第7話 =ざわつく年末の東京=

 来たる十二月二十五日の日曜日。すでに数日前から『ピンクキャロット』主催によるクリスマスイベントが開催されていた。女の子たちはサンタやトナカイの衣装を思い思いのスタイルで披露していた。

 店の中ではキラキラと輝くライトが回り、ガンガン響く音楽がその振動を震わせていた。悠人は今、その店の前にいる。


 遡ること一時間前、悠人は日曜日の夜に出かけるために、どういう口実を設けようかと考えていた。流石の悠人も理由もなしに夜な夜な家を出る訳にはいかないと思っていた。

 ところが、幸いにしてチャンスは向こうからやって来た。昼過ぎまで出かけていた娘を待ち受けて、夕方から万里と唯衣とで外出するというのである。悠人が出かけるタイミングで二人がいないのなら、家を出ることは容易い。理由は帰るまでに考えておけば良い。

 但し、いずれにせよ多少のウソは必要になるだろうが。


 話を再び店の前に戻そう。

 悠人は支障なくここに着いたことに安堵していた。さらに予定していた買い物も無事に済み、カバンの中には美月への貢物がちゃっかりと入っていた。

 いつものように入店のルーチンを済ませたのだが、身柄は待合室へ移された。まだ美月が到着していないのだという。確かに先日の別れ際、少し遅れるかもとの予告はあった。

 待合室にはテレビがあり、画面の下に時刻が表示されている。その時刻はジャスト八時。美月が予告した時刻であったが、待つのには慣れっこの悠人である。誰よりも早く美月に会えることの嬉しさの方が優っていた。

 待合室はアコーディオンカーテン一枚で仕切られた部屋である。部屋の外の様子は、人の声や物音である程度わかる。

 十分ほどすると、バタバタと足音を立てて誰かが入って来た気配がした。はっきりとは聞こえなかったが、女性らしい甲高い声だった。恐らくは美月が到着したのだろうが、カーテンを隔てたコチラ側からはわからなかった。

「そんなに慌てなくてもいいのに」

 悠人が独り言をつぶやいたとき、カーテンが開いてボーイが顔を見せた。

 もう準備ができたのかと思ったらそうではなく、新しい客が入ってきたのだった。

「こちらでお待ち下さい」

 ボーイはその客に向かってボソッと言った。この時間に待合室に入る客。つまりは美月を指名する客ということである。

 悠人にとっては招かざる客といえるが、美月にとってはさもあらん。店にとっても同様である。

 自らは妻のある身でありながら、他の男の接客をする美月にジェラシーを覚える。男とはわがままな生き物なのだ。

 それからわずかものの数分程度で、再びカーテンが開いた。ボーイが顔を出して悠人を招く。

「お待たせしました」

 そしていつものシートへ。

 さすがにクリスマスイベントなので、店内はクリスマス色に染められている。壁の至るところに星や雪車をかたどった切り紙や小さなクリスマスツリーが飾られていた。店内の音楽さえもクリスマス関連の曲が流れていた。

 店内を見回してひと息ついたくらいのタイミングで美月がやってきた。

「遅くなってごめんね」

「急がんでもよかったのに」

「せやけど、来てくれてるってわかってるから」

 美月は少し息を切らしながら悠人の隣に座った。途端に悠人は美月を抱き寄せ、無言のままキスをした。

 唇を合わせて数十秒、その間、二人の間では呼吸が止まっていたかのように静かな空間だった。

「今日のキスはなんや濃いな」

「こないだのキスに驚かされたからな。もう一回、ちゃんとしたかったし」

 悠人は先日の別れ際のキスが強烈に脳裏の中に残っていた。あの時のキスは突然だったので、悠人にとっては少し物足りなさが残っていた。だからこそ、今日のキスはその想いを果たしたことになったというわけだ。

「濃いのはアカンかったかな」

「うふふ」

 悠人の問いに対して曖昧な笑みで返事をする美月。少し嬉しそうではある。しかし女心を理解するには相当な鍛錬と経験が必要。悠人が美月の笑みを理解するにはまだまだ経験値が不足していた。

 ひと通り、あいさつのルーチンが終わると、悠人は小脇のバックから小さな紙袋を取り出した。

「はい、クリスマスプレゼント」

 美月はそれを手に取り、袋の上から中味の正体を探ってみた。

「なに?」

 固い触感に平たい物質。片面はゴツゴツしていて、反対側はツルッとしている。

「開けてもいい?」

「もちろん」

 美月が封を開けると、そこには何やら模型のような物体が現れた。

「これ何?納豆ごはん?」

 実は悠人は食品サンプルグッズが好きで、自分でも名刺入れやカードケース、キーホルダーなど、いくつかのコレクションを楽しんでいた。そのほとんどが実用品であるというところが共通点である。

「端っこをもって開いてみたら」

 美月は言われるままに端っこをつまんで開いてみた。するとそこには自分の顔が映し出されていた。

「これって鏡?」

「そう。女の子やからな。いっつも前髪とか気になるやろ。コンパクトでええかなと思って」

「ちょうどこんな大きさのが欲しかってん」

 まあそれはお世辞だろうが、思いもよらなかった品物に、美月も満足したようだ。

「ちょっと待っててな」

 そういうと美月は席を立ってバックヤードへ姿を消した。そしてすぐに紙袋を抱えてやってきた。

「わたしからもプレゼント」

 その紙袋はまさにクリスマスバージョンのデザインで、サンタやツリーのえが大きく描かれた紙袋だった。

「開けてもいい?」

「うん」

 悠人が袋の中に手を入れると、ふんわり柔らかい触感と手頃な大きさの何かに触れた。

 大きさといい、柔らかさといい、それがなんであるか直ぐに理解した。それは、もしもらえるならこれがいいと思っていた物でもあった。

「手袋やな。ちょうど欲しかってん。リクエストしよかと思ってたくらいや」

「ホンマ?よかった」

「うん?Lサイズやな」

「えっ?Mサイズを選んだつもりやったのに、ごめんね。今度会う時までに交換するわ」

「ええやんこれで。まあ大は小を兼ねるっていうからな。ボクはこれでいいで。いや、これがいい。折角ファーストインプレッションで選んでもろたんやから、これがええねん」

「タロさん、優しいな」

 そして二人は再び抱擁を重ねた。

 されど今宵はクリスマスイベント。女の子も多いが客も多い。シートの数が決まっているので、入っている客数に制限はあるものの、何度かボッチの時間も訪れた。その合間には、いつものようにヘルプのお嬢さんがやってくるのだが、悠人は彼女たちにもささやかなお裾分けを用意していた。ヘルプの嬢がお土産をもらうことなど珍しいので、悠人の気配りはかなりの好感度アップにつながったに違いない。

