第14話 =玉の緒よ=

 来る日曜日。その日はやって来た。あらゆる準備は整っていた。

 いつも通りといっていいのか、万里と唯衣はすでに出かけている。もはやどこへ行ったのかも知らなかった。

 今日の悠人には心がけが必要だった。もちろん、店に行くわけではないので、緊張感も異る。さらに悠人の心持ちを慎重にしているのは、今日の待ち合わせ場所であった。

 HKホテルの三○三号室に午後三時―――。

 それが今日の待ち合わせ場所と時間である。神妙なこと極まりないが、最低限大人の対応は心がけたい。

 すでに正午は過ぎ、悠人もサクッと軽めのランチは済ませていた。されど、悠人も家では暇を持て余すとみえて、すでに出かける用意ができている。まずは梅田まで出かけて、時間までは百貨店でうろついていればいい。そんな考えだった。

 案の定、二時前には到着しており、予定通り百貨店巡りを楽しんだ。けれども、小脇に抱えたプレゼントが機敏な悠人の動きを制御しているため、人混みの中は歩きにくいことこの上なかった。行動範囲は制限されたが、思い通りの時間は過ごせたので、そろそろかと思い、本来の目的地へと足を進めた。

 約束の三時まであとわずか。心臓がバクバクと音を立てている。何かしらの予感が悠人を不安な気持ちにさせていた。

 やがてHKホテルのドアを抜け、フロントの奥にあるエスカレーターで三階まで昇った。

 このホテルは二階と八階に催事場があるため、気軽にフロアを行き来できる。セキュリティ上の課題はいくつかあるようだが、あちらこちらで監視カメラが目を光らせている。いちいち顔を見せる必要はないが、わざわざかいくぐる必要もない。そんなことを考えているうちに、あっというまに悠人は三○三号室の前に立っていた。

 ここから先は覚悟が必要。そう思って今日は来た。

 悠人はいつも孤独だった。家でも職場でも。永遠に続くと思っていた孤独の時間を埋めてくれたのが美月だった。

 わかっている。今の生活を変えることの重大さを。色んなハードルが悠人を待ち受けていることを。それを覚悟して家を出て来たつもりだった。それでも悠人は、またぞろ迷っていた。その一歩を踏み出すか否かを。

 わかっているのだ。わかっていてもあきらめきれない想いが胸の中でしめつけられていたから。引き返すことで後悔するならば、窮地に陥って後悔した方がマシだと思っていたから。

 もう何度目だろう、しがない恋の駆け引きに心が折れ続けたのは。そのたびに思い出すのが藤原定家が編纂した小倉百人一首の中で式子内親王が読んだとされる、この一首である。


『玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする』


 式子内親王とは平安末期の皇女で、新三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人である。後白河天皇の第三皇女であり新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもある。

 伝説では、式子内親王と藤原定家の恋の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという。そんな想いのこもった歌なのである。


 渾身の思いの中、悠人は秘めたる決意を込めながら三○三号室のドアをノックした。返事はなかったが、ドアに近づく足音が聞こえ、やがて開いたドアの隙間から美也子の笑顔が見えた。

