第15話 =思いもよらぬ展開=

 翌朝、悠人はいつも通りの時間に目覚める。今日は朝からグスつきがちの空模様である。季節の変わり目は、たいていこういった天気が多い。

 さっそくケータイを取り出すと、美也子へメールをうった。

『昨日はありがとう。今度会うときはちゃんとこれからのことを話ししようね』

 そして悠人はいつも通り、会社へ向かうのである。


 年度末の月曜日。そろそろ締切の近い案件が仲間たちの尻に火をつけ始めていた。中でも瑞穂の抱えているポスターは写真の選定がまだだった。カメラマンとスポンサーの意見が異なっており、カメラマンがその主張を譲らないので困っていた。

 そんな折、一本の電話が入る。受話器を取ったのは瑞穂だった。

「部長、菱蔵商事という会社からお電話です」

 菱蔵商事と言えば、かなり大手の商社である。とても悠人らの会社に仕事を発注するような規模ではない。そんな場合、普通は広告代理店を通じて下請けとして業務を受けるのが関の山である。

「大原です。お電話ありがとうございます」

 不思議に思ったが、それでも受話器を受け取り対応してみると、

「菱蔵商事の東村と申します。こたび、そちらで商品カタログをお願いしようと思うのですが、いかがでしょう」

 電話の男は菱蔵商事社長秘書室の室長である東村と名乗った。なぜ社長秘書室からの依頼なのかが不可解だったが・・・。

 一般的に大手の商品カタログとなれば、少なく見積もっても数百万円、継続すれば数千万円単位の話である。なぜ突然、降って湧いたように話が飛び込んできたのか訳が分からなかったが、紹介者の情報をはっきりしておきたかった悠人は慎重に答えた。

「弊社で良ければ、喜んでお受けいたします。ところで、どちら様からのご紹介でしょうか」「それはいずれお分かりになるかと思います。どちらにせよ、どなたかお越しいただきますよう、ご手配くださいますか」

 もちろん願ってもない申し出だけに、二つ返事で了解した。

 この後、島田専務に報告し、紹介者の情報について尋ねてみたが、上役の誰にも心当たりがない話であった。ましてや指名された悠人にさえ心当たりがないのだからさもあらん。

 三日後、東京にある菱蔵商事の本社に、悠人が島田専務と営業部長を連れて挨拶に赴くこととなったが、どうして大手企業が悠人を名指しで仕事を依頼することになったのか。それは、商談が終わってからも菱蔵商事サイドから明かされることはなかった。ただ、「さる人の紹介」とだけ伝えられていて、具体的な人物については明言を避けているようだった。

 結果的に悠人の会社は、百種はあると言われている商品のカタログを請け負うこととなった。起点となった悠人に社長賞が出る話もあったらしいが、悠人としては紹介者に心当たりがないため、社長賞については固辞したが、しばらくは社内でもかなり噂になったものである。


 東京から帰って来た悠人は、ここ最近美也子と連絡が取れていないことに気が付いた。悠人から二、三日メールを送れないときがあっても、美也子からは届いたりしていたので、数日間もの間、不通になっていることは珍しかった。

 最後に送ったお礼のメールにも返信はされていないことに少し不安になった悠人は、はやる気持ちでメールを送った。

『連絡がないけど、どうかした?もしかして病気だったりする?近況報告が欲しいな』

 けれども、やはり美也子から返信が届くことはなかった。

 そうしているうちに、万里との約束の土曜日がやってくる。



 土曜日の朝、唯衣は仕事が入っているらしく早々に出かけていた。家には悠人と万里しかいない。悠人はリビングに万里を呼び出し、神妙に話を始める。

「ここ最近、ずっと家庭内別居状態やろ。一緒に暮らす必要ある?」

「かまへんで。で、財産分与はどうする?マンションは売りに出す?」

 大阪の郊外にあるマンションであり、一応分譲物ではあるが、唯衣が生まれた年に購入したものであり、既に築二十年以上が経過している物件である。売りに出しても一千万程度の物件であることは予想がついている。

「ローンがあと三年ほど残ってるやろ。それごとキミが受け継いでくれるんやったら、マンションについては放棄してもええで。オレは実家に戻ったらええねやから。預金は折半でええやろ」

