第8話 =春来たるかな住吉の庭=

 東京から戻ると、すぐに仕事納めとなった。まずは島田専務に報告するのだが、あらかたの連絡はすでに東京から一報が入っており、北阪百貨店の件も併せて上々の首尾に御満悦のようだ。

 この日は早めに切り上げて一年の労をねぎらうのが習わしであった。今年の幹事は英哉である。

「えーみなさん、企画部では夕方の四時より納め会を開催します。島田専務のボトルを空にするよう指示が下っておりますので、会場は『麦や』となっております。全員参加のことよろしく」

 すでに英哉は宴会モードに突入しており、これ以上仕事をする気はなさそうだ。幸い持分の仕事は終了しており、あとは身の回りを清掃するだけとなっていた。

 それとは対照的に、瑞穂は最終絵コンテの仕上げに苦労していた。あと一時間足らずで仕上げなければいけないのだが、最後の一コマに苦慮していた。三日前に営業部がつかんできたある食品加工会社のイベントチラシであった。

「ほら、そろそろ終わらないと宴会に間に合わへんで」

 英哉がチャチャを入れると、

「あっちへ行ってて下さい。それかなんかええ案ください」

「こんなんちょちょっと課長か誰かを逆立ちでもさしてたらええねん」

「えー加減なこと言わんで下さい。コッチは必死なんですから」

 そこへ二人のやりとりを聞いて駆けつけてきたのが、小林和樹だった。

「こないだはご馳走様。今度は何?」

 突然割り込んできた小林に、少し嫉妬心が湧く英哉。

「おいおい、おまいさんはあっちのグループやろ。コッチのことまで首を突っ込まんでええねん」

「でもボクら、すでにデートした仲ですから」

 小林が自慢げに胸を張ると、

「いやいやいやいや、仕事を手伝ってもらったお礼しただけやん」

 瑞穂は強めに否定する。

「でも二人だけで食事したで。その後バーも行ったよな」

「それも御礼です」

「ほら、ミズちゃんもこないゆうてるから、はよ自分の仕事に戻り」

 瑞穂との時間を横取りされた英哉はじゃまな小林を追い払うのに躍起になっている。そんな英哉を無視するかのように、小林は瑞穂の絵コンテを覗き込む。

「ああこれね。展示会のチラシやろ。社章かキャラクターでええんちゃうん」

 小林も軽々しく言ったものだから、瑞穂は益々イライラがつのる。

「ええです。自分で考えますから、あっちへ行っててください」

 瑞穂が手がける会社の主力商品は練り物なのだが、今度のイベントで新商品を売り出す予定なのである。それは何かというとラーメンなのである。魚の加工製品から出る端材で出汁をとり、蒲鉾の材料を麺に練り込んだ新商品である。

 今度のスーパーでの売り出しが、今後の売上に大きく影響する、社運をかけた一大イベントといっても過言ではなかった。

 チラシには商品写真と調理例の写真は大きく掲載している。あとひとつ、何かを追加してまとめたいのだ。瑞穂が二人を遠ざけて頭を抱え込んでいるとき、側を通りかかった悠人が声をかけた。

「ところで清水くん、キミはそのサンプルを食べてみたの?」

「はい。一応は」

「そのサンプル、まだ残ってる?」

「はい。いくつももらいましたから」

「じゃあみんなで試食しようや。ほんでみんなが気づいたことを聞いたらええやん」

「もうすぐ納め会ですよ。お腹、大丈夫ですか?」

「何も腹一杯食べるわけやないし。ほら、ちゃっちゃと用意して」

 瑞穂は部屋付きの冷蔵庫からサンプルの麺を取り出して、急ぎ給湯室へ向かった。

 ほどなくして仕上がったラーメンを英哉も小林もすすり始めた。あたたかい湯気が部屋の中に充満すると、隣の部署からも野次馬がやってくる。その野次馬をみつけた島田専務までやってきた。

