第12話 =困惑の扉を開けて=
その日の企画部は朝からてんやわんやだった。二つのクライアントから同時に修正の要請があったからである。一つはポスター、もう一つは商品カタログだった。
ポスターはイベント案内のものだったが、会場が急きょ変更されたので、関連情報と写真の入れ替え修正。商品カタログは通販用のナンバーを追加するということで、レイアウトから変更を余儀なくされた。
「これ、ほぼ一からやり直しやん。最初からわかってたやろ、勘弁してほしいわ」
大きな声で愚痴を言うのは英哉だ。ポスターの方は単なる入れ替えだけなので、素材さえあれば早くに片付く。しかし、カタログの方はそうもいかない。一行追加することで微妙なバランスがくずれるため、マス目の変更が必要になるやも知れぬ。もちろんクライアントのOKをもらわないと先に進めない。
ポスターは、変更会場の素材が見つかったので、小一時間もあれば終わるはずだ。これは小泉と瑞穂の二人でなんとかなるだろう。しかし、それも最終的にはクライアントのOK待ちとなる。
その隣のデスクでは、英哉と正木が手分けして新しいレイアウト案を作成していた。カタログである以上、写真の大きさには気を使う。やはりマス目の変更は揺るぎないものと考えられた。
秋山は通販用コードと商品コードを照会しながらデータを作成する。木下は写真と照らし合わせて確認するといった連携プレーが取られた。それは素晴らしいチームワークだった。
悠人もみんなのそばでそれぞれのチェックをこまめに行い、こういったケースでありがちなニアミスがないかを確認していた。
二百ページに及ぶ校正が終わったのは、すでに午後の一時半を回ったあたり。データをクライアントに転送し、ようやくひと段落だ。
「さあ、疲れたやろ。昼ぐらいゆっくり行っといで」
そういう悠人も腹ペコだった。
「部長も行きましょう」
誘ったのはもちろん瑞穂である。
「誰もおらんのは具合悪いやろ?」
すると正木が言った。
「オレが残りますよ。部長が残ってもわからんことあるでしょう。それに担当はオレですから」
「それはもっと悪い。部下に留守番させて自分は飯を食うのかと・・・。特に常務や専務には見られたくないな。せやから行っといで。ボクは後でゆっくり行くから」
すると瑞穂が自分も残ると言い出した。
「部長一人やと淋しいでしょ?それに一番下っ端が部長を差し置いてご飯に行くなんてダメでしょ」
木下は半ば呆れ返ったように、
「ほな部長、ボクらは行ってきますわ。清水君のお守りをヨロシク」
そう言い置くと、木下は他のみんなを連れて出掛けてしまった。
残った瑞穂はさっそく悠人に近づいてきた。
「悠人部長、チョコレート食べます?ちょっとはお腹の足しになりますよ」
デスクの引き出しにでもあったのだろう。チョコレートを悠人の前に差し出した。
「ほんなら一つだけ」
断るのも悪いかと思った悠人は、目の前に出された中から一粒だけ拾って口に入れた。ナッツの入った香ばしいチョコレートだった。
「あの店はまだ通ったはるんですか?」
瑞穂は悠人の耳元で囁いた。周りに配慮しているつもりだろう。
「あのね、ボクも普通のおじさんなんやから、みんなとおんなじようにエッチなお店も行くで。行くのが当たり前とは言わんけど、行ってても普通やで」
「それはいいんです。ウチかてAVぐらい見ますさかい。それよりもどんな人なんですか?悠人部長を虜にしてはんのは。ウチの興味はそこなんです」
「それはそうと、東京との人事交流の話、早まるらしいで」
「そんな話で誤魔化されませんよ」
「しばらくの間、今度来る高橋くんの案内係を引き受けてくれんか。指導係は木下君に任せるけど」
「それは別に構いませんけど、お願いがあります」
「なんや?交換条件か?」
「そんなつもりはないですけど、この後は一緒にランチに行きましょね」
瑞穂の強引な振り回し方に少し困った顔になったが、ここで悠人はあることを思いついた。
「ええやろ、その代わり案内係は頼むで。それと、今日の昼飯は日向屋のうどんやで」
