第8話 別れ

 結局、中年男性は領収書を受け取った様子も無く定食屋を後にした。


 僕はあの女の子が運んでくれた丹波茶を啜った。その味は、何故か懐かしい味だった。初めて飲んだはずなのに。


 遠い昔、まだ記憶を無意識に保存出来ない頃に飲み、僕の潜在意識の中に眠っていた味と一致したのだろうか。


 僕たちは丹波茶を堪能した。しかし、東京へ持ち帰りたいとは思わない。このお茶を東京で飲むとけがれるような気がした。


「お待たせしました」


 先程の女の子と領収書探しに苦戦していた年配のおばさんが一緒に運んできて僕達に尋ねた。


「今日は重彰君の為に来てくれたんか?」


この一言で、先程の5人も佐久間の葬儀が目的であることがはっきりした。


 それは、このおばさんが佐久間の葬儀と暫定したので、この辺りで葬儀は一件しかないと言うことになる。


 そして、このおばさんは佐久間と親しかったと思われる。それは、おばさんの『来てくれたんか』の言葉が示しているし、佐久間の事を重彰と呼んだからだ。


 僕は嬉しかった。佐久間が自分の生まれ育った田舎で彼のことを気遣ってくれている人が、葬儀場ではなく偶然立ち寄った定食屋で出会えたからだ。


「そうです。僕たちは佐久間の友人です」最上が料理を受け取りながら言った。


「重彰君は実家へ帰ってくると必ずここに寄ってくれたんよ。そんで、いっつも私の娘に東京のお土産をくれてね」


僕は、『はっと』した。


 あの子は長谷川さんに似ていたのだ。僕があの子に期待していた何かも同時に綺麗さっぱりと消え去った。


「佐久間がここにお土産を持ってくるようになったのは何時からですか?」僕は訊ねた。

「そうやね、大学卒業のころやわ。重彰君はよう娘に東京の話をしてくれたんよ。娘も重彰君が帰ってくると喜んで・・・」


おばさんは途中で言葉を詰まらせた。

「お母さん、どうしたの?みっともないよ」


 見かねたあの子が寄ってきて、お母さんは奥へさがった。おばさんがあの子の母親だったとは驚かせた。


 この子の何十年後はあのおばさんの様になるのかと想像した。神秘性の有るあの子の秘密の一部を垣間見たような気がし、僕は少し胸がときめいた。


「やっぱり、お兄ちゃんのお友達だったんだ」

「ええ、みんな大学が同じだったのです」

その時、片桐が言った。


「あなたはある人を思い出させます」

他の連中もそれが誰なのか分かっている。女の子は改まって尋ねた。


「そんなにその人に似ていますか?」

「ええ似ています」

「その人と一度会ってみたかったな」


 この子はもう長谷川さんに会えない事を知っているかのように過去形で言った。長谷川さんがもう亡くなったことを知っての事か、それとも佐久間から紹介される事がないからだろうか?


女の子の目が赤いのは玉葱なんかじゃなかったのだ。僕はその女の子に伝えた。


「あなたのように素敵な女性です」


 僕はこれ以上のことは言えなかった。片桐も他の連中も何も付け加えなかった。多分この先は、佐久間の役目だから。


 女の子は僕たちに『ありがとう』とだけ言い残して奥に下がって行った。僕たちは佐久間が食べていたものと同じ味の定食に箸を付けた。佐久間はどんな思いで食べていたのだろうか。


 僕を含めてみんなの箸は今の状況下では不思議と進んだ。そして、それらを短時間で平らげた。僕は丹波茶のお代わりを頼んだ。


「すいませんお茶を頂けますか」


今回は、あの子ではなくておばさんの方が急須を持ってお茶を注いでくれた。

「先程は失礼しました」


おばさんの思いを重村が察し軽快に話題のハンドルを切った。


「とんでもないです。ところで、この丹波茶美味しいですね。東京では味わえないです」

「こんな田舎のお茶なんて東京では売れへんよ。東京には何でも揃っとるもんで」


今度は片桐がハンドルを東京の事情に切り替えた。


「東京は本物を探すには物が溢れ過ぎて難しいです。本物自体存在するか怪しいですし。それに、本当に良い物ってその地域に根付いているので、地元の方はなかなかそれが本物だと気付かないです。偉そうにすみません。でも、それが日常ですから。いわゆる『生活の質』が高いのだと思います。つまり、東京の便利さは犠牲を払っているのです」


