第6話 =冬の京都はいと熱し=
さて、月は変わり世間では猫の手も借りたい師走の月となっていた。
悠人にとっては、待ちに待った十二月である。さてもその週の第一水曜日、悠人は仕事を終えて、まっしぐらに店に向かって歩いていた。
天気も良く、風は透き通るように冷たく、人の波は年末の繁忙期にふさわしい賑わいだった。多くの商店街や百貨店ではお歳暮セールとクリスマス戦線に色づきはじめ、艶やかな看板やポスターがどの店先からも飛び込んできた。
悠人の会社も需要期ではあったが、原稿のチェックと企画案の修正は昨日までに済ませてある。今日は午後から得意先へあいさつ回りをして、そのまま直帰するパターンのスケジュールを組んでいた。従って今は午後五時を少し過ぎたところではあるが、すでに悠人の体は歓楽街の人ごみの中にあったのである。
店のオープンは繁忙期でも午後六時は変わらない。だからといって他の店に寄ってから行くのでは中途半端な時間である。そんなときには、迷わず店に一直線。控室で待つことと決めている。
この日も、開店前の物静かなドアを開けると、顔なじみのボーイが目一杯の笑みを携えながら悠人を迎え入れた。
「いらっしゃいませ。どうぞ中でお待ちください。ご指名はどうされますか」
「美月さんを」
ここまではいつものルーチンである。そしてテレビ放送が流れている控室へと案内される。まだ暖房が行き渡っていない控室の空気は、思いのほか冷たかった。
壁の時計は五時三十五分。外ではすでに日は落ちており、凍てついた体を温めるには少々時間を要した。暖気が満たされていない部屋ではあったが、風がない分だけでも、体感温度の回復には十分な環境だ。テレビでは今日のニュースが流れていたが、最近のインフレ事情や外交問題など、一般市民には頭の痛いニュースばかりである。 ここはそんな世知辛い世情を忘れるためのオアシスなのである。難しいニュースなど、耳に入れたくはなかったのだが、チャンネルの選択権が悠人にあるわけではなく、仕方なくアナウンサーの原稿に付き合うしかなかった。
やがて長針と短針が垂直方向へ一直線に並ぶ時、『ピンクキャロット』での宴の時間が始まる。オープニングのテーマ曲もいつもと同じだった。
いつも通り、お決まりのシートで待っていると、美月はいつも以上の笑顔で現れた。
「やっと来てくれた。二週間って長いよね。会いたかった」
「ボクもやで」
悠人はそっと美月の腰を引き寄せる。そしておもむろに唇を求めるのである。いつも通り、美月の吐息は甘く、フワッとなびく髪から香るほのかなシャンプーの匂いが、男心に火をつける。
「タロさん、平日休める?」
「品行方正やからな。どしたん?」
「約束してた京都。来々週の木曜日やったら行けるかも」
悠人は一瞬、虚をつかれたような衝動にかられたが、すぐに我に帰ると、
「ホンマにデートできるん?清水さん行けるん?」
「うん。その代わり、着物でのお散歩も付き合うてな」
「ああ、そんなんお安い御用や。ほんならご飯食べに行くとこも探しとかなあかんな」
「ご飯だけで済む?大丈夫?タロさんやったら信用できるけど?」
そうまで言われては、はいそうですよとしか返せない。他の御仁がどうかは知らぬが、悠人という男はそういう男なのである。ときに狼にならねばならぬ時があることも知ってはいるが、もはやそんな猛々しい年齢でもない。
「信用してくれるからお出かけしてくれるんやろ?何にもせえへんけど、パンツだけは新しいのはいときや」
「やっぱりなんかある?」
「無いと思うよ」
「なんも無いん?」
「あるかもね」
悠人にしてみればそんな会話ができることが楽しい。妄想だけでもスリルのある内容だけにワクワクする感じがたまらなかった。
実際、いけない関係になってしまうことにも罪悪感と不倫感は拭えない。おおよそ、悠人も普通の人々の感覚と変わりはないのだから。
しかし、一度決めたら踏ん切りは早い方である。手元のスケジュール表を開いて、来々週の木曜日の欄に『ミ』と書き記した。これで、京都散策デートの日程調整は完了である。
「楽しみやわあ」
「ボクの方が楽しみや。帰ったら、ご飯食べるとこ、めっちゃ探しとかなあかんな」
悠人は美月を抱きしめて、思い切り彼女の匂いを吸い込んだ。そこにはいつもと同じ、ふんわりとした肌の匂いが香っていた。
いかにも具体的な約束ができた悠人は、お礼のつもりで、いつもより1セット長く時間を使い、八時過ぎには冷たい風が渦を巻く繁華街の人ごみの中へ紛れ込むのである。
夢のような約束をした夜。悠人の帰宅は十時を超えていた。
思いがけない出来事が悠人の身体を火照らせ、家路に着くまでに、その熱を少し冷ます必要があると感じた。
『ピンクキャロット』を出て、賑やかな繁華街の少し南の路地を入ると、悠人がよく利用しているバーが見える。その店は『レインボー』といって、悠人と同い年のマスターが店を切り盛りしていた。久しぶりに、ややレトロな感じのドアを開けると、欧風の鈴が客の来訪をマスターに告げる。
