第9話 =しかるべき時は来りて=

 例年、『ピンクキャロット』は正月の三日から営業している。正月から暇な輩がわんさか集まっているらしい。さすがの悠人もそんな人だかりのところへ行く気分にはなれず、いまだ一度も正月期間に行ったことはない。おおよそ一人で大阪市内や京都市内をぶらぶらするのが常であった。

 しかし、今年は違う。三日の日には美月とデートの約束を取り付けている。ここ数年で最も心躍る正月かも知れない。


 そして来る一月三日。悠人にとって忘れ難き思い出となる日が訪れた。

 気温はさすがに冬らしいが、風は和やかだった。天気も良く、木洩れ日の当たる場所は心地よい。

 正月だというのに、おせち料理を用意しない大原家では、朝昼晩の餐においてもいつも通りだ。そのいつもより、やや寝坊気味の悠人だったが、休みの日のブランチは軽めで、この日も昆布と漬物で茶漬けをサラサラと流し込んだだけだった。

 万里と唯衣はまだ帰ってくる気配もなく、それどころか連絡もない。悠人は二人に、二人は悠人に、それぞれ関心もなく、二人がいたとしても、朝からそそくさと出かける用意をしている悠人に気づくはずもなかっただろう。

 悠人は「いってきます」と独り言のように声をかけたが、もちろん家の中から帰ってくる返事などあるはずもなく、静かにドアが閉まる。


 今日の待ち合わせは、梅田阪急百貨店ショーウィンドウ前に午前十時。前回と同じ場所だから間違うことはない。

 悠人は前回と同じように、早めに到着する。約束の十時に十五分ほど早く。待つことに不快感を覚えない男にとっては、思ったよりも遅い到着だった。まさか、それよりも早く美月が到着しているとは思わなかったが、長く待つ必要もなかったようだ。

 悠人が到着して五分後、通路の向こうに美月の姿をみつけた。美月は悠人の姿を見つけると、駆け寄って正面に立ち止まり、シンプルにあいさつをこなした。

「明けましておめでとうございます」

「明けましておめでとうございます」

 悠人も同じようにオウム返しにあいさつをし、お辞儀をしてみせた。

「うふふ」

 美月はすぐさま悠人の腕を取ると、甘えるような仕草で身体をすり寄せた。

「どこへ連れてってくれるんやったっけ?」

「もう忘れた?住吉さんやで。南海で行くから、まずは地下鉄でなんばまで行くで」

 悠人は左腕にうれしい重量感を感じながら地下へと美月を連れ去っていく。

 梅田からなんばまでは、約十分。わずかな時間も、密着した空間は悠人にとって幸せな時間。美月もそれを容認している。

 なんばから住吉大社前までも約十分。ここでも二人は腕を組んだまま、特別な空間を楽しんでいた。歌舞伎のセリフでもないが、悠人にとっては「こいつぁ春から縁起がいいや」と言ったところか。

 三が日だけに、駅から沿道にかけてそぞろ屋台が並んでいる。まだ人だかりも多い。そんな人波の間をくぐり抜けて、本殿へと進んでいく。屋台のお楽しみはお参りのあとでいいだろう。

本殿の西側から入ると、池を渡るのに太鼓橋を通る。昔ながらの古式豊かな風情の橋である。角度があるので、ヒールで来た女性にとっては、かなりの難関になる。

 今日の美月はパンプスだから、大丈夫そうだが、それでも悠人の腕をひっしとつかんで、えっこらせとばかりに坂を登る。

「ああ、これだけで結構疲れたわ。あとはおんぶしてってね」

「まだ始まったばっかりやで。ちょっと早すぎひん?」

 坂を下る時は滑落に注意。ウッカリ足を滑らせると、ズデデデデデンと尻もちをつきながら転げ落ちること請け合いである。事実、二人の少し前で果敢にも挑戦していた小太りのおじさんが、ひっくり返っていた。幸いにして軽症だったようだが、恥ずかしいことはこの上なかっただろう。

