第17話 倉本

 土曜にも関わらず平日よりも早く目が覚めた。理由は3つあった。


1つ目は、昨日のキスの感覚が寝ている間も継続していた。

2つ目は、永井の事。そして、

3つ目は、天気が良すぎて朝日が眩しかったからだ。


 片桐は未だ寝ていると思われたが気にしなかった。予想と反して直ぐに電話に出た。片桐も朝早くに目が覚めていたらしく、僕に電話しようと考えていたらしい。


 ただ、片桐は、昨夜の結末を聞かなかった。僕の声がすっきりしていたことから想像したのか分からないが。僕も敢えて触れなかった。僕らは今夜食事をすることになった。永井の件を話さないといけない。場所は片桐の行きつけの店である。



 いつもの週末のように洗濯を始めた。こんな天気の日に洗濯しない手はない。朝食を取ってひと段落着いた所で美咲に電話をした。今日話をしないといけない訳でもなかったが、彼女の声を聞きたかったのだ。


 ついでに今夜片桐と会って、永井について話を聞く事も伝えたかった。彼女には出来るだけ、タイムリーに何が起きているのかを詳細に話をしておきたかったのだ。すると彼女は今日ランチを一緒にしませんかと僕を誘った。


 ランチの場所は彼女が前から行きたいと思っていたところに行くことになった。そこは、彼女のが1ヶ月程前にオープンしたフランス料理の店だった。


 その店は新宿駅を南口から出て徒歩8分らしい。徒歩8分とは言え駅から店までは狭い路地を抜ける為に、待ち合わせは南口の改札を出たところになった。


 彼女は13時に予約を入れていた。今日の今日で予約が取れるのだから、彼女の知り合いには申し訳ないが、直ぐに潰れるのではないかと案じた。もしくは、知り合いとの関係性が強固なのかも知れない。


 僕は早めに家を出た。ATMで現金を引出しその足で花屋に寄り、10分前に新宿駅の南口に着いた。5分ほどして彼女は現れた。


「こんにちは。お待たせしました」

「まだ待ち合わせ時間になっていません」


 彼女の笑顔はとても素敵だった。昨日新宿駅で見た表情からは想像出来なかった。ずっとこの表情でいて欲しいと思いつつも、出来るだけ彼女の色んな表情を見たいと、欲も出た。彼女は僕が後ろ手で持っていた花に気が付いた。


「後ろに何を隠しているの?いい香りがするわ」

「ああ、これのこと。これは友達のオープン記念にと思って。美咲さんから渡してください」

彼女は複雑な表情をしたがそれは直ぐに笑顔に変った。

「ありがとう。きっと喜ぶわ」


 僕たちは、ぽかぽか陽気の中レストランに向かった。エントランスの前で彼女に花を手渡した。彼女はリセプションで名前を告げ『さんは居ますか』と尋ねていた。恐らく倉本が彼女の知り合いのオーナーなのであろう。


 直前に予約したにも関わらず、奥にある特等席に案内された。渡されたメニューを見て僕達はシェフお勧めのランチスペシャルを注文することにした。


「せっかくだからシャンパーンで乾杯しません」と彼女は微笑んだ。

「飲みましょうか」


僕が食事を頼もうとした時、一人の男性が僕達のテーブルに近寄ってきた。

「美咲ちゃん、やっと来てくれたな」


 僕は唖然とした。その男性は、美咲と軽くハグをしたのだ。僕自身『美咲』と呼んだのは今日が初めてだし、挨拶にしては距離感を誤っていないかと思った。


「オープンおめでとう。もっと早く来ようと思っていたのに遅くなりました」

「来てくれただけで嬉しいよ」

「とても雰囲気が良いですね」


僕はもう一度しっかりと店内を見渡した。本当にそれ程良いのか粗探しをした。

「それでそちらの方は?」

「私の大切な人です」

倉本は、美咲を見る目と同じ輝きで僕を見て、

「申し遅れました。倉本と申します。素敵なお花をありがとうございます」


 僕はかしこまった。先ほど、倉本が『美咲』と呼んだことが引っ掛かっていたし、花のお礼を言われるとは思ってもいなかったからだ。


「沢村と申します。よろしくお願いします」


 倉本は髭を蓄えていた。その外見から40歳前半で、レストランのオーナーらしく服装もブランドで揃えられていた。


「大切な人って言ったけど美咲がそんな風に男性を紹介するのは始めてだね」

今回は呼び捨てだった。これは僕に対するリップサービスなのか?

