第10話 =新しい春の中に=

 次の水曜日は互礼会から五日が経過した、まだ正月ボケが抜けきらない、なだらかな時間を過ごす日々であった。

 あの日から夜の席も北阪百貨店の担当となった英哉は、新しい企画書の作成に奔走しているが、それ以外の連中はまだそれほどざわついていない。

 悠人も新年の挨拶回りは滞りなく終了しているし、急ぎの決済もなく、新年のスケジュール管理と後輩たちの評価表のチェックに目を通していただけだった。

 やがてお昼の時間になると、瑞穂がヒタヒタと悠人に近寄ってきた。

「お昼、一緒に行きません?いいお店があるんです。相談したいこともありますし」

 瑞穂がランチの誘いに来るなどということは今までにないことである。何か魂胆があるに違いない。悠人が咄嗟にそう思ったのは無理からぬことである。

「何の相談やろ?もちろん仕事のことやな?」

「そうですよ」

 瑞穂はいとも簡単に答えた。

「それやったら付き合おう」

 悠人も満を辞して席を立った。


 瑞穂が連れてきた店は、彼女には似合わぬこじんまりした割烹風の店だった。

「へっへー、最近見つけた店なんです。愛と時々くるんです。おかみさんがね、色々と相談に乗ってくれるんです」

「清水くんの年齢にしては落ち着いた店やな」

「おすすめは肉じゃが定食です。めっちゃ美味しいですから」

「そこまでいうんやったら、それにしよかな」

「女将さーん、肉じゃが定食二つぅ」

 カウンターの向こう側にいる女将らしき人がいて、瑞穂の注文に笑顔で答えた。

「で?何の相談?」

 悠人は早速に仕事の話をしようとした。すると瑞穂は、

「ここの女将さんが一回連れて来なさいっていうから」

「仕事の話やないんやったら、ボクは用無しやな」

「いや待ってください。実は谷口さんと小林さんに毎日誘われて困ってますねんけど、悠人部長がさそてくれはったら、あの人らもあきらめると思うんですが」

「それって仕事の話?」

「そやかてなんや気が滅入って仕事が手につきませんもん。そしたら女将さんが白黒つけたるいわはって」

 そんな話しをしているうちに、二つのお膳をもった女将らしき人がやってきた。

「瑞穂ちゃん、ハッキリいうたげるけど、この人はアカンで。結婚したはるやろ。後で泣くのは女の方って決まってるから」

 すると今度は悠人の方へ向き直り、

「あんたはんも罪なことしたらあきまへんで」

 どうやらこの女将は悠人がその気にさせていると勘違いしてるらしい。

「女将さんのご意見、ごもっともです。以後は部下としてのみ応対します」

 と言って微笑んでみせた。

 悠人の態度を見た女将はおおよそを理解したのか、

「なんや、あんたの独りよがりかいな。この人は無理やな。ちゃんとわかったはるやんか。もうちょい大人になりや」

 女将は瑞穂の背中を一つ二つ叩いて、再び奥へと引き下がった。

「なかなかええ女将さんやな。どれどれ」

 などと瑞穂の睨むような目線を交わしつつ肉じゃが定食をついばみはじめた。

「おかしいな。こんなはずやなかったのに」

 思い通りにいかなかった瑞穂も仕方なく箸をとる。そして気を取り直して、

「ここの肉じゃが美味しいでしよ?」

「うん、美味しいな」

「今晩飲みにきませんか?愛も一緒に」

「女将さんの話、いま聞いたとこやろ?そろそろ谷口くんか小林くんかに絞ったらどうや?それに今日は用事があるさかい、定時ですぐに帰るで」

「ほんなら明日。北阪百貨店のことも内々に聞いときたいことありますし」

「覚えてたらな」

 悠人は返事を濁した。

 瑞穂はもう少し女将さんが味方をしてくれると思ったのだろう。それに乗じて色々な話を聞きたかったのだが、女将さんの一言で、その計画が吹き飛んでしまった。

「美味しい店を教えてくれてありがとう。また肉じゃが定食食べにくるわ」

「うー、ごちそうさまでした」

 瑞穂の声には覇気がない。その様子を見た女将さんから、「今晩おいで」と声をかけられ、小さくうなずいた。


 瑞穂のその夜のことはさておき、大したトラブルもなく、定時で会社を出た悠人は、一路『ピンクキャロット』を目指して歩いていた。

 後ろから、またぞろ誰かが後をつけていないか、確認しながら。どうやら、今夜は素直に女将さんの店に行ったのだろう。安心した悠人は、スッキリした気持ちで『ピンクキャロット』があるビルの前に立っていた。