「さて、本堂もすぐそこや。ちゃっちゃとすませて、屋台めぐりしよや」

「もしかしてそれがメイン?」

「そうかも。キミかて嫌いやないやろ、みーやん」

「えっ、その話したっけ」

 それは美月が学生時代に呼ばれていたあだ名らしい。そんな話を会話の中でしたことを悠人は覚えていた。

「聞いたで。いつかこの呼び方で呼んだろと思っててん」

「なんやちょっと恥ずかしいな」

「いやか?」

「ええよ、でもタロさんもペンネームでしょ?ホンマの名前は?」

「それはまた後でな」

 そうこうしているうちに二人は本堂へ辿り着き、神前ではいつもと違い、神妙な面持ちになる。

 神社でのお参りは、二礼二拍手一礼という。しかしながら、そんな礼儀など弁えない二人は、賽銭を投げ込み、パンパンと二つ手を打ってお参りを済ませる。信心深くない悠人は、お参りの時間も短い。

「タロさんは何をお願いしたん?」

「もちろん内緒やで。話してまうと叶わんようになるらしいからな」

「ほんならワタシも黙っとこ。絶対叶えたいもん」

「よし、お参りも終わったし、屋台めぐりに行こか。まずは、スマートボールかな、それともパチンコかな」

「それよりも温かいもん食べよ。ほら、あそこにおでん屋さんあるやん、熱燗も頼んでまったりしたい」

「それもええな。よし、そうしよ」

 ちょうど目の前に現れたおでんの屋台には、座って食べられるようにテントが設られていた。

 テント内で空いている長椅子を確保し、隣同士に座る二人。見渡すと、どこのカップルも全て隣同士に座っている。寒い時期は誰しもが肩寄せあって暖をとりたいものだ。悠人がセレクトしたおでんは、大根、ガンモ、こんにゃく、すじ、玉子、そして熱々の日本酒である。

「あらためまして、明けましておめでとう」

 二人は盃をカチンとならして、おでんをつつき始める。まずはガンモを割って中身を確認。ありきたりの材料だが、出汁が充分にしゅんでいる。

 テントの中を見渡したが、まだ昼どき前であり、参拝客がそぞろ歩いている割には、客入りは少ない。ごうごうと炎をあげているストーブの近くの席を確保できたのが幸いだ。ゆっくりできる。

 二人で熱々のおでんをつつきながら、最初の屋台を楽しむと、次は境内を散策しながら、団子を頬張っていた。

「そうや、おみくじ引きに行かへん?」

 突然美月が何かを思い出したように悠人に提案した。

「ええけど、ボク、信心深くないで」

「ええの。運だめしやから」

 ここのおみくじは社務所の前にある。二人は木製の大きな六角形の箱を振る。出てきた棒に書いてある数字を社務所のみくじ係に伝えると、棚の中の一枚を渡される仕組みであった。

「やった、中吉やわ。願い事叶う、待ち人来たるって書いてあるわ。タロさんはどうやった?」

「ボクのは残念ながら凶やな。健康に気をつけろと書いてある。ヤバいな。せやけど、恋愛は真実の愛を得るって書いてあるし、失せ物は時を経て見つかるって書いてある。全くもって希望が無いわけやないな」

 すると美月はキョロキョロとあたりを見回し始めた。

「なんか探してる?」

「ほら、おみくじを結ぶ枝」

 そんな美月をたしなめるように悠人はうんちくを披露する。

「ある言い伝えやと、おみくじで良い運勢が出たら持ち帰り、悪い運勢が出たら、神社の枝にくくってお祓いをしてもらうって言う説があるらしい。それで言うと、ボクのおみくじはお祓いを、みーやんのおみくじは大事に持って帰るというのが正解かな」

「ふーん、今まではみんな枝にくくってた。何が書いてあったかなんて、次の日には忘れてたな」

「ええこと書いてあんねんから、今日は持って帰り」

「うん、そうする」

 美月は大事そうに財布の中へおみくじをしまい込み、悠人は適当な木の枝を探す。社務所の隣に絵馬が奉納されているところがあり、そのまた隣に枝を真っ白に染めた小木を見つけた。まるで早咲きの白梅のようにも見える。

 悠人は白梅のように見える小木の、なるたけ花の少ない枝先を選んで、お祓いしてもらうおみくじを結んだ。

「これでボクの悪運も少しは和らぐかな。さあ、そろそろ本格的にランチを食べに行こ。梅田に戻ろ」

「まだそんなにお腹減ってないで」

「大丈夫、お魚をつまみながら日本酒をキュッとやるだけですから。お嫌いですか?」

「大好きです。うふふ」

 こうして二人は住吉大社を後にして、再び電車に揺られて、都会の街並みに戻るのである。


 悠人が目をつけていた店は梅田ではなく天満駅付近にあった。南北に広がる日本一長いとされている天神橋筋商店街のちょうど真ん中ぐらいに天満駅は位置している。

 悠人もあまりこの界隈に馴染みの店があるわけでは無いが、天満駅付近は北界隈の新世界みたいなもので、そこいらじゅうに飲み屋が乱立している。それでも一応は事前にリサーチ済みであった。