「なんや、えらいあっさりやな。もしかして浮気でもしてる?」

「なんやったら興信所でもなんでも雇って調べてくれたらええで」

 悠人にとっては一つのギャンブル的なセリフだったが、そういう詰問が出ることも想定内であったし、結婚以来、全く浮気らしいこともなかったことが功を奏してか、

「若い時は随分とモテたみたいやったのに、おっちゃんになるとそんなもんかいな」

 などと、なんの疑いもなく吐き捨てるようなモノの言いようだった。もしかしたら、万里の方にも隠したいことがあったのかもしれないが、今の悠人には興味の湧く事柄ではなかった。それよりも幼い子供がなく、親権争いをせずに済んだのは幸いである。

 その後、悠人は自分の部屋に戻ると、身辺整理を始める。思い立ったら決め打ちする性格である。二、三日で引っ越しを完了させる勢いだ。

 実家にはすでに連絡済みである。そろそろ老父母の面倒も必要になってきたのもタイミングだったのかもしれない。まさか万里が義父母の世話をするなど、想像もしていなかったし、アテにもしていなかった。

 これで離婚の話はひと段落ついた。そう思うと、なにやら肩の荷が降りた気分だった。ふと思い出したようにケータイを覗いてみた。美也子からの連絡がないか。できればこのことをいち早く報告したかったという想いもあった。

 しかし、あれ以来、美也子からの連絡はなく、静まりかえったケータイは悠人を不安にさせていくだけだった。



 美也子との逢瀬の日から一週間が経っていた。特に進展はない。

 あるとすれば、菱蔵商事というとてつもない大会社の仕事が舞い降りてきたことにより、社内が大わらわしていることぐらいか。

 初めての訪問から数日後に東京で会った菱蔵商事の面々は、電話をくれた社長秘書室長の東村と宣伝部、総務部の担当課長が列席し、こちらも今後の担当として営業部と企画部から精鋭を選定して担当させると共に、提携の東京宣伝に出向させている秋山と営業部の中堅も担当者として紹介することとした。今後は東京宣伝の力も大いに活用することとなるだろう。

 それにしても、美也子からの連絡がないのが、悠人の中では最も気掛かりな心配事だった。最後の連絡からすでに十日以上が過ぎている。

 悠人と万里の離婚はすでに届けが出されており、悠人も実家へ戻っている。離婚を気に病んでいる母の具合が曇りがちだが、悠人自身の生活スタイルがさほど変わるわけでもなく、会社では英哉や瑞穂がやいのやいのとからかったり、ちょっかいを出すだけで、彼らの挑発に乗らない悠人にとっては、離婚前よりも退屈な毎日を過ごしていた。

