第6話 喪失

意表を突かれた。強烈なアッパーカットだった。


 試合終了のゴングは3日前に鳴ったので、ガードは下げていた。反則じゃないか。レフリーも仕事放棄か。

最上の言っている言葉の意味が理解出来なかった。僕は朦朧もうろうとしていた。


 アッパーカットで意識を失い、ずっと眠りから覚めず、ようやく目が覚めると砂漠の真ん中にひとり放置された感じだった。


 厳密にはそんな感じではない。想像してもどんな感じなのか解らないが、これだと、精神的苦悩に対して肉体的苦痛の比重が高すぎる。


 この状況を例える事は不可能であり、ただ、起こってはいけないことが起こった事だけを共通点として言い換える他ない。


今俺はどこにいる?なぜここに?誰が俺を連れて来た?


 最上が言ったと言う言葉の意味は理解出来たようだが、それが佐久間と繋がらなかった。なぜ佐久間が・・・そして、誰が佐久間を・・・僕は今、何を聞いたのだ・・・


 それってもう佐久間とは酒を交わせないって事なのか。携帯に登録してある『佐久間』が着信画面に表示されることはもう二度とないのか。


 僕の一部を占めていた佐久間が突然消去されたのだ。いや、それは一部では無い。重要な部分を占めていた。


 ピラミッドの一番下の部分。上を支える土台。当然の如く僕のピラミッドはバランスを崩す。


最上によると佐久間は数日無断で会社を休んでいたらしい。


 心配した会社の上司が佐久間の実家に電話を入れ両親が彼のマンションを訪ねると佐久間は既に冷たくなっていた。


 部屋は乱された形跡は無く、佐久間以外には部屋に誰も居た痕跡はない。と言うより、不自然に整理されていた。


 洗い立ての食器は無く、全て棚に仕舞ってあり、貴重品は一箇所にまとめて置いて在った。それも目立つ場所に。服も全て洗濯されていて部屋に干してあるものは何も無かった。


『立つ鳥後を濁さず』状態だった。 


 僕は暫く放心状態にあった。どの位の時間が過ぎていたのか覚えていない。そして、絞るように最上の口から怒りに満ちた声が聞こえた。


「お前、あの占いのこと覚えているか?」


 僕は、『占い師』と聞いた途端現実の世界に戻された。砂漠とはかなりの距離があるはずなのに。


 そして、佐久間の死が一瞬の内に占い師に直結した。ちょっと待てよ。そんな馬鹿な。その瞬間、僕は体の震えを覚えた。今までに体験したことの無いたぐいのものだった。


「あの占いの日付は、佐久間の死を意味していたと言いたいのか?」僕はようやく口を開いた。顎を殴られた後遺症で滑らかに言葉が出ない。

「そうとしか思えない。占い師は俺たちが6人で飲むことも言い当てた!」


 明らかに最上はそう思っていた。疑いの欠片かけらも無く。最上は僕に電話を掛ける前に、佐久間の死を知ってから僕と同じ体験を経て、この考えにたどり着いたのだろう。この言葉に僕の震えは加速した。