 元々人当たりの良い悠人は、どこでも異性ウケは良かったが、こういう店でヘルプ嬢に気に入ってもらえるのも良いことかもしれない。

 しかし、それすらも配り終わると、悠人の出番は終了とあいなるのである。

 何度か美月との蜜月タイムをもてたものの忙しそうな美月を見ると、自分がいることで負担が増えるのではと考えてしまう。もちろん財布の事情もある。今日のところは、そろそろ潮時のようだと判断した。

 3セット目の終了のアナウンスに応えるように、

「今日は帰るよ。やっぱりクリスマスやな。二人でゆっくりというわけにはいかんな」

「タロさんといると癒される。一番いてほしい人が帰るん?」

「もっとまったりできる時に来るわ」

「来週は年末やけど、来られる?」

「ほんなら美月ちゃんの最終日に来ようかな」

 悠人は本日最後のキスを交わして席を立った。美月は悠人の腕に絡みつくように身体を委ねながら出口へと進んだ。

「名残惜しいな。また直ぐ会いにきてな」

「うん」

 悠人は若干の矛盾を感じながらも美月に見送られて店を出た。


 悠人が感じた矛盾・・・。

 それは美月の言葉にあった。

 彼女は悠人に対して「癒される」といい、また「いて欲しい」ともいう。またある時は「ずっと前から会ってたみたい」とも表現した。さらには先週にはデートもしているのである。

 つまりは、会おうと思えばいつでも会えるはずということ。

 美月が忙しいのは仕方がないが、悠人は割と時間の都合もつくし、そのことは美月には伝言済みである。

 だからこそ悠人は、自分がいいように使われているだけなのではないかと懸念するに至るのである。

 しかし、残念ながら悠人にはそれを美月に問いただす資格はない。なぜなら悠人は既婚者だからだ。その真偽を問いただすためには、現在の伴侶との契約を解除しなければならない。それが現在の婚姻の仕組みである以上。

 悠人も馬鹿ではない。そんなことは百も承知である。悠人の立場としては、このまま騙されるか、離婚して美月にアタックするかしかないのである。

 恐らくは悠人の性格上、ことを荒立てるのは好ましくない。このままの関係を続けていくのが常套であろう。いつもならば・・・・。


 クリスマスといえば、まだ子供が小さな頃は、やれケーキだのやれプレゼントだのと奔走したのは普通の父親としての務めであった。悠人も御多分にもれず、唯衣が小学生の頃までは家族サービスにこれつくした。

 しかし、いまや彼女は父親との友好関係を断ち、我が親は母親のみというスタンスをとっている。こうなってしまっては、クリスマスどころではない。それ以降、悠人のクリスマスはロンリーであり、フリーダムなのである。


 『ピンクキャロット』を出た悠人は、バー『レインボー』へと足を向けた。

 そこはスタンドバーではあったが、両サイドのコーナーに二席ずつだけシート席がある。その奥の席が悠人の指定席なのだが、シート席はチャージ料を取るため、通常の客はほとんどがスタンドで済ませてしまう。

「いつもの薔薇のやつを」

 悠人がいうが早いか、マスターはすでに琥珀色の液体が入ったグラスを手にしていた。

「今日もいいことあった?」

 悠人にとって、時折耳にするマスターの関東イントネーションは、昨年までいた関東圏の生活を思い出させた。

「何にもないで」

「そうだろうね。悠さんがウチに来る時はマイナーなときが多いじゃんね」

「そんなことないやろ。ええときも来るで」

「一人でかい?悠さんが誰かを連れてきたことなんて一度もないじゃない。人っていい時は誰かと過ごしたいもんだ。逆に悪い時は一人で過ごす。悠さんが来る時はほとんど一人、つまりはウチに来る時は何かあった時ってことだよ」

 さすがにマスターは多くの人を見てきただけあって、人間観察が優れている。悠人がこの店を訪ねる時は良くない時の方が多い。

「かもな。せやけど今日はホンマに大したことないで。自分のことがアホらしなってきただけやし」

 マスターはフッと笑って、

「ベートーヴェンでもかけるか?」

「今はそんな気分やないな。ビリージョエルぐらいにしといて」

 マスターは、一旦カウンターの裏へ回り、ゴソゴソと何かを探し始めた。やがて悠人に向かってニッと笑うと、

「いいのがあったよ。発売当時のUS盤だよ」

 そういいながらマスターが取り出したのは、名曲『ピアノマン』だった。それを今となっては珍しくなっているプレーヤーに乗せて、そっと針を置いた。

 軽快なピアノとハーモニカで始まるプロローグ。悠人の年代には堪らない曲である。


 悠人はこの曲を中学時代の親友から教わった。普段はテレビから流れてくる歌謡曲しか知らなかった悠人に、ラジオの世界を教えたのである。

 それからというもの、悠人はしばらくの間、洋楽にはまった。流行ったものからマイナーな曲まで。どちらかといえばマニアックな曲が悠人の好みだった。

 ピアノマンの背景は一九七〇年代。まだ米ドルが高くて、海外旅行などが夢の世界だった頃の曲である。ニューヨーク育ちのアーティストは煌びやかでない日常感を描いた作品を集めてアルバムにした、そのうちの一曲である。


 そんな雰囲気が今の悠人には合っていた。グラスを傾けながら、これからの美月との事を考えるとあながち順風満帆でない世界が想像される。

 万里のことが嫌いになったわけてはない。喧嘩をしたわけでもない。ただ、一緒に暮らしているはずなのに、毎日が孤独であり、その環境に嫌気がさしているのだ。

 だからといって、歳の離れた美月と一緒になれるのかといえば、これは難しい問題といえる。彼女はまだ結婚適齢期の中にいる。定年間近の男に嫁ぐなど、結婚生活を棒に振るようなものである。

 但し、こういったことは悠人が勝手に妄想しているだけで、現実的かつ具体的なアクションや言動が美月からあったわけではない。

 ただ、結果的におじさんがキャバ嬢に乗せられていただけということでもあるので、悠人もさすがに思い切った行動にはでられないままでいた。

「また誰かに恋してる?」

 マスターが目線を合わせずに、にわかに問いかけた。

「そんなことないで」

 一瞬、言葉に詰まったが、何もなかったかのように答えた。

「もう若くないんだから、あまり熱を上げない方がいいんじゃない」

「わかってる。せやから、恋なんかしてないっていうてるやろ」

「前にもあったよね。その時とおんなじ顔してるからさ」

「折角のええレコードなんやろ?黙って聴かせてえな」

 マスターはそれには答えず、丹念に手元のグラスを磨き始めた。時折り目線を悠人に向けながら・・・。

 悠人は懐かしさを覚える曲をそれなりに聴いていたが、半分は耳に入っていない。あの時の梅田駅でのキスのことが気になっていたからである。

 今日の店での様子はいつもと変わらずだった。かえって悠人の方が緊張していたかもしれない。店内でのキスもあの時のキスとなんら変わらなかった。

「やっぱりあの時のキスも仕事の延長やったんやろか」

 期待していなかったと言えば嘘になるが、固執するつもりもなかったアバンチュールもサラッと回避されたことに、少なからず気落ちしたのも事実である。

 次のデートは本名を互いに明かす約束もした。次のデートが実現するならの話である。そうなれば二人の仲は一段と近づくに違いない。

 すでに美月の肌の温もりを知っているだけに、今の悠人はお預けを食っている犬に等しい。身体の関係だけが目的ではないが、万里との交合から離れて久しい悠人にとっては、自らの中に潜む獣の猛りを再び開花させるチャンスでもある。

