理石は白黒でシックに配列されていた。その一つひとつの大きさも広い空間と調和していた。全ての装飾品がそれ一つを取ると高価で自身の個性を主張しているのだが、それらをどう合わせればその個性が全体の雰囲気に馴染み、その為だけに献身と犠牲を払えるのか綿密に計算し配置されていた。


「凄く豪華な創りですね」

どちらがこのホテルに決めたのか分からないコメントだった。

「タータントホテルって言えばホテルのなかでもトップレベルですよね」

やはり彼女は良く知っていたし落ち着いていた。結局僕は鉄板焼き屋さんがどんなところにあって、どんな雰囲気なのか全く知らなかったのだ。知っていたのは、電話番号とコースメニューのみだった。


「タータントホテルがこんなに素敵だとは思っていませんでした」

自分で選んだコメントとしては滑稽だったが、正直な意見を述べた。


 僕たちはエレベータホールへ向かった。ホールの前には、レストランの案内があった。僕はお店が24階であることを確認してエレベータの上りボタンを押した。


「楽しみですね」

正直食事は脇役であった。一緒にいることで満足だった。そんな意味がこの言葉に込められていることを彼女は恐らく気付いていないだろう。

「私もとっても楽しみです」

彼女の楽しみってどっちだろう?


「どうぞ」

彼女を先にエレベータに乗せた。そして、ボタンの前に立った。

「何階ですか?」僕は言った。

エレベータは僕に取っては特別な場所になっていた。二人で乗っているときは誰も邪魔に入らないし、その場で停止しているわけでもないので、エレベータのドアが閉まった瞬間から再びドアが開くまでの限られた時間が普段言えないことを後押ししてくれる。


「7階でお願いします」

「あいにく7階には止まりません」

「では、お好きな階を選んでください」

「分かりました」


 僕は24階を押した。初めておどけてみたが、これ程、意思の疎通が出来ている事に何故か驚きが無かった。やりとりを録音し再生すると少し恥ずかしいと思えたが本条さんは付き合ってくれたのだ。


「エレベーターでお会いした時の事を思い出していました」


 僕は彼女があの時どんな気持ちだったのか聞いてみたかった。どんな思いで食事の承諾をしてくれたのか、と。


 エレベータが24階に到着し、僕たちはカウンター席の真ん中に案内された。正面を見ると素晴らしい眺めが僕たちを待っていてくれた。特徴のある建物が幾つも見えたがそれが何の建物か僕には全く検討が着かなかった。


 ここはどうも中継所のようだ。焦らせている訳でもなく、これから始まる事を今体験している事から想像してみてくだい、と試させているように思えた。そんな事を考えていると、食前酒を聞かれたが、本条さんも僕も断った。


 何も注文しなかったからか、僕たちは直ぐに、食事の席に案内された。席に座ると、店の人が僕たちの後ろに回って前掛けをセットしてくれた。赤ちゃん以来の体験だった。赤ちゃんの時に前掛けをした記憶がないので、今回が始めての感想となった。


 自尊心が形成されるまでに全ての恥ずかしい体験は終わっている。前掛けをすることに少し照れを覚えた。何故か、自由を抑圧されているように感じた。しかし、隣の彼女を見ると同じように前掛けをしていたので可笑しくなった。


「何が来ても大丈夫ですね」

彼女は微笑した。


 彼女は僕に注文を任せると言ったので予定通りのコース料理を2つ注文した。飲み物には生ビールを注文し、彼女も同じものを選択した。


「今日は食事に誘ってくれてありがとう」彼女は改めて僕にお礼を言った。

「そんな風に言われると何て言っていいのか」

「そこは、素直に、でいいのではないですかね」


 僕は微笑んだ。彼女は僕の声を真似て低い声を出そうとしたが、失敗に終わった。僕に取っては勿論その失敗はどうでも良かった。

「付いて来てくれてありがとう」

僕は少しアレンジして言った。


「沢村さんの出身地はどこですか?」

「出身は奈良」

「やっぱり、イントネーションが違って思えました」

「本条さんはどちらですか?」

「私は東京です。初台のほうです」

「初台ですか」僕は聞いたことがあった。しかし、彼女があんな都心で育ったとは思っても見なかったので少し距離を感じた。

「近くに首都高速があるとこですよね」

「そうです」


『お待たせしました』


 生ビールがやってきた。とても美味しそうだった。僕たちはグラスを手に取り、どちらともなく二つのグラスが僕たちの体の真ん中で優しげな音を立てようとしていた。頭の中に複数の乾杯の言葉が浮かんできた。


