第11話 =最後の桃色人参=
そしてその週の水曜日が訪れる。
悠人は朝からソワソワと身支度をしていた。
美月が挨拶しなければならない客への接待は一週間延期された。今日はきっとその客も来るだろう。しかしそれは悠人にとっても隠れ蓑になるはずだった。指名できる客が複数になるのだから。
しかし悠人の思惑ははずれたのだ。とうとうその客は来なかったのである。
結果的に美月の指名客は悠人だけとなった。
「もう次がラスト。でもね、今日は例のお爺さん来てないねん。もしかしたら来週来るつもりやろか」
誰でも自分が愛でた嬢の見送りはしたいものである。悠人もそうだったし、事実、ミクも見送った。
この日もいつも通り指名嬢とヘルプ嬢が交互にやってくる。一応表向きは指名したことになってはいないけれど。そして何度目かに来たヘルプの嬢だった。
いつものヘルプ嬢なら悠人のことをわかっていた。しかし、この日は今まで見たことのない嬢がヘルプに来た。
直近のホームページを細かにチェックしていなかったので、新人さんでも入ったのだろうと思っていた。ところが違っていたのである。
「こんばんわ」
その嬢はにこやかな挨拶とともに悠人の隣に座った。
「初めまして、ミスズです」
悠人はその名前を聞いて驚いた。まさかヒデやんから聞いていた嬢と出くわすとは思っていなかったからである。
「お兄さん、どっかで見たことあるんちゃう。初めてやない気がする」
そんなことはないはずだ。悠人の記憶では、会ったことはないと確信しているが・・・、
「お兄さんずうっと前にも来てへんかった?」
彼女の記憶が確信に変わるまでは、シラを切り通す方が得策である。
「いや、まだ通い始めて数ヶ月ってとこかな」
幸いにして店側にも配慮があり、悠人が美月を指名しているコールは流れていない。しかしそのこともミスズには不思議だった。
「やっぱり見たことあるような気がすんねんけどなあ」
「なんかの勘違いでしょう。ボクは存じ上げませんよ」
本当に知らないのだからさもあらん。確かにミスズのいうずうっと前というのはミクを目当てに来ていた頃のことだろう。しかし、それでも悠人の記憶にはなかった。
そんなことを考えているときにハッとした。一番最初にココに来た時は英哉と一緒だったこと。もし、自分のことを見かけたとしたならその時しかないと思ったのだが、なんとも嬢たちの記憶力の恐ろしいことよ。
「お兄さんフリーで入ったん?何やったらサービスするで」
これは間違いなく指名のお誘いである。万が一そんなことになれば、先日英哉と話していた何とか兄弟が成り立ってしまうことになりかねない。想像しただけで身震いを起こした悠人は話題を変えることにした。
「おねいさんは長いんですか?このお店。ボクは水曜日にしか来ないのでよくわからないのですが」
一旦話題が変わったのでミスズも話を乗り換えた。
「もう五年ぐらいかな。この店で三番目の古株になってもた」
「一番は誰ですか?」
「一番は志乃さんやな。二番目がケイ子さんかな」
「長く勤められるってすごいですよ」
「昔はな、もっと賑やかやった。ミコちゃんとかサエちゃんとかミクちゃんとか・・・」
ミスズがミクを思い出した時、彼女の中の古い記憶が蘇った。
「そや、思い出した。お兄さん、ヒデさんの知り合いや。ヒデさんに言われてたから思い出してん。そやそや、びっくりや」
いやいや驚いたのは悠人の方である。突然の急転直下に戸惑いを隠せなかった悠人は、明らかに動揺した。
「ウチもあん時は結構な指名があったからヘルプには回ってなかったけど、何回か横を通るたびにチェックしてたんよ。ヒデさんがあんまりようようヨロシクって言うもんやから」
やっぱり。悠人がそう思ったときにはもう遅かった。当時から人気の嬢は指名客回りがメインであり、フリー客への顔見せ以外に他の嬢のヘルプに行くことなどなかったので、ミクと同じ日に出勤していても、会うことがなかったのは仕方あるまい。
