第16話 本条の思い
金曜日、本条さんに真実を告げる日である。
僕は、彼女と会社から一緒に現地に行くことを提案していた。もちろん、道中で真実を告げる事はしないが、普通に彼女と会話をしたかった。
仕事をしながら、この普通について考えていた。以前はこの様な思考は無かったと思うが、最近、普通の尊さが分かってきたような気がしていた。
今日の食事は交際を申し込んでから初めてである。普通の定義に『ごくありふれたこと』とあるが、一緒に本条さんと店に向かう行為自体、今の所、普通ではない。何百回、食事に行くと、普通になり得るのだろう。
何回から普通になるのか、辞書には定義がないが、ある程度繰り返さないと普通にはならないようだ。だとしたら、限られた時間の中で、もう、僕には、普通を手に入れる事は不可能ではないのだろうか。
こんな、考えを巡らせていると、待ち合わせ時間が迫って来たので席を立つ前に彼女にメールを打った。
『今から出ます。では、下で待っています』
僕は、パソコンの電源を切り、荷物をまとめ、用を足した。これらの流れは普通である。エレベータの『下』のボタンを押して少し待った。エレベータが下降してくる音が少し大きくなり、上の階辺りでスピードが弱まった。ドアが開くと僕は驚いた。
中には本条さんが乗っていたのだ。本当に不思議なもので、会いたいと思っていた時には会えなく、予期していない時に限って会えるものなのだ。どうも、神様はサプライズが好きなようだ。
エレベータにはもう一人女性が乗っていた。2人は親しげに会話をしていた。相手の人を見ると食堂で本条さんを見かけたときに一緒にいる人だった。
僕はエレベータに乗り込む際に本条さんに挨拶するべきなのか迷った。もし僕との事を知られたくないのであれば一緒に帰ったりはしないだろうと簡単に予測は出来るが、瞬時にそのような判断は出来なかった。
本条さんに何も言わずに乗り込もうとしたら、本条さんの方から声を掛けてくれた。
「沢村さん、同僚で親友の
この一言で、この女性がここにいる意味がはっきりした。
「百合子は知っていると思うけど沢村さんです」
本条さんは百合子に僕との事を既に話していたのだった。自分の同僚に本条さんとのことを話しても良いのだと安堵した。最初に打ち明ける相手は、勿論、水野になる。
「あっ、どうも始めまして。沢村と申します」
「噂の沢村さんね。とっても時間が掛かった」百合子はそう言いながら本条を横目に続けた。「藤森と言います。よろしく。美咲のこと、大切にしてあげてね」
そうか、交際を申し込んだことも知っているのか。体内から言葉を選ばないといけないと言う緊張が消えて行った。緊張が解けたお陰で藤森のお願いにどのように答えれば良いか難しくなった。
それは、緊張していれば体裁だけを考えれば良い訳だったが、今となってはそれが出来無くなったし、交際していることは3人の間で事実となり、ある程度の答えを期待されているだろうから。
それより、藤森が言ったとっても時間がとはどう言う意味なのだろうか。藤森の熱量で意味を聞くことが出来なくなった。
「はい」結局これ以上の言葉は浮かばなかった。
僕たちはB1でエレベータを降りた。そして駅までは3人で行くことになった。
「2人は長いのですか?」お互い名前で呼び合っているので年は近いと推測は出来た。
「私たち大学から同じなの。就職も一緒に受けて。それで2人とも同じ部署に配属されたわけ」藤森の熱は冷めていない。
「そうだったんですね」
「私たちは何て言うか、母と娘の関係なの。これは大学時代から変わっていないわ」本条が藤森を見ながら言った。
「美咲ったら私が年寄りみたいじゃない。まあ、いっか。それ私が大学時代に言った台詞だし、私の結婚式のスピーチでも娘として話してくれたしね」藤森は続けた。
「沢村さん、美咲は大学時代から人気者だったのよ。だらか、私が余計な虫が寄って来てもガードしていたの」と言いながらハエを叩くジェスチャーをした。
「百合子はいつも大袈裟に言うの」と本条はハエを叩いた手を押さえた。