「何や、何があるんや。ええ匂いしとるやないか」

 島田専務の姿を見つけた悠人は、島田専務の腕を引っ張って、無理矢理輪の中へ引きずり込んだ。

「さあ、ここに来たからは責任者の一人として意義ある試食をお願いしますよ」

「知らんで、食べるだけやで」

 悠人に無理難題を押し付けられそうになった島田はすでに逃げ腰の体制だ。

 大きな丼に二人前。八人ほどが少しずつ試食していく。和風出汁にツルッと腰のある麺が喉元を過ぎていく。どことなく魚素麺を思い出させる。

 すると、いかにも弱気だった島田専務がボソッとつぶやいた。

「これ、日本酒やな」

 悠人はニッコリ笑って、

「ほら、ヒントがでたやろ。それを元に三案ぐらい描いてみたら」

 瑞穂もそれを理解したようだ。

「わかりました。少し思いついたので、やってみます。ほらね、やっぱり悠人部長はあんたらとは違うわ」

 そう言って瑞穂は英哉や小林を非難するように、順繰りに指差した。

 一時間のち、瑞穂が無事に絵コンテを完成させたのはいうまでもない。


 さらに三十分後、彼らの姿は『麦や』にあった。全体を取り仕切っているのは英哉である。

「さあさあみなさん、今年もこれで納めです。乾杯の前に島田専務からありがたいお言葉をいただきましょう」

 島田専務はグラスを持って立ち上がり、労いの言葉と共に四月から行う人事交流の話をした。一人目の営業部の中堅は決定しており、本人もすでに了承しているらしい。

 乾杯が済むと始めの三十分ぐらいは腹ごしらえの時間帯であるが、それを過ぎると席列は乱れていく。

 悠人は島田専務にだけ挨拶に行ったが、挨拶回りが苦手な性分でもあり、そそくさと元の自分の席に戻ってきた。

 それを見てイの一番に瑞穂が動いた。

「悠人部長、今年は大変お世話になりました。東京でも・・・」

 そう言いかけた時、瑞穂の後ろから経理部の愛が割り込んできた。

「またなんかヒソヒソとやらしい話してるな。みなさん、ここで禁断の恋が芽生えてますよ」

 愛の声は比較的小声だったが、瑞穂の隣にいた秋山には聞こえたようでピクリと反応した。

「秋山くん、この子が勝手にいうてるだけやから、本気にしたらあかんで」

 一瞬、キョロ目になっていた秋山だったが、彼も悠人の人となりを知っている。まさか新人女子社員に手を出すような人物ではない。

「あんた、声が小さいやないの。もっと大きな声で宣伝してえな」

 などと瑞穂は愛をあおったが、悠人がそれをたしなめた。

「本気にしはる人がおるからやめてな。それよりも清水くんには恋人候補がいっぱいおるやろ。小林くんもその一人やろ?」

「ウチは年上が好きなんです。色々教えてもらえるし、頼り甲斐あるし」

「ほんなら営業部の市田くんなんかどうや、まだ適齢期で独身やで」

 それを聞いて、瑞穂ではなく愛が反応した。

「どの人、どの人?」

「今ちょうど島田専務の隣におるやろ」

 どれどれ、とばかりに吟味する瑞穂と愛。ちらっと姿が見られた途端、

「あっ、ウチはパス。愛にゆずるわ」

「いや、ウチもパスやな。部長の方が包容力ありそうや」

「おい、キミまで何を言い出すねん」

「照れると可愛いなあ。瑞穂一人のもんにするのはもったいないな」

 そこへ英哉がやってきたものだから、ますます話はややこしくなる。

「なんかここだけキャバクラみたいですな。オレも混ぜてよ」

「谷口さんは風俗通いの人やから嫌です。そういう女の人と遊んで来てください」

 瑞穂が英哉をないがしろにすると、英哉も負けじと応戦する。

「あのな、オレは悠さんとはそういうつながり友達やねんで」

「こら、お前も余計なこと言わんでええねん。そんな行ってないやろ」

「悠人部長もそんなとこへ行くんですか」

 愛は疑い深く悠人の表情を見つめていたが、その様子を見ていた瑞穂がやがて思い出したようにうなずいた。

「そうか、そこの人なんですね、悠人部長の大切な人は」

「なんですかそれは、そんなんボクも知りませんで」

 思わぬ瑞穂の爆弾発言に英哉も大いに驚いた。

「清水くんの勝手な想像や。本気にしたらあかんで」

 悠人の言葉を聞いても、瑞穂は何やらニヤニヤしたままだった。

 そこへ小林が入ってきたものだから、ますますおかしくなる。

「なんですか、ここは楽しそうですね。ボクも仲間に入れて下さいよ。ねっ、瑞穂チャン」