 そんな日々がひと月ほど過ぎようとしていた。



 新しい年度に入り、新入社員の顔も増えた。大会社との契約のおかげで、いつもより多くの人材を確保できた。企画部に配属されたのは、芸大卒の二人だ。

 東京の案件は木下と高橋のコンビに任せ、悠人はそれを指揮する監督官として将来を約束されたもの同じだった。未だ悠人を紹介した人物は明かされぬままではあったが。

 そんなある日、北阪百貨店の武藤部長から電話があった。英哉にではなく、悠人のご指名である。

「なんや東京でひと山当てたらしいやないか。それでウチは後回しになっとんねやな」

「そんなことありませんよ。長年のお付き合いですから。ちゃんと谷口と清水を担当にして、目を光らせているところですから」

「ふん、そうか。それはそうと、菱蔵商事のことでちょっとした噂を聞いたんやが、今夜時間あるか?」

「はい」

「なら、例の『バビロン』で待ってるから、なる早でおいで。島田君も一緒にな」

 武藤氏はそう言い残して電話を切った。

「はて、何の話やろ。武藤さんの耳に入る情報って何やろな」

 少し考えてはみたものの、聞いてみないとわからない。そう思った悠人は、とにかく島田専務に武藤氏からの電話の内容を話し、今宵の会談を待つことにした。


 午後六時。

 悠人は早めに部屋を出て、やや薄暗い雲の中に沈みゆく夕日を眺めながら、島田専務を待ち受けていた。

「おう、待たせたな。それにしても武藤さんの話って何やろな」

 悠人は島田専務と歩きながら考えてみた。しかしながら、一向に想像がつかない。悪い噂でなければよいが。そんな気持ちだった。

 『バビロン』ではすでに武藤部長が店で待ち受けていた。

「ああ、こっちや。ママ、あっちのボックス席を借りるで。しばらくはほったらかしてええからな」

 武藤部長は奥にある六人掛けのボックスシートへ移った。

「まあまあようこそ」

 ママと思わしきマダムが、恐らくは武藤氏のボトルであろうジョニーウォーカーを運んできて、三人分の水割りを作り始めた。

「ああママ、これからちょっとヒソヒソ話しするから、構わんでええで。終わったらまたそっちへ行くさかい」

 武藤氏はママを体よく追っ払って、軽く乾杯をしたのちに、紛れもなくヒソヒソ話を始め出す。

「あのな、菱蔵商事と仕事しだしたやろ?ほんでな、ウチもおこぼれをもらおう思て、ちょっと調べたんや。ほんならな、元々帝都石油との提携の話はあったんやが、それが伸び伸びになっとって、最近になってその話が復活したらしい」

「帝都石油いうたら大財閥でんな。そういうたら、二年ほど前、菱蔵商事の高田社長と帝都石油の石村社長がなんやら会見してたのがニュースになってましたな」

「おうよ。その提携の話が一旦棚上げになってて、またそれ再度進むようになってから、菱蔵さん、やけに活発に動き出したっていう噂や。それに乗っかってええもんか、ウチの調査員にリサーチさしてるとこやねん」

 悠人と島田専務は思わず顔を見合わせたが、

「そんなもん、ウチにとってはまたとないチャンスやし、それに、すでに業績は去年の三倍。多少のリスクは屁でもおませんがな」

 島田専務の鼻息は荒く、テーブルの上のナッツが吹き飛びそうな勢いである。

「そやな、あの菱蔵商事やもんなあ。まあ、おおごとにならんようにな」

 そんな武藤部長の心配をよそに、悠人の会社は益々業績を上げ、北阪百貨店もとうとう新しい窓口として紹介されていくのであった。

 また、このことが悠人に関係があったとは、このときは誰にもわからなかった。



 しかし、仕事がいくら充実しても悠人の気持ちは沈んだままだつた。

「最近の悠人部長、全然元気ないなあ。あのお店の人に振られはったんやろか」

 瑞穂と一緒に悠人の噂をしていたのは愛である。

「今こそ慰めてあげな」

 独り身となった悠人に、瑞穂の血圧は上がっていく。

「行ったらあかん、こんなときはすぐに落ちてまうさかい、今度こそアンタ不幸になるで」

「そんなんやってみなわからんやんか」

 言うが早いか、瑞穂は悠人のデスクに駆け寄っていた。

「悠人部長、今夜行きませんか?たまには気持ちも休めないと、身体ももちませんよ」

「大丈夫や。それよりも北阪百貨店の件、ヒデやんと上手いこと回してや。武藤さん、キミにゾッコンみたいやから」

 悠人は立ち上がり、そっけなく瑞穂を尻目に部屋を出て行く。

「なんか離婚しはってから、余計にそっけないようにならはったな。やっぱりあの女の人がええんやろか」

 何も知らない瑞穂は、薄れゆく悠人の気配を見送るしかなかった。

悠人の行き先は屋上だった。

 悠人の会社がテナントとして入っているビルは八階建てで屋上にはベンチが二つ設置されていた。そのうちの一つに腰掛けると、大きくため息をついてうなだれた。

「キミと暮らすことを考えて離婚までしたのに、キミは今、どこでどうしているんだ?」

 などと空に向かって明け暮れているとき、ケータイの呼び出しが鳴った。知らない番号からだったが、わずかな期待を予感して出てみた。なんと電話の向こうはケイ子だった。

「疾風太郎さんの電話ですか。『ピンクキャロット』のケイコです」

 悠人が驚いたのは言うまでもないが、何故この番号を知っているのだろうと思ったのが最初の疑問だった。

「美月ちゃんから聞いたの。それより、今夜会える?もちろんお店じゃなくて。勘違いせんといてな、お誘いやないから。最近、美月ちゃんから連絡ないでしょ。そのことで美月ちゃんからアンタに渡すように頼まれたものがあるの。七時にミタ屋でどう?わかる?」