「ほんで、あれからミクちゃんとこへはよう来てはったんかいな?」
堪忍した悠人は正直に話し始めた。
「まいったな。うん、少し通ったかな。でもしばらくして彼女、辞めましたから」
「そやな、ほんで?今日は誰目当てで来はったん?」
まだ美月の客であるということはバレていないようだった。
「ミスズさん、お願いがあるんですが」
「なに?」
「ヒデやん、ときどき来るんでしょ?」
「うん、月に一、二回かな」
「そんときにボクが来てたことは内緒にしてほしいんです」
「なんでなん?来てたってええやん。内緒にしとく理由があるん」
さて、悠人は再び窮地におちいった。しかし、このままのらりくらりとかわすには無理がありそうだ。それよりも真実を話して協力してもらう方がいいかもしれない。そう判断した悠人は、思い切って踏ん切りをつけた。
そのときだった。ミスズが他のシートに移動するアナウンスが流れたのは。
「ちょっと行ってくるわ。話はまだ終わってないで」
そう言い残してミスズは去っていった。
代わりに美月が飛んできた。
「あの人知ってるん?ワタシは初めてやねんけど」
「ああ、どうも昔からおる人みたいや。ボクが友達に連れてきてもろた時のことを覚えてたみたい。すごいな」
「ほんで、どんな話したん」
「うーん、ボクがここへ来てること、その友達には内緒にしてほしいって頼んだんやけど」
「ほんで?どうなったん?」
「そこで終わった。でもあの人にはホンマのこと言わななあかんやろなと思う。ボクの友達、まだときどき来てるみたいやから」
「ワタシのこと、そのお友達に知られたらあかん?」
「今はまだ早いとおもう。味方にはなってくれると思うけど、話すタイミングはあるかな」
悠人の言葉を聞いて美月はどう思ったのか。黙って悠人の胸に顔を埋めた。
悠人もそれに応えるように美月を抱きしめる。美月の身体を抱きしめながら、何かを思い出したように、
「百人一首って知ってる?」
突拍子もなく尋ねてみた。
「こないだいうてたな。小学校の先生の話やったっけ?ワタシはあんまりよう知らんけど」
悠人はこの百人一首が好きなのは以前にも話したが、それを題材に幾つかの仕事を手がけたこともあった。
「昔の人がな、狂おしいほど恋焦がれた気持ちで作らはった歌があるねん。今のボクはそんな心境や」
「どんなん?」
「そやな、浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しきってとこかな」
「どういう意味?」
「不忍の恋なんてもう無理だ。どうしてこんなにあなたが恋しいのだろうっていう歌らしい」
美月は黙って悠人の目を見つめていた。
「ええねん。ボクのことやから」
悠人は美月の表情から心配そうな目線を見つけると、自らの手で美月の腰を引き寄せて唇を求めた。
美月は無言のまま、それに応えるように悠人の求めを受け入れる。そして、そのシルエットがしばらくのあいだ動かなかったのだが、残念ながらその時間は悠人の思い通りはならなかった。
美月がヘルプになった今、今宵のメインは若い嬢に集中していた。中には美月のヘルプを楽しみにしている客もあった。
美月がいない間は、当然のことながら悠人のシートには別の嬢が来る。そのタイミングでやってきたのはミスズであった。普通は順繰りに来るはずなのに、続けてヘルプに来るなんて、ベテランの権限でも使ったとみえる。ミスズは悠人の隣に座るなり、直ぐに先ほどの続きを話し出す。
「なあ、なんで内緒なん?」
悠人はすでに覚悟ができていた。
「実はね。ミクちゃんに通ってたのも内緒やったんですよ。でも、バレてたんですね。彼女が卒業したあとはしばらくブランクがあったんです。ほんで半年前に久しぶりに立ち寄ったら、ある嬢に惚れてしまいましてね。それを知られたくないというわけです」