「なんや、やけに馴れ馴れしいな。たかが一回ぐらいご飯行っただけで」

「そうやで、悠人部長となんか一緒にお泊りしたんやから」

 瑞穂の言葉に即座に対応するかのように悠人が反論する。

「ああ、それぞれの部屋でな」

「何や。なんかあったんかと期待したのに」

 愛もまるで芸能レポーター並みの興味を示す。

「とにかく、谷口さんも小林くんも今はパスなの。悠人部長はしばらくウチの担当やから」

 さて、これは困ったものだと思った悠人は英哉に向かって、

「よし、ヒデ、久しぶりにあの店に行くか。な、ボクもただの助平ジジイやし、そういう店に行くねん。一次会終わったら行こか」

「悠さんからお誘いなんて珍しいな。付き合いまっせ。ということで、悠さんはオイラの担当となりました。みなさんお引き取りを」

 さすがの瑞穂もどんな店のことを言っているのか、相手が英哉だけにおおよその検討は付いている。それほど子供ではないし、悠人と英哉が往年来のコンビであることも聞いていた。

「それじゃあ、後はお二人でお楽しみください」

 どうやら瑞穂はすぐに次の作戦を思いついたようだ。愛の手を引いて一旦その場を立ち去る。

「どうしたん?あきらめた?」

 突然の行動に驚いた愛だったが、

「ええこと思いついてん。悠人部長の秘密の愛人を探るチャンスかもよ」

「どういうこと?」

「あのな・・・」

 瑞穂は愛に何やらボソボソと耳元で話していた。最初はしかめ面だった愛も次第に納得したのか、面白そうな顔になった。

「ほんなら悠さん、今夜はどこへ行きましょ」

 英哉は久しぶりの悠人からの誘いに気分は最高潮となっていた。

「ヒデやんすまんな。あの子らを遠ざけるための戯言や。『武元』だけよって帰ろな」

「いやいや、行くって言いましたやん。『ピンクキャロット』より楽しい店を見つけましたから、行きましょうや」

 悠人にとっては、逃げ口上のつもりで言った出まかせなのだが、『ピンクキャロット』には行こうと思っていた。普段なら美月が出勤する曜日ではないのだが、年末年始はイレギュラーで入ることになっているのだ。しかも今日は出勤していることがすでにわかっている。つまり、どっちみち、この後の行動を英哉とともにしたいとは思ってはいないのである。

「悪いな。『武元』には顔出さなあかんねん。ボトルは新調しとくさかい、また行ったってな」

「ほんなら『武元』も付き合いますさかい、新しい店も行きましょ」

「ほら、小林くんが興味津々の眼差しで見てるやん。連れてったり。小林くんも行きたいやろ?」

「ヒデさんのウワサはかねがね。男としては興味ありますね」

 小林もまんざらではない様子。それをしらじらしく見ていた英哉だったが、さすがに大奥担当大臣の肩書きは伊達じゃないと思ったか、今宵の相棒を小林にシフトした。

「しゃあないなあ、その代わりミズちゃんのことは諦めろよ」

「そんなんヒデさん次第ですやん。しかもヒデさん、結婚してはるでしょ」

「いやいや、もう離婚してるで。それに恋の道は八幡の藪。深く入ったら抜け出せん奥の深い道なんや」

 もっともらしく聞こえるかもしれないが、意味は不明である。恐らくは言ってる本人さえ理解していないだろう。

「ええねん。でも年末やし、早よ行かな一杯になるで」

 時間的にはそろそろ一次会はお開きの時間である。幹事の英哉は思い立ったように宴を仕切る。

「宴たけなわではございますが、専務のご挨拶にて締めたいと思います」

 英哉の指揮によってほろ酔い加減の島田専務は無難な挨拶を終え、無事に納会を終了したのであった。


 悠人は店の前で島田専務以下、上司陣を見送ると、二次会へ動く他の後輩たちを見送った。すでに瑞穂たちの姿は見えなかったが、悠人は気にしていなかった。むしろヒデと小林を確実に見送ることの方が重要だったのだ。

「悠さん、ホンマに行きませんか?」

「若い者同士で行っといで」

 小林くんはすでに瑞穂たちの姿がないのに安心してか、大いにはしゃいでいる状態だ。

「では、良いお年を」

 そう言って別れたみんなの姿を見送ると、悠人はひっそりと『ピンクキャロット』へ向かった。

 夜道を一人歩く悠人の後ろからは、気配を消すように後をつける二人の姿があった。もちろん瑞穂と愛である。二人が探偵のように悠人の後ろからついてきているとは、後々になるまでわからなかった。