そこへ電話がかかってきたので、瑞穂が取り上げると、それは島田専務からだった。
悠人に取り次ぐと、にわかに悠人の声のトーンが高まるのを感じた。なんだろう。
受話器を置くと、ニタっと笑って瑞穂を見た。
「さっきの件、先方が来週からでもいいというてきたらしい。こっちの人員はもう少しかかりそうやけど、さっきの話、ヨロシクな」
悠人は瑞穂にそのことだけを伝えると、営業部の土生部長に電話をかけた。営業部の人員は決定していたこともあり、いつから出せるか様子を伺うためである。
東京からの出向の時期が早まったこと、早急に出向日の決定をお願いして、受話器を置いた。
次に東京の寺田部長に電話をかけ、詳細の日程などを聞いた。ちょうど区切りが良いらしく、週明けの月曜日からでも良いという。善は急げというのだろうか、はたまた鉄は熱いうちに打てともいうべきか、その手筈の素早きことには敬意を表する悠人であった。
東京とのやりとりが終わる頃には、ランチに出かけていた先陣隊が戻ってきて、さあ、お次はどうぞと悠人を促した。
英哉は戻ってくるなり、瑞穂のところへかけてゆき、
「ミズちゃん、何もされへんかったか?このお兄ちゃんには何でも話しや」
「何をいうたはりますの、こんなわずかな時間で何もできませんやん。それより、お兄ちゃんて誰のことですか?」
瑞穂にはそちらの方が問題ありといった感じである。
「どっちかっていうと、すでにおじさんですやん」
「うっ、マジで?ほんなら悠さんなんかめっちゃおじさんやんか」
「悠人部長はおじさんというよりはおじさまっていう感じ。全然違うんですぅ」
英哉は苦虫を潰したような表情で、
「そのおじさまと美味しいランチに行っといで」
「言われなくても行きますよお」
すでに悠人はドアの外に出ていた。あわてて悠人の後を追いかける瑞穂が叫んだ。
「待って下さーい!」
日向屋に着いた二人は、ランチのピークをとっくに過ぎて、がらんとした店内に入る。どこでもどうぞと言わんばかりに席は空いていた。
悠人と瑞穂は比較的店内の奥に位置するテーブルに腰掛けていた。すでに注文を終え、静かに対面しており、瑞穂が口火を切って話し出す。
「今度の日曜日って空いてます?」
悠人は一瞬躊躇したが、
「日曜日は色々と用事があんねん」
にべもなく断ったのだが、
「一日中ですか?ちょっとでも時間空いてません?」
さて、瑞穂にいったい何の魂胆があるのだろうか。およそ察しもつかないが、軽々しく誘いに乗る悠人ではなかった。
「ウチ、ファザコンなんです。ウチのお父さん、お兄ちゃんばっかし可愛がって、ちっとも遊んでくれへんかったんです。そやから、ちょっとでも優しそうなオジサン見ると憧れるんです」
思いもよらぬカミングアウトだったが、だからといって瑞穂の欲求に正しく応えてやれる自信もなく、
「やったらなおさら、そこから脱却しなあかんのと違うかな。今度東京から来る彼とか、小林くんかってええ男や。さすがに英哉は少し歳が離れてるかな」
「年なんかええんです。違うんです。それを確かめるためにも、一回だけデートして下さい」
悠人はそれには答えず、運ばれてきたうどんに手をつけた。それを見て、瑞穂も仕方なくうどんに取り掛かる。
今回も残念ながら、瑞穂の想いが悠人に届くことはなかった。
この日、悠人は珍しく残業をしていた。東京へ派遣する秋山のプロフィールを作成するためである。
確かに秋山は壁にぶち当たっていた。今はまだ小さな壁だが、こじらせると良くないと思い、悠人が島田専務に推薦したのである。秋山も今のうちならと独身時代の東京行きを快く引き受けた。
すでに企画部には木下と英哉しか残っていない。そんな英哉が片づけを始めた。
「悠さん、そろそろ上がりませんか?それ、明日でもいいんでしょ?」
悠人は、英哉に何か魂胆があると踏んだ。
「二人でか?」
「いや、木下さんも一緒ですよ」
そういう木下も、英哉の合図を待っていたかのように片づけ始めた。
悠人と英哉、それに木下を加えた三人は、いつものように『武元』にいた。