「別にええんちゃうん」
「ところがね、本気になってしもたんですよ。それをね、今はまだ知られたくないんで。ちゃんと時期が来たら話すつもりなんですけどね、今はまだ・・・」
「で?それって誰なん」
「美月さんなんです」
ミスズは一瞬キョトンとしたが、すぐに理解できたようで、
「なるほど。そやからお兄さんはココのシートで指名のアナウンスがないねんな、なるほどやな。えっ?っていうことは、美月ちゃんも承知っていうこと?」
「はい」
さすがのミスズもそのことには驚いたらしく、
「せやけどお兄さん、もしかして奥さんいる?」
「せやからまだ内緒って言うこと。ボクかて彼女が不幸になることなんか望んでないし、ややこしいことに巻き込むつもりもない。せやからまだヒデやんにも知らせたくないっていうわけ。お願いやからわかってほしい」
するとミスズは、真剣な眼差しで、
「絶対にあの子を不幸にさせんて自信ある?それやったら黙っててあげる」
「せやな、自信はともかく、ええ大人としての弁えは心得なアカンとおもてる。ボクも真剣やねん」
ミスズは悠人の眼差しを見据えて、
「ウチもこの仕事長いさかい、人を見る目は自信あるねん。ええよ、お兄さんええ人や。ミクちゃんもちゃんと見送ってくれたんやろ?あの子もちゃんとしたってな」
「はい」
悠人は素直に頷いた。ちょうどそのタイミングが今宵のミスズのタイムリミットだったようだ。
そしてミスズと入れ替わるように美月が戻ってくる。
「なんかあった?ミスズさん、すれ違いざまによかったねっていわはったけど」
「彼女を大事にしてあげやって言われたから、もちろんですよって答えただけ」
美月は無言のまま、悠人の唇を求めた。悠人もそれに応えた。やがて二人の耳には店内に流れていたBGMがフェードアウトしていく。更けていく夜のしじまとともに。
美月の『ピンクキャロット』への出勤は残すところあと一日。
美月は来なくてもいいと悠人には言っているが、わかっていて行かないわけにはいかぬ。ましてや二人の間柄はまだ不安定極まりない状態でもある。
美月が店を辞めてからのデートの約束は取り付けであるが、具体な日時が決まっているわけでもない。
今はただ、少しでも多く美月と一緒にいられる時間が欲しかった。
そして来たる美月最後の日。
悠人は仕事が終わると一旦帰宅した。そしてクルマを繰り出して夜の街へ向かった。万里には仕事だと称して。
悠人が携わっている業界では、夜通しの作業もないわけではない。近年、その数は減ってきたが、悠人がまだ駆け出しの頃は月に一度は事務所に寝泊まりしていた。今は労基がうるさいので、なるべく上の者が注意しているが、締め切りがある仕事にはやむを得ないこともある。
万里もそんな姿を見てきたので、特に何の疑いもなく悠人を送り出す。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
一応言葉だけは投げかけるようだが、万里の視線はテレビから離れていない。悠人も「ああ」と呟いただけでやり取りを完了させた。
実際、悠人は一旦会社に立ち寄った。明日の締め切りにギリギリの班があることも知っていた。そんな彼らに差し入れしてやることを思いついたというわけである。両手にサンドイッチを抱えて部屋に入ると、みんな作業に没頭していた。
「どこまで出来た?」
悠人は声をかけて、その班の手がけているポスター案をのぞいてみた。木下班の仕事である。なかなか良い仕上がりのようだ。あとはコピーの配置のみとなっているようだが、なにやら雲行きがあやしい。
チーフの木下は家庭の事情で急きょ帰宅してしまっていた。代わって正木と小泉が主となって奮闘しているが、今回に限って小泉との息が合わない。悠人が入ってきた時、ちょうどその論争が起きている最中だった。
「いったいどないしたんや」