 さすがに冬の季節は、陽が落ちると同時に外の気温も急激に落ちていく。美月にもらった手袋が今日も重宝している。

 いつものようにボーイに案内されるのだが、今日に限っては珍しく一番奥のシートを指定された。不思議に思っているところに、やがて美月が現れる。

「いらっしゃい。こないだは色々とありがと。楽しかったよ」

「ボクも楽しかったで。念願のモノも手に入れられたしな」

「それってワタシのこと?」

「そうやで。ほかにある?」

「うれしい」

 そう言うと、美月は悠人の首に抱きついた。

「もう店長には言うたんやけど、今月でこの店辞めることにした」

「えっ、そうなん?」

「うん、今月からはヘルプしかせえへんし。ケイ子さんと一緒」

「辞めても大丈夫なん?」

「うん、本業も軌道に乗ってきたし、何よりタロさんの女になったんやから、浮気したらあかんやろ?」

「ボクはまだ離婚してないで。家庭内別居みたいなもんやけど」

「今愛してるのは誰?」

「もちろんキミや」

「名前で呼んで」

「美也子が好きや」

 美也子は美月ではなく、美也子として悠人に寄り添った。

「あと一回だけ」

「どうしたん?」

 美也子はややためらいがちな様子で、

「タロさんがくる前からずっと指名してくれてるお客さんがおるん。その人だけは最後の挨拶をちゃんとしなきゃと思ってるん。そやからその人だけは許してな」

 悠人は美也子の優しさと義理堅さを垣間見た気がした。確かに彼女と他の男が抱き合うところを想像するのは耐え難いものがある。されど、それを諌めるだけの身分でないことは自覚している。

「その人はいつ来るん?」

「たぶん来週。それでちゃんとお別れするから。タロさんよりずっとお爺さんやから、あんまり妬かんといてな」

「うん、ボクも頑張らな」

「何を?」

 悠人は言葉に詰まってしまう。考えることが多すぎて、何をどう話したらいいのかわからないのが実際のところである。その現実から逃避するつもりはないが、彼女のことを考えると必然でもある。

 世間ではロマンスグレーなどともてはやされることもあるかも知れないが、現実はそんなに甘くない。髪は白くなったり抜けてきたりする年齢であり、精力的にも衰えを感じる年代である。

 それらの衰えを感じ始めている悠人は色んなことに自信を無くしているときでもあった。そういう意味では、美也子との出会いは強力な起爆剤だったのであるが、だからといって美也子の全てに対して責任を負える自負はないのである。