口火を切ったのは英哉だった。
「悠さん、ミズちゃんの事、どうしはります?」
悠人には何のことを言ってるのかわからなかったが、
「ミズちゃん、結構真剣でっせ。あのファザコン、かなりの重症ですよ」
悠人は特に気にせず、
「それはボクにもどうにもできんやんか」
「そやかて彼女も悠さんの部下の一人でっせ。はよ解決してやらんと、仕事にも影響しますがな」
「小林くんとの競争はどうなってるん。まさか、二人とも放棄したわけやないやろ?」
「ボクなんか最初から冗談半分やから、それに小林も最近はあきらめたみたいですよ。ミズちゃんがファザコンやて公言しましたからね」
すると今まで黙っていた木下が、
「悠さんが優しすぎるのがいかんのですよ。厳しいこと言わなあかんボクらが悪者に見えてると思います」
木下が言ってることも一理あると思った。
「よし、ならば男大原、明日からは心を鬼にして、それこそ鬼部長になるかな」
英哉はため息を吐きながら、
「悠さん、できんことは言わん方がええです。それに今まで仏の悠さんと言われてた人が急に鬼みたいなったらおかしいでしょ」
すると木下が真顔で言った。
「どうです?一回デートしてみたら」
「アホ抜かせ。どこの世界に上司と部下のデートを勧める社員がおる?」
英哉と木下は互いに顔を合わせて、申し合わせたように二人して自分を指差した。
「ここに」
悠人は呆れ返ったような苦笑いを見せるが、二人の眼差しは真剣だった。
さらに木下はまさに鬼気迫るような物腰で、
「このままやと、仕事に影響するかもしれませんで」
それに応えるように悠人は人事交流の話を持ち出す。
「知ってると思うけど、東京の提携先と人事交流を進めてる件、秋山に行ってもらうねん。本人にも了解得てるし。ほんでな、向こうから来るやつがええ感じの男やねん。こないだ清水くんも一緒に行ったやろ、彼もその時会ってるねんけど、どうやら一目惚れしたみたいや。そっちと繋がってくれた方がええねんけどな」
英哉は首をかしげて、
「そんなうまいこといくもんですか?小林なんかも、アイツもそこそこハンサムやけど立板に水って感じでしたで」
「ところがな、今度来る高橋くんていうねんけど、三十路越えやねん。小林くんよりは魅力ありそうやろ?」
木下も不審そうな顔で、
「ウチに来るんですか?」
「ああ、キミに指導係を頼もうと思ってる。で、指導はキミに任せて、案内係と称して清水くんをつけようと思う。もう清水くんには伝えたし」
「まるで、ミズちゃんのお見合いのための人事交流みたいですね」
仕事の話が終わると英哉は次の話題に振り替える。
「ところで悠さん、例の『ピンクキャロット』なんですがね。噂なんですが、女の子が一人辞めたんですよね。聞きましたか?」
もちろん悠人には覚えがある。しかし、それは極秘事項の一つである。知らぬ顔をして英哉の話を促した。
「どうもね、最終日に男が来たらしいですよ。こないだ久しぶりに行ったんですけどね。なんでも最後はヘルプ周りだけしてたとか。ほんで最終日に男が迎えに来たって。オイラのお嬢は曜日が違うからか、辞めた嬢のことはあんまり知らんかったらしいけど、凄いですよね」
「それの何が凄いん?」
木下にはヒデのいう凄さに納得していないようだ。
「だってな、元々は客やったっていう噂や。ようは上手くやったら、お嬢をモノにできるっていう見本やんか。オイラなんか食事にすら行けてないねんで」
「ほう、そらすごいな」
「そやろ」
「いや、もう何十年も通てて、一回もデートに行けてないってことが」
「アホ。そんなん悠さんかてないわ。ねっ」
悠人は黙ってうなずいた。このあたりは大阪人同士の会話である。
「そやけど。どんな客やったんやろ」
「なんでもな、月に二回ぐらい来て、割とすぐに帰るらしい。物静かなオッさんやったらしい」
「それ、誰から聞いたん?」
「ボーイや。ヘルプの嬢らもあんまり詳しいことは知らんかったみたいやしな。さりげなくボーイに聞いたらこそっと教えよった。これ以上は言えません言うまでな」