「やあ、いらっしゃい。久しぶりだね、随分と顔を見せなかったから、どうしたのかと思ってたよ」
マスターは横浜出身なので、言葉訛りは関東弁である。
「去年の春から一年間茨城まで飛ばされてな、やっと今年になって戻ってこられたんや」
「それにしても春でしょ、随分なご無沙汰だよ」
「ああ、帰って来ていきなり配置替えがあってな、今までとおんなじ仕事っていうわけにいかんくてな、なかなか来れんかったんや、ゴメンゴメン」
「別にいいさ、またこうして来てくれたんなら。今日はどうした?なんかあったの?」
「いや、別に」
「まあ、いいさ。で、何にする?」
悠人はいつもバーボンのロックと決まっている。
「いつものを」
「なんだっけ?忘れたよ」
「バーボンを。薔薇の絵のヤツ。ロックでね」
マスターは、悠人の注文を聞き終わると同時にグラスを出した。
「なんや、覚えてるやん」
これがマスターなりのジョークだった。
「なんかうれしいことあった?」
悠人は少しドキッとしたが、出来るだけポーカーフェイスを装って、
「別に、なんもないで」
「悠さん昔からそう。嘘がつけない顔してるよ。まあ、いいけどね」
的を射たマスターの指摘だったが、まるで何もなかったかのように振る舞う悠人。
「せっかく思い出して足を運んだんや。難しい話は無しな」
「いつも話しを難しくするのは悠さんじゃないの」
「まあええわ、なんか音楽かけてな」
その店はいわゆる音楽バーで、客のリクエストにも対応していた。この日はちょうど前の客がはけたところで、店内には悠人しかいなかった。
「何が聞きたい?」
「いつも通り第九を」
悠人は何故かベートーヴェンの第九が好きだった。およそ悠人が物心ついて以降、最初に経験したコンサートが第九だったこともあるだろう。これは悠人の母の影響である。悠人の母は服飾関係の仕事をしており、中でもとあるソプラノ歌手の専属のパタンナーだった。その関係でコンサートに行ったのが悠人のライブデビューなのであった。
マスターは悠人が第九好きなのを心得ていた。そしていつも秘蔵のアルバムを流してくれるのである。
ベートーヴェンの第九は四つの楽章から構成されており、最も有名な第四楽章は『歓喜の歌』として名高い。日本では年末によく聞く曲である。第九は全楽章を聴き終えるとおおよそ七十五分。コンパクトディスクの容量を決める際に、かのカラヤンが第九が入る容量にと指摘したという逸話もある。
悠人は、その七十五分を自らの気持ちを落ち着かせるために使った。最後の合唱で気持ちよく終わる切れの良い交響曲。その間、悠人は二度、バーボンをおかわりした。
「どうだい、ちょっとは落ち着いたかい」
「なんのことかな?」
「おまいさんがこの第九を聴くときはなんかあったときだ。何があったか聞かねえが、落ち着いたかい?」
悠人はそれには答えず、三杯目のグラスを空けると、
「また来るわ」
それだけ言い残して席を立った。何気ないマスターの気遣いもうれしかった。
ひなびたドアを開け、夜の街に再び身を投じると、そこには師走の喧騒と冷たい風が遠くから手招きをしていた。
店を出て、二十二時過ぎに帰った悠人に明るい出迎えはなく、リビングではテレビの音に混じって、万里と唯衣の笑い声が聞こえていた。おおかたお笑い番組でも見ているのだろう。そうした二人を見て、すでに自分の居場所がないことを痛感させられる。
それでも玄関に人の気配を感じたか、
「おかえり」
万里だけは、お愛想程度の声をかけてくる。
「ただいま」
悠人が返事をした頃には、万里の目線はすでにテレビの方へ移されていた。
果たして、この状況が日常茶飯になっている悠人にとっては、特に憤慨することもなく、着替えた後に冷蔵庫から麦茶をマグカップに注いでパソコンの横に置く。
こんな生活がすでに数年前から続いている。家庭内別居とはこういうことを言うのだろうと、あらためて思う瞬間でもある。
しかし、その関係を虚無と思っていたのは、すでに過去のことなのだ。これからはドラマチックな妄想と共に時間を過ごせるのである。
悠人はまだ暖まりきらないヒーターに暖を求めながら、パソコンの電源を入れ、ネットの世界に入っていく。もちろん、京都散策デートの下調べのためである。
悠人は京阪沿線であるが、美月は阪急沿線であることがわかっている。まずは、待ち合わせ場所を決めなければならないのだか、あいにく阪急沿線をよく知らない悠人は悩んでいた。京都で待ち合わせるか、それとも大阪まで迎えにいくか。
結果的に悠人が選択した答えは、大阪まで迎えにいくことであった。その理由は、先ずは地の利がある地域の方が融通が利きやすいこと。次には、少しでも長く一緒にいられる時間があること。
どこまで迎えにいく?わかりやすい場所として悠人が選んだのは、阪急百貨店出入り口横のショーウィンドウ前。ここなら阪急電車を降りて、地下鉄御堂筋線改札口までの導線上にあるので、迷うことはないだろう。