どうやらコピーの配置についてすったもんだしているらしい。中央に置くのか、縦に配置するのか。
悠人もしばらく考えていたが、当初案の中央でもかまわないと思った。しかし、小泉は納得がいかないらしい。
そこで悠人は秋山や瑞穂の意見も聞いてみたが、二人とも特に決め手はなく、主張できるものはなかった。
その時である。デスクの電話が鳴り響いた。瑞穂が受話器をとると相手は木下だった。みんなを気遣っての電話である。しかし、瑞穂の受け答えはオドオドしていた。正木と小泉が合戦の最中で、すぐ隣に悠人までいる。なんて答えていいのやらわからぬまま、口をパクパクさせていた。
その様子を見ていた小泉があることを思いつく。
「そのコピー、吹き出しにしたらどうやろ。それやったら中央でも変化持たせられるし、強調できるんちゃう」
「そっか、そんでええんや。なんで気がつかへんかったんやろ」
これで正木小泉合戦は終了である。瑞穂もホッとしたようだったが、受話器を握ったまま硬直していた。
悠人が受話器を受け取って、
「大丈夫。心配ない。それより家族の用事をちゃんと済ませて下さい。じゃ、また明日」
それだけ言って受話器を置いた。
「さあ、ひと段落ついたんやから、ちょっとお腹に入れた方が安心するんやないか?」
悠人は瑞穂にサンドイッチを配るよう指示した。みんなもホッとしたのだろう。笑顔でサンドイッチをぱくついていた。
そんなみんなの顔を見て安心したのは悠人である。これで明日は良い納品ができるだろう。そう思った。
「ほんなら、あとの戸締りだけちゃんとしてな」
「えっ、悠人部長、最後までいてくれはらへんのですか?」
素っ頓狂な声をあげたのは瑞穂である。
「こっから先は正木と小泉の仕事。オレの仕事はここまで。明日のフィニッシュを楽しみにしてるで」
悠人はそれだけ言うと、みんなにクルッと背を向けてスッと部屋を出た。
「なんや、最後まで見てくれると思ったのに」
「あとはオレらでせえということや。さあ、サッサと済ませてまうで」
正木は仕上がりの先が見えたことで、意気揚々である。それに対して瑞穂は、悠人と仕事ができる時間が失われた感じでガッカリだった。
「ほらほら、ぼんやりしてんと、プリントの用意してや。数パターン出すで」
「はーい」
瑞穂も諦めたように次の作業に移った。
会社を出た悠人は、クルマをさらに街中へ走らせる。この時間帯だと会社から十分少々で目的地の近くに到着する。
しかし慌てることはない。まだ九時を少し回ったところだ。昔と違って繁華街の駐車場は意外と空いている。飲酒運転の取り締まりが厳しくなって以降、パークして飲みに行く輩は激減している。
クルマをコインパーキングに停めた悠人は、自身の腹ごしらえをすべく繁華街へ向かった。
繁華街とはいえ、ビジネスビルもあるため、遅くまでやっている普通の飲食店もたくさんある。
今宵、悠人が選んだのは大衆食堂だった。ここなら酒を飲まなくても憚らないし、テレビだってある。しかも、ちょうど正面の特等席が空いているではないか。
その特等席に陣取った悠人は、数あるメニューの中から焼き鯖定食をチョイスした。あまりにおいが強くなく、時間をかけて食べられるもの。そんな時に焼き鯖はもってこいである。
テレビではお笑いのバラエティ番組が流れていた。大阪では無難なチョイスなのだろうが、普段からテレビを見ない悠人にはあまり関心のない番組だった。
それでも運ばれてきた焼き鯖定食を突きながらテレビと睨めっこをしていた。
やがてお笑い番組が終わるとニュースが流れ、最近の世界情勢や間もなく行われる選挙の話題などが報道された。暮らしの話題では、近年の出生率と若者の結婚離れ、さらには離婚率の上昇などが報じられた。
悠人にとっては切実な課題でもあるため、張り付くようにテレビの画面を見つめていた。
その様子を見ていた隣の席のおばさんが、何を思ったか悠人に声をかけてきた。