 天満駅を降りて、細い路地を入っていくと両脇に小さな店がたくさん並んでいる。さすがに立ち飲みは辛いので、座れる店を探した。

 五分ほど歩くと、紺色の生地に「能登屋」とプリントされた暖簾を発見する。そこが悠人がリサーチしていた店であった。

 引き戸を開けると、威勢の良い声が聞こえてくる。

「いらっしゃい。お二人さん?」

 大将には悠人の後ろに隠れていた美月の姿も見えていた。

 悠人は並んで座れるカウンター席を選び、美月をエスコートした。

「お飲み物はなんにしますか?」

 カウンター越しに大将が尋ねたので、迷うことなく熱燗を注文した。

「結構歩いたな。そこそこお腹も空いたやろ」

「ぺこぺこまではいかへんけど」

 悠人は刺身とアサリの酒蒸し、そして揚げ出し豆腐を注文した。どれも日本酒にあうつまみばかりだ。

「お正月はどうすごしてた?」

 美月が悠人に尋ねた。

「ほぼずっとひまやった。ひとりでパソコンとにらめっこ。たぶん明日も明後日も。みーやんは?」

「親戚の家に行っても手伝いしないかんし、従兄弟の子らにお年玉あげなあかんし、たいして休まらへんかった。でもお婆さんの顔が見られたからええかな」

「お婆さんっていくつ?」

「今年八十八やったかな。まだ目も口もはっきりしてはるわ」

「ええこっちゃ。田舎の人は丈夫でええな」

「ところで、ワタシがおらんくて寂しくなかった?」

 美月が急に話題を変えてきた。

「寂しかったで。=嘆きつつ 独りぬる夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る=ってとこかな」

「なにそれ?」

「百人一首であるねん、そんな歌が。どんな意味かは忘れたけど。なんか一人で寝たら寂しいな、っていう感じやったかな」

「色んなこと知ってるんやね」

「たまたま小学校の先生が熱心やったからな。みんな一生懸命覚えてたわ」

「ワタシらはそんなんなかったな」

「わかりやすい解説本があんねん。そんなん読んだら面白なるで」

「そやな、また読んでみよかな」

 悠人が小学生の頃から百人一首に関心が高かったのは事実である。関連本も何冊か持っていた。そのうちの一冊が解説本であり、歌の内容や背景などを教えてくれたおかげで、さらに関心が高まった経緯があった。