次に悩むのは待ち合わせの時間だ。美月の仕事はどうやら時間が不定期のようだ。前日も遅くまで仕事なのかもしれない。そうすると、朝早くの待ち合わせは避けなければならない。かといって、あまり遅いと、ランチのチャンスを逃してしまう。
そこで一考、待ち合わせを十時半とし、京都まで一時間と少し。向こうへ着いたらすぐにランチという段取りでもいいではないか、という計画とした。
あとは、ディナーまでをコースとした一連の流れを編集するのみ。ランチの店は軽くで良い。場所柄、あまり突飛な店はあるまい。清水周辺にはそれなりの店が散立していることも知っている。
ディナープランはふたつのパターンを必要とした。京都の場合と大阪の場合と。京都散策が終わってのちは、雰囲気を変えた方が良い場合もあるからだ。その際に使用する交通手段によって、立ち寄る繁華街も違ってくるので大阪ディナーの場合は、さらに三つほどのパターンが必須となる。
昔から企画立案が好きだった悠人にとっては、こうした七面倒なことも楽しみ以外の何物でもなかった。事実、万里なども面倒なスケジュール管理などは、全て悠人に任せっきりだった。
つまり、企画立案という今の仕事は、悠人にとっては天職ともいえる仕事なのである。
そんな楽しみを密かに懐で暖めていることなど露とも知らぬ英哉が、今日も会社で管を巻いていた。
「悠さん、最近つきあい悪いですね。なんかありましたか?」
唐突であったが、虚を疲れた格好になった悠人は、ややたまげた表情を呈した。
「おまいさんの企画進行がスムーズやないからやろ。なんやったら、今夜でも付き合おうか?」
「あかん、年明け戦線の北阪百貨店の最終ゲラ明後日までや。今日、行ってもたら明日は徹夜になるやろな。そんな危ない橋は渡れんな」
「そやろ。片づけんのが遅いねん。そんなんピピッてやったらしまいやん」
「そない言わはんねやったら、なんかええアイデアください。地元の漁連も畜連も厳しいこと言いよるんですわ」
「肉魚があかなんだら、別のもん探し。そんなん主任に相談して、チームで乱舞さしたらええやんか」
英哉にとってはそのピピッとが難しくて困っているのである。かといって、会議を開いて案をまとめるほど時間があるわけでもない。
「例えばでええからヒントください」
「そやな、正月明けやから、初詣で食べ忘れてませんか?シリーズなんてどや?京阪神沿線の神社近辺の名物名店当たってみるとか」
「それよろしいな。一回調べてみますよって、ピピッとできたら今夜は前祝いでもしましょか」
何かヒントが見つかったのだろうか、急に機嫌が良くなった英哉だが、悠人は諌めるように、
「今日中に完成するような案やったら、ボツは免れんやろな。せいぜい練り込んどき。木下くんにもよう言うといたるし」
悠人の助言に今宵のパーティはあきらめたか、デスクへと戻っていった英哉だったが、それと入れ替わるように悠人の前に現れたのは瑞穂だった。
「悠人部長!」
相変わらず名前で呼ぶ瑞穂に、やれやれといった表情で対応する悠人。
「今度はなにかな?」
瑞穂はやや青ざめた顔で、二枚の絵コンテを差し出した。そこには新しいコンセプトでキャラクターを立ち上げるとある企業のCMプランだった。
「キャラクターのデザイン、あれほどヌートリアだってお願いしたのに、上がってきたのはビーバーなんです。明日がプレゼンなのに、どうしましょう」
さて、ビーバーとヌートリアとは何が違うのか。一応説明しておくと、ビーバーは北米に生息する齧歯類で、川や湖に巣を作り、小枝を集めてダムを作ることで有名である。昭和の時代にはビーバーをメインキャラクターに設定したエアコンが有名になったことから、一般的に川に生息する小動物といえば最もポピュラーな動物の一つだ。ヌートリアとはオセアニアに生息する齧歯類で川の近くに穴を掘って巣とする小動物で、近年日本でも外来種として野生化している個体が問題視され始めている。
「どうしてビーバーじゃダメなん?」
「だって、この会社、本社がオーストラリアなんですよ」
「せやったらイラストレーター呼んでやり直させるしかないやん」
「それが・・・、今日は東京へ行ったはるんです」
瑞穂の顔色が悪いのはそのせいだったのかと理解した。
「データはあるん?」
「はい、一応もらってます」
すると悠人は別の班の若手を呼んだ。
「小林くん、忙しいとこをすまんが、この子の持ってるビーバーのイラストをヌートリアに変えてくれんか?一時間以内に。それが出来るんはキミだけや」
名指しされた小林和樹は瑞穂とは同期の入社で、デザインが得意だった。小林は瑞穂が手にしている絵コンテとヌートリアの写真をしばらく眺めて、
「ようは、尻尾を細くして、顔をとんがらせたらいけるかな」
「頼んだで」
「小林くん、ありがとう」
「その代わり、今度の土曜日、デートしてくれへん?」
瑞穂は小林の突拍子もない申し出に戸惑った。
「うう、そんな交換条件ある?」