僕は、本条さんの手にハエが付いていないか気になった。何故なら、藤森の手首のスナップがバトミントンの選手のような切れ味だったからだ。それはともかく、藤森が言ったことは事実だと思った。
「良かったです。藤森さんに叩かれなくて」
と言いながら、僕はとっても痛いだろうと想像した。でも、これまで余計な虫が付かなかった事を藤森に感謝しないといけない。
「沢村さんは、こっちが叩きたくて全く来ないから、どちらかというとゴキブリホイホイの方ね」藤森は、独特の言い回しをした。本条さんとは性格が違うようだ。
「ゴキブリですか・・・」
「百合子、失礼よ。私の大切な人に!」本条は、藤森の肩を叩いた。
「だってね」と言って藤森は次の言葉を飲み込んだがとても楽しそうだった。
僕自身、ゴキブリ呼ばわりされたが悪い気は全くしなかった。2人のやり取りを聞いているのは、とても居心地が良く、僕の心を優しく温めてくれた。
渋谷駅で藤森と別れ、僕たちは、地下鉄の半蔵門線に向かって歩いた。彼女は僕の隣にいた。隣を見るとその距離は前回より近いように思えた。
そして彼女との距離をそっと埋めた。僕は、彼女の手を握り、彼女はその手を握り返した。
「実は、沢村さんを最初に見たのは駅のホームだったのです。多分覚えていないと思いますが、帰宅中でした。私は列の後ろの方で待っていました。その隣に目の不自由なおばさんが列からはみ出て並んでいました。電車が到着し、私は乗り込みました。その日はそんなに混んでいませんでしたが、気になったのでおばさんを見るとドアの位置が分からなくて戸惑っていました。どうしようかと迷っていると、ある人が走ってドアに向かって来るのが見えました。そして、乗る前にそのおばさんに気が付いて、何の迷いも無くおばさんの手を握って一緒に電車に乗りました。その後、偶然会社でその人を見ました。それが沢村さんだったのです」
「そんな事があったような無かったような・・・」
言われるまで忘れていた。性格的に目立った事が苦手なのだが、あの時は自然と身体が動いたと思う。だから、記憶になかったのだ。
そう言うことか。藤森が言っていたとっても時間がとは、この事を本条さんは藤森に話していて、その時から僕が告白する事を待っていたのだと。
「いつかあの時のように沢村さんが私の手を握って導いてくれる日を待っていました」
先ほど彼女が手を握り返して来た時の思いを知ることが出来た。こんな意味があったとは知らなかった。僕も握る手に強い思いを込めた。
彼女との接点である手には物理的な変化は何も現れていないが、手には違った思いが込められていた。この手はもう離したくなかった。
「僕でよかったらずっと捕まえていてあげます」
彼女は何も言わなかった。その代わりに彼女は小さく頷いた。と、同時に、手は不思議なくらい彼女の手の形を鮮明に感じることが出来た。こんなに正直に打ち明けてくれる思いの強さに反して、彼女の手は全ての事を包み込めそうな程、寛大で繊細だった。その瞬間今日あの話をすることになっている現実が大きくのしかかって来た。
僕たちは半蔵門線に乗って青山一丁目で降りた。
「さあ行きましょう。片桐は多分遅れて来ると思うけど」
「いつもそうなのですか?」
「いつもではありませんが、今日はなんと無くそんな気がして」いつも遅れて来るのだが。
「片桐さんってどんな方ですか」
「そうですね。なんて表現したらいいか。う~ん、表現できない男です」
「片桐さんってお付き合いしている人いますか?」
僕はきっぱり答えた。
「はい。沢山います」
「もうひとりの親友にどうかと思ったのですが・・・」
「本条さんの親友に、ですか。片桐には悪いけど彼には勿体無いです」と言いながら本条さんも僕には勿体無かった。本条は直ぐに諦めたようだった。
本音では片桐は推薦できるのだが、彼にも同じ運命が待っているのだ。その運命を知っていながら本条さんの親友を積極的に巻き込みたくなかった。
店には5分前に到着した。予想通り片桐は未だ到着していなかった。僕たちは個室に案内された。そこは、確かに水野のお勧めだけあって雰囲気も落ち着いていて店員の教育も行き届いていた。僕たちは隣り合いに席を取り、先に食前酒を頼んだ。