「あんた、女難の相がでてるな。わてはこの近くで占い師やってんねんけどな、あんたが今、テレビの画面に首ったけやったんは、その兆しやで。気いつけや」
悠人は少し薄気味悪いと思った。しかし、当たらずとも遠からずか。万里との関係は果てしなく疎遠な間柄になりつつある。離婚するとなると色々とこじれそうなのも事実だろう。
「なんやったら一回おいで。ほら」
そう言ってその自称占い師は一枚の名刺を悠人のテーブルの上に置いた。
悠人も要らぬとは言えぬ性分である。社交辞令的に礼を述べると、無造作に上着のポケットに仕舞い込んだ。
「お先に」
謎の自称占い師は悠人に軽く会釈をして出て行こうとしたが、帰り際に捨て台詞を残す。
「きっとアンタとはまた会えると思う。そんな気がするな」
ニタっと笑った表情が悠人の脳裏に強く印象づけられた。
悠人は、多少わだかまりを感じながらも、自称占い師の存在そのものを振り払うかのように再び焼き鯖にアタックを試みる。
すでにテレビの画面は、いつの間にか時事ニュースからスポーツの話題に変わっていた。
焼き鯖定食を平らげ、食後の茶をすすっている頃、スポーツニュースも終わり、夜のドキュメント番組に変わっていた。しばらくその番組が映し出されていたが、店主の好みではなかったのだろう。別のチャンネルに変えられた。
時刻は夜の十時を少し過ぎたところ。悠人の予定では十一時ごろに入店し、美月のラストを見送るつもりだった。
さて、あと一時間、どうやって過ごそうかと思っていた。あいにく食堂にはコーヒーなど洒落たものはなく、せいぜいビールと日本酒があるばかり。さすがに食べ終わった盆を目の前にして、一時間を過ごすことは出来ないと思った。
仕方なく食堂を出た悠人は、近くのコンビニに立ち寄った。特にあてがあったわけではない。欲しいものがあったわけでもない。
所在なく店内をウロウロしていると、悠人の視界に本棚が映った。そしてその中の一冊の本に目が釘付けとなる。その本はよくある大衆週刊誌であったが、見出しにあるサブタイトルが、悠人の視線を釘付けにしたのである。それは何か。
『男と女?熟年離婚とその後の生活』
ここでいう熟年が何歳のことを指すのか知らないが、五十といえば明らかに中年を超えている。正確には壮年と言うのだろうか。人生において晩年の道程にある事には違いない。
気がつけば、悠人は何気にその雑誌を手にしていた。はっきり言えば気になるのである。幸いにして封のある冊子ではなかったため、容易にその記事を読むことができた。
記事の内容を要約すると、歳をとってからの離婚で苦労するのはもっぱら男であり、女は夫のしがらみから解放されてイキイキとした生活を送れる。引いては女が長生きし、男が早くにボケるといった内容であった。
まさにそうであろう。それほどまでに結婚という契約で成り立っている男女間は歳を負うごとに女性に精神的負担がかかるものなのか、男は女を必要としているのかを表す関係なのだと思った。
悠人は、まさに今、その関係を断ち切ろうとしているのである。何のために?美月のために?いや違う。今の生活に疲れているからに違いなかった。その束の間にある美月という楽園を楽しんでいるだけなのだと自分に言い聞かせた。
やや衝撃的な記事のあとには、大人向けの漫画やグラビアなどを眺めていたが、さほど悠人の関心を引くものはなかった。他の冊子も手に取ってみたが、どれも悠人には興味のない話ばかり。唯一関心のある野球については、時期がストーブリーグの季節。ざっと大まかな情報だけ流し見るだけで満足した。
ふと店内の時計を見ると十時半になろうとしていた。予定よりも少し早いが、ここで無駄な時間を過ごすのはもうたくさん。そう思った悠人はコンビニを後にして、最後の美月に会いに行く事にした。
いつもの見慣れたボーイがいつもの慣れたルーチンとともに悠人を今宵も店の奥へと案内する。