 悠人は美也子を抱きしめながら、

「ボクに何ができるかな」

「何にもしなくていいの。時々会ってくれるだけでいいの。タロさんに心配かけさすためにいうたんと違うのよ。安心してもらおう思て言うたんよ」

 悠人は何も言わず、ただ美也子を抱きしめた。

 しばらく抱き合っていたが、先に身体を離したのは美也子である。

「今度のデートはいつにしよか」

 呆気にとられる悠人をよそに、続けて話し出す。

「もう次はお店辞めてからでいい?その方がオープンな気持ちで会えるし」

「ボクはええけど、何やったらラストの日、どっか行かへん?有給たんまり残ってるし」

「ごめんね、ワタシは次の日も仕事が入ってるん。そやから、その次の日曜日はどう?もうお店もないし、それにタロさんもお休みでしょ?」

 悠人としてはそっちの方がありがたい。どうせ万里と唯衣は二人で出かけるに違いないから。

「ええよ。で、どこ行く?」

「昼間はきっと仕事あると思うから、夕方からかな。なんか美味しいものが食べたい。こないだはお魚やったから、今度はお肉がええな」

「ほんなら焼肉屋行こか。天六にええ店あるで。何時に来れる?」

「そやな、早めに切り上げたら五時には行けるかな」

「余裕を持って六時の予約にしとくわ」

 次の逢瀬の約束がとれたところで場内アナウンスが聞こえる。

「ちょっと行ってくる。大丈夫、ヘルプやから」

 そう言い残して、美月は場内アナウンスに呼ばれるまま、ご指定のシートへと向かった。

 直後、すっと現れたのはケイ子だった。ケイ子は悠人の隣にドシンと腰を下ろし、首根っこをつかむかのように引き寄せた。

「アンタ、とうとうやったな」

「さて、なんのことでしょう」

 しらばっくれるわけでもないが、自慢できる話でもない。

「美月ちゃん辞めるん、アンタのせいやろ。なんでアンタだけ美月ちゃん指名できるん?」

 すでに今日からヘルプ扱いとなっている美月を指名しているのだから、ケイ子が勘繰るのも当たり前のこと。そんなだからこそ、今日は一番奥のシートなのだとハッキリわかった。

「なんでボクだけ指名できるんでしょうね」

 どうせならとぼけ通すのも面白いかなと思った。

 ケイ子もつかんでいた手を離して、

「まあ、恋愛は自由やから、ウチがどうこういう話やないけどな。アンタ、奥さんおるんちゃうん」

「おるけどな、おらんのと一緒ですねん。近いうちに離婚しよかと思てますし」

「ほんで美月ちゃんと結婚するん?」

「それとこれとは別ですよ。それで彼女が幸せになるとは思ってませんから。ただ、今は愛おしいと想う人がいるっていうだけです」

 ケイ子はジッと悠人の目を見つめた。

「アンタもまだ若いな。その年で大きな火遊びにならんように気をつけや」

「わかってますやん。せやから悩んでまんねやな」

「アンタのモラルに期待しとくわ。あの子がそれでええって言うたら、それでええねんけどな。あとはアンタの度量と器量やな」

「痛いこと言うな。ボクが一番ないとこやんか」

「アンタが本気になったらあるやろ、それぐらいの度量。ウチにはわかってるで、アンタ、まだまだ仕事も遊びも本気になってないやろ」

「買い被りですよ。よく言えば慎重派なんです」

「悪く言うたら?」

「臆病者・・・かな」

「ホンマに臆病な人はこんな店に来いひんて。それはともかく、美月ちゃんのこと頼むで。不幸にしたら許さへんからな」

「肝に銘じておきます」

 ケイ子は最後まで心配そうな顔をしていた。やはり、悠人が既婚者であることへの不安だろう。

 そのことは悠人も自覚している。調子に乗って羽目を外さないようにしないと、美也子にまで影響が及ぶ。ケイ子に指摘されて、再認識させられた。

 やがて戻ってきた美也子は、不安げな顔をしている悠人を見つけると、

「どうしたん?浮かん顔して。ケイ子さんになんか言われた?」

「キミをな、大事にせんかったら許さんて言われた。それだけやで」

「それで浮かん顔してんの?」

「そんなに浮かん顔してるか?喉から手が出るほど欲しかったもん手に入れた直後やで。嬉しすぎて心配なくらいや」

 美也子はそんなケイ子と悠人との間で交わされた話の内容を察したのか、

「大丈夫。ワタシはタロさんを奥さんから奪おうなんて思ってないし」

 悠人は美也子を抱きしめた。やがて自然な流れで唇が重なり合うと、二人の吐息は同じ波長を刻んでいく。

 すでに五つの坂を登った悠人である。人当たりの良い、場合によっては人が良い性格だから、さほど多くの敵を持たない。職場の女性陣からのウケも良い。三十年も勤めると、なかには噂の立った話もあった。

 それでも過去に傷を持つ経歴がある身においては、果敢に挑むこともなく現在に至っている。そんな悠人が四半世紀の時を超えて、今まさに禁断の扉を開けようとしているのである。

「今日はこれで帰る。つぎは来々週、そのあと最終日かな」

「待ってる」

 この日もいつも通り2セットだけ過ごして店を出た。いつものように、やや後ろ髪を引かれながら。



 一月の上旬まではさほどでもないが、下旬にもなると悠人たちの仕事はにわかに忙しくなって来る。

 これは、日本という国が、四月を年度初めとし、三月を年度終わりとするしきたりが色濃く残っているからである。特に行政関連の仕事は日付けにうるさい。

 英哉の班は、まさにM市の介護補助金のポスターとバスの車内広告の校正に追われており、瑞穂の班は、とある大学のオリエンテーションビデオのスクリプト作りに時間を費やしていた。