 一瞬の緊張感と共に安心を覚えた。

「いらっしゃい。ようこそ」

 美也子も少なからず緊張している様が明らかに感じられた。

「入ってもええかな」

 遠慮がちに尋ねると、

「どうぞ」

 美也子もやや遠慮がちだった。

 今日の装いはベージュのワンピースに焦げ茶色のパンプスを履いており、さながらどこか良いところのお嬢さまといった雰囲気だった。

 招かれた部屋はリビングとベッドルームとに別れており、広めの窓はカーテンで閉ざされていた。

 互いの緊張感の高まりが、二人をイリーガルなムードにさせている。

「今日はどういった試行かな?お腹は空いてないけど、喉は乾いたかも」

 すると美也子はリビングのソファーへ座るよう促した。

「ビールでいい?」

「キミも飲むんやろ?」

「うん」

「でもその前に・・・」

 言うが早いか、悠人はソファーには座らずに美也子を抱き寄せた。そして素早く唇を奪うと、しばらく動かない時間を楽しんだ。

「会いたかった」

「ワタシも」

「今日は渡したい物があるんや」

 そう言って悠人は持ってきた包みを渡した。

「開けてもいい?」

「もちろん」

 美也子がゆっくりと包みを開いていくと、中から平べったい箱が出てきた。

「なにかな、ワクワクする」

 やがて箱の中からはA3サイズほどのスケッチブックに描かれた美也子の笑顔が描かれたポートレートが出てきた。

「すごい、これワタシね。とうとうできたのね。うれしいわ」

 美也子は再び悠人に抱きつき、猛烈にキスをした。

 美也子が飛び込んできた勢いもあったが、それを受け止めんがために、いつもよりも強く抱きしめることとなった。

「ねえ、このまま・・・」

 美也子は憂う視線を悠人に送り、抱擁の続きを強く懇願した。

 それを断る理由などない悠人は、そのままソファーの長椅子に押し倒し、上から覆いかぶさった。

 背中にあったワンピースのファスナーがちょうど悠人の手の届く位置にあり、それを一気に滑り下ろす。軽いワンピースは、摩擦を失った蝉の抜け殻のように、美也子の身体からはがれ落ち、露わになった瑞々しい肌と、恥じらいに染まる女の顔がさらけ出された。

 今度は美也子が悠人のポロシャツの胸のボタンを外し始める。悠人の今日の服装はいつも通りの長袖インナーに半袖のポロシャツだった。

 美也子は胸のボタンを外し終わると、悠人は自ら上半身を無防備にし、ベルトを緩めると、再び美也子に覆いかぶさった。

 慌てずにゆっくりと時間を使う。今の時間を思い残すことのないように。今の時間が全てであるかのように。

 店で確認していた美月の肌の匂い。ここでも同じように、その芳香を堪能した。そして唇の後に首すじ、さらには胸の谷間へと移動する。

 やがて悠人の唇が、谷を這い上がり、頂の最高峰へ達した頃、美也子は吐息混じりに懇願する。

「お願い。隣の部屋に連れてって」

 美也子の目線の先にはドアがあり、半分開いていた。そこはカーテンが締め切られているのか、うす暗く、スタンドライトなのだろうか、灯りが見える。

 悠人は我が獲物を誰にも渡さぬといわぬばかりに、すでに裸同然の美也子を抱え上げ、猛然とベッドルームへと連れ去って行く。

 ベッドはおあつらえ向きのダブルベッドだった。やや乱暴に美也子の身体を放り投げた悠人は、狼が獲物を前に舌なめずりをする様に、目の前の美しい裸体を見下ろしていた。

 美也子はムックリと起き上がると、緩められていた悠人のズボンのベルトを完全に解き放ち、奥に隠れていた入道を探し当てた。

 何を怒っているのか、入道はイキリ立つように天を見上げていた。それを諌めるように優しくそっと手を当てたが、それがまた逆鱗に触れたのか、勢いはさらに増す。仕方なく美也子は、口づけを捧げ、さらには祠の中へと招いていく。祠の中では、天女様が鎮座しており、熱くイキリ立つ入道を慰めていく。

 果たして入道の憤りは治まったのだろうか。さにあらず。益々熱を帯びてくる頃、悠人は美也子のゲレンデに先遣隊を派遣していた。目的地は南方の洞窟である。なめらかな草原を駆け抜けた先遣隊は二股に分かれる道を選択せずに、茂みへと降りていく。やがて発見される洞窟の入口にたどり着くと、慎重に侵入方法を探る。