「それってもしかして悠さんやったりして」
木下がそう言ったとき、悠人はどう反応したか。何もしなかったのである。恐らくはそれぐらいの振りはあるだろうと予想していたので、ちゃんと返しの台詞も用意できていた。
「ボクは行ってないっていうてたよな。それにもしお目当てがいるっていうんやったらケイ子さんかな。せやからボクのお目当てはまだ残ってるで」
もちろんケイ子もまた悠人のお目当てであり、まだ辞めていない。
「せやな、悠さんっぼい感じやとおもたんやけどな」
どうやら悠人の秘密は守られたようだ。
英哉の議題は終了し、あとは野球の話でその夜の宴会はお開きとなった。
美月が店を辞め、美也子に戻った日から数日が経過していた。
あの日以降、彼女からのメールが途絶えている。数日ほど連絡がないことは今までにもあったので、あまり気にはしていなかったが、今回の場合は彼女が店を辞めた直後のことであり、次の逢瀬の日を具体的に約束できていないこともあるので、悠人の不安は増々つのるばかりであった。
『今日も忙しいかい?今度はいつ会えるかな』
悠人は通勤の途中でメールを入れてみた。どうせすぐに返事がくるわけではない。送信後すぐにケータイをポケットにしまい込んだ。
元々悠人はケータイをせわしなく触るタイプではない。ケータイにかかってくる電話やメールも少ないタイプである。この朝に美也子あてにメールを打ったことも、夕方まで忘れていた。
「そういえば朝にメールしたままやったな」
そんなことを思い出したのは、帰りの電車に乗り込んでからだった。
いつもマナーモードにしているわけではないので、電話なりメールなりが入ったら、ベルやチャイムが逐一知らせてくれる。が、今日に限っては一度もケータイからメロディーが流れることはなかった。
「今日も忙しいのかな。もう一回送っとくか」
悠人はケータイを取り出して新たな文を打ち始める。
『まだ寒いから風邪ひかないようにね。あったかい鍋でも食べに行かない?』
やはり、すぐの返信はない。悠人は少し不安になりながらも、なす術もなく帰宅するしかなかった。
翌朝、悠人は五時に目が覚めた。まだ外は暗い。朝日を拝むにはまだ数時間必要だ。
悠人が目覚めたのは自室のデスクの前、パソコンも赤々と光を放っていた。
何気にそばに置いたままのケータイを拾って画面を覗くと、メールの着信を知らせるアイコンが光っている。開いてみると・・・。
『悠人さん、ごめんなさい。ワタシは悪い女。あなたを裏切らせようとしている悪い女。奧さんからあなたを奪うつもりはないのよ。今ならひと時の過ち。誰も知らない秘密。でもあなたが好き。そのことは真実』
メールの様子がいつもと少し違っていた感じだったので悠人は驚いた。このままでは大切な人を失ってしまう。頭の中は大きな蜂がブンブンと暴れ回っているかのように混乱している。どうしたものか、必死で考える。しかし、頭が混乱している最中によいアイデアが浮かぶはずもなく、飾らない、素直な言葉を捻り出してメールを打ち続けた。
『ボクもキミのことが好きだ。愛おしくてたまらない。悪いのはキミじゃない、ボクだ。だから自暴自棄にならないで。とりあえず会って話をしようよ』
こんな朝は早くに起きているはずもないだろうと思いながらも、悠人はケータイを握りしめて返事を待った。
すると、驚いたことにすぐさま美也子からのメールが入ってきた。
『うれしい。ホントはワタシも会いたい。でも会うたびにワタシたちの罪は重くなるのよ。それでも平気?』
ここから先は悠人にも相当な覚悟が必要だ。遊びではすまされない。それでも自分の覚悟を奮い立たせるかのように大きく深呼吸をした。
『今度の日曜日に会える?午後三時、いつものショーウィンドウの前で』
会いたい。悠人にとってはその一心だった。その気持ちがまた恋の儚さでもあった。
また、美也子からの返事はすぐには返ってこなかった。彼女もまた、儚い恋の葛藤に苛まれているのだろうか。