「当時の短歌ってダジャレのオンパレードみたいなもんやねん。そんなんがわかったら、結構面白いもんやで」

「古文なんか全然わからんかったわ。今度ゆっくり教えてもらおかな」

「ボクかて古典は苦手やったで。でもこれだけはおもしろかってん」

「そのおもしろいところだけ教えてくれたらええの」

 そう言って美月は悠人の手を握り、肩を寄せた。

 悠人も美月の肩を抱いて、さらに手を握り返した。

「今日はゆっくりできるんかな。ボクかて教えてほしいことあるし」

「なんやろ」

「もっとみーやんのこと知りたいし、本当の名前も・・・」

「タロさんの名前もな」

 熱燗のせいだろうか、二人の身体はポカポカと熱を帯びてきていた。

 天満の店は長居をしてはいけない。さっとあおって、さっと出る。悠人と美月も追加注文はせずに、温まった身体が冷えないうちに次のコンテンツに移りたかった。

 歩いてぶらぶらしてもよかったのだが、せっかく温まった身体を冷やさぬように電車に乗った。二駅ほど揺られると、大阪第四の歓楽街である京橋にたどり着く。

 駅の北側には温泉マークの建物がずらりと並んでいる。悠人は美月の手を引いて、その中の怪しげな建物へと誘導していく。

「お年玉をもらえるかな」

 さりげないジョークのつもりだった。

「もらうのはワタシかもよ」

 それはOKのサインである。二人は腕を組み直し、よもや夫婦であるかの如き振る舞いで入口へと吸い込まれていった。


 二人が入った妖しげな建物は、黒と紫が混在した壁と赤いランプがチカチカと光るホテルであった。

 中は意外とノーマルで、中年の悠人にも安心できる趣だった。

 部屋に入っても二人は言葉少なに緊張した面持ちであった。乾いた声で最初に話かけたのは悠人だ。

「シャワー浴びよか。ちょっと酔ってる身体も冷やしたいしな」

 恥じらいながらも美月は悠人の袖をつかみながら、

「一緒にはいろっ」

 そのいじらしいしぐさに思わず抱きしめる悠人。自然と二人の唇が重なる。

 二つのシルエットがしばらくの間一つになっていたが、何かを思い出したように、美月は悠人の身体を離した。

「脱がせてくれる?」

 悠人はそれに答えずに、一枚ずつ美月の衣服を剥がしていく。やがてビキニ姿の身体がさらされると、今度は美月が悠人の衣服を剥がしていく。

 その最後の一枚に手がかかった時、悠人は再び美月の唇を奪いに行った。絡みつくねっとりとしたやわらかな女神が、官能の刺激を震わせる。

 二度目の甘美な時間が終わると、悠人は自ら最後の一枚を脱ぎ捨て、美月の秘密を隠している残りのものを剥ぎ取ると、やや強引にバスルームへ引き入れた。蛇口をひねると心地良い加減の湯がほとばしる。やや火照り気味の二人の身体を清めるかのように滴が肌の上をなめるように流れていく。

 店で露わになっているのは部分的。悠人はもちろん、美月も全身を露わにするのは初めてだ。少し表情に恥じらいの色がある。それがまた悠人の男心に火をつけた。湯船に湯が貯まるまで、二人は互いの身体を洗い合う。ただ、それは言い訳であり、単にくっついていたいだけなのである。

 こういう施設では、ボディーソープの他にローションなども設置されている。悠人はそのボトルを温めて、美月の身体にかけ始めた。ヌルヌルとした感触が肌に特別な刺激を掻き立てる。

「こういうところに行ったことあるん?」

「経験した程度にな」

「もう行かんといてな」

「もう何年も前から行ってないで」

「これからはワタシがしたげる」

 美月はそういってひざまずき、すでに迎撃体制に入っているミサイルを優しく包み込んだ。その瞬間、忘れかけていた甘美な刺激を思い出した悠人は、思わず美月の頭を抱え込んだ。美月の遊戯はしばらく続けられたが、気が遠のく前に花園から抜け出なければならないことを悠人は自覚する。

「ほら、お湯も溜まったし、一緒にあったまろ」

「うん」

 湯の中でも二人は前になり後ろになり、その肌を感じていた。時折り重なる唇の回数が増える度に、互いの息は荒々しく、猛々しくなっていった。

 身体の中も肌も温もりきったことを悟った悠人は、美月の手を引いてベッドへ導いた。すでに宴たけなわとなっている二人の身体は、どちらからともなく互いの肌を求めあった。

「ボクの名前は悠人、キミは?」

「ワタシは美也子」

 とうとう二人は互いの名前を知ることとなった。まさに一つになろうとする直前のことだった。

 シルエットだけでなく、心も身体も一つとなった二人は、その激しさゆえ、言葉を交わすこともなく、互いの熱を求めあっていた。しかし、少しでも長く二重奏を楽しむために、悠人は時折り詩人になる必要があった。