 温かな壁はねっとりとした粘膜に覆われ、奥からは泉がある如く、熱いほとばしりを感じることができた。

 その報告を伝達された悠人は、すぐさま入道殿の撤退を命じた。そして自らは美也子に動かぬことを命じながら、辱めを受けさせた。

 美也子の洞窟はピクピクと痙攣しながら、それでも悠人の訪問を待ち受けていた。

 ますば唇で挨拶をする。美也子がそうしてくれたように。優しく、熱く、強引に、猛々しく。

 すると洞窟の中の泉はさらに衝動的に激しく溢れ出す。先程入道が世話になった祠からは、甲高い祝詞が聞こえてくる。

 その泉は、そこはかとなく甘く危険な香りがした。男なら、誰もが尋常でいられないだろうほどに。

 それを我慢できなくなったのは入道様であった。いつまでも悠人の思い通りにはさせぬとばかりに、いきり立つ自身を洞窟へと突き刺した。

「あんっ」

 衝撃的な侵入に雄叫びのような祝詞を唱える美也子。その祠を塞ぐように乱暴な口づけを行使する悠人。されど、入道様の侵攻は止まらない。

 されども、悠人は寸前のところで侵攻停止命令を下した。急ぎ過ぎることを危惧したのである。

 ひと息ついた悠人は、腕の中で仔羊のように震えている美也子を見つけた。やはり、ここまでの工程は少し強引すぎたようだ。

「ゴメンね、今からはゆっくり犯してあげるから」

「ワタシ、犯されてるの?」

「うん、無理やり犯されてるん。キミの意思やなく、ボクの憤りだけで。せやからキミに罪はないんやで」

「違うわ。誘ったのはワタシ。罪深いのはワタシの方よ」

 悠人はそんな美也子の口を塞いだ。そして悠人の首に回されていた腕を振り解き、そばにあったガウンの腰紐で両手を縛った。

「これで有無を言わさず、ボクに罪がある」

「あなたなら、こうしてもらえるのはワタシの願望よ。さあ。めちゃくちゃにして」

 そう言って美也子は目を瞑った。

 さて、悠人はどうしただろう。元来無茶なことはできないタイプであり、できる小芝居もここまでが限界だった。

 それでも縛られている裸の女を目前にして憤らない男はいまい。

 悠人はゆっくりと美也子の身体を弄び始める。首すじに痕跡も残した。二つの丘陵にも、なめらかなゲレンデにも、身体を裏返して、鍾乳洞の裏にある小高い丘にも、同じような痕跡を幾つも残した。まるで、ここが自分の縄張りであるかのように。

 悠人は再び、入道を祠の中へ押し込んだ。待ち受けていた天女は抗いもせず受け入れる。入道を祠に任せたまま、悠人は再び鍾乳洞の探検を始めた。先ほどよりもそこはかとなく甘く危険な香りがする。その香りに酔いしれるように、悠人は鍾乳洞の入口に鎮座するお地蔵様に執着した。クリクリとそしてピクピクと震えるお地蔵様は悠人のマシンガンのような衝撃を追随させた。悠人は意図せぬ衝動が果てる前にほうほうの体で逃げ出した入道を落ち着かせるためには、美也子の束縛を回避させる必要があった。

 やがて自由になった美也子は、反撃とばかりに、悠人を押し倒す。

「ここからはワタシのターンよ。ゆっくりと犯してあげるから覚悟しなさいよ」

 そのセリフはまるで女王様のようだった。言うが早いか美也子は悠人の顔にまたがった。悠人の目の前には、先ほど探検した鍾乳洞の入り口が押し迫っていた。後ろ向きにまたがった美也子の祠は自然と悠人の入道を襲う格好になる。

 さては先程は散々弄んでくれたな、こんどはそのお返しだとばかりに、美也子は入道の荷物まで包み込むように天女様の徘徊を命じている。

 その時の悠人は目の前に広がっている美しい光景に見惚れていた。艶々と光る洞窟の入り口にはお地蔵様がいまだ微かに震えていた。それを我が物にするかの如く襲い掛かる。悠人が刺激を与えをるたびに、甲高い祝詞が響き渡り、男の征服欲をかき立てた。やがて悠人は入道を脱出せることに成功させ、美也子の裏のゲレンデまでも侵略しようとしていた。四つ這いで二手に分かれている沿道を少し開かせ、背後から二つの丘陵を攻めた。祠をこちらに向かせて、強引に天女様のお出ましを願ったりもした。そのうち膝から崩れ落ちるように抗いをあきらめた美也子は、悠人が油断した隙に包囲網から抜け出した。