 地下鉄で一駅渡ってから地下街を進み商店街に出ると、にぎやかな年末の風景があった。ここは大阪キタと呼ばれる中心地。老いも若きも様々な宴を求めて闊歩している。かく言う悠人も、心に秘めた思いを抱いて、宴の店に向かっている一人である。

 しばらく歩くと商店街から外れた路地を入ったすぐ角にそのビルはある。目指すはいつもの二階の扉。

 ドアを開けていつものルーティンを終えると、目的の笑顔に会える。

「ターロちゃん、今日もありがとっ」

「クリスマスから一週間も経ってないのに、なんか長いこと会ってない気がするのは気のせい?」

「ううん、私もさみしかったよ」

 悠人はいつものように美月を抱き寄せ、温もりと匂いを満喫する。女性を感じることができる唯一の時間である。

 ひと通りの挨拶が終わると、美月が思い出したかのように尋ねてきた。

「タロちゃんはお正月空いてるっていうてた?」

「大丈夫やで、休みやからな。なんも忙しいことないで。初詣行く話やろ?」

「うん。三日でええかな。元旦はやっぱりお母さんとこいかなあかんし」

「ええよ、三日で。どこ行く?京都に行こうっていうてたけど、京都はこないだ行ったから、今度は天満さんか住吉さんにするか。それか身近なとこでお初天神さんとか」

「住吉神社ってどこ?行ったことない」

「天王寺のもう少し南やで、チンチン電車に乗って行くねん。待ち合わせはこないだと一緒でええで。何時にする?」

「また連絡する。それよりも・・・」

 美月は悠人の膝の上にまたがり、歓迎の挨拶を施した。マシュマロのように柔らかな唇と、まったりとした女神が悠人を桃源郷へといざなう。

 悠人も美月の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。つい先日も味わったはずなのに、ずっと追い求めていたかのような感触だった。

 唇の挨拶が終わると、美月は悠人の顔を胸元へと導く。まるでそれが決まっている工程であるかのように。

 むろん、その工程を求めていた悠人に否やはなく、自ら進んで麗しきオアシスを求めに行った。まだ二人の間には契りのない関係だったが、お互いの気持ちの中ではすでに他人ではなかった。現在の関係のままであれば、法的に触れることはないが、社会的にはすでに不倫な関係といえるだろう。そのことは悠人も自覚している。

 家で蔑ろにされた生活に飽き飽きしていた悠人にとって、この店は竜宮城であり、美月の存在は乙姫なのである。しばしの現世を忘れられる唯一の泡沫なのである。

 そんな泡沫に浸りながら、悠人は再び本気の恋に目覚めていた。家庭を顧みない危険性をはらみながらも、ギリギリのところで踏みとどまっまっていた。

 しかし、悠人もまさか美月が本気で自分を愛してくれるなどとは思っていない。冷静に考えても自分は歳を重ね過ぎている。彼女と釣り合わないことは明白だ。

 それでも彼女に挑みたい。砕け散ってもかまわない。そんな想いに駆られている。悠人の理性が崩壊する「その時」はすぐそこまできていた。

 店の中での悠人は、ヘルプの嬢に対しては饒舌だが、こと美月に対峙すると無口とは言わないまでも、その口数は極端に減る。おしゃべりをするよりも美月の肌の温もりを、匂いを感じていたいのだ。

「タロちゃんとなら、ずっとこうしていたい」

「ボクもや。このまま時間が止まったらええのにって思う」

 残念ながら現実は二人の思いのままにはならなかった。冷めたトーンで二人を引き裂くアナウンスが店内に響く。

『美月さん八番テーブルへ』

「ちょっと待っててね」

 嬢たちが別のシートに呼ばれて行く際の決まり文句である。

「早く帰ってきてね」

 これまた客の決まり文句なのである。


 今日のヘルプは、新人だった。なんでも昨日からの体験入店らしい。

 悠人はこういう女の子を見逃さない。それはターゲットとしてではなく。応援団としてである。

 人の好みは千差万別。どんな男がどんな女を好むのかは人によって好みが違う。悠人はどちらかといえば、ぽっちゃりで可愛い感じの女の子が好きだ。ちなみに英哉はスレンダーがタイプである。