今年の冬はいつもとなく、厳しい北風が吹いている。日本海側では週末には雪が降るらしい。大阪ではさすがに雪は降らないが、前日の晴れ間の影響による放射冷却のおかげで、今朝も一段と寒さが身に染みる。
そんな朝に目覚めて、美也子にメールを打った二時間後、悠人は何事もなかったかのように、普段と変わらぬ顔をして家を出た。いつものように電車に乗って、いつものように出勤した。しかし、心の中は嵐のようにゴウゴウとけたたましい風が吹き荒れていた。
美也子からの返事があったのはその日の午後だった。
荒れる自分の気持ちをなだめるようにコラムの記事を書いていた。言葉少なく陰気な表情は周囲の仲間が気にかけるほどだった。
「悠さん、なんか怒ってます?」
こういう時の伝導者は決まって英哉が担当する。
「いや、なんでもない。ちょっと気分がすぐれんだけやから、大丈夫」
「みんな、なんかあったんやろかって心配してまっせ」
「いや、大丈夫やから。何もないから」
そう言って英哉を遠ざけた。
英哉も納得いかなかったが、物言わぬ悠人になす術もなく引き下がるしかなかった。
そのあとで英哉が自分のデスクに戻ったその時、ちょうどタイミングよく美也子からのメールが入ったのである。
『今度の日曜日、午後三時。お待ちしています』
これで、とにかく会えるという約束はできた。最も、どれ程の確実性があるかわからない約束ではあるが、まずは安心できる一報であった。
それまで険しい表情だった悠人の雰囲気がいっぺんに変わると、部内の重い雰囲気も一変する。そのことにいち早く気づいたのは瑞穂であった。
メールの音が聞こえたわけではなかろうが、一瞬下を向いてメールを確認する悠人の所作を見逃さなかった。
夕刻、終業の時間と共に何人かは席を立った。残業やむなき連中は茶をいれ替える。
悠人も部下が帰りやすいように、出来るだけ率先して帰るようにしているが、今日はコラムが満足いく仕上がりとなってないので、少し残ることにした。部長ともなると残業代はつかないが、手当の問題ではなかった。
するとそこへ瑞穂が近寄ってきた。
「悠人部長、まだ終わりませんか?ちょっとだけデートしてもらえませんか?」
「こらこら、妻帯者捕まえてデートは無いやろ」
「でも、あのお店には行くんでしょ?」
「デートやないからな」
「ほんなら、ウチもデートやなくていいです。隣に座ってお酒注いで、お金もらったらデートやないでしょ?」
「キミが相手やったら、まるで援助交際みたいになるやん?それに、うちの会社、バイトは禁止やで」
「ぐすっ、ぐすっ」
突き放すような悠人の対応に、とうとう瑞穂は泣き出してしまった。どんな時も男にとって女の涙は最大のウィークポイントである。幸い、大声でなかったために、他の部署の連中に気付かれることはなかったが、慌てた悠人は即座に瑞穂を部屋から連れ出した。
ちょうど隣の会議室が空いていたので、そこへ引き込んで椅子に座らせた。
「どうしたんや。泣くことないやろ。ボクを困らせたいん?」
瑞穂はヒックヒックとしゃっくりが止まらない。
そこへ英哉が心配そうな顔で入ってきた。
「どうしたんや、急に泣き出して」
涙目で英哉を見上げると、またぞろ顔がくしゃくしゃになりかける。
「ヒデさん・・・」
そう言うのが精一杯だったが、嗚咽を何とか抑えて話し出した。
「最初はただの憧れやったんです。それがどんどん深みにはまっていって、今はホンマに胸が苦しいんです」
悠人はトコトン困り果てた。困り果てたが、何も言わぬわけにはいかなかった。
「瑞穂くん。気持ちは嬉しいけど、間違えたらあかんで。それに結局ボクはキミの願望を叶えてあげることはできんと思う。こんなはずやなかったのに。きっとそう思う」
「それやったら、それでいいんで、一回デートして下さい」
「それがな、ボクにとってどんだけリスクがあるかわかる?よしんばキミが良かったなと思ったとしても、そんなんが続くはずもないし、キミがやっぱりかと思ったら、そん時はお互いに傷つくだけやで。それにどっちに転んでも、ボクとキミの関係やったらセクハラにしかならんし」