 しかし、彼女を都合の良い女にするつもりはない。それだけに悠人の頭の中で渦巻いている葛藤が、進むべき道を惑わせていた。


 スッキリしないまま帰宅すると、万里が神妙な表情で待ち受けていた。

「今日電話があって、ウチのお父さんが入院することになったらしいねん。二、三日様子見てきていい?唯衣も連れて行くけど」

 万里の父ということは悠人にとっても義理の父となるわけだが、万里との結婚がいわゆるデキ婚だったために、義父からの悠人に対する印象は芳しくなかった。そんなこともあり、万里の実家とは距離を置いた付き合いになっていた。

「行っといで。ボクは一人で大丈夫やから」

「ありがとう。大したことないと思うけど一応な。顔を見せとかんとうるさいし」

「ボクの分まで孝行しといて。ほんで、いつ行くん」

「明日の昼前ぐらいかな。職場には二日だけ休むって言うてきたから。どうせもうすぐ正月やから」

 悠人一家は、年末に和歌山の万里の実家へ、正月を大阪の悠人の実家で過ごすのが、毎年の恒例となっていた。

「なんやったら、今年の正月はずっと和歌山におったら?こっちは事情を言うて行かれへんこと言うとくから」

「そうさしてもらおかな。やっぱり悠人の実家におると気ぃ使うしな」

 万里は長男の嫁だけに色々と気苦労も大変である。

 悠人にしてみれば、正月の三ヶ日を独身気分で過ごせるのだから異論はない。時間を気にせずに美月と会える。そう思っていた。

 するとなんだか今までのモヤモヤしたものがスッと消えて、またぞろ次の計画を立てたくなる。現金なヤツだ。

 実際、クリスマスの夜であるにも関わらず、それぞれの夜を過ごした悠人と万里。すでに夫婦としても冷めた関係になってしまっていた。

 それからというもの、悠人がとった行動は正月の過ごし方である。恒例であるが故に、年末の訪問は避けられない。しかし、頃合いを見て戻ってくることは可能だ。早ければ一晩だけで済むかもしれない。悠人が家事をこなせることは万里の実家もすでに周知のことである。唯衣の出産時、難産だったこともあり、三週間にわたって悠人が一人で家事やってのけていたことを知っているからである。

 悠人は再び京都訪問の企画を立てていた。大阪で初詣といえば天満宮か住吉大社が一般的だが、前回の続きを意識して京都をチョイスしたのだ。

 メインは平安神宮だろう。かなりの人出となるだろうが、その方が都合が良い。並んで歩くときもずっと寄り添っていられるから。

 待ち合わせは河原町駅でいいだろう。四条からは三条までは鴨川沿いに歩けば適度な散策にもなるし、川縁にはたくさんのカップルがたむろっているだろうから。

 まずは美月にメールをしてみる。

「正月の三が日、しばらくは独身やけど、初詣に行かない?京都なんてどう?」

 もし、美月に全くその気がないのなら、あっさり断わられることだろう。そうでなければ・・・。

 このメールには意外にも早く返信があった。

「ホントに?いつから?京都のどこ?」

「早ければ大晦日から。遅くても元旦から」

 悠人としては年内に和歌山を出立したかったが、そのあたりは微妙だった。しかし、それを見越したような美月の回答は、

「元旦は無理かも。でも二日か三日なら大丈夫と思う」

 これで二回目のデートがほぼ確定した。

 あとは仕事納めを待つだけになったのである。


 クリスマス明けの会社は、その仕事納めに向けてのラストスパートが開始されていた。誰もが年末年始に仕事などしたいわけもなく、締め切りとにらめっこしながらペンを走らせ、キーボードを打ち続けている。

 悠人も年末の挨拶回りに奔走しなければならなかった。特に北阪百貨店には、行かぬわけにはいかない。

 広報部のドアをノックして奥のデスクをのぞくと、こちらを向いて座っている武藤部長と目が合った。武藤部長はすぐさま悠人に気づいて、ノッシノッシとそれは大きなお腹を抱えてやってきた。

「やあ大原くん、久しぶりやな。部長になったんやて?谷口くんから聞いたで。なんや、えろなった途端に顔見せんとは不義理なヤツやな。罰として今夜付き合え」

「まだこれから回らんなあかんとこばっかしですがな。なんせイの一番に来たんですから。課長さんにも挨拶せんと」

「ああ、課長は年末の挨拶回りに行っとるから、帰りは夕方や。飲み会で会えるようにセッティングしたろ」

「いやいや、今日は遠慮しておきましょう。年末ですし、どこも一杯ですよ」

「谷口くんから聞いてないか?カラオケの貸しがあるんやで」

「覚えてますがな。せやけどなにも今日みたい人がいっぱいの時に行かんでも」

「大丈夫や。最近見つけたスナックやったら席の三つや四つ、すぐでもおさえたるがな」

 確かに悠人は覚えていた。しかし、これから何件も挨拶回りするのも事実である。

「ならばこうしましょう。ボクは今日中に市内を二件、泉北を一件、最後は北河内に二件行かねばなりません。それまでに谷口の仕事が終わっていたなら、彼を連れて参りましょう。ボクの帰社予定は夕方六時です。その頃に谷口に電話してやってください。ボクからは連絡しないことにします」

「面白そうやな。谷口くんが今何をしているかは知らんが、その口ぶりやとなかなか終わらん仕事みたいやな。ええやろ、但し時間は八時や。残業なれしとるヤツらが平日に六時に終われるとは思われん。そのタイムリミット、八時やったらのった」

「部長はそれまでの時間どうされるんですか?」

「オレはもともと今日は訪問日やからな、先に行って待ってるわ。店は大阪駅北のガスパビル二階の『バビロン』いう店や。八時やな、谷口くんには内緒やで」

 なにやらおかしな約束ができてしまった。しかし、明日は休みではない。夜通し付き合うわけにはいかない。

 それでも悠人には自信があった。今の仕事を八時までに終わらせることができるわけがない。今日中に終わるかどうかの案件だ。悠人は意気揚々に北阪百貨店を出た。

 挨拶回りは予定通り大阪の南から北へと縦断するように駆け上がり、夕方の六時少し前に会社へ戻って来た。

 さっそく気になったのが英哉の仕事の進み具合である。背後からチラッとのぞいた感じでは、おおよそ半分くらいだろうか。企画書の骨組みまでは完成していた。

 その様子をほくそ笑みながら確認したのち、安堵感をもって、その足で島田専務を訪ねた。年明けの年賀行事の打ち合わせだ。


 悠人の会社では、毎年初出勤の際、世話になっている府会議院や市会議員を招いて年賀会を行っていたが、近年の政治資金のしがらみについては世間もうるさくなり、最近は縮小がちである。