『二人に』『出会いに』『これからに』など。


 どれを選んでよいか迷っているうちに僕の手の進むスピードが落ちていった。早く決めないとこれ以上ゆっくりグラスを進めることは出来ないし、もう本条さんのグラスとの距離が無かった。もう、時間切れだと思ったその時、僕の口からこぼれた言葉は、


「エレベータに乾杯」


 僕の時間は止まったがグラスの軽快な音が僕の言葉を応援しているかの如く響いた。この選択が良かったのかどうかは分からなかったが少なくとも悪くは無かったようだ。彼女は僕の知っている数少ない笑顔の中で一番大きく笑っていた。

「エレベータに」





 色々な話をすることが出来た。お互いの趣味、家族形成、好きな食べ物、嫌いな食べ物、仕事のこと、今まで言われて一番傷ついたこと。そして、聞けなかった事と言えなかったこともあった。


 聞けなかったことは、今本条さんにお付き合いしている人がいるのか?そして、言えなかった事は、三年後に死ぬ可能性があること。


 僕たちは食事を堪能し、別室に案内された。奥の窓際にある、赤の一組のソファーに。


「眺めが良くて落ち着いた部屋ですね」僕は率直な意見を言った。

「ええ、とっても」


 店員は僕たちにこの素晴らしい空間とメニューを残して下がっていった。どうもここでデザートの時間を過ごす様だ。


「沢村さんって甘いものはどうですか?」

「甘い物は大好きです。お酒も好きですが」

「甘いものとお酒が好きだなんて珍しいですね。私は男性の人が甘いものを好むのって好きです。でも、お酒の飲みすぎは体に毒です」

「お酒の場合は好きと言っても強くないので量は飲めないのです」

「だったら安心です」


 彼女の選択した安心と言う言葉が非常に嬉しかった。僕の将来の健康まで気に掛けているとの解釈は大袈裟だろうか。


 僕たちはメニューに目を通した。僕はブラウンケーキとコーヒーをそして彼女は抹茶のシャーベットと紅茶を選択した。僕たちの様子を覗いていたかの様に店員が入ってきた。


 暫くの間、つまり店員がデザートと飲み物を準備する間、食事中の会話と窓の外に広がる夜景とが非現実を演出した。彼女との食事が初めてだとは思えないほど居心地が良かった。


 それは何年も交際して初めて生まれる感覚に近いような気がした。何年もの交際から生まれる場合と違っている点は程よい緊張があることだ。これはお互いの体を知って始めて溶けるものなのだ。


『ココン、ココン』優しい音。


 テーブルにデザートと飲み物が置かれた。今、動いているのは微かに揺れるカップの中のコーヒーと紅茶だけである。


 この二人だけでいる時間がこれからも続いていくように思えた。希望も含まれていたが、それはほんの少しで、そうなることが自然いや必然のように思えた。そして、僕はその思いを行動に移していた。


「本条さん、僕とお付き合いしてください」


今日、ちゃんと会うのは初めてで本条さんのことは憧れの存在でしかなかった。しかし、こうすることが自分のやるべきことだと思えた。本条さんの表情を見ると不思議と驚いた様子も無いように見えた。


「私を幸せにしてください」


それは、僕がずっと憧れていた人から一番聞きたいと願っていた言葉だった。

「はい。命ある限り」


 暫くの間、僕達は無言だった。どれ位の間無言だったのか判らない。恐らくそれは交際を申し込んだ直後の状況においてはかなり長い時間だったと思う。既に運ばれてきたコーヒーが冷めていたことを考えても明らかだった。



 帰宅中、いろんな思いが交錯した。彼女の『私を幸せにしてください』の願いに、『命ある限り』と答えた。この本当の意味を彼女は知らない。もしかしたら三年後には死んでしまうかも知れない事を。


 僕は彼女を幸せにしたい。でも、もはや僕が生きている限りという言葉は彼女との約束を既に果たせていないのだ。結果的に三年以上生きたとしても、今の僕の答えには既にが含まれているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る