倉本の言葉に対して美咲は何も言わなかった。その代わりに倉本にお願いをした。


「倉本さん、美味しいシャンパーン紹介してください」

「お安いご用。わざわざ、来てくれたのでご馳走するよ」


 僕には断る理由は無かったがあまり嬉しくも無かった。対照的に美咲は上機嫌だった。


「ありがとうございます」


 僕が奢ろうと言うと彼女は遠慮をしたが、倉本がそれを言うと彼女は素直に喜んだ。その反応は僕に対するものと積み上げてきたものの違いを感じさせた。彼女と倉本がどんなかたちであれ2人が共有してきた時間に嫉妬した。倉本はシャンパーンを選びに奥に下がって行った。


「だけど、レストランをオープンするなんて凄いですね」

「そうですね」あまり興味なさそうに彼女は答えた。


「沢村さん、渡したいものがあるのです」

「僕に、ですか」

「はい」

と、彼女は言いながらカバンから大きな包みを取り出した。そう見えただけで物理的なサイズは手のひらに乗る程だった。

「開けて良いですか」

「はい」


 僕はゆっくりとリボンを解いた。続いて包みをリボン以上に慎重に開いた。中には有名ブランドの文字が書いてあった。僕にも分かるほどの有名ブランド。箱を開けた。それは、不思議なデザインのネックレスだった。


「とても素敵です」

「気に入ってくれて嬉しいです。そのデザイン何か分かりますか」

彼女は微笑みを浮かべながら僕に質問した。質問と言うより、最初から僕には答えられないと彼女には分かっていた。

「いいえ、有名なデザイナーのものですか」

「それはアブンダンティアをデザインしたものです」


 この言葉を聞いて彼女の深い思いを知った。アブンダンティア・・・幸運の女神・・・腕時計はもちろん、洋服以外身に着けなかった。だから懐中時計にしている。でも、例外の一つくらい有っても良いと思ったし、ネックレスならそれ程身体を圧迫しない。しかし、例外はこのひとつで終わるのだろうか。


「本当にありがとう。これから、このネックレスを一生離さない」


 早速それを付けようとしたが、上手く出来なかった。見かねた彼女は席を立って、僕の後ろに回りネックレスを付けてくれた。彼女が今日ランチをしようと言った意味が分かった。


 最初は友人のレストランのオープン祝いが目的だと思っていた。しかし、もしそれが本当の理由なら、彼女自身が花を買うなり、ここのオーナーへのプレゼントを準備するはず。


生きたいと思った。どんな事をしても、どんな手を使っても・・・


 運命を変える決心が強固になった。メールのやり取りが作り上げたダイヤ。僕の首に飾られたネックレス。以前は運命を変える事は地球の自転を逆転させる様なことだと思っていたが、今はそれが出来るように思えた。


 その思いに力を貸してくれるかのように背中に温かいものを感じた。同時に彼女の手が僕の胸の前で交差した。胸の前で交差された彼女の手を握り締めた。彼女の手に力が込められたことが分かった。どんなに強い力で抱きしめられたとしても痛みを感じることは無かった。彼女の手を同じ気持ちで握り返した。僕らはレストランに居ることなんて忘れていた。


「お2人さん、ここは私の店ですよ」

倉本がにっこりしながらシャンパーンを運んで来た。

「あっ、倉本さん。ありがとうございます」

と僕は言った。彼女は話せる状態ではなかった。そっと彼女の手を握り直して、立ち上がった。そして、彼女を席まで連れて行った。


「沢村さん、私の大切な義妹をもう泣かせたのですか」


理由はどうであれ泣かせたのは僕が原因だったので、倉本に対して言葉がなかった。

「ゆっくり食事を楽しんでください」

「ありがとうございます」


倉本への嫉妬心は跡形も無く消えていた。


「美咲さんこれ大切にします」僕はネックレスを握り締めていた。倉本から本条さんの呼び方を引き継いだ分けではないが、美咲と呼ぶことが正しいと思ったし、しっくりきた。

アブンダンティアが僕をこれから守ってくれる。僕はグラスを手に持った。

「美咲さん乾杯しましょうか」

彼女はゆっくりとグラスを手にした。


 乾杯の言葉は必要ない。意思を伝える為の道具としては不十分である。グラスが言葉の代わりに響き、はかないグラスの中の無数の泡もふたりに勇気を与えてくれる。僕らは躊躇ちゅうちょなくグラスをそっと合わせた。とても微かな音が生まれた。


 昼食は予定通り美咲の奢りとなった。実際に支払ったかはどうでも良かった。そして、僕は彼女を自宅まで送って行った。その帰り僕は思った。


『これで彼女を送るのは2度目』だと。


 昨夜はそれほど暗く無かったが今は昼間。道のりは以前とは違った表情を見せていた。道に舞っていた桜はもうそこにはいなかった。見上げると桜の木にはもう花びらは残っていなかった。短時間でも生命の営みは容赦ない。でも、新たに生まれたものもある。それは、胸の上で静かに揺れている美咲からの幸運の女神。確実に時間は経過しており、尽きるものがあり、生まれるものがある。この前と同じ事を思った。


『あと何回桜の再生を見る事が出来るのか』と。




 昨夜以来、本条さんのことを美咲と呼ぶようになった事を、これから会う片桐には伏せておこう。24時間も経っていないのだから。


 僕は、夕食の待ち合わせまで適当に時間を潰した。昼食に飲んだシャンパーンの痕跡は消えていたので安心して店に向かった。


 時間通り店に着いたが、既に片桐と一緒に最上がいた。曖昧に片桐に昨夜の礼を言った。


「片桐、昨日は悪かったな」

「昨日の事ってなんだ?」即座に最上が言った。

片桐は僕が答えるのを待った。

「ああ。大事な話があったので」

大事な話と聞いて最上は怪訝な顔をした。


「今日の話より大事なことがあるのなら何故俺を呼ばない?」

「大事と言っても少し意味合いが違う。俺の個人的な話だ」

「どう違うのだ?」


美咲との事は、永井の話が終わってから話そうと思っていたが仕方ない。


「昨日、片桐にある人を紹介した。その人とは交際を始めたばかりで、今回のことを打ち明けるべきか悩んだ末にそうすると決心した。だが、俺一人だと今回のことを説明しても信じてもらえないと思って片桐に同席してもらった」