 それでも社長が後援会長をやっている議院だけは、社長のお誘いを無碍に断ることも出来ずに、毎年参加している。

 なにもそこで賄賂を渡したり、祝儀のやりとりがあるわけでなく、やましいことはなにもないのだが、議員連中は非常にデリケートである。

 毎年の年賀会は原則一月四日に開催されていた。午前中のうちに身内の挨拶を済ませて、昼食時からパーティを開始するのが慣わしであった。従って対外的には翌五日が営業開始日と通達していた。

 パーティは立食でアルコールも並ぶため、さしずめ組織ぐるみの新年会といった様相だ。しかしながら、この会社もご多聞にもれず若手社員の欠席者が少しずつ増えていた。これには役員たちも頭を抱えていたが、どうすることもできないでいた。

 そのことはひとまずおいて、役員室のドアを叩いて中へ入ると、間髪入れずに島田専務から声がかかった。

「大原くん、谷口くんの仕事の進み具合はどないなっとる?一時間ほど前に武藤さんから電話があってな。なんとか早く終わらんもんかいな」

 武藤氏、悠人には英哉に連絡するなと言いながら、自分は裏でちゃっかり情報収集に事欠かない。したたかな人物である。

「たぶん八時までには終わらんでしょうな。今日中に終われば上出来というとこですよ」

「なら、誰でも構わん。誰か連れてでも行ってくれ。明日の休みは特別枠を用意してやるから」

「そんな特別枠なんて、他の連中が許しませんよ」

「んー、ならオレ枠で出張を命じてやる。東京へ行く用事があるから、オレの代わりに、そいつと一緒に行ってくれ。それを午後からの設定にするから、ゆっくりホテルで休養してから行けるやろ」

「専務の代わりが務まる用事ってなんですか?」

「東京でウチと提携している東京宣伝ちゅう会社があったやろ。そこの虎ノ門の支所長と相談して来てくれたらいい。内容はこちらでまとめておく。今夜から前泊の処理をしておく。どこで泊まろうがお前たちの勝手だ」

「なんでそんなに行かせたいんですか」

「武藤さんがな、来年夏の大きなイベントをほのめかせるんや。億の仕事になるかもやで。おまいさんの役員付きも約束されるみたいなもんや」

「専務のメリットは?」

「オレにはあの人の人脈を紹介してもらえる。すべての顔がウィンウィンや、そやろ?」

 悠人は苦虫を潰したような表情で腕を組みながら専務をにらんでいたが、やがてあきらめるように、

「相棒の人選は任せてもらえますか?」

「ああ、事後報告でええで。但し、社員にしてや。愛人はあかんで」

「そんなんいませんから」

 と言いつつも、美月の顔が浮かんだのは内緒である。

 

 悠人は役員室を後にして、企画部に戻って、東京行きの相棒を探し始めた。

 目の前ではヒデがわき目も振らずにパソコンに集中している。秋山のごときは席を立ったり戻ったり、あわただしく動いている。小泉と正木は得意先の後は直帰となっている。隣の班も慌ただしく騒然としていた。

「悠人部長、どうかされましたか?」

 声をかけて来たのは瑞穂であった。

「いや、急に東京出張を言い渡されてな。一緒に行ってもらえる相棒を探してるんやけど」

「いつですか?」

「条件付きの・・・」

「いつですか?」

 悠人は答えに困ってしまった。

「少なくともキミには無理な案件や。ちょっと他をあたるわ」

 すると瑞穂は何かを勘違いしたのだろう、すぐさま悠人に食ってかかった。

「それ、私では務まりませんか。一生懸命やります。今ちょうど区切りもつきました。私にできるなら悠人部長のお手伝いをさせて下さい」

 仕方ないと思った悠人は、諭すように瑞穂に今宵の条件を説明する。

「北阪百貨店の武藤部長がらみやねん。今夜飲み会に行くことが条件や。その続きで東京へ行くねん。瑞穂くんには無理やろ?」

 悠人は最後に余計な一言を付け加えてしまった。無理と言う言葉を聞いて発奮しない瑞穂ではなかった。

「行けます。私も企画で入った人間ですから、大事なお得意さんのためなら、体張ります。女の武器も使えます」

 瑞穂の最後の台詞も余計だった。

「アホ、何もそんなことはせんでもええねん。しかも涙ぐんで言うことちゃうやろ。そんなことしなとれん仕事なんかいらんし。ドラマか映画の見過ぎや。逆に言うたらカラオケを一晩付き合うたらええだけやけど、意外としんどいぞ」

 涙目になって必死に訴える姿をいじらしいと思いつつも、女性だから無理だろうと思った悠人も少し反省した。しかし彼女は嫁入り前の大事な体である。日付変更線を越えるだろう接待に連れて行く気にはなれなかった。