「どう考えてもそんなことは有り得ない」


 体の震えを抑えるのに必死で考えがまとまらない。震えを押さえようとすればするほど無駄な足掻あがきだった。


「死亡推定日は3日前らしい」


 最上の言葉が追い打ちを掛けた。このクリスタルな尖った言葉は、僕の微かな望みを断ち切った。そして何故か僕の震えを止めた。


「今なんて言った!3日前だと!」僕は最上に叫んだ。

「そうだ。あの占い師が言った日付だ」


 僕は愕然とした。そして僕は後悔の念しか浮かんでこなかった。どうしてもっと佐久間と話さなかったのだろう。ふと、佐久間の言葉が頭を過ぎった。


『沢村。重村のことを頼む』


「他のみんなには連絡したのか?」

「いいや。お前にしかしていない」

「じゃ、俺があとの連中には連絡する」


 僕は言葉を振り絞った。とにかく先に進むしかない。僕は直ぐに片桐の自宅に電話をしたが留守だったので、会社に電話を入れた。


 誰も電話には出なかった。まだ20時を回ったばかりなのに誰も出ないなんてどうかしている。僕は苛立ちを覚えた。


 誰も社長の電話に出ないこと、片桐が携帯を持っていないこと、そして24時間対応の美人秘書に休憩を許していることに対して。


 おかしなものでこの苛立ちが僕を少しずつ冷静にさせた。どうにかして片桐に連絡を付けたかったが方法がない。


 そうか、取り敢えず留守番電話にメッセージを残すしかない。こんなことを思いつくのに時間がかかった。もう一度、片桐の自宅に電話した。そして、僕はドキッとした。


「もしもし」

「片桐か!さっき電話したけど何やっていたのだ!」

「トイレにくらい行かせてくれよ」

「電話が鳴ったらどこにいても出てくれ」


常軌を逸した要求に片桐は声のトーンが上がった。


「何かあったのか?」

「佐久間が、佐久間が、・・・」


 最後の言葉に詰まった。息を吸っている筈なのに吐き出せない。この先を話しても自体が変わる事はない。何かが止めているのだ。


「沢村。落ち着け。どうしたのだ?」


言葉を発する事で佐久間の死を受け入れてしまう気がした。


「たった今最上から連絡があって・・・」受け入れる以外にどんな選択肢がある。

「佐久間が死んだ」

「それは、何時のことだ?」

「3日ほど前らしい」

「それで、原因は?」


肝心なことを最上に聞くのを忘れていた。


「すまん。それは聞いていない」

「どうして?」

「そこまで、冷静じゃなかったのだ!」

「沢村。すまん。別に構わない」


片桐の言葉はとても優しかった。


「それで、最上はどんな様子だった」

「冷静さを装っていたが・・・」と言っても最上の様子なんて覚えていない。無責任な答えだった。


「分かった。俺から電話してみる。お前はこれからどうする?」

「重村と日高にこれから連絡しないと」

「俺がしようか?」

「いや、大丈夫それくらいは出来る」

「それじゃ、一旦切るな」

「分かった」

「沢村。しっかりしろよ」

「分かっている」


 片桐と話して大分落ち着いた。思考力はあまり無かったが、ちゃんと話せるくらいに。僕は重村に電話をしたが仕事中だった。


「重村今大丈夫か?」

「まだ仕事中だが」

「今日は遅くなるのか?」

「そうだな、帰宅するのは23時頃だと思う」

「分かった。帰ったら連絡をくれないか。とても重要な話がある」

「だったら今言ってくれ」

「いや帰ってからで良いよ」

「了解。後で電話する」

「じゃ、気をつけて」


 片桐に電話をしたときより落ち着いたと思った。数分前だったら、誰かにすがりたいから、重村が電話に出た途端に彼の状況を確認する前に佐久間の死を告げていたと思う。


 ただ、何故か、今の電話で佐久間の死を伝えられなかった。仕事よりよっぽど大事な事なのに。


 それは、佐久間が言った、『重村を頼む』 が無意識にそうさせたように思われた。佐久間は自分の死より、仲間の事を優先して欲しいと願う様に。


続けて日高の携帯に電話をした。応答が無かったので、自宅に掛け直した。


「はい、日高です」

彼の妻が電話に出た。


「ご無沙汰しています。沢村ですが・・・」

「あっ、沢村さん。お久しぶりです。先日は主人がお世話になりました」

日高は前回の飲み会のことを妻に伝えていたと見える。

「いえこちらこそ連れ出してしまって」

「沢村さんはまだ良い人いないの?」

そう言えば日高の妻は僕に好印象を抱いていた。