「夢みたいや。ボクの腕の中でキミとこうしていられるやなんて。店の中だけの妄想やとおもてた」

「初めて会うたときに思てた。ずっと前から知ってる人かもって。なんでもっとはように会われへんかったん?そう思てた」

「ボクもや」

 悠人はそれだけ言うと、再び甘美の世界への堪能をはじめる。やがて最後の力を振り絞り、思いの丈を美月に投げつけるまで・・・。


 賢者の時間を終えた二人は、我に帰ったように互いの顔を確認した。夢とも幻ともつかぬ時間を過ごした二人にとっては、現実の世界を取り戻す大事な瞬間だった。

「ありがとう。今はそれしかいわれへん。これからも大事にするから、ずっとそばにおってほしい」

「ワタシでええの?」

「キミがええねん」

「それやったら、名前で呼んで」

「美也子」

「悠人さん」

 それからしばらく二人は、時間の許される限り、互いの肌の温もりを確かめあった。ただ、抱き合っていただけだが、今の二人にはそれで充分だった。


 そうこうしているうちに、外では日没の時間が迫っていた。陽がかげり、薄暗い光が窓の外に見える。

 そのことに気づいた悠人は、穢しあった身体をいたわるように、美也子を浴室へ誘った。汗ばんだ肌はまだ熱を帯びたままだった。

 もはや二人は他人ではない。悠人は、そんな自覚を胸に刻みながら、飛沫を浴びていた。そして、自らの腕の中で、その身体を清めている美也子はすでに美月ではない。

 バスルームから出た二人は、かすかな緊張感とともにいた。お互いに不倫なことは理解していた。それでも、わかっていても、抑えきれない衝動があったのも事実である。

「奥さんを裏切らせた。ゴメンネ」

「キミは悪くない。ボクが無理やり襲ったんや。それに、ボクはずっと独身やって言うてきたやろ?」

「ワタシに気をつこうてくれてありがとう。そやけど、二人で背負うていきたい」

「いや、これはボクだけの罪や。キミの知らんことやさかい、気にしなや」

「もう一回、名前で呼んで」

「美也子」

 悠人は美也子を抱きしめながら、耳元でそっとささやいた。

「キミのことがホンマに好きや。これだけは嘘偽りない。それだけは信じてほしい」

「うん」

 美也子も小さくうなずいた。ずっと悠人の胸にほほをあてながら。


 新年早々、新たな恋に一歩踏み出した悠人と美也子。情事を終えたばかりの二人にどのような未来が待っているのか、まだ誰も知らない。けれども前途多難な日々となるだろうことは、悠人も美也子も察知していたに違いない。

 初めて互いの熱い肌に触れた二人は、その身体の火照りを鎮めた後、言葉少なに妖しげな建物から腕を組んで出てきた。

「今日はありがとう。遅くなったね」

 悠人が時計を見ると、すでに夜の九時にならんとしていた。

『光陰矢のごとし』

 知らず知らずのうちに時は過ぎていくもの。特に楽しい時間や充実した時間ならなおさらである。

「また、店には行くから」

「うん」

 心なしか美也子の返事がか細い。

 さもあらん。美也子とて、決してふしだらな女ではなかった。かつて今までに自分の贔屓の客と淫らな関係になったことなど一度もなく。悠人とのことは、純愛であると信じている。

「気をつけてね」

 悠人は梅田駅まで付き添った。美也子が乗る阪急電車の改札口まで。

 契りを交わしたが故に、悠人には美也子を守る責任を感じていた。こういうと、美也子が重い女になると思われがちだが、それは悠人が勝手に思っているだけであり、なおかつ悠人はそんな女が嫌いではないタイプだった。

 互いの思うところは違えど、すべからく、二人は真実の愛であるが故に葛藤の日常を生きることになるのであった。


 改札口まで美也子を見送った悠人は、そのまま家に帰ることに戸惑いを覚えていた。しかし今日は、まだ三が日。空いている店などない。もちろん『レインボー』も然りである。悠人は一旦京橋まで戻り、駅ナカのスタンドバーで気持ちを落ち着けることにした。そこは以前にも立ち寄ったことのあるバーではあったが、顔馴染みがいるわけではなかった。中に入ってカウンターの椅子に腰かけて、立ち並ぶボトル越しにボーイを呼んでハイボールをオーダーし、軽く喉を潤してから今日の一連の出来事を振り返る。

 思えば正月らしい賑やかな一日だった。心地良い疲れと満足感、それと達成感のようなものが身体中にみなぎっている。もちろん悠人が望んでいたことであり、彼女もそれに応えてくれた。新しい年明けにふさわしい新しい世界観の始まりでもある。

 これからしばらくは、万里に対していくつかの嘘をつかねばなるまい。あまり嘘が得意でない悠人にとっては、最も大きな難題であったが、それは致し方あるまい。



 悠人が家に着いたのは、その日の十一時を回った頃だった。万里と唯衣のケラケラと笑い声がリビングから聞こえてきた。どうやら和歌山から帰ってきたようだ。

 部屋をのぞくと二人で正月の定番のテレビ番組を見ていた。

「ただいま」

「おかえり。遅かったね、どこ行ってたん」

「ああ、梅田まで出かけて、何軒かハシゴしてたら遅なった」

「街中は店開いてんねんな」

「キミらもどこぞで晩御飯食べてきたんやろ?なんばとかやったらいっぱい店開いてたんちゃうん」

「そやな」

 それだけ返事をすると、再びテレビに向き直り、唯衣との歓談がはじまる。今しがた話をしていたのに、まるでもうそこには悠人の存在などなかったかのように。

 それもいつもの慣れた光景なので、悠人も特に気にせず、自分の部屋に引きこもった。


 部屋の隅には画材の入ったカバンが置いてあり、中には描きかけのデッサンが入っている。もちろん美月嬢がモデルのデッサンであり、ときおり思い出しては手を加えているものである。