瑞穂はしばらく考えた。やがて意を結したように悠人の前に立った。
「今日は帰ります。わがまま言ってすみませんでした」
「また皆んなでご飯食べにいこな」
英哉も優しく声をかけた。
「はい」
瑞穂もようやく笑顔を取り戻したかのようだ。
「ほら、ミズちゃんは笑顔の方がかわいいやんか。何やったら、ボクが連れてったろか?」
「大丈夫です。一人で行きますから」
立ち直りが早いのか、キッと姿勢を正して足早に部屋を出ていった。
「いいんですか悠さん、折角のチャンスを不意にして」
「ボクにとってはこの上ないピンチやったで。さて、明日から大丈夫かな」
しかし、悠人の言うホントのピンチはこの後に訪れるのである。
デスクに戻った時、瑞穂の姿はすでになく、営業の居残り組が二人ほど居ただけだった。
英哉も片付けが終わり、いつものように悠人を飲みに誘う。
「悠さんも終わりでしょ?ちょっと行きませんか?」
今宵の気分はあまりすぐれない。こんな日はゆっくりと時間を過ごしたいものである。そう考えた悠人は、英哉の誘いを断った。
「今日は一人にさせてくれ。『武元』へ行ってもおらんで」
英哉も先ほどの寸劇を目の当たりにしているだけに、無理には誘わなかった。
英哉が部屋を出て半時ほど後、悠人は『レインボー』の前に立っていた。こんな夜は、お気に入りの音楽でも聴きながら、落ち着いた時間を過ごしたい。そんな想いで訪ねたのである。
いつものようにドアを開け、お気に入りの場所に腰を落ち着けた。悠人の席は入って一番左奥と決まっている。
カウンターのみのこの店は、全部でシートが七席。店名の由来ともなっている数だ。うち、左二席がコーナー席で残り五席が正面を向いている。
正面コーナー席は意外と多人数の客が利用するので、シングルの悠人はいつも正面の左端の席を所望している。ここならマスターでさえも付きっきりにはならないので、本来の孤独を満喫できるのであった。
悠人が来店したとき、店内ではブルースが流れていた。今の悠人も同じような気分だった。
いつものようにフォアローゼズをロックでオーダー。氷を指で回してから、軽く喉を焼いてみた。
二口目に挑もうと思ったそのとき、不意に後ろから人の気配を感じた。
悠人は、自分の他に客がいるなんて思いもしなかったので、かなり驚いた。振り返ると、そこにいたのは瑞穂だった。
「妙なところでお目にかかれましたね。ブルースはお好きですか?」
「清水くん。どうしてこの店に?」
「隣に座ってもいいですか?」
悠人にはそれを断る理由も拒否する根拠も見当たらない。
「どうぞ」
その様子を見ていたマスターは右端のコーナーにいたであろう瑞穂のグラスを悠人の隣に運んできた。
「お知り合いでしたか。このお嬢さん、最近はタロさんよりもよくお見えになりますよ」
「タロさん?タロさんなんですか?」
悠人はここでもペンネームで通していた。
「この人は疾風太郎さんじゃないの?」
「えっ、あっ、そう、ハヤテさん。下の名前やからわからんかった」
なぜか瑞穂は話を合わせた。
「それよりタロウさん、まさか、こんなとこで会えるとは思いませんでした。うれしいです」
あくまでも偶然なのである。もはや逃れられない。それにここなら誰の目に留まることもない。
「あの曲のリクエストはキミか?渋い選択やな」
「今日はタロウさんに振られましたので、かなりブルーな気分でしたから」
客同士の偶然の鉢合わせは、稀にあること。そうした場合、マスターは迂闊に近寄らないことにしている。特に二人の関係性がわかるまでは。
「でも、おかげで部長とデートができてうれしいです」
瑞穂は悠人の腕を取って抱え込んだ。
「あんまりはしゃいだらアカンで。ここは静かに酒を飲むところやから」
とは言いながら、瑞穂が抱きついてきたときに感じた柔らかな感触とフワッと香る髪の匂いが心地よかった。
「私ってそんなに魅力ないですか?普通は若い女の子から言い寄られたらホイホイついてくると思うんですけど」