 すぐさま反撃に出た美也子は、馬乗りの状態で入道を拉致した。すでに憤慨している入道は、拉致されたにもかかわらず、洞窟の中で暴れていた。美也子もそれを促すかのように、やはり暴れていたのである。

 ここで果てるわけにいかない悠人は、体制を立て直し、獣のような動きで身体を入れ替えた。再び美也子の両腕をとらえ、やや乱暴に左側の丘陵を攻め立て、大砲の発射準備を整えた。狙いは定まった。その時、悠人はあることに気づいた。進撃を止め、隊列を整えると、

「急がんでもええんやんな」

 といい、休戦を申し出たのである。気づいたこと、それは入道様が無防備だったことである。さすがに大人の対応は必要に思われたし、今の悠人では連戦に臨めるかどうかも微妙でもあった。

「のど乾いたな」

「ビール取ってきたげる」

 美也子はリビングの冷蔵庫の上に用意しかけていたビールを缶ごと持ってきた。

「ワタシも一口だけちょうだい」

 悠人はグビッと一口飲むと、そのまま美也子に缶を渡した。

「どきどきしたわ。でもよかったのよ、そのままでも」

 悠人はその言葉に翻弄されてしまうが、再び抱き寄せると、

「もうそんなに若くないからな」

「うふふ。今日は少し遅くなってもいいの?二人でゆっくり過ごしたいし」

「ええで。想い出を作る約束やったしな」

 ひと通りのお遊びは済ませたので、ここからはムードが一変する。二人は特にエロチシズムを発散することなく、ただひたすら抱き合い、唇を重ね合った。交わす言葉も少なかった。

 しばらくして火照った身体がじんわりと汗ばんでいるのを理解すると、悠人は美也子をシャワーに誘った。バスルームはベッドルームの奥にあった。二人は手を取り合って中に入る。あらかじめ美也子が用意していたのだろう。湯船にはたっぷりと湯が満たされていた。悠人はシャワーのコックをひねり、少しぬるめの飛沫を出した。汗で光る美也子の肌は艶かしく濡れ、ぬるめの飛沫は火照る身体を冷ましていく。美也子は悠人を椅子に座らせ、後ろからゆっくりと泡を立てていた。摩擦係数が下がれば下がるほど、粘膜感度は上がり、やがては再び妖しい時間を過ごすこととなる。

 ここでも悠人は引き金を引かなかった。それを惜しむかのように引き伸ばした。

 美也子も悠人の意思を察したのか、無理に突き詰めなかった。そもそも汗を流しに来たのであって、ここで熱くなっては本末転倒である。

 バスルームでの戯れに満足した悠人は、再びベッドルームでのふれあいを求めた。いや、どちらかといえば誘ったのは美也子だろう。悠人の手を引いて、先に悠人を迎え入れる。


 そして第三楽章が奏でられる頃、二人はすでにベッドの上にいた。二人の身体は乾ききっていなかったが、そんなことは問題ではなかった。またぞろ熱い抱擁が二人の身体を灼熱の砂のように熱く焦がしていくからである。

 仰向けにくつろぐ悠人の目前で、平伏すかのような姿勢で、入道様への奉仕を施す美也子の姿があった。その首は、がっしりと悠人の両腕で確保されていた。やがて動きが激しくなると、少し苦しそうな嗚咽と共に急激な吸引力による猛追が見られた。

 ここでも悠人は抜群のタイミングで逃走できた。美也子の息はぜいぜいと苦しそうだったが、その目は何かを嘆願するような目だった。

「ゴメンネ、苦しかった?」

 自分で責めておいて、そのセリフはないだろうとも思うのだが、

「大丈夫。嫌いじゃないかも」

 美也子はさらに悠人の入道を追いかけようとする。

 そんな美也子を捕まえた悠人は、

「そろそろ我慢の限界かな」

 言うが早いか、覆いかぶさるように捕まえた。両腕を押さえ、洞窟に通じる尾根を開放させると、身体を滑り込ませて狙いを定めた。高射砲の安全弁はすでに解き放たれている。その瞬間、悠人の目は狼と化した。猛り狂わんばかりの激しい攻撃と咆哮。演奏にはそれに合わせるように奏でられる天女のローレライ。二つの丘陵を破壊せんばかりに力が入る掌、天女を略奪せんばかりにねじ込まれる触唇。二人はまさに快楽の頂点を目指していた。