「ええ、相変わらず独身でいます。それで・・・」


 彼女はいつもの僕らしくないと気付いたので、直ぐに日高に代わった方が良いと判断した。日高には勿体ない妻で状況を察知する能力にけている。


「あっ、ちょっと待ってください」電話越しに日高を呼ぶ声が聞こえた。『沢村さん』


「もしもし、沢村。この間はどうも」

「日高、落ち着いて、聞いてくれ」

落ち着いて・・・これは誰に言った言葉なのか。


「どうしたのだ」

「佐久間が死んだ」

「沢村、冗談はよせよ。何のつもりだ」

「冗談だったら、冗談だったらどんなに良いことか」

「本当なのか?」

「ああ、3日前だそうだ。たった今最上から連絡があった」

「なぜもっと早く知らせてくれなかった」

「俺もたった今知らされた。佐久間が死んだのが判ったのが今日なのだ」

「どう言うことなのだ?」

「佐久間は3日前に死んでいたが発見が遅かったと言うことだ」

「どうしてそんなに発見が遅れる?なぜ佐久間が死なないといけないのだ?」

「俺たちにもまだ何がなんだか分からない!」


僕はこれ以上質問されても答えようがなかったので声を張り上げてしまった。


「分かった」

「すまない。また、詳しい事が分かったら連絡する」

「頼んだ。待っている」


僕に課せられた最低限の義務を終えもう動けなかった。


 頭の中では、片桐に電話をしないといけないと思いつつも、その命令が腕まで伝わって行かない。僕はそのまま横になり重力だけに従った。重力が無いと何処かに流されてしまいそうだった。ゆっくりと重力に逆らい電話を手にした。


「俺だけど」

「大丈夫か?随分と長かったな」

「すまない。電話をした後ちょっと休んでいた。そっちはどうだった?」

「最上と話したが、あまり詳しいことは知らないないようだった。分かったことは佐久間の葬儀は土曜日だ。それに出席しようと思っている。ひょっとしたら、土曜日は大阪かどこかで泊まることになる。最上も行く予定だ。沢村も行くと最上には伝えておいたが、大丈夫だったか?」

「すまない。勿論だ。重村も日高も行くと思う」

「分かった。明日詳細を連絡する。沢村、明日は会社休んだ方がよくないか。何だったら俺の家に来ないか。仕事はなんとか調整出来るから」

「ありがとう。だけど、大丈夫。大分落ち着いて来たから。明日は、会社に行く」

「わかったよ。お前に任せる。他の2人には俺から連絡しておくから」


 僕は確保した蝉を籠に入れるように電話を置いた。もう鳴かないでくれと。もし、これが、占い師の予言したその日に起こっていたらもっと違った対応が僕にも出来たはずだった。


 インスタントコーヒーで済ませる事が多いが、今はコーヒーを作り始めてから完成までの時間が出来るだけ長いことを無意識に望んでいた。


 それに、コーヒーメーカーからろ過される水の落ちるさまを見ていたかった。そして、その過程を視覚だけでなく、聴覚、嗅覚でも感じたかった。


可能な限り五感を機能させたかった。心の骨折のダメージを確かめたかった。


 当然、骨はくっ付いていないのにリハビリを開始するので、痛みが伴うが、少しでも痛みが欲しかった。でも、こんな弱い痛みに耐える事で、佐久間ともっと話さなかった自分への報いだとすれば、明らかに甘えすぎている。


 コーヒー豆は冷蔵庫に仕舞ってあった。いつもの豆の量より多めに取り出し、挽き機に入れて取手を回した。コーヒーの香りの拡散が嗅覚の正常を示した。


 コーヒーメーカーのメインスイッチのボタンを押すと、コーヒーメーカーに命が注入されたことが確認できた。


 コーヒーメーカーはタンクから水を吸い上げていった。フィルターをゆっくりと色を帯びながら、一滴そしてまた一滴と最終到達点に溜まっていった。


『いつもこんなに速く出来ていたのか』


 コーヒーカップに出来上がりのコーヒーを注ぎいつも通り、少しだけ牛乳を足した。


 一点に集中していたのだろうか、インスタントコーヒーに比べドリップコーヒーは牛乳の混ざり具合に、濁りがなく、着色されているにも関わらず透明に見えた。


 僕は、ひと口コーヒーを飲んだ。コーヒーの苦みを感じ無かった。味覚は機能障害を起こしているのか。ふた口目を飲んだ。少し、苦みを感じた。


 それはまるで魔法の様に体から重くのしかかっていた何かを取り去ってくれた。僕はカップの中を覗き込んだ。ゆったりと表面が揺れていた。その静寂は思わぬかたちで乱された。


 一つの水滴がカップの中に落ちていった。それは、僕がじっと眺めていた光景と似ていた。佐久間の死が僕の中のコーヒーメーカーの電源のを入れたのだ。


そのスイッチは、一度押されたきり長い間押されることは無かった。


 それは、10年ほど前に祖母が他界したときだった。僕にはそのスイッチがどこに存在するのか解っていない。でもそのスイッチは体の中に確実に存在している。そして、それは決してなくなることはないのだ。僕が僕である限り。


 僕はそのコーヒーを飲んだが、その味に違は感じられなかった。体から搾り出されたこんな涙でもコーヒーの味を変えることは出来ない。人の運命もどんなことをしても変えることは出来ないのだ。


 今日は眠られそうになかった。当ても無くコレクションのDVDを眺めた。この中に、この当てもないタイトル探しの旅を止めてくれるのもが存在していることを期待して。


3分の1ほど過ぎたときひとつの映画が僕を引き寄せてくれた。


タイトルは『グリーンマイル』だった。僕にもこの映画に出てくる魔法が使えたなら。


 確か、魔法を使った後には、途轍とてつもない苦痛を伴っていたと記憶している。僕が引き換えにしようとした、骨折の痛みなど比較にならない程の。


 グリーンマイルをDVDプレイヤーにセットしベッドに横たわった。映画の予告も早送りすることなく最初から通した。大切な時間稼ぎ・・・


 この映画の終わる時間を出来るだけ後に追いやりたかった。それは次の候補を見つける自信の無さからだ。意識の遠くで映画を見ていた・・・



『リーン、リーン・リーン』


この音を聞くのは久しい。いつもなら自力で起きるからだ。


呆れる程、反復性のある不変な時間の流れだ。時間の性質に降伏する僕の弱さ。


 いつ眠りに付いたのか覚えていない。DVDの再生カウンターはリセットされ、でも、コーヒーメーカーの如く、絞り出された涙のお陰で、目覚めは不思議と良かった。


 いつもと同じようにシャワーを浴びた。シャワーの強さは最大にして。今日くらい資源を無駄にしても、僕は相手が誰であろうと正当化出来る、と言わせてもらう。


 体の表面を余すことなく撫ぜられる様でとても気持ちが良かった。風呂を出て日課となっているインスタントコーヒーと食パンを準備した。食欲は無く、無理矢理胃に押し込んだとしても、いつもと同じルーティンを取ることを優先した。


水を無駄にしたが、パンは残さず食べ切るのだから、許して欲しい。


 食事を終え、気持ち悪さと共に顔を洗い、髭を剃っていつもと変わらない手順で準備を整えた。こんな時程習慣を有り難く思えることはない。


 昨日も着ていたジャケットを羽織って、家を出た。違っていた点と言えば、昨日飲み残したコーヒーと豆挽き機が台所に残されていたことと、目が赤いことだけだった。


 いつもの電車に乗った。そこには、いつもと変らぬ光景が僕を取り巻いていた。それらは僕に昨日のことは早く忘れろと迫って来る。無実な人に言い返す事を許して欲しい。


『お前達は、佐久間が死んだのに平気なのか』


 会社に着き同僚に挨拶を交わし片桐からの電話を待った。佐久間の死を共有できる相手からの電話を。


 僕はとにかく仕事を求めた。時計を見ると間もなく昼食の時間だった。そんな折、片桐から電話があった。


「沢村、今いいか?」

「ああ、ずっと待っていた」お前位だ。佐久間の死を分かっているのは。

「すまない遅くなって。土曜日の佐久間の葬儀だが、午後13時30分からだ。だから、東京駅を7時50分ので行く予定だ。人数分のチケットは購入済みだ。大丈夫だよな?」

「ああ、いろいろとすまない」

「チケットは、どうしたらいい?」

「今日は家にいるのか?」

「ああ、その予定だ」

「じゃ、帰りに寄る」

「分かった。会社を出る前に一応電話を入れてくれ」

「了解。じゃ」

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