「そやな、ボクの部下やなかったらホイホイいってたかもな。キミは可愛いし、とっても魅力的や。けど、現実はそうやない。将来ある部下であり、親御さんから預かってる大事な娘さんやと思てる。そんな子に手を出せるわけないやん」
「あーあ、そう言うとこが他のオッチャンらと違うとこやねんけど。わかりました。じゃあ、今夜は部下として面倒見てください」
瑞穂はそう言って再び悠人の腕を取った。
「よし、ならば、上司として説教してあげよう。最近のキミは周りの皆んなが心配するほど覇気がない。プライベートの悩みや問題を仕事に持ち込んだらあかんで。それに上司をからかうのも・・・」
決して大きな声を出していた訳ではない。少し離れたところにいるマスターにさえ聞こえない音量だった。
にもかかわらず、瑞穂は自らの耳を両手で塞いだ。
「こらこら、ちゃんと聞いてや」
それを見た悠人は、瑞穂が自ら耳をふさいだその腕を振り解こうとした。その時だった。
瑞穂は振り解かれた両の腕と身体を勢いよく悠人に預けた。そのまま崩れるように悠人の懐の中に潜り込んだ瑞穂は、しばらく悠人に抱きついたまま、
「ちょっとだけでいいんです。ちょっとだけ時間をください」
そう言って必死にしがみつく瑞穂の腕を払い落とせるほど、悠人も冷血ではなかった。
逆にそっと背中に腕を回して抱き止めてやると、瑞穂の腕にはさらに力が加わり、悠人の胸の奥へと埋まっていく。
十秒、二十秒、三十秒、どれくらい経ったろう。ある程度満足したのか、ようやく瑞穂が悠人を解放した。
「ありがとうございました。明日からまたがんばります」
悠人は黙ってうなずいた。
「今日は帰ります。駅まで送ってもらえませんか?途中で何かあるかも知れません。部下に何かあったら大変でしょ?」
時計を見上げると時間は九時になろうとしていた。瑞穂はいざ知らず、自分は今来たばかりである。
「マスター、ちょっと彼女を送ってくるわ。戻ってくるから、このまま置いといて」
二人は席を立ち、店を出たのだが、瑞穂は店の前で立ち止まった。
「ごちそうさまでした」
そう言って深々とお辞儀をした。そしてその顔を挙げると、間髪入れずに悠人に抱きつき、唇を合わせてきた。
悠人にとっては不意の行動だったため、なすすべもなく呆然と立っていた。ただ、瑞穂の柔らかな唇の感触だけが悠人の身体を痺れさせた。
店は通りの外れだったこととあり、人目はなかったが、倫理的な良心にかられた悠人はゆっくりと瑞穂の身体を離す。
「不意打ちを喰らわされたな。これ以上は危険極まりない。駅まで歩こう」
「ありがとうございました。これでしばらく大丈夫です」
そういうと、瑞穂はクルッと背を向けて駅へ向かって歩き始めた。何歩か進むとまたぞろクルッと振り返り、
「大丈夫です。一人で帰れます。いつもの道ですから」
そして再び駅に向かって小走りにかけていった。
店に戻った悠人は、キョトンとした顔をしているマスターの前に座った。
「やけに早くない?なんかあった?」
店から五分ほどかかりそうな駅への道のりを三分足らずで戻ってきたのだからさもあらん。
「いや、一人で帰れるって言うから」
少し吃りがちだったか、マスターは疑いの目で悠人を見ていた。しかし、そこは客商売である。長く引きずらないのがマナーであることを熟知している。さもすると、新しい客が現れて、悠人のことは後回しとなった。
さて、悠人はというと、様々な感情が頭の中を飛び交っていた。
これで良かったのだろうか、明日から彼女は今まで通りに戻るだろうか、はたまたさらに言い寄って来るのだろうか。
「ああ、また心配事が一つ増えた」
そんな事を思いながらグラスを傾けていたが、BGMで流れているショパンの名曲は、ひと章節たりとも悠人の耳に入ることはなかった。
瑞穂と一悶着あった次の日の朝、悠人はやや重い足取りで会社に着いた。
まだまだ春は遠く、週末あたりには雪が降るかも。などとした予報が出ていたくらいである。
デスクに向かったが、真っ先に気にかかったのは瑞穂のことだったが、彼女は普段通りに出勤し、普段通りに動いていた。