 ミタ屋とはウメ地下にある割と大きなパーラーだ。ちなみに酒は置いてない。そのことだけでも、割と真剣な話だと言うことが想像できる。いや、そうでなくても悠人は行っただろう。いまや美也子に関する情報が皆無な悠人にとって、まさな渡りに船のタイミングなのだから。

「行くよ。必ず行く」

「ほな、待ってるから」

 ケイ子は言葉少なに電話を切った。

 それからの悠人は、常に時計とにらめっこするばかりで、デスクに座っても心ここに在らずの状態が続き、一向に仕事の役には立たなかった。

 何度かヒデや瑞穂が声をかけてきたが、「なんでもないよ」と答えるのが精一杯だった。誰にもそっけなく答えているうちに、誰も悠人に近寄らなくなっていった。


 夕方六時。終業時間を迎えると、悠人はそそくさと帰り支度をして、慌てふためいたように会社を出た。悠人を励まそうと、今宵、飲みに誘おうと思っていたヒデや瑞穂に一瞬の機会さえも与えないほどに。

パーラーミタ屋は、曽根崎警察署のすぐ脇にあり、今でも鉄板の上にスパゲティを乗せて提供している古風な喫茶店である。

 店に入ると、奥のテーブルに座っているケイ子を発見。向かいの席にスッと座ると、

「久しぶりやな」

「ああ」

 あいさつさえも覇気のない悠人だった。

「てっきり美月ちゃんと幸せにやってるもんやと思ってたのにな。一昨日、店に美月ちゃんからウチ宛に封書が届いて、中を開けてみたらもう一つの封書があるやないの。しかも宛先はアンタや。ウチ宛の手紙を読んでみると、その封書をアンタに渡してほしいと書いてある。アンタのケータイ番号と一緒にな」

 そう言って渡された一通の封書。表書きには疾風太郎様、美月よりと書かれていた。

「ウチはその中身のことまでは知らん。ただウチあての手紙には、アンタをよろしくって書いてあったから」

 悠人は恐る恐る封を開け、中の手紙を読み始める。

 そこにはかなりの長文でこう書かれていた。



『悠人さんへ

 ごめんなさい。私は元の自分の世界に帰らなくてはならなくなりました。あなたと過ごす世界を夢見ていたのに、とても残念です。

 私の父は高田勇吉と言って、菱蔵商事の社長です。その父が兼ねてからの思惑で私の嫁ぎ先を決めておりました。当時の父は私を仕事のアイテムとしか考えていませんでした。そんな父が嫌で二年前、私は家族に黙って家を飛び出しました。

 そのとき、何のあてもない私が身を隠す世界といえば夜の世界しかなかったのです。それでもできるだけ何度もお店を変えて居所をわからなくしていたのですが、『ピンクキャロット』であなたに出会ってからは店を変えずにいました。あなたと過ごす時間がとても楽しかったからです。そして、あなたに恋してしまったからです。

 以前に母が骨折した話をしましたよね。あれは私が急病で入院することになったときあなたに心配させまいと思い、吐いた嘘でした。ごめんなさい。

 でも結果的にあなたに恋してしまったことが、いけない結果を生み出してしまいました。父の調査が『ピンクキャロット』にまで及び、とうとう私の居場所を突き止められ、強引に連れ戻されました。

 それからの日々は地獄でした。ずっと監視され、ケータイ中の情報も抜き取られ、あなたとのことも全て知られてしまいました。

 以後、私は金銭的に、また衣食住に困らない生活を与えられる代わりに、その他の一切の自由を失いました。もうあなたにお会いすることも叶いません。ホテルでお会いした日も、監視付きを条件に許された、私の最後のわがままだったのです。

 しかし、私もすでに子供ではありません。父の政略結婚を承諾する代わりに二つの条件を出しました。一つは悠人さんの会社を突き止めて、安定した仕事を提供すること。これは実行されたようですね。東村に聞きました。もう一つは新しい命についてです。