「夜中までの接待に連れて行くには、キミは若すぎる。もうちょっとしてからにしよか」

 悠人は瑞穂をなだめながら、大きな声で今宵のパートナー候補を呼びかけた。

 しかし、残念ながらちょうど手の空いた者はなく、武藤氏の案件であることがわかると、さらに挙手をするには億劫にならざるをえなかった。

 その様子を見た瑞穂は、

「これで候補者は私のみになりました。後は悠人部長のお覚悟だけです」

 そう責められては悠人も肯んぜざるをえなかった。

 そのやりとりをそばで聞いていた英哉は、

「悠さん、ミズチャンをよろしくお願いします。きっといい後継者になりますよ」

「誰の?」

「もちろんオイラのです」

 悠人は天を仰いだ。


 時刻はちょうど八時。約束通り武藤部長から連絡が入る。

「大原部長、北阪百貨店の武藤部長から電話です」

 悠人は渋々受話器を取ると、

「やあ、谷口くんの仕事は終わったかね」

「いいえ、残念ながらまだです」

「ほんなら仕方ないな。島田さんに相談しよかな」

 悠人は再び天を仰いだ。

「代わりの者と一緒に伺います」

「おっ、気がきくやないか。ほんなら待ってるで。場所はさっき言うたとこや、なるはやでな」

 受話器を置くと、悠人は瑞穂を手元に呼んで、

「ホンマに行くか?」

 確認するように尋ねた。

「行きます」

「泊まりの用意はあるん?」

「コンビニでなんとかします」

 瑞穂の覚悟は確固たるものだった。

「あんまり頑張り過ぎないように」

 力の入っている瑞穂の肩の力を抜くように一言だけ釘を刺して、悠人は瑞穂とともに部屋を出る。その後ろから英哉が瑞穂を呼び止めた。

「朝帰りやで。悠さんと一緒でよかったな」

「余計なこと言うんやない」

「いや、ミズチャンの緊張をほぐしたろとおもて」

「大丈夫。こう見えて古い歌もいっぱい知ってるんですから」

「たまには武藤さんが知らん曲も歌ったらええねん。気に入らはったら次の時までに覚えて来はるから」

「こら、あんまり余計なこと言わんでええねん。一緒に行くもんの身にもなってみ。色んな意味でこの子を守らなあかんねんぞ」

「武藤さん、女の方はからきしでっしゃろ。オイラも何度も誘いましたけど、いっぺんも乗って来はりませんでしたで」

「今夜もそうやとええけどな。ほな、行ってくるわ」

 今度こそ、悠人と瑞穂は会社を出て、いざ武藤部長の待つ店へと出かけたのである。

 すでに日は暮れて、明るい月が二人の足元を照らしていた。

 悠人は、このままずっと明るい夜ならいいのにと思った。


 大阪駅の北口の改札を出て、五分ほど路地を歩くと、武藤部長御用達の店が見えてくる。赤紫色の看板はいかにもらしい、昔ながらのスナックである。

 今日、深夜営業の時間については風営法で厳格に定められているが、完全防音の室内壁を構えるこの店では、表の看板さえ片付けてしまえば、店内の様子を探ることすら不可能となる。それが武藤部長の御用達となった所以らしい。

 『バビロン』の入り口のドアを開けると、中から愛想の良い女性の声が聞こえた。

「いらっしゃい。お二人ですか」

 悠人がそれに答えようとしたとき、カウンター奥のカウンター席からひょっこりと武藤部長が顔を出した。

「おう、こっちや。おっ、またえろうべっぴんさん連れて来たな」

「こんばんわ、ウチの期待のホープで清水といいます」

「いつもお世話になっております。企画部の清水と申します」

 瑞穂はこわばりながらも名刺を差し出した。

「堅いあいさつはええから、まずは乾杯しよか。ママ、グラスを二つな」

 言うが早いか、ママは悠人と瑞穂の目の前にグラスを置いて、水割りを作っていく。

「清水くん、今日は思う存分歌って帰りや。新しい歌もたまには刺激になるしなあ。大原くんは駆けつけで三曲な」

 すでにアルコールがほどよく回っている武藤氏は平素よりもかなり饒舌のご様子だ。悠人が若い女の子を連れて来たことも、機嫌の良い要因の一つだろう。

 それからの時間はというと、悠人の予想通り、明け方まで三人で歌い明かすことになった。他に二組ほど別の客もいたけれど、日付変更線を超えた頃には帰ってしまう。

 そうなると武藤氏のエンジンは拍車がかかるのである。古い歌はもちろんのこと、意外に新しい若者向けのポップソングまで歌えるのは大したものだ。

 瑞穂もよく頑張った。恐らくは両親が聞いていたのだろう。悠人の若い頃に流行った歌やオジサン好みの演歌まで歌い尽くした。これには武藤氏もご満悦で、次からは必ず彼女を寄こすようにと切望した。

「高くつきますよ、彼女は」

 悠人はやや強めにけん制したが、武藤氏は上の空である。実際、酒の席のことであり、今までもそこでのやりとりが仕事に直接影響することはなかった。

 ともあれ、外の世界は紫摩の空間が支配する時間。あと少しで夜が明ける。

「さあ、そろそろお開きにするか。大原くん、今日は無理を言うてすまんな。せやけど思いのほか楽しかったで。清水くんもこれにこりんとまたおいで」

 武藤氏はママにカードを渡して、すっと会計を済ませると、

「キミら、島田さんから明日の休みもろたか?融通きかしたってなって頼んだんやけど」

「休みの代わりに出張命令をいただきました。少し休憩してから東京へ行きます」

「ほう、島田さんもなかなか粋な計らいをしはるなあ。そういうところは大いに見習わなあかんな」

 武藤氏は島田専務に対するリスペクトも忘れない。

「では武藤さん、ごちそうさまでした。お気をつけてお帰りください」

 悠人と瑞穂は、まだ明けきらぬ漆黒の夜道に武藤氏を見送った。


「ふう。緊張しました」

 肩の荷が降りたか、瑞穂は砕けるようにして悠人に寄りかかった。

「大丈夫か、結構飲んでないか」

 見ると、足元はグラグラしている。

「この後どこに行くんでしたっけ?」

「そこの高架を抜けたとこや。もうすぐやからがんばり」

 悠人は瑞穂の脇を抱いてホテルへと向かった。途中で何度か瑞穂の様子を伺いながら歩いていたが、どんどんと瑞穂が重くなっていく。

「なんか急に回って来ましたあ」

 呂律もおかしくなっている。極度の緊張感からとけたのが瑞穂を解放させたのだろう。どんどん力が抜けていく。

「おい、もうすぐそこやから頑張れ」

 悠人はすぐそばの自販機で冷たい水を買って飲ませてみた。

「水でも飲んで少し覚まそうか」

「悠人部長!」

 出し抜けに瑞穂から大きな声で呼ばれて、一瞬慌てふためいたが、よく見ると瑞穂の膝は今にも砕けそうだ。

 ようやくほうほうの体で宿にたどり着いた悠人は、ロビーのソファに瑞穂を置いてフロントから鍵を受け取る。店に行く前からチェックは済ませてあった。もちろん二部屋取ってあり、後は瑞穂を部屋に放り込むだけだった。とは言え、放置するわけにもいかず、上着だけ脱がせてハンガーにかけてやった。

 ふと振り返ると、瑞穂がどんどん服を脱いでいくではないか。目のやり場に困った悠人が部屋を出て行こうとすると、瑞穂が後ろから呼び止める。

「部長、私を置いていくんですか」

 悠人は一瞬立ち止まり、振り返らずに、

「大丈夫そうやし、トイレしてから寝えや。十一時には出られるように。じや、おやすみ」

 まるでその場から逃げ出すように部屋を出たのであった。

「意外と堅いな。まあ、今日は眠いし、ええか」

 さて、瑞穂のお誘いの本気度はいかほどだったのだろうか。

 瑞穂を残して自分の部屋についた悠人は、何かを思い出したようにケータイを見た。緊急連絡が入ってないかを見るためだったが、はからずもそこに美月からのメールを見つけた。

「おやすみ。明日もお仕事頑張ってね」

 たったそれだけだったが、悠人にはそれだけがうれしかった。また、いけないことをしなくてよかったとも思った。

 そろそろ始発電車が動き出すのか、にわかに駅の明かりがチカチカと眩き始めた。まだ空は群青の闇。都会における最も静かな時間かもしれない。

 さすがに早朝過ぎる時間なので、美月への返信は自重したが、そっと感謝だけしてベッドに入った。わずかな睡眠時間を得るために。


「ピンポン、ピンポン」

 翌朝のこと、瑞穂の部屋の呼び鈴が鳴っている。ベッドの上では布団を頭からかぶっている瑞穂がいた。

「ピンポン、ピンポン」

 再び呼び鈴が鳴る。

 その音に気づいた瑞穂はようやく我にかえり、ドアのそばまで走り寄った。ドアレンズから覗くと、呼び鈴に指をかけている悠人の姿が映っていた。

「すいません、今起きました」

「大丈夫。せやけど、あと一時間で出発やで。用意しいや」

 瑞穂が振り返った先の時計を見ると、十時ちょうどを指していた。

 女の子は準備に時間がかかる。それを見越して早めに様子を見に行った悠人だったが、その判断は間違いではなかったようだ。

 そこからの瑞穂は、急ピッチで身なりを整える。シャワーも化粧も、かける時間はいつもの半分。ようやく完成した時は予定時間の十分前だった。

 部屋を整えてロビーに降りると、悠人はソファで新聞をながめていた。その視線の先に瑞穂の姿を見付けると、

「ようやくお出ましやな。ほな、行こか」

「遅くなりました。すみません」

「まだ十時前や、遅くないで。朝と昼は兼用でええやろ?新大阪で駅弁買おか」

「はい」

 正直、瑞穂はやや二日酔い気味だった。バッグの中からペットボトルを取り出して一口飲んでみたが、何かが変わるはずもなく、げっそりとした表情で悠人の後ろを歩いていた。

「新幹線の中は寝てたらええからな」

「大丈夫やと思います」

 瑞穂としても、昼間の寝顔を悠人に見られるのは本意ではなく、意地でも起きているつもりだった。

 十一時半ごろの切符が取れたので、急ぎ駅弁を買って新幹線に乗り込んだ。悠人は好物のイクラと鮭の親子弁当を、瑞穂は酢飯仕立ての蟹ちらしを購入した。

 座席に座ると、悠人は新幹線の発車を待たずに、さっそく弁当の袋を開き始めた。瑞穂もそれにならって袋を開けた。

「朝昼兼用やからな。腹も減ったやろ」

 まだアルコールが抜け切らない瑞穂の空腹具合はさほどでもなかったが、一緒に食べないわけにもいかないので、覚悟を決めて箸を入れる。

 酢飯であったのが功を奏したのか、瑞穂は「案外はいるもんやな」などと感じながら綺麗に平らげた。

 さあ、ここからが睡魔との戦いである。満たされた腹は瞼を重くさせるのが常識。客観的にはどこまで持ち堪えられるかであったが、新大阪を出て京都まで。それが瑞穂の限界だった。色々と話しかけていたが、話題が途切れて外の景色を眺めていたら、心地よい振動と共に目の前がぼやけてきて「ああもうダメだ」と思った瞬間、とうとう寝落ちしてしまった。

 瑞穂が寝落ちしたことを確認した悠人は、美月から来ていたメールに返信するための文字を打ち始める。

「今から東京へ向かう。お土産は何がいい?」

 悠人の文面はいつも短めだ。こういったやりとりは、あまり長々と書かない方がが良い事を知っている。長文になるくらいなら、電話するか会って話をすれば良いのである。それにだれしもがケータイで長文を読むのに慣れてはいない。

 やがて名古屋を過ぎ、そろそろ浜名湖へさしかかろうとしたとき、美月からメールの返信が来た。

「何もいらないよ。タロさんが無事で帰ってくれたらいい」

 健気な文面に心をさらわれるばかりである。またぞろ京都デートのことを思い出しながらほくそ笑んだ。

「何か買って帰るね」

 まだ東京へ向かう途中だというのに、悠人の頭の中は帰りの土産のことで目一杯になるのである。

 ふと隣を見ると、瑞穂が気持ち良さげに居眠りをしている。良き夢でもみているのだろうか、口元に笑みが浮かんでいるように見える。

 こうしてマジマジと見ていると、なるほど瑞穂も可愛い。英哉が名乗りを上げるのも無理はない。小林もまんざらではなさそうだった。よく見るとスタイルもなかなかいい。

 昨夜の瑞穂の振る舞いが、シラフだったらどうしたことだろう。据え膳食わぬは・・・などというが、弱いところにつけ込むほど悠人も落ちぶれてはいない。

 それよりも今は美月と過ごす時間を大切にしたい。そう思っていた。


 気がつけば、悠人もウトウトとしていた。睡眠時間が短かったのも事実だ。美月とのメールのやりとりはいつも短い。お互いに大人だからか、睦言も短めだ。

 眠い目を擦りながら、今までのメールの記録を遡ってみた。初めましてから、つい先日のことまで。悠人は一つ残らず残していた。

 しかし、あることに気づく。もし二人で会っていることを浮気と認められたら。今後、そういった関係にならないとも限らない。いや、むしろ悠人はそうなることを望んでいる。そんな状況において、美月とのメールを残しておくのは得策ではない。かといって、せっかくのやりとりを消去してしまうには名残惜しいとも思っていた。

 そこで悠人は、そのメールをパソコンに転送することを思いつく。家のパソコンならパスワードでのロックがかかっているし、誰も悠人のパソコンの中身に興味を示す者などいないだろう。そうタカをくくっていた。

 そう思い立った悠人は、一通ずつメールを転送していく。全部で三十通ほどあった。おかげで眠かったまぶたは塞がることなく熱海あたりまで過ごせた。

 熱海駅の周辺に、岩肌にいくつもの鳥居が並んでいる風景が見える。悠人にはこの光景に思い出があった。

 かつて学生時代に横浜に住む親戚を訪ねることになり、新幹線で新横浜駅を目指したのだが、前日の寝不足がたたり、寝過ごしてしまったことがあったのだが、そのときの記憶の中で見た最後の風景が、その岩肌の鳥居なのであった。

「あの時はここまでは覚えてたのにな」

 と、ここを通過するたびに思い出すのである。

 その時のことを思い出しながら気を引き締めると、ふと、隣の瑞穂の動きが目に入った。寝返りを打つように首の位置を変えて、こちら向きだった顔が反対側を向いた。自然と少し開いた襟元から襟足が見えた。

 そこからは滑らかな艶々とした若き乙女の肌が垣間見える。悠人もまだ枯れているわけではない。だからといって覗いたわけでもなかったが、チラリと見えたエロチシズムな光景に一瞬、目が奪われた。

 我にかえり、慌てて咳払いをしたが、その音で瑞穂は目を覚ました。

「あっ、寝てしまいました」

「おはよう。よう寝てたで」

「うー、悠人部長に寝顔を見られるやなんて」

「可愛かったで」

 瑞穂は顔を赤らめて恥ずかしがった。

「ウチの寝顔は心に決めた人しか見せへんとおもてたのに。悠人部長、責任取ってもらえます?」

「こら、勝手に寝たのはキミやないか。それにボクは見てないで」

「可愛かったって言うてくれはったやないですか」

「大人をからかうのも、ええ加減にしとき。今から仕事やで。人に会うだけやけど」

「ところで、東京まで行って誰に会うんですか?」

「ウチと提携してる会社が虎ノ門にあんねん。そこの支所長との会談や。来年、人事交流の話があってな、その相談や」

「そんなんあるんですか」

「まだ計画やけどな。ウチらみたいな小さい会社は支社がないやろ。その分、得られるカテゴリのキャパも決まってくるわけや。せやから同系の会社同士で人事交流せんかと言う話があんねん」