「難しいこと言うわね。おばさんには意味が分からん」


 片桐は、語り過ぎた事を後悔しバツの悪い顔をしたので日高が分かり易くクルーズ制御(自動定速制御)に切り替えた。


「僕なんてお米は山形の農家の方と契約をして毎年新米を送って貰っています。妻がその辺神経質なので」


「お米をわざわざそんな風にして買っとるの?東京って凄いわ~」


 環境、常識の違い。毎日触れるものの積み重ね。勿論日高が契約している農家もしかり。東京は本来人間が必要としている要素を経済力で掏り替え、過大供給で妥協と隠蔽をしている。完全犯罪が成立するのであれば、一生その方が幸せなのかも知れない。


 わざわざコロンボの力を借りずともこの完全犯罪は成立しないであろう。本物は日本各地に存在しそこを訪れる事は制限されないからだ。


 ただ、本物に触れたとしても、それを嗅ぎ分ける能力が必要になるが、多くの者にはそれが出来ないと東京で胡座あぐらをかいている首謀者は、あなどっている。


 人は動物の嗅覚、聴覚らに敬意を払い、褒め称える。ただ、彼らは、その能力だけを頼りに生きており、本能の退化が著しい人間からそんな賞賛を受ける覚えは無い。


 だから、首謀者は、その機会を奪わなくとも、本物に気付くセンサーを毎日コツコツと削いでいるのだ。


 結局、楽なのは、首謀者の掌で踊らされる振りをして、どんなリズムにも対応出来る様に、肩の力を抜く加減の良い妥協が東京で自分らしく生きられるのかも知れない。


「おばさん、ここへ寄らせてもらって感謝しています」


 僕は片桐に感化されたのか分からないが、こんな事を考えながらおばさんに心からのお礼を言って、僕たちは、店を後にした。




外は小雨模様だった。


 空も生きているのか、佐久間が永遠に帰省した無念を抑えきれなくなって泣いているように思えた。都合の良い解釈でもそんな風に思えた。


 空の悲しみが周りの景色を一変させていた。皮肉な事に駅の後ろに広がる山には霧がかかり木々が生気を得て血色良く青々とし、鳥の囀りが心地よく響いていた。


 僕らは濡れることなんて気にならなかった。例え濡れたとしてもそれは涙のように乾く。


 僕達は駅に止まっていたタクシーに乗り込んで佐久間の住所を告げた。タクシーは一度も迷うことなく僕たちを佐久間の実家へと導いてくれた。名前だけ言えば十分だったと思う。


 畦道には既に数台の車が機械らしくひっそりと止まっていた。僕たちは佐久間の実家から少し離れたところでタクシーを止めてもらった。


 タクシーから降りると佐久間の実家が悲しみに包まれていることが感じられた。タクシーと言う鉄の塊から出ると、実家から放たれる悲壮感が直接僕の肌に触れたのだ。喪服は僕をかばってはくれない。


 受付は2つに分かれていた。一つは地元の方、もう一つはそれ以外で見覚えのある顔が並んでいた。


 先程定食屋で見た男女である。女性の方は定食屋で見たそのままだったが、男性の方は眼鏡を掛けていた。やはり、佐久間の同僚だった。


 男性の方はどこかで会ったような気がしたが、あの子の様に糸口になる過去の場面が立候補するでもないし、この場で思い出す必要もない。佐久間の葬儀に来たのでそれ以上考えなかった。


 記帳を済ませ香典を渡し僕たちは葬儀場へと歩を進めた。庭には既に大勢の幼き佐久間を知る人たちが悔しそうに集まっていた。


 僕たちは隅に陣取って待った。佐久間のご両親の姿は見えなかった。間もなくすると読経が始まった。


 それはこれまでに聞いたことが無く佐久間とは宗派が違っている。僕の位置からは佐久間の遺影写真が見えた。それは、彼が大学の時のものだった。


 長谷川さんが生きていたときのもの、つまり、彼が一番幸せだった時のものだ。僕はその写真の選択は佐久間自身が決めていたような気がした。彼の人生の歩みはあの時から進んでいない。そして、彼の長谷川さんへの思いがどれほど深いのか測り知れない。