 今宵の新人は悠人好みの体型だった。

「美香です。よろしくお願いします」

「いくつ?」

「二十三になりました」

 悠人は彼女たちの歳を聞くたびに後悔する。若さだけは取り戻すことができないからだ。

 すでに五十の坂を越えた悠人は、近年来、その衰えを感じている。今でもランニングなど、暇をみては実践するのだが、日に日に体力の衰えを感じざるを得ない。いかんせん精力においても同じである。

 しかし、ここは嬢たちの応援団としては奮起せねばならぬ。

「しばらくはお客さんつかへんけど、踏ん張りや。今の人気の嬢さんらも苦労はしてはるんやから」

「はい」

 さすがに新人たちは素直である。ましてや二十歳そこそこの彼女たちが、なにゆえこの世界に飛び込んで来たのか。それを聞くほど野暮ではいけない。

「キミほど可愛かったら、いずれはたくさんの指名があるやろうから、会話だけは勉強しときな」

「でも、どんなことを話したらええのか難しいです」

「なんにもおじさんに合わさんでええねん。みんな若い子の今を知りたがってんねんから。昨日今日あったことを喋っとったらええだけやで」

「ありがとう。ええ人やな。ウチのお客さんやったらよかったのに」

「きっとええ人見つかるから、頑張りや」

 悠人は新人さんを見つけると必ずこう言って励ますことにしている。それは自分のためでもある。今の自分がマイ嬢から美月に指名替えしたように、美月客が新人さんに指名替えするかもしれない。美月には悪いが、店内でのライバルが減ることは大歓迎なのだ。

 ヘルプタイムが終わり、美香が姿を消すと、入れ替わるようにケイ子がやってきた。

「どう?新人さん。アンタの好みちゃうん。若い子の方がええやろ?」

「なんか勘違いしてるようやけど、ボクは若い子狙いやないで。ケイ子さんでもええって言うてるやん」

「せやけどあの子、オッパイ大きいで。それもアンタの好みやろ?」

「あのね、今は美月さんだけがいいの。余計な詮索は無用やで」

「うふふ、ホンマに美月ちゃんが好きやねんな。ちょっとうらやましいかな。まあ、頑張って通ったってな」

「言われなくても通いますよ。惚れちゃってますからね」

「でもあんまり深入りしたらあかんよ。またミクちゃんのときみたいになるだけやよ」

「そうなったら、慰めてくださいね」

「考えとくわ」

 ちょうどそのタイミングで美月が戻るアナウンスがあり、ケイ子は次のヘルプへと移っていった。

 ケイ子とすれ違いざまに戻ってきた美月は、スッと悠人の隣に座り、

「ケイ子さんやったんや。愛しの人で良かったね」

 などと少し皮肉めいた口調で悠人に迫った。

「妬ける?」

「うん」

 悠人は再び美月を腕の中へ引き寄せて、首筋に顔を埋めるように抱きしめた。いや、悠人が抱きしめられるように導いたと言うべきか。

「年末はいつまで入るの?」

「今日で最後。年明けも最初の日曜日からよ」

「その前に初詣やな。今から楽しみや」

「着物を着なあかん?」

「いや、普通の格好でええよ」

 実はその時に悠人が想像していたのは、万が一美月と睦言になった時の脱着のことだった。もちろん、悠人にそんな知識があるわけでなく、美月にもセルフで脱着ができるスキルがあるとは思っていなかった。

「そうやな、脱いだら着るの大変やもんな。どこで脱がすつもりやった?」

 美月のやや積極的な発言にどぎまぎする悠人。しかし、弱みを見せないように答える。

「脱がし方もわからんし」

「時代劇で、女の人が脱がされるときみたいにクルクル回るんやろか」

「女の人が立ってられるんなら回るんちゃう?」

「立ってられへんかったら、転がるんやろか?」

「それは今度京都に行った時に証明しよか」

「えっ、どうやって?」

「また貸衣装着るんやろ?そこやったら返す時は脱がし放題やんか」

「タロちゃんも女性更衣室入るん?」

「夫婦やっていうたら、おんなじ部屋で着替えられるで」

「ほんなら、そんとき脱がしてもらお」

 そして美月は悠人の首に腕を回す。唇も重ねる。吐息が漏れ、無言の恋文が交わされると、やがては互いのぬくもりを求め合う。そうなった二人は、もはや嬢と客ではなくなっている。ただの男と女である。