「ウソ。せやけどご飯ぐらい奢ってもらうで」
「それはしゃーないな」
小林は勝ち誇ったように瑞穂からデータを受け取り、デスクのパソコンにかじりついた。
「よかったね。でも結局、デートすることには変わりないって知ってた?」
瑞穂はまんまとはめられたことに気が付かなかった。デートは断ったつもりだったが、結局、ご飯に行くのもデートと同じである。しかも、お代は瑞穂持ちの・・・。
悠人に指摘されて気づいたものの、時すでに遅し。後日、瑞穂は小林とディナーをともにすることとなったのである。その話の続きは別の機会にするとして、瑞穂をなだめながら見送った悠人はカレンダーを眺めていた。
「あと十日とちょっとか」
美月とのお忍びデートまで、悠人にとっては一日千秋の思いとなるのであろう。そんなこととは関係なく、師走の日々は過ぎていく。
美月との約束の日はクリスマスウイークの少し前。イブもイブイブも関係なく、年末の慌ただしさは増していく一方である。
悠人の会社は新年の企画が終了していれば、さほど年末は忙しくない。強いて言えば、成人式企画と節分企画があれば少しはせかせかするのだが、今どきは成人式は着物屋が、節分は豆屋が独自の企画力でイベントを開催している。
実際、悠人の会社の企画部においても年末までの締め切りを持っているのは一班だけであり、いつもと変わらぬ作業とともに忘年会は開かれる。今年の幹事は正木と小泉に任されているようだ。さっそく悠人のもとへも日程調整よろしく、ご機嫌伺いが回ってきた。
「部長、さすがにクリスマスイブの日に忘年会ってわけにもいかんので、その前々日っていうのはどうですか」
クリスマスイブの前々日。その日こそは美月との密会の予定日だった。
「その日は別の約束があるからダメやなあ。オレ抜きでもええけど」
「いや、それはそれでそういうわけにもいかんです。なら、クリスマスイブの前日はどうですか」
「オレはええけと、みんなちゃんと家族サービスをした後の方が、なにかと出やすいんちゃう」
「そんなら週明けになってしまいますけどええですか」
「水曜日から休みやろ?どうせ仕事納めなんか半分休みみたいなもんやから、いつでもええやろ」
「じゃ、月曜日ってことで」
悠人は自分の都合で中途半端な日程になったことを少し後ろめたく思ったが、今回ばかりはわがままを聞いてもらおうと自分に言い聞かせた。
そして来たる逢瀬の日がやってくるのである。嵐の冬将軍の到来と共に。
十二月二十一日水曜日。美月の出勤日であるが、悠人は店には行かなかった。
明日になれば会えるという想いと、有給を取るための残務整理をこなさねばならなかったのとの理由であった。
本当ならば、チラッとでも顔を出した方がいいのだろうが、あいにく週末までに提出のポスターが遅れ気味で、その対処方法について、スポンサーとスケジュールの調整をしなければならず、配布先の了解も必要だったため、結構な時間を食ってしまった。
『ピンクキャロット』自体は遅くまで開いている店なのだが、悠人の精神的な疲れが行く気持ちを削いでしまった。色んな意味で明日への体力を保持しておきたかったのかもしれない。
帰宅後、缶ビールを冷蔵庫から取り出してグッと飲み干すと、そのまま自室へ引きこもり、パソコンの電源を入れたはいいが、立ち上がるまでに寝落ちしてしまった。
それほどまでに疲れていたということか。デート本番前日の緊張もあったのか、おかげで上手く眠りにつけたようだった。
翌朝、悠人は何事もなかったようにいつもの朝のルーチンをこなしていた。
会社には有休申請したが、家では普通に出勤する素振りを見せる必要があった。特に万里には内緒のデートである。過去に前科を持つ悠人としては絶対に秘密裏に遂行しなければならないミッションであった。
朝食はいつも通り自分で用意する。今朝は軽く茶漬けに漬物で済ませる。万里は遅番、娘も宵越しの生活が板についていて、朝の始動が遅いのがデフォルトである。
着ていく服もいつも通り。タンスからワイシャツと靴下を引っ張り出して、ライトなジャケットを身につける。歯磨きは入念に、整髪料は使わずに髪を整えて、あとはコートを羽織り、マフラーを首に巻いて、いつも通りの時間に家を出るだけである。
駅までは徒歩七分。いつも通りの歩速ならいつもの電車に間に合うのだが、今日はいつもとは違う足取りであった。しかし、電車を待つプラットホーム、そこから見える風景も、さらには吹き抜ける風の匂いさえも違って感じた。
美月との待ち合わせの時間にはやや早い出立であるが、それは仕方がない。だからといって家でダラダラしているわけにはいかないのだから。悠人はゆとりのある時間を利用して、日頃の運動不足を解消する機会にあてることにした。
普段乗降している京阪の駅から待ち合わせ場所まで約三キロ。徒歩で四十分ほどか。慌てる必要も急ぐ必要もなく、自分のペースで歩けば良い。それでも待ち合わせの時間よりも、かなり早く到着するだろうと踏んでいた。
十二月とはいえ、朝から晴れ間が見える今日の天候なら、空気は冷たいが、日光にあたりながらのウォーキングなら、次第に暖かくなるはずだ。事実、歩き始めて十分もすると、コートの内はポカポカと温まってくる感覚を覚える。かといって、脱いでしまうには寒すぎるが、マフラーだけは不要になった。
約四十分後、ほぼ予定通りに梅田の駅にたどり着いた。そして予想通り、待ち合わせにはずいぶんと余裕のある時間だった。
梅田駅周辺では、こういうときの立ち寄り場所には困らない。朝からモーニングよろしく喫茶店が賑やかだ。悠人は適当な店を見つけて入った。すでに朝食を済ませている悠人にトースト付きのモーニングは不要であり、ウォーキングで温まった身体にはホットドリンクも不要だった。
「いらっしゃいませ」
おそらくは学生だろうアルバイトと思われるウェイトレスが水の入ったグラスをトレーにのせて注文を取りに来た。
「アイスティをください」
「モーニングですか?トーストですか?ロールパンにしますか?二百円追加でサンドイッチに変更できますが?」
「いや、朝は食べてきたから、ドリンクだけでええねん」
「サラダはどうされますか?」
「いや、ドリンクだけでええから」
朝の時間帯にドリンクだけの客が少ないのだろう。彼女は念入りに確認して、やっとオーダーを通した。
ウエイトレスが去った後、悠人はメールをチェックする。美月から急な連絡が入っていないかと。まさか美月がとは思うが、お店の女の子との約束の場合、当日になってのドタキャンなどもありがちな話だ。全く連絡が取れなくて途方に暮れる話もあったりする。
ほどよいタイミングでモーニングティーが運ばれてきた。さりげなくついてきたレモンは搾るが、シロップは入れないのが悠人の主義である。
火照った身体を冷ましながら、今日のスケジュールの確認を行う。
「最初は清水やな。淀屋橋から特急に乗って行こう。乗り換えは丹波橋かな。その前に着物屋に行かなあかんねんな。ちょっと小っ恥ずかしいけど、しゃーないな」
などと、早くも妄想の世界に浸っている。やや熱っぽくなった喉を苦味の効いたアイスティがほどよく鎮めてくれる。
そんなタイミングに美月からメールが入る。ドキドキしながら開いてみると、
「ちょっと早めに着きそう。タロちゃんは何時に着く予定?」
これでドタキャンがないことがほぼ確定した。
「もう着いてるかもよ」
少し含みのある返事を送ると、
「ホントに?じゃあ、いつ着いても大丈夫ね。あと十五分くらい」
悠人が時計を見ると、時刻は九時半。十五分後だと、予定よりも四十五分も早いことになる。きっと無理して早起きしたに違いない。電車の中では寝かせてあげよう。悠人は早くに出かけてくれた美月の心遣いがうれしかった。
喫茶店から待ち合わせ場所まではすぐなので、慌てずにアイスティを飲み干し、ゆっくりと席をたった。
梅田の地下は西日本最大の迷路と謳われたことがあるように、初めての旅行者は大概が迷子になることだろう。慣れた者からすると西と東がわかればなんとかなるという感覚だが、初心者にはそれが難しい。
悠人がいた店は昔からの地下繁華街の一角であり、見慣れた階段を登ると阪急百貨店の大きなショーウィンドウがすぐ目の前に現れる。今はクリスマス戦線だけに、ショーウィンドウの中は、サンタとトナカイの演舞が繰り広げられていた。
悠人の会社もこういう仕事を引き受けたこともあったが、残念ながら阪急百貨店の仕事を受けたことはなかった。そんなサンタの前で待っていると、小走りで駆け寄ってくる美月の姿が見えた。美月は悠人の姿を見つけると、手を振ってさらにスピードを増して悠人のもとへとやってくる。
「おはよう。そんなに慌てなくてもええのに」
「タロちゃんこそ早いやない?」
「いつも通りの時間で出かけなあかんからな。それより、朝ごはんは食べた?それとも京都に行ってから食べる?」
「少し食べてきた。ご飯に玉子をかけて」
回答としてはベストである。
「なら、このまま行こか」
悠人は美月にそっと手を差し伸べた。美月も少し照れくさそうにその手を受け入れる。
予定よりも早く落ち合えたので、地下鉄だとひと駅隣になる淀屋橋まで、散歩しながらの移動を提案した。
「ええよ」
美月は握っていた手を離して、今度は悠人の腕に絡みついた。いつもなら手提げのカバンを持っているはずの悠人だったが、今日は駅のコインロッカーに預けてきたので、両方の腕が空いている。
「どこまで歩くん?」
「清水寺は京阪が近いから、まずは淀屋橋へ行くで。途中で普通電車に乗り換えて五条で降りる。そこから約二十分で到着するかな」
「淀屋橋って行ったことない」
「すぐそこやから。十五分くらいかな」
二人はショーウィンドウを後にして、再び地下へと潜り、東梅田駅の脇を通って駅前第四ビルの地階を通り抜ける。やがて地上へ出ると、そこは御堂筋に面した道路で淀川の河口付近の北側に当たる場所であった。