月末の水曜日の深夜帯である。すでに店内の客は数名ほどになっていた。
「あら、タロさん。無理して来なくてもいいって言ってたのに。でもありがとう。そうか、タロさんやったら来いひんわけないやんな。義理堅い人やから」
美月は悠人の隣に座ると、そっとその肩に寄り添った。
「もうここで会うのも最後やね。でもタロさんはまた来るんやろ?」
なんとも言えない心配そうな表情の美月だったが、悠人は最も簡単にその思惑を払拭する。
「キミがおらへんこの店に、ボクがなんの用があって来るんやろ」
「でも・・・」
と言いかけてやめた美月。その後の言葉が出て来なかった。
「ボクがこの店に来たのは淋しかったから。これからはキミがボクの事を淋しがり屋にせなんだら来ることないんやで」
「うふふ」
美月は言葉少なに悠人の肩に頬を寄せた。
悠人はその頬を引き寄せ、軽くキスをする。すると今度は美月が悠人の唇を引き寄せて自らの唇に重ねる。やがてシルエットが重なるとき、長く時間が止まった。
実際、今夜の美月は呼ばれる事なく、ずっと悠人の隣にいた。店側の配慮か?とも思ったが違っていた。周りを見渡すと、すでに客は悠人以外に一人しかなく、その客は別の嬢のお得意さんだった。つまりは、ヘルプとしての美月はすでに用済みなのである。
深夜の零時を回ると、店は新規の客を入れない。特に今夜のように客足の少ないときはなおさらである。そんな時間に団体で来る客などほとんどなく、大いに酔いの回ったややこしい輩がポツンと現れても、大した稼ぎになるわけでなし、かえってトラブルのリスクが高くなる。嬢の方も慣れたもので、お得意さんがいない場合は、電車のあるうちに帰ってしまう子もいるくらいだ。
そうこうしているうちにもう一人の客も帰ってしまった。後に残るは悠人と美月だけである。そこで店長も粋な計らいを見せた。
いつもの店内では、比較的テンポの早い音楽が流れているが、このときばかりと一転ムーディな曲に変えたのである。
見つめ合う悠人と美月。まさに二人だけの雰囲気を味わっていたとき、悠人の隣に座った者がいた。ケイ子である。
「とうとう、こないなことになってしもたか。こないなことになるんやないかと心配してたんやけどな」
ケイ子は厳しい表情で言った。
「どうしてですか?」
「あんまりたくさん例があるわけやないけど、ハッピーエンドになる話をあんまり聞かんもんやさかいな」
悠人と美月は互いに目を合わせた。
「それって、ボクみたいな感じでもですか?」
「せやな。アンタは例外かもな。せやけどな、アンタら二人に待ってるのは、きっと波瀾万丈やで。わかってる?」
ケイ子も嫌味で言ってるのではない。そんなことは充分にわかっている。悠人も彼女がそんな女ではないことは重々承知している。その言葉に悠人よりも早く反応したのは美月だった。
「ねえさん、ワタシもわかってます。でも、ワタシらには今しかないんです」
悠人はそのあとのフォローをしようと思ったが、適切な言葉が見つからなかった。美月に恋焦がれている自分がわかりすぎるほどわかっているから。
「ありがとう。ケイ子さんにはずっと世話になりっぱなしやな。でも、それも今日でおしまい。彼女のことは大丈夫。ボクにとっても最後の恋やから、後悔せんように頑張ります」
店に通っている間、二人の関係は遠距離恋愛のようなものだった。いつもそばにいるわけでなく、もどかしいと思うこともままあった。
美月が店を辞めたからといって、すぐさまそれが近距離恋愛に変わるわけではない。そうなるためには、いくつかの試練を乗り越えなければならない。特に悠人には高いハードルが目の前にそびえていた。
ケイ子は最後にこう付け加えた。
「なんかあったら、いつでも顔見せや。美月ちゃんもいつでも連絡してや」
ケイ子と美月の間では、すでに連絡先の交換は済んでいるのだろう。そのことは悠人にとっては、なんだか安心できる材料だった。