最上の表情は曇った。

「これで今回のことを知っているのは俺たち以外に関係のないやつが加わったわけだな?」

「すまなかった。お前にも日高や重村にも相談するべきだった。だが、彼女からこの事が他の者に漏れることはない」

「付き合ったばかりでもうそこまで通じ合っているのか?」

最上の怒りは複雑なものではなさそうだ。


「最上、そんなこと言っても今更だろう。俺も彼女に会ったがお前が心配しているような事は起こらないと俺も思う」

片桐も責任を感じているようだった。


「俺は沢村の彼女が信用出来ないから言っているのではない。ただ、こんな大事なことは皆の意見を先に確認するべきだったと言いたいのだ」

最上は不貞腐れた表情をした。その表情から少し寂しさが覗えた。


「最上、今度彼女に会ってくれないか?」

最上は黙っていた。怒りを示した手前、気持ちは了解していてもなかなか返事はしづらいものだ。そんな最上の気持ちを片桐が察して、

「最上、会ってやれよ」

「分かったよ」と言って最上はビールを飲んで続けた。

「それでその子は可愛いのだろうな」


この答えにも僕は答えづらいと片桐が気を使い、

「もちろん。でも、沢村より俺の方に興味を持ったみたいだけど」

3人は笑った。そして、最上が言った。

「沢村、もう一人ライバルを作ってもいいのか」

「全然問題ない。もう誰も俺たちふたりには割って入れないから」


最上は呆気に取られていた。

「お前結婚する気なのか?」

「そのつもりだ」

「会ったばかりだと言っていたよな」

「話を始めたのは最近で交際を申し込んだのもこの前だ。しかし、彼女のことは、ずっと前から知っていた。会社が同じなんだ」

「でも、何でまた結婚まで決意しているんだ。ちょっと早過ぎないか?」


片桐が二人のやり取りを聞きながら微笑しているのを最上が見つけ、

「そうか、片桐にはそこまで話していたのか?それでお前は賛成したのだな」

呆れた表情で最上は片桐に対して反対の意を示した。

「お前も彼女に会えば納得するよ。それに、交際期間なんて関係ない」

「そんなことは言われなくたって分かっている。だがモノには限度があるだろう。それにこんな状況で良く結婚なんて考えられたな」

「それじゃ、お前は一生結婚しないのか?」

「ああ、そのつもりだ。と言うより俺には出来ない」

「それはお前が現実から逃げているのだ」

「それはどうかな。俺にしてみれば沢村が現実を受け止めていない。現実を受け止めるとは、そのことに対して最善の選択をすることだ。俺たちは幸か不幸か自分達の寿命を知った。それに対して選択肢、若しくは行動は制限されるべきだ。その制限の中に結婚は入る」

「しかし、結婚は一人じゃなく二人でするものだ。そしてふたりが同じ思いだったらそれで良いだろう。だから、結婚は最善の選択だと俺は思う」

「確かに事実を知った上で、ふたりで納得して結婚するならそれはそれで幸せかもな」

最上は寂しげに言った。


「この位にして、本題に入ろう」片桐は十分だと思った。

「ああ」最上と僕は同時に答えていた。



「実は、永井はもう日本にいない。佐久間の葬儀の2日後に出国の記録が残っていた」

「なに!」最上は、思わず発していた。僕も耳を疑った。最上も僕も全く想像していなかった。同時に、こんな情報を片桐はひとりで抱えていたのだ。


「片桐、どう言う事だ?」最上は、続けざまに言った。

「まあ、落ち着け。宇宙に逃げた分けではないんだから」片桐は、僕らの反応を楽しんでいるようだった。

「落ち着いて居られるか」最上の興奮は収まらない。この話を最初にしておけば、美咲の件はスルーされたかも知れない。僕も永井の居場所が気になったので訊いた。

「それで永井は今何処にいるんだ」

「ドイツにいる」

「ドイツ・・・か」最上が呟いた。


 何故か、最上も僕も興奮が少し和らいだ。勝手に逃亡したと解釈していたから、東南アジアか僻地へきちに居て、二度と会えないと思っていた。そして、僕も最上に続いた。

「行けない事はないか」

勢いを失った僕らを見ながら、片桐が言った。

「在職中から仕事で何度かドイツに出張していたので現地には詳しいらしい。何時からドイツ行きの準備をしていたのかは分からないが」

僕は、とりあえず、簡単な事を片桐に問うた。

「どうやってそこまで調べたのだ?」

片桐はこれまでの経緯について説明してくれた。


それは次のようなものだった・・・

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

贈り物 @Trimura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