二人は昨日の出来事のこと、仕事のこと、プライベートの時間のことなど、まだ知らないお互いを確認しあうような話をしながら歩いた。
しばらく歩くと市役所のそばを流れている淀川に架かる橋を渡る。その橋の名前こそが淀屋橋であり、渡った先が淀屋橋の駅である。
ここから特急電車に乗る。昭和の時代は京橋駅を出ると七条駅までノンストップだったが、平成に入ってからは途中で乗降の多い郊外の駅にも停車するようになった。
「始発やからな。しかも通勤ラッシュは過ぎてるし、楽に座れるやろう」
悠人の予想通り、客はまばらで、優々と二人並んで座れるシートを確保した。それも二階建て仕様の車輛の二階部分シートである。
「へえ、こんな車輛があるなんて知らんかった」
「ちょっとだけ上から見える景色って楽しそうやろ」
「うん、ちょっと楽しいかも」
「ここから降りる駅までだいたい四十分。少し寝てたらええで、ゆうべも遅かったんやろ。そやのに早起きして。眠いやろ?」
「ありがとう。でも大丈夫」
二人がけのシートは隣にさえ誰もいなければ、前後左右から様子が伺えるわけではない。悠人が美月の肩を抱いて寄り添っていても、周囲からは見えないのである。
しばらくはやや上からの車窓を珍しそうに眺めていたが、いずれ景色が同じような景観に変わると、外に向いていた美月の視線は悠人に向けられるようになっていた。さすがに車内でのキスは憚れるべきだったし、常識的な大人としてのふるまいを忘れるほど愚かではなかったが、そういった衝動に駆られるほど乗客は少なかった。
悠人の胸の中にほほを寄せた美月の手を握ったまま静かにしていると、果たして美月は小さな、そして長い呼吸に変わった。やはり寝不足気味だったのだろう。悠人に身体を任せて眠る美月。悠人はその身体を倒れないようにしっかりと支えていた。
「寝顔もかわいいな」
思わずワンショット撮りたくなったが、それは我慢した。
二人を乗せた電車は、そんなシーンを知る由もなく、京都へ向けて走っていた。
京阪五条駅は特急が停車しない。従って丹波橋駅で普通電車に乗り換える必要がある車内アナウンスがそれを知らせるころ、悠人は美月の肩をそっと起こした。
「ごめんなさい、寝てしもたんやね」
「ええよ、おやすみって言うたんボクやし。それより、そろそろ降りるで」
「もう着いたん?」
「いや、各駅停車に乗り換えなあかんねん」
「うん」
「この一つ手前の駅で降りたら伏見の酒蔵ツアーができるみたいやし、次はそれ行こな」
次回のデートプランの提案も忘れない。さすがはプランナーである。
丹波橋駅から五条駅までは約十五分。途中で深草駅、藤森駅、伏見稲荷駅、東福寺駅、七条駅などに停車するので、悠人の知っている限りの観光情報やエピソードなどを説明していった。
ちなみに深草駅には古くから大学のキャンパスがあり、意外と多くの学生で賑わっている。藤森駅には市立の科学センターがあり、小学生が科学を学習するのにもってこいの施設がある。伏見稲荷駅や東福寺にはその名の通り有名な社寺があり、季節ごとに観光客であふれている。特に近年外国からの観光客が増えて、人波の色が変わりつつある。七条駅には国立博物館や三十三間堂があり、中高生の修学旅行の定番になっている。
さてはほどなく五条駅に着いた二人は東の山へ向かってダラダラとした坂道を上がっていく。さほど勾配があるわけではないが、そこそこの直線距離なので、明らかに登り坂であることが一見してわかる。
「さあ、行こか」
悠人は梅田を出立したときと同様に手を差し伸べた。美月もその手にすがりつくように手を出した。
二人の想いは熱かったが、師走の寒風に逆らうこともない。悠人は握った手もろともコートのポケットに放り込んだ。
一瞬たじろいだ美月だったが、悠人の意図を理解したか、そのまま身体も預けるように寄り添った。師走の寒風は確かに冷たかったが、だんだんと火照る身体は凍えることなく、清水寺までの坂を歩いていく。
坂の入り口にたどり着くとあとは周りの景色を楽しみながらゆっくり散策していく。何も急ぐことはないのだ。
しかし、ある店の前まで来ると美月が立ち止まった。
「覚えてる?着物を着て歩いてくれるって」
悠人も決して忘れていたわけではないが、率先しての気持ちでもなかった。
「覚えてたけどな・・・」
ここまでの道のりをリードしていたのは悠人だったが、俄然、美月が店まで悠人をエスコートするスタイルに変わった。
『貸衣装』
店の看板に大きく書かれているその店は、坂の入り口にある店だけあって繁盛しているのだろう。
店内に入ると、すでに観光客と思わしきカップルが二組あった。
「ようこそおいでやす」
いかにもな京都弁で愛想のよい挨拶をしてきたのは女将だろうか、地味だがピシッとした着こなしの老女が二人の前に寄ってきた。
「着物を着て散策したいんです」
美月はストレートに注文を投げかけた。
「旦那はんもですか?」
「もちろん、ねっ」
悠人の方を振り返り、有無をも言わせぬ笑顔を見せる。
「お願いします」