ケイ子の二人への最後の挨拶が終わり、やがて閉店間際のミュージックとともに店長のアナウンスが流れる。
美月と疾風太郎ではなく、美也子と悠人の時間が始まるのだ。青春と呼ぶにはいささか遅すぎるふたりだが、新たな扉を開くときが来たのである。
「今日は送っていくつもりで来たんやけどな」
「そやからお酒を飲んでないんやね」
「お嬢さん、今宵は送らせていただけますか?」
美月はすぐには返事をせず、少しはに噛むような仕草で、
「お願いしますわ、勇敢なるナイト様」
そして美月の夜は終わった。
閉店の時間を迎え、悠人も美月に最後の挨拶をしたのち、クルマで待機していた。
客が帰ってから、スタッフたちだけでささやかな儀式があったようだ。悠人のクルマに乗り込むとき、大きな花束を二つ抱えていた。
「お疲れ様。さて、どこまで送らせていただけますか?明日も仕事あるの?」
「ゴメンネ。明日も仕事あるから、今日は・・・」
「大丈夫。普通に送るだけやから」
「うん。じゃぁ、N駅まで送ってくれるかしら。そこに自転車がおいてあるから」
「いつもそこなの?」
「うん。そこからはすぐやから」
悠人は少し残念に思った。美也子が住んでいるところまでは確認できなかったから。
しかし、それはそれでいいと思った。今はまだ、無理に美也子の住まいまで知らねばならない必要がないと思ったのである。
次に会う約束もある。連絡先も知っている。それで充分ではないか。
大阪市内からN駅まで、高速を使わなければ半時間程度の距離である。クルマの中での会話はラジオの DJに任せて、悠人はただひたすら美也子の手を握っていた。
それだけで良かったのである。ただ愛しい気持ち。それだけしかなかった。
ドライブの間、時折見つめ合い、微笑み合う他には、特に会話もなかったが、二人にとってはこの上ない時間だった。
やがてN駅が目の前に見えると、
「今日はありがとう。タロさんが来てくれるとは予想してなかったから、ホンマに嬉しかった」
「ボクも最後の美月を送り出せてよかった。もうその名前も忘れるようしないかんけどな」
「うん。もう美月はおらんねんで」
「うん。どこにもな」
N駅の駐輪場は駅前ビルのそばにあった。深夜の時間帯なので、さすがに人通りはまばらである。
人気の少ない路地裏にクルマを停めた悠人は、最後まで美也子をエスコートするように手を差し伸べる。
そして人通りのないことを確認してから、そっと美也子の唇を奪った。ほんの十秒ほどだったが、それはそれで至極の時間だった。
「ゴメン。びっくりした?」
「ううん、いつしてくれんのかなって思ってたから」
「ホンマにココでええの?」
「うん、店の人に送ってもらうのもココやし。いつもの道やから大丈夫」
「気ぃつけてな。また連絡ちょうだい。次のデートの日とか」
「うん。悠人さんも気ぃつけて帰ってな」
「なんやホンマの名前で呼ばれると照れくさいな」
悠人は少しはにかんだ。その仕草を見て美也子はもう一度悠人を抱きしめた。
「今日はホンマにありがとう。ええ思い出になったわ。また今からいっぱい思い出つくろうね」
そう言うと、悠人の唇に軽くキスをして、すっと身体を離した。
そしてそのまま振り返らずに駐輪場へとかけて行った。自転車はどこに置いてあるのか、美也子はそのまま姿を表すことなく静かに消えていった。
そのことが少し気になったので、駐輪場の中まで探しに行ったが、もうどこにも美也子の姿はなかった。
仕方なく踵を返してクルマに乗り込み、ややもどかしい気持ちのまま帰宅した悠人であった。
翌朝早くに美也子からメッセージが届いていた。
「昨日はありがとう。とっても素敵な夜でした」
悠人はすぐに返信した。
「ボクにとっても素敵な夜だった。続きはいつかな?」
と・・・。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます