第4話 憧れ

 僕には社内で憧れている人がいた。その人は企画部にいる一つ年上で、本条美咲ほんじょうみさきさんだ。姿を見かけるだけで満足できる。


 人類が最初に月に降り立った様にそれだけで満足で、月面でキャッチボールなんて発想する贅沢は高価過ぎる。


 僕の課は4階で彼女は7階だった。自社ビルだったので最上階にはちょっとした眺めを誇る食堂があった。


 従業員数に対する食堂の面積は東京の縮図の様に、各階を時間帯で区切らないと、席を待つ人を背中に感じながら食事をする羽目になる。


グループは、次の様に分かれていた。


グループ1:11時45分〜:1階〜3階

グループ2:12時〜:4階〜6階

グループ3:12時15分〜:7階〜9階


 総務部の部長ならグループを振り分ける権限があったが、立場上、ルールに従うしかない。会社のITシステムに所謂、目安箱があり、社員が自由に意見や改善して欲しいことを訴える事が出来たが、流石にグループ分けに意見する事は出来ない。


 会社に居るときは食堂を利用していた。グループ2に割り当てられていたので、ゆっくり食事をすれば彼女と交差する可能性が高くなる。


 しかし、いつも一緒に昼食を取る同僚はフライング気味で席を立ち始めるのだ。更に、食べるのが早い。つまり、食堂で彼女の姿を見るチャンスは、月に一度もない。


 だから、毎回エレベータに乗るたびに偶然を期待したが、いつも裏切られる。この小さな期待を味わえるだけで十分だった。十分であると思い込ませていたのかも知れない。


過去に一度だけ彼女に偶然会ったことがある。結果は散々なものだった。


 いつものように出勤しエレベータを待っていた。珍しくそこには他に誰も居なかった。エレベータが到着したのでそそくさと乗り込み、素早く4階を選択し『閉』を強めに押した。強く押しても早くドアが閉まる事は有り得ないのだが。


 その時一番恐れていたことが起こった。ドアが3割ほど閉じた所で再び開いたのである。溜息が出そうになったが乗ってきたのは本条さんだった。


 そう、僕が憧れていた人。溜息を吐くどころか飲み込みそうになった。彼女は申し訳なさそうに、少なくとも僕にはそう見えた。


「おはようごさいます」


 一瞬、言葉を失った。いや、思考力が高温停止した。3割ドアが閉まりかけてそれを邪魔されたことなんてすっかり忘れてしまっていた。ドアの閉まる遅さに感謝した。


「あっ、おはようございます」


 何故か丁寧語を使っている自分がいた。まるで年下であることを承知しているかのように。


「何階ですか?」


まさか、7階ですよね、なんて言えるはずもない。

「2階お願いします」

「えっ!」


 僕は思わず言ってしまった。いまさら後悔しても遅い。彼女に僕が彼女のオフィスの階を知っていると悟られてしまった?


「2階です」


彼女は1回目よりややトーンを上げて答えた。


 僕はほっとした。『えっ』っと、聞き返した事を彼女はてっきり僕が聞き取れなかったとし、ボリュームを上げたのだ。

2階のボタンを押しながら、想像より彼女の声の低さが意外だった。


 冷静さを取り戻しつつあったのだろうか、最初の挨拶では気が付かなかった彼女の声の特徴に気づき始めた。温度降下による思考の再稼働。


「はい」


なぜ2階なのだろうか?せっかく4階まで一緒に居られると思ったのに。


『確か7階ですよね。何故2階で降りるのですか?』


と尋ねたかったが、それも現在風に言うとストーカー行為に当たるので聞けない。僕が本条さんにどんな個人的な問い合わせを受けてもストーカーなんて思わないし、ただただ、幸せな気持ちになるのだが・・・そうこうしている内に2階で彼女は降りていった。


「お先に失礼します」


 彼女がエレベータから降りる姿をじっと見送った。玄関で彼女を送り出す様に。彼女のシルエットは僕の理想的なものだった。僕の目と彼女の間には何も無かったが彼女の姿は霞んで見えた。


 僕は動けなかった。『閉』ボタンなんて頭の中から消えている。エレベータにタイマー機能がなければドアはいつ閉まるのだろうか。ドアは驚く程ゆっくりと閉まった。


 ドアは左右から彼女のシルエットを消して行ったが、ドアには彼女の消えたはずの姿が浮かんでいた。


 彼女のドアに隠れてしまった部分は光に乗って僕の目には届かないが、無意識、いや強烈な意識により脳内で再現しているのだ。


 エレベータの上昇開始と同時に、僕の脳内での再現も消えていった。僕の画像保持能力は驚くほど衝撃に弱いようだ。


 ドアが閉まって一息付いた僕は、彼女の服装すら覚えていなかった。しかし、彼女が同じエレベータに乗った証を残していたことに気付いた。


 彼女の残した香りは、彼女のシルエットを脳裏に再び鮮明に浮かび上がらせた。しかし彼女の服装は依然として再現出来ない。


 入社以来、彼女と会話を交わした事がなく、これまで外見だけで彼女を想像していたが、実際に言葉を交わした事によって、これまでの想像に今回の現実が上塗りされてしまった。


 そして、一旦、上塗りされた僕の中の彼女は決して元には戻らなかった。初めて彼女と言葉を交わしたことが、これまで以上に彼女を遠い存在にした。


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