さすがに観念せざるを得ないだろう。
「こちらへどうぞ」
女将らしき老女は二人を店の奥へと誘導した。どうやらそこが和服部屋のようだ。
「旦那はんはこちらから、お嬢さんはこっちから選んでおくれやす」
こうした店での男物の和服の種類などはたかが知れている。しかし女物はそうはいかない。何百とある着物を前にして美月の目は輝いていた。さあここからが戦争だ。悠人の衣装はものの三分足らずで決まったが、美月は着物や帯を選んでは組み合わせて、鏡と睨めっこ。女将と相談しながら、悠人にも意見を求めてくる。
こういうとき、男はうんざりしがちだが、おざなりの返事をしてはいけない。彼女たちは至って真剣なのだから。
季節柄の大人の女らしく、シックな色使いの濃紺色の着物と臙脂色の帯を選ぶと、
「こんなんでどうやろ?」
「ええ色やな。似合てるで。その上にどんなんを羽織るん?それだけやったら寒いやろ」
いうやいなや女将がタンスの引き出しから山吹色の羽織を取り出した。
「いやあ、滅多なことではお出ししまへんねやけど、ようお似合いどすさかい、今日は特別に」
聞くところによると、それはさる名匠の品らしく、若い子に着せると色々と心配なので、それなりの年齢層にしか貸さないということらしい。
「まあ、旦那はんもようお似合いで。ええお散歩になればよろしおすなあ」
旦那の格好はさておいても美月の仕上がりは上等だった。どこかの料亭の若女将よろしくピシッと決まっている。
二人は店を出ると腕を組んで清水寺までの坂を歩く。ゆっくりとゆっくりと。まるでその時間を楽しむように。照れくさいのか、二人ともはにかむようにもの静かである。
悠人はともかく、美月の着付けにはそれなりの時間がかかったので、気がつけばそろそろお昼の時間になっていた。
「緊張してお腹すいたな。なんか食べへん?」
「うん、でもホンマに緊張してるし、あんまり食べられへんかも」
「蕎麦ぐらいやったら大丈夫やろ」
そんな話をしている矢先、二人の目と鼻の先にちょうど蕎麦屋が見えた。店の前には営業中を示す立て札と本日の日替わりメニューが書かれた看板が目についた。暖簾をくぐるとひなびた建物があり、店の中では暖かそうな色のランプが燈っていた。
「ここでええやんな」
「うん」
和服姿のカップルにはうってつけのシチュエーション。ひなびた感じのいい店である。ウエイトレスと思わしき女店員が駆け寄ってきて、二人を窓際の席に案内した。
「ご注文が決まりましたらお呼びください」
悠人と美月は女店員が運んできた熱い茶をすすり、冷えた体を温めた。
「やっぱり洋服と比べたら窮屈やな。ちょうどええ休憩かも」
ひと息ついた美月は、暖かい場所にホッとしたのか、口調が軽くなってきた。
「おしとやかに歩く練習になるやろ」
「普段はあんまりおしとやかやないからな。足首とか腿とかパンパンになりそうやわ」
「それに比べたら男もんは楽やな。袴もキツキツやないし草履やし」
「でもええねん。ワタシが着たかったから。一緒に歩いてくれてありがとう」
「まだこれからやで。さあ、軽く腹ごしらえしてお寺さん行こや」
二人は温かい蕎麦を軽く平らげ、お腹も体も温まったところで、次の目的地へ向かった。
蕎麦屋を出て坂をつらつら登っていくと、清水寺の入り口に到達する。本堂は入ってすぐ、目の前にそびえ立つ。
よく写真で見る風貌は下から撮影されたものなので、上からの景色は訪れた者だけに与えられるご褒美である。
特に信心のない二人なのでお詣りは短い。それよりも舞台上からの景色の方が気にかかる。手合わせはそこそこに欄干へと小走りに駆け寄る美月。
「危ないで、勢い余って落ちたらどうするん」
「大丈夫やん。それより、ここからの景色ってすごいな。これが清水の舞台っていうんやろ?」
「そうやな。ボクがキミをデートに誘うときも、ここから飛び降りるくらいの気持ちやったで」
「嘘ばっかり。タロさん色んな女の子をデートにさそてるやろ?」
「そんなことあるわけないやん。ボクってかなりな奥手なんやで」
「ホンマの奥手の人は自分から言わんもん」
「そうかもね」
確かにその通りだ。悠人も少しオーバーだったことは認めざるを得ないだろう。
「それより、もうちょい奥へ行こや」
悠人の本当の目的はここじゃない。早くここを出て、次の目的地に行きたいのだ。かといって、忙しすぎる工程も好ましくはないのだが。
清水寺では、多くの来客用に順路が整備されている。そのコース通りに進めば自然と出口にたどり着くようになっている。
着物を着ているおかげでツカツカと歩けない美月のペースでおおよそ三十分、ようやく出口までやってきた。
「なんか久しぶりやわ。いつ以来やろか」
「ボクは何年かにいっぺん来るかな。ええ思い出になったかな」
「うふふ、まだこれからよ。ええ思い出にしてな」
二人はまたぞろ手をつないで清水寺を後にした。
次に向かう先は、かねてより約束の七味屋である。その店は清水寺を出て、少し坂を下ったところにある。四条通に向かう方向だが、清水寺と高台寺の中間ぐらいと言っていい。