 しかし、演奏には必ず終わりがやってくる。満を辞した悠人の入道はすでに我を忘れており、無防備であることすら気づいていなかったのだが、最終的には、

「きて」

 美也子の一言が幕を下ろす合図となった。

 戦いは終わった・・・。双方が勝利の余韻に浸っている。それもあながち間違いではあるまい。

「ありがと」

 勝ったにもかかわらず、先に礼を述べたのは悠人であった。

「ゴメンネ」

 こちらも勝利したにもかかわらず、謝辞を述べるのは美也子だ。

 悠人は「ゴメンネ」の意味を考えたが、深くは追求しないことにした。聞くべきことではないと思った・・・。


 心地よい気だるさと脱力感が二人を襲う。ある種の達成感も感じていたか。

 悠人は美也子を抱き寄せて手枕で話し始める。

「今何時だろう」

 遮光カーテンに遮られているこの部屋には外光が届かないため、外の様子がわからなかった。ベッドの脇にある時計を見ると、午後の七時を回ったところであった。この部屋に来てから、すでに四時間を経過していた。

「お腹空かない?焼肉でもつまみに行かへん?」

 すると美也子は駄々をこねるように、

「大丈夫。もうちょっとこのままでいたい」

 そう言うと悠人の胸にむしゃぶりつくように顔を埋めてきた。

 悠人はその顔を引き寄せて唇を合わせると、

「餓死しても知らないよ」

 と、冗談混じりに言ったのだが、美也子には聞こえなかったのか、そのまま悠人の入道を弄りはじめた。

 悠人の入道は、美也子の熱心な介抱により奇跡的な復活を見せた。悠人自身もまだ自分にそんな能力があるとは思わなかった。これも新しい恋のなせる技といえようか。奇跡的な復活を遂げた入道は、再び洞窟探検を始める。ゆっくりと、ゆっくりと。時間が経つのを惜しむかのように。美也子の口数少なく、二人は上に下に、前に後ろに身体を入れ替えながら、濃密な時間を楽しんだ。

 やがて二曲目の演奏が終わろうとする時、今度は冷静だった悠人は暴発の前に退避する体制をとった。しかし、美也子がそれを許さなかった。悠人の身体をガッチリとつかんだまま離さない。