「それって決定ですか?」

「ああ、おおむねな」

「移籍第一号は誰なんですか?」

「そんなんボクの口からは言えんな。三人ぐらいの候補がおるらしいで」

「ウチも一般職で入ったから、候補ですやろか」

「まだ入りたての新人なんか候補にするかいな」

「よかったあ。悠人部長のそばに居れるんや」

「あほ、まだ寝ぼけてるんかいな。もっと自分におうたええ人見つけ」

「もちろん、結婚対象ではないですけど恋愛対象だったりはするんですよ」

「キミらの思考がようわからんな」

 渋い顔をする悠人の腕に、ニコニコしてしがみつく瑞穂。

「ウチらのこと不倫カップルと思われてるやろか」

「どうみたって親子やんか。まあ、若い子にしがみつかれて悪い気はせんけどな。ボクが勘違いする前にキチンと座り直し。大人やねんから」

「はあい」

 そんな会話をしているうちに、新横浜駅を通過した新幹線は、降車予定の品川駅に到着しようとしていた。

『まもなく品川です』

 車内のアナウンスが流れた。


 冬の東京は大阪よりも少し寒い。それでも正月を前にして、活気にあふれた商店街などでは、熱の入った年末商戦が繰り広げられていた。

 悠人と瑞穂は、直接虎ノ門へは向かわずに、品川駅近くの商店街を歩いている。街の様子を伺うためだ。今までもできる限り色んな売り場を見るようにしてきた。その地域の、生活環境の違いによる色を見るためである。そういったことを瑞穂に理解させようとしていた。

 悠人は無言で歩いていたが、時折り指差しながら瑞穂に注視させた。

 ある時は肉屋、ある時は惣菜屋、そしてある時は蕎麦屋などのショーケースを見ながら関西との違いを確認しながら歩いた。その時の瑞穂の眼差しはか弱き乙女の瞳ではなく、仕事に徹する一人の社会人の目だった。

「東京と大阪って違うんですね。面白いです」

 キラキラと光る瑞穂の瞳は未来ある若者の瞳そのものだった。


 東京宣伝虎ノ門支店では、島田専務から連絡を受けていた支所長の入江という人物が待ち受けていた。

「やあ、よく来てくれましたね。待ってましたよ」

 そう言って役員室へ案内された。そこには大きなソファーがあり、さらにもう一人の人物が二人を迎え入れた。

「紹介しておきましょう。総務部長の寺田です」

 四人はあらためて名刺交換をすると、まずはソファーに腰掛け、世間話などを始めた。

 広告業界の話や最近の傾向の話など、あまり景気の良い話はなかったが、お互いに中小企業のやるせなさなどが共通の話題となった。

「そういうことで、先々月のセミナーでお宅の専務さんと意気投合しましてね、人事交流をしようじゃないかということになったんです」

「わかりました。ある程度の中堅クラスと二、三年の若手をと聞いておりますが、もう候補はピックアップしておられますか」

「それがね、この話を各部署にしたところ、立候補者が殺到しましてね、ようやく二人を選定しました。営業部の中堅とデザインの若手です」

「そうですか。ウチは一人は決まっているようですが、もう一人は決めかねているようでした」

「決まっている人物とは、どんな人物でしょう」

「一人は営業部の中堅ですが、今後間違いなく人の上に立ってもらわねば困るという人物です。少し自信過剰なのがたまにキズですが、そこが丸くなればいい上司になると思っています」

「ほう、面白そうですね。ウチの人選もそんな感じです。できる奴なんですが、もっと広い視野を持てば変わる奴なんです」

「お互い、期待してる人物っていうことですね」

 するとそれまで黙っていた瑞穂が恐る恐る口を開いた。

「あのう、もう一人の若手って、私のことでしょうか」

 悠人は嗜めるように、

「二、三年の若手をっていうたやろ。キミはまだ一年目やないか」

 すると入江支所長が身を乗り出して、

「ほう、まだ一年目で部長付きの出張とは大したものですな。次回の人事交流には是非とも名乗りをあげてもらいたい」

「いや、その」

 瑞穂はなんと返していいのかわからずに言葉に詰まった。

「彼女を出すには親御さんの許可をもらわないとね。まだ嫁入り前ですから」

「いやあ、私はまた大原さんの秘書さんかと思いましたよ」

 寺田は少しふくみのある言い方をしたが、とくに悠人は反応せず、

「ウチの会社で秘書がいるのは会長だけですよ。社長ですら自分の管理はセルフです」

「大企業のようにはいきませんな」

 悠人は島田専務から預かった中堅営業社員のプロフィールを渡して、寺田部長からは二人分のプロフィールを受け取った。さっと眺めてみたが、なかなかの好人物だ。

「デザインの若手を預けていただくなら、ウチもそれなりの人物を用意しなければいけませんねえ」

 それに対して入江支所長は、

「部署はお構いなしというのが交換条件なんです。島田さんにもご理解いただいています」

「わかりました。お預かりしたプロフィールは間違いなく島田に渡します。そして早急にこちらの人員をピックアップするよう伝えます」

「どうです、少し見学して行きませんか。みんなにも紹介しておきますよ」

「いやあ、ボクなんか島田の代理ですから」

「そういわずに。ついでに企画の交換要員と顔合わせさせましょう。どうせそちらでお世話になるのだから」

 悠人と瑞穂は、やがて人事交流で大阪に来ると言う若手社員に会った。

「高橋智也です。よろしくお願いします」

 高橋と名乗る青年のパソコン上では、今まさにマスコットのデザインを手がけているところだった。赤の使い方に特徴のある色彩だった。

 なんでも彼は今回の人事交流に最も早く名乗り出たらしい。

「大阪に親戚でもいるんですか?」

 悠人は高橋に大阪行きに名乗り出た理由を尋ねた。

「いいえ、単に阪神ファンなだけです。甲子園に行きたいじゃないですか。それに、生まれてからずっと関東なので、外に出てみたくて」

 ただのトラキチかと思ったらそうでもなさそうだ。

「なかなかの人物ですね。楽しみです」

 悠人は高橋と握手を交わし、また大阪で会おうと肩をたたいてデスクを去った。

 顔合わせが終わると悠人と瑞穂は再び役員室へ呼び戻され、

「今日はもう帰るのかね」

 入江支所長が尋ねた。

「はい、その予定です。嫁入り前のお嬢さんを預かってますからね」

「お嬢さん、いかがかな?東京の夜を楽しんで帰るというプランは?」

 入江支所長は矛先を悠人から瑞穂に変えてみた。

「今日は部長が帰るって言っても、私は泊まろうと思っていました」

「なんだ、お嬢さんの方が話がわかるじゃないですか。よし、サラリーマンの聖地、新橋にでも繰り出すか」

 入江支所長も好きなクチなのだろう。悠人の返事を待たずに決めてしまった。さらには島田専務に電話して、うまく話しがついただの、これから交流を深めるだの、洗いざらいを報告していた。しかも悠人に電話を代わることを許さずにである。