この日もあらかた仕上がりかけている絵を眺めながら、少しずつ手を加えた。スケッチブックサイズの肖像画は、紛れもなく美月、いや美也子そのものだ。あとは色をつける作業だが、当初は水彩を予定していたが、急きょ色鉛筆で仕上げることとした。この手法なら手軽に続きが描けるからである。

 悠人が思い描く美也子の表情は、聖母マリアのように包容力溢れる優しさであった。それは悠人が美也子に求めている優しさなのかもしれない。

 いまや家族と言えども、ただの同居人であるかのような生活風景に慣れてしまった顛末が、そのような感情をもたらしたのかもしれない。

 あえて悲観的なことは思い出さずに手をすすめることで、悠人は素直に美也子を想い浮かべることができるのだろう。

 完成まであとわずか。わくわくしながら、夜更かしする宵闇となった。



 一月四日。

 新年の始まりは互礼会から始まる。関連企業のお歴々を呼び、新しい年の絆を確認するのである。

 毎年行われているこの儀式は、悠人が新入社員として入った年から一向に変わらず、今も続けられている。もちろん、北阪百貨店の武藤氏も顔を見せている。こういう席での武藤氏の担当は未だに悠人らしく、二人は宴会の最中、ずっと込み入った話をしていた。

 途中で思い出したように英哉を呼んで些事を確認していたが、武藤氏にとってはそれが本題ではなかったらしい。

 武藤氏もすでに六十の坂は越え、初老の域に入ってからは、これ若作りにいとまがない。それに引き換え、悠人は平均的な年代よりも若く見えるのが常である。そのおかげでとれた契約もあるにはあった。武藤氏には、その見た目の若さが羨ましかったこともある。

「大原くん」

 急に真面目な顔で悠人の顔を見据えた武藤氏に少しおののく。

「キミの若さはやっぱりこれかな?」

 そう言って武藤氏は左手の小指を突き出した。

「ほう、珍しいことを聞かれますな」

 以前にも話した通り、武藤氏はあっちの方はサッパリで、あっち系の店はおろか、馴染みの店の女の子との噂も皆無の人だった。

「もし、あっち系の相談をご所望やったら、ボクではなく、谷口が専門ですが」

「いや、谷口くんの話は専門すぎるやろ?ワシには大原くんあたりが適任やとおもとるがな」

「残念ながら、ボクはど素人です。ウチの谷口と行ってください。あいつなら武藤さんの好みに合いそうなところに連れてってくれますよ」

「そうか、それやったら谷口くんに頼もかな」

 事実、悠人は『ピンクキャロット』以外の店を知らない。そこを知られるのも好ましいことではない。ここは素直な気持ちで英哉に手綱を預けるべきと判断した。

 『ピンクキャロット』といえば、昨日美月に会って来たばかりだが、すでに彼女の人肌が恋しくなっていた。長らく柔肌に枯渇していた悠人にとって、過日の逢瀬は麻薬のような効果しかなかった。