カウンター席でもないのに隣り合って座っていると不思議な感じだったが、とても心地良かった。テーブル席に2人でこうしている方が、隣に居る意味がより強調されるように思えた。
「本条さんは運命とかそういったことを信じますか?」
「運命か・・・特に意識したことないかな。でも、自分の気持ちには従おうと思うわ。それを運命だと言うのなら、信じているのかしら」
「僕は運命なんて信じていませんでした。でも最近運命を信じてみるのも悪くない気がしました」
「沢村さんにそんなロマンチックな言葉は似合わないわ」
僕は赤面した。そちらの意味に取られたのだ。それは、当たり前の事である。彼女は佐久間のことは何も知らないのだから。
「こう見えても意外とロマンティストなのです。と言うのは冗談ですが、最近僕の周りで運命染みた出来事が起こるのです。無論、運命で片付けられないですが」
『お待たせしました』
片桐はまだ到着していなかったが僕たちはグラスを鳴らして先に飲み始めた。
「今日の大切な話は、運命に関係があるのです」
片桐が来る前に彼女にどのような形であれ心の準備を促した。この準備がこれから話すことにどれだけの効果があるか分からなかったが、全く無いよりはましである。
「楽しみだわ。でも、少し怖いかな」
あまり効果が無いように思えてきた。そこへ待ち人が現れた。
「遅れてすまない」
「先に飲み物を注文したぞ」と一応謝って見せた。
「気を使うなよ」
片桐はいつものラフな格好ではなくネクタイこそ付けていなかったがパンツにジャケットを羽織っていた。片桐を誘ったとき先約がありそうだったので、ここへ来る前に用事を済ませてその足でここへ寄ってくれたのだろう。
紹介するからと言ってジャケットを羽織る様な男ではない。
「本条さん、親友の片桐」
「お待たせして申し訳ありません。片桐です」
「始めまして、本条です。よろしくお願いします」
片桐の目がもう本条さんを認めている事が読み取れた。
「本条さん、最初にお聞きしますが、本当に沢村で良いのですか」
僕が片桐には本条さんの親友は勿体無いと話していたことを聞いていたのだろうか。
「実は、私迷っています」
と言いながら彼女は微笑して見せた。その横顔はとても愛らしく言葉とは裏腹に心の中は何の迷いも無いように見えた。
「いつでも相談に乗りますよ」
「その時は、よろしくお願いします」
「おいおい、そんな話は俺の居ないところでやってくれ」
と言いながら片桐に飲み物を勧めた。そして、食事のオーダーも済ませ片桐の飲み物が届いて3人で乾杯をした。乾杯の音頭は自然と片桐が取ることとなった。
「2人の未来に」
「それを言うなら3人の未来で良いのでは?」
僕はわざわざ言葉を訂正した。今回の食事は、彼女を片桐に紹介するだけではなく重要な話があったからだ。理由を知れば彼女も僕が片桐の言葉を言い直した理由を分かってくれると思った。
食事を取りながら僕たちは2人の高校生活など昔話を本条に聞かせた。片桐と本条も今回会うのが始めてとは思えないほど打ち解けていた。
「しかし、沢村がこんなオシャレなお店を予約するとは驚きだな」
「お前抜きで来たかったけど」と僕は言った。
「そんなこと思っているのは、お前だけだよ」
と言いながら片桐は本条さんに目をやった。
「片桐さんには申し訳ありませんが、私も沢村さんに賛成です」
再び彼女は微笑んだ。彼女の言葉はとても嬉しく思えた。それは単純に本条さんが僕の味方をしたからではなくて、彼女が片桐をからかったからだ。
「沢村、お前良い人と出会えたな!」
「ああ、今回のことで本条さんに僕の気持ちを伝えることが出来たと思う」
片桐は、僕が女性に意気地が無いこと承知していたので僕の言った意味が分かっていたが、本条さんにはそれが分からなかったようだ。
「今回の事ってどういうことなの?」
片桐の目を見た。そして片桐からは僕に任せると伝えてきた。