 美也子との次の逢瀬の約束を取り付けてからここ数日、悠人の気持ちは大きく揺らいでいた。冷め切った家族との時間が空虚なものに思え、美也子との充実した触れ合いが濃密なものに感じている。

 さらには先日聞いた、美月が店を辞める話。それは悠人にとって晴天の霹靂に違いなかった。

「大原くん」

 悠人の視界の外から名前を呼ばれて、肩を叩かれた。ビクッとして振り返ると、そこにいたのは島田専務だった。

「何をぼおっとしとるんや、遠くからでもわかるぐらい間抜けヅラしとったで、キミらしゅうない」

「いや、娘のことでちょっと考え事を」

「娘いうたらいくつになった?」

「さあて、最近てんで会話がありませんからね、何をやってんのかボクには全然わかりませんよ」

「で?何を悩んでんねんな」

 咄嗟についた嘘だけに、悠人は少し言葉に詰まった。

「いや、あの、まあ、大学を卒業してから何をしてるんかなと・・・」

「そんなことキミが心配することかいな、それよりも自分の部下を見回してみ、みんな困った顔しとるで」

 悠人はみんなが困っていることはわかっていた。しかし、それは今に始まったことではない。悠人自身もそういう時代を過ごしてきた。島田専務もまた然りであろう。

「こういう時にすぐに手を貸しましたか?」

「そやな。それはそうと武藤さんがな、あの後に谷口くんと行った店がえらいなお気に入りでな。今度、大原も連れて来いというワケや。もともと武藤さんはおまいさんの担当やさかい、あんじょう良きにはかろうてや」

「それ、わざわざ電話してきはったんですか」

 島田専務は黙ったままうなずいた。

 ただため息が出るばかりの悠人だったが、

「わかりました。なんとかします」

 そう言って島田専務をドアの外まで送り出し、返す踵で英哉のところへ行くと、こそっと耳元で囁いた。

「今日はランチ奢るで」

 渋そうな表情をした悠人の顔を見て何かを察した英哉は、黙ってオーケーサインを出した。


 昼過ぎ。

 悠人と英哉は会社近くの蕎麦屋にいた。大阪で蕎麦屋というと小洒落た店がほとんで、やや値のはるランチとなるが、ひっそりとしていて、密談をするにはもってこいの佇まいである。

 悠人は注文を済ませると、ややモジモジしながら話し始める。

「あのな、昼前に島田専務が来てな、武藤さんがオレに付き合えって電話をしてきたらしいねん。いったいこないだ、どんな店に連れてったんや?」

 英哉はニヤニヤとした顔で、

「人妻キャバですわ。それがもう武藤さん激ハマりで。また来るていうてはりましたけど」

「それがな、行ってはるらしいわ。専務の様子やと入り浸りみたいや。次はオレにも一緒にとか言うてはるらしい」

「ほっほー、それはようごさんしたな。一回行ってみはったらよろしいねん」

 調子の良い英哉のことである。面白おかしくはやしたてる。

「ところがな。行かれへんねん。そこでや。もう一回ヒデやんに行ってもうて、また次の店を紹介したってくれへんか」

 もちろん行けない理由は美也子への義理立てである。そんなことは口が裂けても英哉には言えない。

 やがてランチセットが到着すると、蕎麦をすすりながら英哉は怪訝な顔で悠人に尋ねる。

「なんでですの?悠さんも行かはったらよろしいやん。なんで行けませんの?」

 やはりそう来るかと思った。なぜ行けないか。行きたくないのか。できることなら話したくないことである。『ピンクキャロット』は、元々英哉の行きつけの店である。今までは内緒で通っていたが、英哉がその気になれば悠人の相手や行動など、おおよそバレてしまうに違いなかった。つまり、行けない理由に『ピンクキャロット』を出せないのである。