 あの日、私を愛してくれた結晶がきっと私の胎内に宿っているはずです。そういう日でしたし、予感もありました。何より、今月に入ってから例の日が巡ってこないのが何よりの証拠です。私はこの可能性の高い不確かな賭けに出たのです。それでも父はその条件も受け入れました。そして、晴れて私は父の道具に成り下がったのです。

 私には兄がいます。すでに父の事業を継ぐことが決まっており、その兄と父とが、そして母も交えて私に土下座までして懇願したのです。先方も含めて一万人を超える社員のために心を鬼にしてくれと。聞くところによると、先方の方も同じように自由を捨て、この結婚に承諾し、なおかつ私の条件も全て理解の上で承諾したということです。そうなってはもうどうしようもありません。

 今後、私は胎内の新しい命のことだけを考えて生きてゆきます。こんな結末になってしまったことを心からお詫びします。父からの仕事で私の罪が許されるとは思いませんが、私が悠人さんに残せる最後の贈り物です。

 どうぞ、私のことは忘れて、お幸せにお暮らしください。

                               高田美也子』



 悠人は声を押し殺して泣いていた。その姿を見たケイ子もただ事ではないことは想像できたが、あまりにも激しい悠人の悲壮感に驚き、指の中で握りしめられている手紙を奪い取って、読み返してみた。

 ああ、なんということだろう。今、目の前で起こっている出来事は現実のものだろうか。ケイ子の中ではあまりにもドラマチックであまりにも悲惨な二人の運命に驚愕し、悠人に声をかけることすらできなかった。

 ひとしきり衝動が収まった悠人は、目の前であたふたしているケイ子に、やっとの思いで声をかけた。

「ケイ子さん、このことはボクと貴方だけの秘密にしておいてください。誰にも言わないようにお願いします」

「そうやな。まあ誰も信じる人なんかおらんやろけどな・・・。そや、気分転換にどっか飲みにいこか。ウチにアンタをよろしくって書いてあったし・・・」

 悠人は黙って首を振った。

「ありがとう、気を遣ってくれて。でも今日は帰ります」

「そうか、気いつけて帰りや。ほんで淋しなったらいつでも店においで。なぐさめたるさかい」

「ありがとう」

 悠人は一言だけ礼を述べると、ふらっと立ち上がって店を出て行った。それからどんな寄り道をしたかわからなかったが、どこかの居酒屋でしこたま酒を浴びるようにして飲んだのだけは覚えている。もちろんそれは『レインボー』ではない。また『武元』でもない。

 見知った人に誰も会いたくなかった。ただ黙って飲んでいた。何度も吐いては幾度も飲んだ。そんな繰り返しだから、やがて意識も朦朧としてくる。

 気がつけば梅田の商店街をうろついていた。確かに足元はふらついている。酔っているのに酔った気がしない。悠人の頭の中では現実と幻想との世界が交互に訪れていた。そんな感じだった。

 そんな悠人にさらなる事件が待っていた。


♪ピーピロリロピー♪


 悠人のケータイが鳴る。時刻は明け方の五時頃。

「大原悠人さんですか?こちら泉北西警察ですが、大原重雄さんと菊枝さんはお宅のご両親ですか?あなた今どちらにおられますか?至急堺南病院までお越し願いたいのですが。ご両親が事故に遭われてこの病院で治療を受けておられます。詳しいことは来られてからお話しします」

 まさ寝耳に水だった。なんでこのタイミングで、なんで今頃、なんで二人そろってなんだと。ただでさえ、歪な精神状態の中で、追い打ちをかけるような事態が発生しても、今の悠人にまともに考える気力も能力もない。

 それでも行かねばならぬ。悠人はそろそろ動き出している始発の電車を乗り継いで、電話のあった病院へ向かった。


 病院では電話をくれた警官が悠人を待ち受けており、早速事情を聞くこととなる。

「昨晩、あなたがお帰りにならなかったため、お二人で晩の食事をとりに出かけられたんですが、その帰りに信号無視のダンプカーにはねられて救急車でこの病院に運ばれたというわけです。加害者の運転手はすでに逮捕されており、お二人をはねたことを認めています。やや酒が入っていたようで、重大な過失と言えますし、実刑は免れないでしょうね」