「このままでいいの」

 そう言って、虚ろな目のままその時を待った。

 観念した悠人はありったけの猛りを洞窟の中に弾け飛ばすと、またぞろなんとも言えない解放感と達成感に包まれた。

「これでいいのよ。こうして欲しかったし」

 悠人は愛おしい、ただ愛おしいと感じる美也子を抱きしめた。

 お互いに気持ちを分かち合った二人は、ようやく普段の二人に戻った。

「さすがにお腹空いたよね」

「うん。でもね、ルームサービス頼んであるから。ここのカツサンド、すごい美味しいんだって。だからこのホテルを選んだんよ」

 美也子はサイドテーブルにある電話でルームサービスをオーダーした。三十分ほどかかるらしい。

「その間にシャワー浴びよか」

 悠人は美也子を促した。

「うん」

 素直に返事をして、先に立って悠人の手を引いた。火照った身体に熱いシャワー。今の二人には、ただのぬるま湯だったかもしれないが、汗を流すには充分だった。


 シャワーを浴びた二人は、ガウンを羽織り、リビングのソファーでビールを飲みながら軽食を待った。

 やがてベルが鳴り、ボーイがサンドイッチを運んできた。確かに立派なサンドイッチだ。どこかの有名なシェフが腕を振るっているのだろう。

「美味しいね。友達に教わってん。やっぱり肉も特別なんかなあ」

 無邪気な様子はいつものままだった。美味しそうにサンドイッチを頬張る美也子もまた、悠人にはたまらなく愛おしかった。

 サンドイッチを頬張りながら、次のお出かけ先やデートのプランなどの話をした。いつも通りの会話だった。

 ふと会話が途切れた時、美也子は寂しそうに時計を見ながら、悠人に問いかけた。

「今日は何時までいてくれるの?」

「ん?最終で帰れたらええかな。どしたん?」

「あと二時間くらい?」

「そやな」

「なら、その二時間ずっとこうしてて」

 美也子は悠人の腕の中に忍び込むように擦り寄った。

「キミは帰らんでええの?」

「うん。明日の一番の新幹線で東京行くの。ちょっと大きいスポンサーがついて。だから今日はここでお泊まり。ホテル代もスポンサー持ちやねんで」

「そら豪勢な話やな。ええ仕事しといでな」

「・・・うん」

 なぜかそれ以降、美也子はその話に触れなくなった。

 悠人が何かを話しかけても、長くは答えず、ずっと身体を密着させたままでいた。悠人もおしゃべりを控えて、肌の感触と匂いを確かめ合うような抱擁だけを楽しんだ。長い長い口づけで互いの匂いをマーキングするかのように。


 夜もふける十一時。そろそろ悠人の最終の時間が近づいていた。

「今日はもう帰る時間ね」

 最終に気づいたのは美也子だった。

「そやな。明日早いんやったら、早よ寝なあかんな。今日は帰るわ。次はいつ会えるやろ」

「また連絡する」

 悠人は次の約束を取り交わすと、帰り支度を始めた。美也子はガウンを羽織っただけの格好で悠人を送り出す。

 ドアの手前で別れの抱擁。互いにきつく抱きしめ合い、唇が重ねられる。

「愛してる」

 唇が離れた際、美也子の口から漏れた言葉だった。

「ボクも愛してる」

 悠人も答えた。それが二人が交わした最初の愛の祝詞だった。

 やがて美也子は諦めるように腕の力を抜いた。

「ありがとう」

 美也子の言葉に少し違和感を覚えたが、すぐに普段の顔を取り戻し、

「ボクの方こそありがとう。おかげでホントの自分を取り戻せたよ」

 ドアを開ける前に最後の口づけをして、美也子はようやく悠人の腕を離した。

 名残惜しいのは二人とも同じ気持ちだった。部屋を出て、なおもしばらく手を振る美也子。悠人は「またね」と言って背を向けた。『ピンクキャロット』でいつもそうしていたように。


 実際、悠人は本格的に最終電車に乗って帰路についた。あと五分も遅れたら、帰れなかったに違いない。

 家に着くといつもの通り万里と唯衣はテレビの前ではしゃいでおり、悠人が帰ってきても声すらかからなかった。自分の部屋に下がり、部屋着に着替えてから洗面所に行くと、そこには万里がいた。

「あら、帰ってたんや。明日早いからもう寝るわ」

 そう言って洗面所を出て行こうとする万里を呼び止め、

「少し話がしたい。いつやったら時間取れる?」

「なんやあらたまって。離婚やったらいつでもしたげるで。財産分与だけちゃんとしてな」

 悠人はほとほと驚いた。まさかいきなりそんな話になるとは思わなかったからである。

「ちょっと待て。何でいきなりそんな話になるねん」

「そやかて、真面目な顔してそんなん言われたら普通はそう思うやろ?せやけど今日はもう寝るさかい、土曜日な。唯衣のおらんとこで話しよか」

 それだけ言ってしまうと、そそくさと寝室へこもってしまった。

 ここ数年以上、悠人は悠人で自分の部屋に篭りっきりで、寝室は事実上、万里の部屋になっていた。

 洗面所に取り残された悠人に唯衣が近寄ってきて、

「おっちゃん邪魔やから、そこのいてくれる?」

 今の万里の話を聞いていたのだろうか、いつも以上にツンケンした口調だ。

「ちゃんとママの機嫌とっとかな、しらんで」

 いつも通りのつっけんどんな唯衣の態度、悠人にとっては慣れたものだった。

 唯衣は悠人の反応を見るまでもなく、自分の部屋へ下がった。あとは、静寂だけが残る空間が悠人の決意を固めていた。




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