 支所長は先に今宵の宿を調達した。新橋にあるビジネスホテルだ。先にチェックインするよう指示され、後刻に合流することとなった。

 悠人は瑞穂を心配したが、当の本人はあっけらかんとしたものである。

「あんまりハメを外しすぎないように。お得意先とは違うけど提携先やから、失礼のないように頼むで」

「大丈夫です。まさかベッドまで付き合えとは言われないでしょ?」

「あほ、テレビの見過ぎや」


 ここまでは、何も問題は無かった。

 問題は宴のあとである。


 随分と話も弾み、楽しい夜となった。まるで大阪の夜の続きであるかの如く、二夜続けての歌謡大会となった。カラオケからは高橋智也も合流して散々声を枯らした後に宵闇のお開きとなったのである。

 東京組と別れた悠人と瑞穂は、今宵の宿へと向かった。昨晩同様またもや瑞穂は陽気なほど酔っている。

「部長、ウチらだけでもう一軒行きましょう。まだ十二時やないですか」

「キミいっつも何時まで飲んでんねん。まだやなくてもうやで、十二時ゆうたら」

「部長やったら遅なってもええですよ」

「あほなこと言うとらんと帰ろ。二晩続けての接待は疲れた」

「ほんならラーメン食べに行きましょ」

「夜中のラーメンは太るで。東京やねんから、最後は蕎麦にしとき」

「東京のお蕎麦って辛いんでしょう?」

「そんなんいつの話や。今はだいぶええ塩梅らしいで」

 東京には夜中まで開いている蕎麦屋が沢山ある。このあたりが関西とは違うところだろう。街角で見つけた蕎麦屋はいわゆるチェーン店で、立ち食いではなかったが、簡易なイスとテーブルがあるだけの店だった。悠人は山菜蕎麦を瑞穂はきつね蕎麦を注文した。

「これって大阪でいうたぬきですよね。きつね蕎麦って初めて聞きました」

「ほらな、蕎麦屋ひとつとっても面白い発見があるやろ」

 瑞穂は感心しながらも、

「そういえば東京って蕎麦を食べながらお酒を飲むんですよね。ウチらもそれを体験しな」

 いうが早いか、瑞穂は立ち上がってカウンター越しに何やら叫ぶと、瓶ビールとコップを二つ、引っ提げて戻ってきた。

「さあ、飲みましょう」

 グラスを渡されて否応なくビールを注がれていたが、

「厳密にいうとそばのときは日本酒やけどなあ。まあそれも古い話か」

 熱い蕎麦とともに腹に入るビールは、意外にも心地よかった。瑞穂もさぞ満足したことだろう。

 蕎麦とビールを平らげた二人はホテルに向かって歩いていたのだが、最後のビールが効いたのか、瑞穂の足取りが先ほどよりふらついている。ようやくホテルにたどり着いた頃にはまっすぐ立っていられないほどだった。

「大丈夫か?」

 悠人は部屋まで送ると、昨晩同様、コートと靴を脱がせてベッドに寝かせた。その途端、かっと目を開いた瑞穂が悠人の首に腕を回した。

「悠人部長、ありがとうございます。お礼って何もないんですが」

 悠人にも昨晩のシーンが回想される。

「据え膳食わぬはっていうけどな、キミはまだ若いんやから、変な過ちをおかしたらあかんで」

 悠人は首に巻かれた瑞穂の腕をそっと振り払った。

「悠人部長って、案外お堅いんですね。奥さんが怖いですか?」

「キミが大事な部下やからやで」

「それとも奥さん以外に大事な人がいる?」

 悠人は図らずも出た瑞穂の言葉にわずかながら反応してしまった。あざとい瑞穂もその反応を見逃さなかった。

「へー、そうなんですか。なんだか謎が解けたみたいです。奥さんにチクッちゃおかな」

「変な言いがかりはやめて早く寝なさい。明日はゆっくり寝てていいから。それと、帰るのはボクと一緒やなくてええからね」

 悠人は出来るだけ冷静なフリをして、早く部屋を出ようとする。

 瑞穂もここでは深追いしない。確証はないものの、なんだかゴシップネタをつかんだ感じだったのだろう。それ以上の追求はしなかった。


 翌朝、悠人はNHKのニュースが始まる頃には目覚めていたので、ホテルでさっとモーニングを済ませて、早々に大阪へ帰ろうと思った。

 チェックアウトを済ませて振り返ると、そこには瑞穂が待ち受けていた。

「やっぱりウチを置いて帰るつもりやったんですね。まあいいです。さあ、一緒に帰りましょう」

 何やら冷や汗が背中を走った。しかし、それを断る理由もなく、言葉少なにホテルを出た。左腕には拿捕されたかの如く瑞穂がつながっている。

「悠人部長の好きな人って、どんな人ですか?」

「奥さんのことやろ」

「いいえ。今、頭の中によぎった人のことです」

「もし、そんな人がいたとして、瑞穂くんには関係のない話やろ」

「ちょっと妬けるかな。悠人部長はどこへ行っても人当たりがええですもん。きっとあっちこっちでモテるんやろなっておもて」

「そうやな、モテるかどうかは別としても気遣いはしてるかな。喧嘩しても損やし。弱いし」

「悠人部長はみんなに優しいんです。せやからどこへ行ってもモテるんですよ。社内でも女の子からの支持率高いの知ってます」

「それは上司としてなめられてるってことに近いんちゃう?」

「なんやったら社内の女子対象にアンケート調査しましょか?抱かれたい上司選手権」

「頼むからやめてな。どんな結果になっても恥ずかしいから。それよりもキミみたい可愛い子やったら、もっと若くてハンサムな男どもようさんおるやろ」

「今の若い男はみんなやたらガツガツしてる割には心が小さい。そこへいくと悠人部長みたいなおじさまは包容力が違うやないですか。結婚相手とは思わないですが、恋愛を経験するんやったらそこそこ年上がいいですね」

「そんなこと言うんやったら、ホンマに弄んだろか」

「いいですよ。ほな、新幹線乗る前にホテルに行きましょ」

「待て、そんなん言われてハイそうですねって言われへんやん」

「ほらね。やっぱり悠人部長はそういう人なんですよ。しかも奥さんやない人を想ってる」

「もう勝手に思っとき」

 かくして、この日を境に悠人は瑞穂にとって今まで以上に魅惑な男として映るようになったのである。






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