 二人は唇を重ねたまま激しく抱き合い、自らの肌の情熱を印象づけようとしているようだ。まるでそれが二人に与えられた本能であるかのように。

「ずっとこのままでいられたらええのに」

 美月がそっと呟いた。

「ボクもそう思う。いつまでもこうしていたいな」

 すでに悠人の手は、薄手の美月の衣装の内側に到達している。手のひらは女の柔肌を堪能していた。

 美月はまるでそれがルーチンであるかのように、悠人の頭を胸元に引き寄せ、丘陵の頂点にある石碑を案内する。悠人も喜んでガイドを賜り、やわらかな官能の香りを楽しむのである。

「しばらく会えへんから寂しなるわ」

「年末はいそがしいの?」

「うん、お母さんと一緒に親戚の家に行くねん。元旦までおって帰ってくる。それが毎年のパターンかな」

「せやから三日は大丈夫やねんな」

「うん」

 そして再び抱き合って唇を重ねる。最初のルーチンよりやや長めなのが二回目のお決まりであるかのように。

 こうして今年最後の店内デートは、いつものように、つつがなく最後の時間を迎えた。

「じゃあ三日ね」

「時間はまた連絡する」

「うん、待ってる」


 美月に見送られて『ピンクキャロット』を出た悠人は、まるで何事もなかったかのように駅へ向かった。

 どこで見張っていたのだろう、その様子を見ていた二人の影があった。瑞穂と愛である。まさか二人もずっと外で待っていたわけもなく、店の名前がわかるとすぐさまネットで調べて、ワンセットの時間や出勤している嬢のリストまで調べ上げていた。

 ワンセット四十分、ツーセット八十分の区切りで様子を見ていたようだが、近くの喫茶店がアンテナ局になったようである。はじめは乗り気でなかった愛もだんだんと面白くなってきて、区切りどきの見張りなども買って出ていた。

「この時間やとツーセットやな。あとはどんな女を目指してたかやな」

 瑞穂はまるで刑事にでもなった気分だったろう。尾行までもが楽しそうだ。

 しかし、愛の方は少し違った。

「なあ、このあと悠人部長を尾行してなにすんの?なんかアクション起こさな、尾行してる意味ないやん」

「それもそやな。よし、呼び止めて真相を聞こか」

「それって、今する必要がある?会社でもええんと違う?」

「それもそやな。今日はもう遅いし、解散にしよか。続きは年明けやな」

「カラオケでも行こ」

「それええな。作戦会議もできるし」

 二人の間で妥協案がまとまったらしい。

 こうして悠人の秘密が一つ、会社の部下に知られることとなった。英哉でもなく島田専務でもなく瑞穂だったとは、悠人には思いもよらぬことだった。



 年末年始、まだ唯衣が小さい頃は、三人でよく万里の実家を訪れた。義兄夫婦も嫌な顔ひとつせず、歓待に迎えてくれた。義兄も男兄弟がなく、少し寂しかったのだと言う。悠人が行けば、なにくれとなくもてなしてくれた。

 しかし最近においては、万里の出不精の性格が発揮されて、おいそれと旅行には出かけなくなっていた。家族旅行へ行ったのも、唯衣が中学二年生の頃の夏休みに飛騨へ行ったのが最後である。

 では、今年の年末はどうだろう。和歌山の実家では義父の入院騒動があった。すでに退院はしているようだが、今年は正月一杯和歌山で過ごすことになるだろう。このことはすでに悠人の実家にも報告済である。普段の正月ならば、元旦かその翌日には訪問することが例年行事となっていたが、今回は悠人一人で訪問することになりそうだ。

 悠人の母はどうだろう。年老いた母にとって息子というのはいつになっても子供なのだという。事実悠人の母も万里や唯衣が訪ねてくるよりも悠人一人の訪問の方が大いに喜ぶ節があった。それがあからさまに見て取れることもあり、万里は悠人の実家に行くのを避けていた。唯衣も面倒な年寄りの相手をするよりも、友達と遊びに行ったり、家でダラダラ過ごしたりする方が心地いいのだろう。

 こうした生活環境のすれ違いが、悠人と万里の間にできる歪みを少しずつ広げていくのであった。



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