 次の出勤は五日後の水曜日。正月出勤をしなかった彼女だが、通常の勤務はこなすらしい。早く行って次の約束を取り付けなければ。はやる気持ちを抑えられない悠人であった。

 そのとき突然、後ろから二つの腕に拉致される。その腕はか細くて、それでいてやわらかく、なおかつ良い香りを漂わせる本体を持つ腕だった。

 その瞬間に腕の持ち主の正体を理解した悠人は、スッと立ち止まる。

「キミら、清水くんに経理の子やろ?話は聞くから、腕は解放してくれんか?このままやと、ひっくり返りそうや」

 悠人を拉致した二本の腕は、会場の物陰に隠れたところまで来ると、素直に腕を緩めた。

「明けましておめでとうございます」

 普通に新年の挨拶をした二人は、やはり瑞穂と愛だった。

「明けましておめでとう。それにしても強引な挨拶やな」

「だって、他の人に聞かれたくないんですもの」

 瑞穂の含みのある言い方が気になったが、そこは追求せずに次の言葉を待った。

「納会の最後を覚えてはります?ほら、専務とか谷口さんらと別れたあとに行った店」

 瑞穂はいきなりストレートでかまして来た。

「行きつけの居酒屋かな?それともバーの方かな?」

「とぼけたってダメです。ウチらあとをつけてったので、悠人部長が怪しげな店に入ったの見ましたから」

「キミら暇やったんやな。ほんで?」

「悠人部長のええ人って、そこの人ですか?なんていう人ですか?」

 悠人は驚いたというよりも呆れた。そして彼女が何を知りたがっているのだろうとも思った。

「清水くんは、あの店がどんな店か知ってる?」

「調べました」

 すると瑞穂の隣で話を聞いていた愛が面白がってちゃちゃを入れた。

「このことを知られたくなかったら・・・」

 愛の台詞は瑞穂によってそこで断ち切られた。

「やめて。ウチはそんなつもりであとつけたんちゃうから。それにきっと谷口さんと行ってた店やから、全然秘密になんかならへんねん。アホなことしんとき」

 瑞穂は愛をかばうかのように諌めた。確かに悠人にとっては、さほど秘密になるネタではない。多少、気まずくなる程度だ。そんなことで愛の印象を悪くすることを避けたのである。

「ほんなら清水くんは何のためにボクのあとをつけたん?」

 その質問には瑞穂も困ってしまった。なぜそうしたかったのか、自分でもしっかりとした答えを持っている訳ではなかったのか。

「ウチ、悠人部長の好みの女性に興味があるんです。どんな人が悠人部長に気に入られてんねやろって」

「芸能レポーターみたいな真似してどうするん。誰もボクのゴシップなんか興味ないで」

「ウチはあります。憧れの人が普段はどんなゴシップ持ってはんのか興味津々です」

「ボクかてな、ああいう店に行くただのおっちゃんやねん。ヒデと同類や。こんなおっちゃんのこと探ってもしゃあないやろ」

「ウチやったら、悠人部長の店通いを止めて見せます。東京へ一緒に行ってから気になって仕方ないんです。ウチのモヤモヤを鎮めてください」

 それを聞いた愛は驚いた表情で、

「そやけど部長さんて妻帯者やないの?それって不倫やで。それはやめとき」

 さすがの愛も不倫な話には正常な感覚を持っているようだ。

「そやな。もうちょっと冷静に考えや。ボクが離婚したら、その時は教えてたげるさかい」

 悠人はそう言って軽く瑞穂の頭をポンポンとはたくように撫でて、それまでのことは何事もなかったかのように場を離れた。

 頭を撫でられた瑞穂は少しポーっとした顔で、

「ああいうことしはんねん。乙女の頭を簡単に撫ではんねん」

「セクハラやな」

「ちゃうねん。心地ええねん。あの人に撫でられると、なんかこう、あったかい気持ちになるって言うか」

「ああ、あんたホンマにやられてるわ。不倫はやめときや。ハッピーエンドなんかないで。ウチは言うたからな」

 呆れ返った様子の愛は瑞穂から離れて、自分の部署がたむろっている集団へ戻った。


 この日は年賀会だけで、仕事らしい仕事はない。よっぽど詰まった仕事がある者以外は、午後からはめいめいの得意エリアへと散らばっていく。

 当然、悠人には英哉から声がかかる。

「悠さん、次行きますよ。『武元』で待ってたらよろしいか?」

 英哉に至っては、完全に悠人のボトルをあてにしている。悠人も慣れたもので、そんなことは百も承知、二百もガッテンである。

「空になったら、おんなじもん入れときますね」

 英哉が無理矢理悠人を引き出さなかったのは、ちょうどその時、悠人が武藤氏と島田専務と三人で何やら相談事をしていたからである。

 武藤氏も慣れたもので、おおよそ二次会は島田専務や八代元専務などとつるむのが主であったが、八代元専務がいなくなった今、その矛先を悠人に変えようとしているところだった。

「実はな島田さん、さつき大原くんとあっちの店の話をしてたんやがな、谷口くんに丸投げしようとしとんねん。どう思う?」

「そら武藤さん、大原くんの言うとおりですわ。大原くんは別名大奥担当大臣とまで言われた堅物ですさかい、そっちの道に長けてるとは思えませんな」

「そうか、ほんなら今夜は大原くんやのうて谷口くんを捕まえなあかんかったんやな」

「大丈夫ですよ。行き先は決まってますから」

「おお、さっき言うてたとこか」

「そうです。一緒に行きますか?」

 これは悠人にとっては渡りに船といった感じだった。どうせ『武元』のあと、英哉からはそっち系のお誘いがあるに違いなかった。それをどうやって断ろうかと思案していたところである。しかも武藤氏に島田専務まで同行すれば、『武元』の支払いですら、この二人持ちになるかもしれない。