「ほら、ボクはあの手の店ではええ思い出がないからトラウマがあんねん。それにボクはキミとちごうて人妻は苦手や」

「へえ、そんな話は初耳でしたな。せやけどええんですか?武藤さん気ぃ悪しはらんですか?」

「それをフォローできるぐらいのとこ連れてってくれたらええねやんか。そうなったら武藤さんは完全にヒデやんの担当就任間違いなしやで」

「ホンマですか?ほんならとっておきの店に連れていかなあきませんね」

「あんまし刺激が強すぎるのはあかんで。あの年からハマりすぎると大変やからな」

 言ってから思ったのが己のことで、まるで自分自身のことを棚に上げているようで少し後ろめたさを感じたが、そんなこととは知らぬ英哉は、

「わかりました。ほんなら武藤さんには上手いこと言うときますわ、悠さんはロリコンやから人妻はあかんて」

「あほ」

 話がまとまったとき、二人の前にあったランチセットはすでに跡形もなく平らげられていた。

「ご馳走様でした。普段から悠さんには世話になってますさかいな。ところで最近『ピンクキャロット』には行ってまへんのですか?何やったら今晩でも付き合いましょか?新しい若い子もぎょうさんいてまっせ」

 突然話の方向が変わったので、一瞬焦りの表情を見せた悠人だったが、すぐに平静を取り戻して、

「遠慮しとくわ。それにあの店、まだ時々いってんの?」

 悠人としてはその情報の方が重要だった。探るような目つきで英哉の返事を待っていると、

「そうでんな、十日にイッペン、いや二週間にイッペンぐらいでっしゃろかな、たまに営業メールが来るんですわ。こちとらその子も狙ろてる身、行かんとしゃあないですやろ」

「その子はなんて言う子?」

「そんなん聞いてどないしますん」

「万が一行く羽目になった時、ダブったらあかんやろ」

「うん、確かに。悠さんと何とか兄弟なんて気分が乗りまへんよってな。ミスズいう子ですわ。日月水が休みの子ですから覚えとってください」

 悠人はなるほどと思った。なぜ今までその子に出会うことも名前さえも聞いたことがなかったのか。ようは美月の出勤日とその子出勤日は重ならないからであった。

 ところが悠人はその次の来店日にミスズと対面することになるのである。


 朝の出がけ、昼の憩い、夕方の終業間際、もちろん毎日ではないが、時折り美也子からメールが入る。

 おはようとか体に気をつけてとか、他愛のない内容ばかりであったが、それでも悠人は嬉しかった。悠人からメールを打つこともあった。すぐに返事が返ってくるわけではないが、遅くとも翌々日には返信が来る。タイムラグがあるせいか、トンチンカンな回答もたまにあるが、それはそれで良いのである。繋がっているという事実こそが、悠人にとって最も大事なことであった。

 英哉に武藤氏の御守りを任せた翌朝、美也子からのメールが届いた。

『ちょっと風邪ひいたみたい。喉がヘンかも』

 二、三日前、一月には珍しいポカポカ陽気の日があった。昼間は上着もいらぬかと思われるほどの陽気だった。

 悠人のデスクは窓際にあり、しかも南を向いているものだから、夏の天気の良い日などは、ブラインドを閉めないと干物になってしまうかの如く暑い席であった。

 なぜ部長席がここなのかというと、書類というのは紫外線に弱いのである。その書類を抱えているのが一番少ないデスクであるというのがその理由であった。しかもその理由で部長席をそこへ移動させたのが十年前の悠人自身なのだから、今更文句は言えまい。

 確かに一昨日の昼も、思わずブラインドを閉め、上着を脱いだ記憶があった。

 しかし、昼間が暖かいとその夜から次の朝にかけては急激に冷えるのである。これは放射冷却といって、雲の無い夜空にむかって地球の熱が大気圏外に放射されるという、夏にはありがたいが冬には迷惑な自然現象である。もしかして美也子はその夜に油断したか。

『早く薬を飲んで治して下さい』

 悠人はすぐに返信した。その回答はすぐには返ってこなかったけど、いつものことだから、気になることはなかった。

 それでも午後には返事があり、

『もしかしたら次の水曜日は休むかも』

 悠人は次の美月の出勤日に行く予定をしていなかったので、

『無理せんと休んでな』

 どうせ悠人はその日は行けるかどうか微妙だったので、休んでくれた方が心は癒される。

 かくしてその週の美月は休むことを選択した。すでにヘルプにしか出ないと宣言しているので、無理をする必要もないからである。


その次の週。月曜日の朝に美也子からのメールが入る。

『今週は大丈夫。でも無理してこなくてもいいよ』

 悠人とて、無理するつもりは毛頭なかった。それよりも愛しい人に会いたい想いだけがつのるのである。

 この頃の悠人は、すでに尋常な意識を喪失し始めていたのかも知れない。事実、悠人の頭の中は美也子一色に染まっていた。




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