「悠人部長、おはようございます」
そして悠人の耳元でそっと囁いた。
「昨日はありがとうございました。お陰様で大丈夫です」
どうやら瑞穂は、昨日のことを公にすることはなさそうだ。ならば、悠人も対応する姿勢はこれまでと同じである。
「うん。今日もがんばってな」
ひと通り落ち着いたところで、英哉と木下が寄ってきた。
「悠さん、昨日なんかありましたか?ミズちゃんえらい機嫌ようて」
「何もないで。他人の心配してんと、自分の仕事してや」
悠人は追い払うかのように二人を払い除けた。
その時、ドアの向こうから島田専務が姿を見せた。
「やあ諸君、おはよう。急で悪いが、新メンバーをしようと思ってな。ほら、入っといで」
島田専務に促されて部屋に入ってきたのは、紛れもなく高橋智也だった。
「本来は来月からの予定やったが、向こうの仕事が早めに切り上がったらしく、急きょ今日から来ることになった。ほんなら自己紹介を」
島田専務に背中を押されて一歩前に出る。
「東京から来ました高橋です。ヨロシクお願いします。あっ、大原部長と清水さんにはその節はお世話になりました」
名前を呼ばれて、少し動揺した瑞穂だったが、すぐに平静を取り戻す。
「ウチから行くのは秋山くんやったかな。行く前に顔合わせできて良かった。で、デスクはどこや?」
島田専務はキョロキョロとあたりを見回していたが、
「私の隣です」
瑞穂が自分の隣のデスクを指差した。
「彼は東京ではデザイン部やったが、ウチにはそんな専門部はないから、できることから何でもやらしたってくれ」
島田専務に紹介されると、
「色んなことを覚えたいと思います。ヨロシクお願いします」
高橋は意気揚々と答えた。
島田専務は後は悠人に任せたと言わんばかりに目配せをして退室した。
悠人は高橋の突然の登場に驚いたが、東京からすでにプロフィールが送付されてきており、みんなを集めて詳しく紹介しなおした。
企画部内でのひと通りの紹介が終わると
悠人は、
「ほんなら、仕事のことは木下くんに、その他のことは清水くんに聞くように」
と、皆んなに伝えて、自分はデスクへ引き下がった。
木下と瑞穂は、高橋を連れて社内を案内して回ることとした。もう一人の営業もこの日に来たようだが、彼もさっそく営業部に配属されたようだ。
木下と瑞穂が案内を買って出ているとき、悠人は秋山を呼びつけた。
「で?おまいさんはいつ頃キリがつく?先方がすでに寄越してきた以上、コッチも急いだ方が良さそうや」
そのあたりは秋山もかなりの準備を進めていたとみえて、
「来週からでも行けますよ。どうせ身体一つですし、住むところは来月からの契約ですが、多少は前倒しの可能性も匂わしておきましたから」
などどいとも簡単に答えた。
「それやったら言うことないな。島田専務にもそういう風に伝えとくわ」
こうして急に慌ただしくなったその日の午前中は、何事もなく過ぎていった。
昼を終え、何気にケータイを見ると、美也子からのメールが入っていた。
『次の日曜日、HKホテルの三○三号室にてお待ちしています』
悠人は不思議に思った。HKホテルとは、いわゆるシティホテルではない。大手鉄道会社の系列ホテルである。割とかしこまったホテルでいったい何をしようというのだろう。
そもそも、いきなりホテルで大人の待ち合わせを誘うとは考えられない。美也子はそんな女ではない。そう考えると、今のうちに何か話しておきたいことがあるに違いない。そう思うと、これはかなりの覚悟が必要ではないか、ということが想像に難くなかった。
では、その覚悟はできているのだろうか。悠人は自問自答した。今の婚姻関係のこと、これからの生活のこと。果たして、それが美也子にとって幸せなのだろうかということ。
自分の年齢が年齢だけに、容易く出る答えではなかった。
約束の日曜日まで、あと四日。悠人は思い悩むのであった。
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