「それが今日の大切な話なのです。この話を本条さんにするべきか迷いました。正直に言うと、今も迷っています。この話を聞いて本条さんには選択する権利があります」
「権利って何のですか?」
「僕とこれからも付き合って行くかです」
本条はいきなり僕が変な事を言ったので少し間を置いた。そして彼女はゆっくりと言った。
「では、聞かせて下さい」
「あれは、数ヶ月程前のことです。僕たちは、・・・・・」
これまで起こったことを全て彼女に伝えた。彼女の目には薄っすらと涙が滲んでいた。それは、何に対する涙なのか分からなかったが、少なくとも僕達の話を信じてくれたことは見て取れた。
片桐は今回のデートに参加した理由を十分に
「本条さん、日付通りに誰かが死ぬ可能性が高いのは確かだけど、必ず死ぬとは限らない。日高の様にそれを変える事だって可能だから」
「でも、日高さんは本当にそれで助かったことになるの?」
この問いにも片桐が答えた。
「勿論その日がやって来ないと確実とは言えないけど、俺はそう信じている」
「では、5年後には2人のひとが亡くなるの?」
この答えに関しては、僕の口から聞きたいと察しが付いたので、
「僕たちはそう考えています。でも、日高の様に僕たちも運命を変えられないかと思っています。たとえ運命を変えられなかったとしても人は、そもそも限られた人生を生きています。だから、その限られたものをどのように使うかは自分自身が決めることです。だけど、本条さんとの事は僕ひとりで決める訳にはいかないから全てをお話しました」
一緒にこのことに対して向き合って欲しいと付け加えたかったがそれは出来なかった。50%の確立で僕は5年後に死ぬけれどそれまで一緒にいて下さい、なんて言えるはずがない。僕たちの間に沈黙があった。そして、彼女は口を開いた。
「正直に話してくれてありがとう。でも、話を聞かせて私にどうして欲しいとかはないの?話を私に聞かせるだけが目的なの?私が答えを出さないといけないの?」
この言葉は僕の中途半端な気持ちを浮き彫りにした。全てを打ち明ければそれで良いと思っていたが、それは、自己中心的な考えなのだ。そう、自己満足以外の何者でもなかった。
彼女が本当に聞きたいことは僕自身がどうしたいのか、僕が彼女にどうして欲しいのか、なのだ。話の内容はどんなことであっても構わない。自分の卑怯さが許せなかった。自分自身がどうしたいかも言えないくせに彼女に交際を申し込んでいるのだから。
「沢村。本条さんが聞いているんだ。何とか言ったらどうだ?」
「沢村さんは逃げています。ちゃんと手を繋いでいてくれると言ったじゃないですか!」と言って席を立った。
「今日は、ご馳走様でした。片桐さん、これからもよろしくお願いします。途中ですみませんが私はこれで帰ります」
「こちらこそ。ひとりで大丈夫ですか?」
片桐は僕に送って行く様に促した。僕は送ろうと思い彼女の顔を見た。本当に送るつもりならこの時点で腰を上げていた筈。彼女はひとりで大丈夫だと言う代わりに僕から目を逸らせ、片桐に向かって言った。
「ええ、まだ早いですから大丈夫です。ご親切にありがとう。それではお休みなさい」
僕は、彼女を見送ってしまった。片桐は残っていた酒を飲み干して言った。
「お前な、彼女の足長おじさんにでもなりたいわけ?」
「お前みたいに簡単に割り切れたら苦労はしない」
「それはどうかな。今お前が悩んでいる事は誰の為にもなっていない。ただ苦しむことで自分の逃げ場所を求めているだけ・・・」
片桐は続きの言葉をためらった。僕が幾ら鈍いとは言え本人が一番分かっているのだから。
「すまん、ちょっと言い過ぎた。そこがお前の優しさだと分かってはいるけど、彼女はちゃんと向き合っている。お前の事が本当に好きなんだ。お前も分かっているはずだ。何故それに応えない。勇気を持つって言っていたのは口から出任せだったのか」
「そうだな。何の為に今日話をしたのかわからないよな。自分の気持ちは固まっていたはずだったのに・・・片桐すまない。ちょっと行って来る」
「しょうがないな。勘定は俺が払っておくから早く行け」
「すまん」
「後で請求書は回すからな」