 果たして武藤氏と島田専務は、英哉をつかまえるために悠人を従えて『武元』へ行くこととなったのである。


 『武元』では、英哉と秋山、そしてなぜか小林までがそこにいた。

 悠人が入口のドアを開け、三人を確認すると同時に、英哉も悠人を見つけた。即座に大きな手招きで呼んでみたが、悠人の後ろにいる人物を見つけるや否や、驚きの表情に変わった。

「武藤さん、それに専務も、どうしはったんですか?」

 それに答えたのは島田専務である。

「その話はおいおい。あとでな」

 そう言うと、島田専務は武藤氏を英哉の隣に座らせ、自らもその隣の座布団を占領した。ここは座敷席なのである。

 いきなりの大物の出現にかしこまる小林と秋山だったが、そのあたりは悠人が場を和ませた。

 始めは仕事の話だったりプロ野球の話だったが、酒が進むにつれ女の話が出始めた。もちろん、話題の中心は英哉である。

「やっぱり若い女の子と触れ合うってええもんだっせ」

 などと得意げな話が出た途端、待ってましたとばかりに島田専務が追い討ちをかけた。

「その武勇伝のある店に今から行こや。もちろん武藤さんも一緒や」

「えっ?ホンマですか?」

 いきなりの展開に驚く英哉。やや困った顔を悠人に見せたが、それを無視するように秋山と小林になにやら言い聞かせていた。

「悠さん、どうしたらいいんですか」

 英哉は泣きそうな顔で悠人に訴えたが、

「こないだ見つけたっていう、ほら、オレを誘った店あったやろ、そこへでも連れてったげえや」

 などとこともなげに答えたものだから、島田専務も便乗するかのように、悠人の意見に乗った。

「よし、じゃあ三人でそこへ行こう。せっかく武藤さんが乗り気なんや。今日を逃したら次はないかもやで。ヒデやん責任重大やで。頼むで」

「ほな、ボクは若いの連れて別のとこ行きます。まだこいつらには早いと思いますし」

 悠人は早々に脱出態勢を整えた。

「よし、そうと決まれば善は急げや。二次会は解散!勘定はワシと専務でしとくさかい、若いのは大原くんと違う勉強しといで」

 そう言って早々と勘定を済ませる武藤氏。困り顔の英哉。礼を述べてそそくさと店を出る悠人。それぞれの表情が対照的だった。


 『武元』を出た悠人は秋山と小林をバーに誘ってみたが、二人がやや難色を示したので、無理強いせずにその場で別れた。

 悠人も昨日の出来事をゆっくり咀嚼する時間がなかったことであり、一人『レインボー』へと足を向けた。

 店に入り、いつものシートに腰掛けると、無口なマスターが寄って来て、

「いらっしゃい」

 簡単な挨拶を交わした。相変わらずマスターの愛想はクールな感じだったが、動きだけはさすがにスムーズだった。悠人がカウンターに腰掛けるや、すぐさまロックグラスを目の前に輝かせた。中にはいつものバーボンが氷と共に入っている。

「なんかいいことあった?」

 カウンター越しに悠人の様子を伺う。

「あったで」

 悠人の言葉も短い。大声で発表するべきことではない。後ろめたさもある。それを恥ずべき良識はあった。ゆえに、これからが様々な葛藤との戦いであることもわかっていた。

「その様子だと高いリスク背負ったな。あまり思い詰めなさんな。どうせいずれ手詰まりになるのは目に見えている」

「そうかな?意外と策士やで、オレは」

「そういうヤツほど策に溺れるのさ」

「かもな」

 悠人はそれ以上、否定も肯定もしなかった。

 実際、これからどうしていこうなどと、具体的なプランなどない。ただ恋に落ちているだけである。

 まだ今はそれでよかった。久しぶりにつかんだ本格的な恋である。まだリスクを考える時期でもない。今はただ恋に溺れている余韻に浸りたかった。

 今宵、流れていた音楽はジャスだった。曲も奏者も知らないが、虚無に時間を過ごしたい悠人にとっては、それでよかった。

 何もかもが不確かな夜は、こうして過ぎていくのである。

 後日談にはなるが、英哉とともにアッチ系の店に行った島田専務と武藤氏は、思いのほか楽しんだらしく、これを機会に北阪百貨店の担当主任は英哉のご指名になったのだから大したものだ。




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