 そこへ医者がやってきて、二人の様態について話し出す。

「お二人とも非常に危険な状態です。頭を強打されているので、もし助かっても後遺症が残るでしょう。最善はつくしますが、正直なところ微妙です。他にご家族がおありなら、お呼びになった方がいいかもしれません。最悪はこのまま意識が回復しない可能性もあります」

 これはかなりの事態であるとすぐに推測できる。悠人は三人兄弟の長男であることは冒頭に述べてあるが、急ぎ二人の弟に連絡してみたが、二人とも東京へ出て行ってしまっており、すぐには来られないとのことだった。

 悠人は寝不足の目をこすりながら経過を待った。ただ待つしかなかった。会社には事情を話して休むこととした。

 やがてあわただしくなる病室。どうやら父親が先に息を引き取ったようだった。そしてその一時間後、母親もついには力尽きた。

 悠人は愛する人を失くした翌日に、今度は両親まで失うこととなったのである。



 激動の日から三日後、悠人は東京から駆けつけた弟らとともに、両親の葬儀を無事に終えていた。多くの親戚が駆けつけ、いっときの賑やかな装いを見せていた。急な出来事だったし、段取りや後始末などで、忙しさのあまり、余計なことを考える暇がなかったのが唯一の救いだったかもしれない。

 納骨が終わり、弟たちを東京へ送り出した悠人は、一人実家のリビングにいた。何気にテレビをつけていたが、なにやら記者会見が行われていた。

「このたび帝都石油と菱蔵商事が完全に業務を提携することを発表いたします」

 テレビでは帝都石油と菱蔵商事の社長が提携書にサインをしている場面が映像として流されていた。さらには、帝都石油の石村社長より、悠人が最も聞きたくなかったニュースが発表された。

「また、愚息石村義忠と菱蔵商事社長令嬢高田美也子さんとの婚約がめでたく成立しましたので報告させていただきます。なお、彼らは新しい生活拠点としてアメリカを選択し、昨日渡米いたしました。挙式も向こうで行う予定です」

 それを聞いた悠人は、居ても立ってもいられなくなり、思わず家を飛び出した。


 悠人は『レインボー』を目指して歩いた。マスターなら、胸の中でくすぶっているモヤモヤをいくらか楽にさせてくれるかもしれない。そう思い、マスターを頼って店に向かったが、扉は固く閉まっていた。まだ開店時間には早かったのである。結局マスターに会うことはかなわず、なすすべもなく、行く宛てもないまま梅田の繁華街をさまよう悠人。

 振り返れば、妻も娘も両親も愛する人も、ここひと月ばかりの間で、その全てを失っていた。元々悠人は仕事に生きる道を辿って来たわけではない。いくら仕事で評価されたところで、さほどうれしいとも思わない。それよりも、いつの間にか一人ぼっちになってしまっている自分を儚んだ。

「もう何もする気が起こらんな」

 悠人は会社に電話し、英哉を呼びつけた。

「すまんな。もうそこへは戻られんわ。今まで色々と世話になったな。あとは任せたで。オレはもう疲れた。辞表は専務あてに出しとくから」

「えっ、悠さん、何いうてまんねん。何があったんですか?今どこですか?すぐ行きますさかい、待っとってください」

「おまいさんはまだ色んなことができる。オレに構わんと、しっかりやりや」

 悠人はそう言って電話を切った。

 見上げると、すでに傾きかけている太陽だったが、そろそろ初夏の到来を告げるかのような激しい光を放っていた。その光は今の悠人には眩しすぎた。

「もう落ち着ける場所なんかないよな」

 力ない悠人の独り言を、誰が聞き取れただろうか。誰からも好かれる性格の悠人だったが、今回の出来事は自らを奮起させるには、あまりにもナイーブすぎたのかもしれない。

 電話を終えた悠人はトボトボと歩き始めた。行く宛てもわからぬままに・・・。


 全ては因果応報なのかもしれないが、もはや傷ついた悠人をこの現世につなぎとめることのできる大きなイカリは無いのだろう。

 唯一、美也子という存在を除いては・・・。




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