「ああ、いくらでも」
急いで店を出た。彼女を追っかけようと思ったが自宅の住所を知らない。確か初台って言っていたので新宿の方だと思いつつ、携帯を取り出して彼女に電話をした。既に地下鉄だと連絡が取れない可能性があったが呼び出し音は鳴った。4回目で彼女が出た。新宿に向かうから、これから話をしたいと彼女に告げた。彼女と新宿駅で待ち合わせることになった。
都営大江戸線のホームに駆け出した。乗り場は採油の如く地下深くまで潜っていた。エスカレータをテンポ良く降りた。飛んでいる感覚だった。お陰でホームに降りた時にアナウンスが流れるのを聞いた。
『間もなく電車は発車します。ドア付近の方は閉まるドアにご注意ください』
僕は、電車に飛び乗った。間に合ったと思った瞬間汗がどっと出た。新宿までは、『青山一丁目』→『国立競技場』→『代々木』→『新宿』の順番だった。何本か前の新宿行きに本条さんが乗っている。このどうしても埋まらない電車の距離は今存在している本条さんとの思いの距離の様に思えた。
新宿に着いて彼女に電話をした。彼女は西口を出てスバルビルの前で待っているとの事だった。待ち合わせ場所に急いだ。ある思いが胸に突き刺さった。ここは、あの時の飲み会の待ち合わせ場所でもあったのだ。ここで、彼女に会う事に運命を感じた。
駅を出たところの信号で止まらざるを得なかった。スバルビルの前を凝視すると彼女を確認することが出来た。あの時は最上と佐久間が待っていた。そして重村が現れた。信号が変ったので走った。彼女の姿が望遠の倍率を上げるように徐々に大きくなった。
それまでシルエットからしか想像できなかった彼女の気持ちが表情からも読み取れた。その表情はこれまでに見たことの無い硬いものだった。彼女とこれからずっと一緒にいれば、彼女のいろんな表情を目撃するであろう。
しかし、今の彼女の表情はこれで、最初で最後にする事を約束する。そして、彼女をこんな寂しげな表情にした自分自身が許せなかった。
彼女は僕を見つけ氷が解けていくように表情も和らいだが笑顔になるには、まだ温度が十分ではないようだった。
「ごめん、待ってもらって」
「いいえ、どうしました?」
「僕は貴方とずっと一緒に生きて行きたい。いつまで生きられるかわからないけど」
無責任だと思ったが、自分がどうしたいのかだけを告げた。
「その気持ちだけで十分ではないですか」
僕はただ彼女を見つめていた。そして、もしこれが反対の立場だったらどうしたであろうか・・・彼女の僕に対する想いの深さが測れた・・・そう僕と同じ。
「和人さん、約束です。貴方が生きている限り私とずっと一緒にいてくれると」
彼女が和人さんと呼んだのは初めてだった。これが意味することは、分かっていた。僕はそっと彼女との距離を縮めて行った。それは、単に物理的な距離が埋まったのではなく、心の距離も埋まっていった。
先のモノが歩みを緩め、後のモノが歩みを増せば追いつく事が出来る。彼女はゆっくりと目を閉じた。僕と彼女の唇の距離がなくなった。そして、彼女を優しく、しかし気持ちは強く抱きしめた。
彼女を自宅まで送って行った。そして、同じ道を今度は一人で歩いた。彼女の自宅前の細い通りを抜ける時、アスファルトの上に何かが舞っているのが見えた。
それは、微風でもその場に留まることを許されないほど軽いもの。少し明るい処へ出るとそれは桜の花びらだった。桜はとうに散っているとばかり思っていたが見上げると、ここではまだ少し咲いていたのだった。
あと何回桜を見ることが出来るのだろうか?
駅に向かって歩を進めた。鞄から携帯を取り出し片桐に報告した。片桐はこのことに関しては特に何も言わなかったが、今日の夕食のレシートは取ってあるとだけ僕に伝えた。
我にかえり永井のことを片桐に聞くことを忘れていたと思い出した。片桐が忘れていたとは考えられないので、僕に余裕が無いことを察してくれたのだろう。
明日にでも片桐に連絡しなくては。
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