 読経が少し進んだ所で地元の人たちが焼香に向かった。その順番はここでは暗黙のルールがあるようにスムーズに進んでいった。


 地元の人たちの焼香も終わりに近づいた頃、制服姿の女子高生が焼香に向かっていた。その子は、他の誰よりも焼香に時間を掛けていた。佐久間との別れを受け入れることが出来ないようにじっと手を合わせて動かなかった。


 対照的に肩は震えていた。漸く女子高生は振り返って、その場を離れた。その時僕は理解できた。どうしてあんなに焼香に時間を求めたのかと。


 その女子高生は定食屋で働いていた女の子だった。十年前は長谷川さんを佐久間が見送り、今度はさんが佐久間を見送る。女の子は僕たちの方を振り向くことなく地元の人たちの中へ消えていった。


 焼香の場を見ると自然に流れていた列が途切れかけて、僕たちの番を告げた。最初に最上が動き出した。次いで、重村、日高、片桐、そして最後に僕。焼香をしながら佐久間に問うた。


『佐久間、何が有った。どうしてこんなことになった。俺たちに何を望んでいるのだ・・・』


 佐久間からは何も返事がなかった。感じることさえも出来なかった。

読経が終わり遺族を代表して佐久間の父親が挨拶をした。


 父親の表情は悲しみと悔しさで歪んでいた。その歪みはボクシングの試合で何発も顔面にパンチを食らってそれでもダウンせずに立ち続けているようだった。ノックアウトだけはされないし、誰もタオルを投げ入れる事を許されてはいない。


 それは、父親である責任、親不孝な息子への最後の役割だった。マイクが壊れるほど握り締めるだけで精一杯だった。言葉には成っていなかったがそれで十分だった。


 父親の挨拶が終わり佐久間の肉体との別れの時がやって来た。僕たちはここへ何時間も掛けて来たにも関わらずそれは呆気なくやって来た。


 僕は妙な気持ちになった。そもそも葬儀に出席する必要なんて有るのだろうか?生前に後悔することなく共に生きていれば葬儀の必要などない様に思えた。


 死者を迷う事無く天国に導く為に葬儀を行うのなら、その人が生きている間に、『貴方にはこんなに暖かい仲間がいるのだからこの想いを抱いて死を迎えて欲しい』、と生前に伝えておけばそれだけでその人は自力で天国まで辿り着ける様に思えた。


 死んでからでは何もかも遅すぎるのだ。未練があれば無理に追い出さなくても気が済むまで留まって居ればいい。



 僕たちは佐久間の実家を後にし、来た時と同じ道を戻った。不思議と同じ景色に見えた。こんなことは始めてだった。


 初めて通る道の復路は、必ず『こんな道だったかな』と疑問に思うものだ。恐らく今回は雰囲気しか覚えていなかったのだろう。来る時には特徴まで認識出来ていなかったのだ。確かに、行きと帰りのは同じなのだから。


 タクシーを降りる頃には雨はすっかり上がって定食屋を後にした時よりも鳥の囀りが大きく木魂していた。僕たちはホームで大阪行きの電車を待った。30分程待ってようやく電車がやって来た。


 ここでの時間の流れは待たされたこの30分をそんなに長いと感じさせなかった。全ての流れからすると電車待ちの時間は30分程が妥当なのだろう。


 僕は気付くと新大阪のホームで新幹線を待っていた。どうやってここまで来たのだろうか。


 確かタクシーを降りた時の鳥の囀りは覚えている。その時から僕の脳が作り出す映像は佐久間の父親の、打たれても、打たれても倒れなかった姿に置き換えられていた。


 あの姿が繰り返し、繰り返し映し出されていた。その映像の再生ボタンはずっと押されたままだった。


 新大阪のホームに立つまで停止ボタンは壊れてしまっていた。大阪までの道のりの車内で何度もその停止ボタンの修理を試みたが、途中の停車駅に止まるアナウンスでも、車内で切符を確認に来た車掌でさえも修理不能だった。ようやく修理出来たのは重村の言葉だった。


「佐久間は殺されたのだろうか?」


 この疑問は僕らの誰もが消えることなく頭の片隅に追いやられていた疑問だった。重村の言葉はいろんなボタンを押した。僕の恐怖心のボタン、そして最上の涙のボタン。


 この涙が我々の中で理不尽に収容されていた人間としての本来の感情を呼び覚ました。佐久間を失った悲しみが溢れ出した。そして片桐が言った。


「次は3年後だな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る