「さあ、七味屋さんに行くで。すぐそこやから。オリジナルの七味をつくってもらおうや」
「楽しみやな」
師走の風は冷たいけれど、二人の周囲だけは熱く火照っていた。
悠人はわかっていた。これがいけない恋であると。美月はどうだっただろう。単にお店の客へのサービスなのか、それともちょっとしたお遊びなのか。まさか本気の恋ではないだろう。悠人としてはそう思うことでいざというときの逃げ道を作っていた。五十を超えて本気の恋をして、失恋したときの何とも言えない脱力感に怯えないためにも・・・。
清水寺を出て、ものの数分でその店は見つかる。細い三寧坂を下りて行き、坂の途中の小さな軒にたたずむ店構えである。
店はのれんも扉もなく、誰もがオープンに入ることができる。京都の中では新進気鋭の店であり、老舗といわれる名店とは表構えの趣が少し違う。
店頭にはテレビコマーシャルでも宣伝されていた商品から見たこともない商品まで、たくさんのアイテムが陳列されていた。
悠人は美月を引き連れて店の一番奥へと進んでいく。そこがオリジナル七味の受付場所なのである。
「七味のブレンドをお願いしたいんですが」
悠人が受付のこじんまりした老女に声をかけると、
「おおきに、ほなこちらへ」
と言って調合場所へと案内した。彼女は調合士も兼ねているのだろう。
そこには十種程度の色とりどりの材料が小分けされており、その女調合士がフタを開けた途端に香ばしい薫りが漂った。
悠人は美月を前に押し出して、
「ほら、自分の好みを言うてごらん。その通りにブレンドしてくれはるから」
「どう言うてええのかわからんし、こないだのタロさんのとおんなじぐらいでいい」
美月が少し困った表情をみせた。
「ほんなら、ちょい辛めで山椒多め、健康のために胡麻も多めでお願いします」
それを聞いた女調合士(その呼び方が合っているのかどうかはわからない)が慣れた手捌きで色んな材料を混ぜていく。そしてある程度鮮やかな色彩になった頃を見計らって、
「味見してみて下さい」
そう言って、悠人と美月の手のひらにひとさじずつ乗せた。
「どう?」
「うん、もう少し辛くてもいいかも」
さすがというか、女性は辛いものが割と平気と見える。悠人にはそこそこ辛く感じたのだが、美月には少し物足りなかったようだ。女調合師はさらに赤い粉を増量し、ぐるぐるかき混ぜてから、再び美月の手のひらにひとさじ乗せた。
「これならいいです。あともう少し香りが欲しいかな」
「ほんなら陳皮か紫蘇なんかどうでっしゃろ」
陳皮とは柑橘系の皮を干したもので、関西で使われるのは珍しい。紫蘇は関東ではあまり使用せず、青紫蘇を使用するのが京都では一般的である。
「柑橘系の方がええかな」
女調合士は手元の黄色い粉末を少しと青のりであろう粉を少々加えて、手際よく混ぜると、もう一度美月の手のひらにひとさじのせた。
「いいかも」
美月はすでに満足げであったが、さらに女調合師は、二人に別の味見方法を勧める。
「お出汁でも味見しはりますか?」
悠人がお願いすると、女調合師は小さなカップに調合した七味をひとさじ入れて、ポットに入っている出汁を注いだ。カップを受け取った二人は同時に七味入りの出汁をすする。
「あっ、美味しい。こうするともっと美味しくなる。ええ具合になったわ」
「ほんなら、それもらいます」
悠人の言葉を聞いて、女調合師は混ぜ終わった七味を専用の袋に入れると、
「使い終わったらチャックして、冷凍庫に入れとくと、香りも長持ちしますよ」
と、丁寧に説明してくれた。
自分だけの七味を手にしてご満悦の美月。その嬉しそうな顔を見て満足顔の悠人。またぞろ腕を組んで店を出た二人の姿は、どんな風に映っていたのだろう。
七味屋を出た二人は、さらに団子屋や漬物屋、お茶屋などを巡ってはつまみ食いをするという散策を楽しんだ。
ほどよく歩いたなと感じた悠人は、美月を近くの土産物屋に誘った。
「折角やから、なんか記念になる物買おうか」
「うん、でも大丈夫?証拠になるようなもん買って」
「別に誰に見せるわけでなし。小さいもんやったら大丈夫やろ」
そういうと、悠人は目の前にあった和服の生地でできた栞を手に取った。
「ほら、これなんかやったら不自然やないやろ」
その栞には『二寧坂』という文字が刺繍されていた。
「最初のデートの思い出に。ええやろ?」
悠人は赤と青の色違いの栞を買い求め、赤の栞を美月に手渡し、青の栞を自分の懐に仕舞い込んだ。
「さあ、そろそろ大阪へ戻ろうか」
悠人が時間を確認すると、すでに夕方の三時になろうとしていた。
それでも二人は慌てずに衣装屋へ向かった。けれど、次の時間があるわけではないので急ぐ必要はない。そこまでの道のりもゆったりとした時間が流れていた。
元の洋装に着替え終わった二人は、八坂神社に向かって歩いていた。
「なんや疲れたかも。着物って結構肩がこるな」
「着慣れてないからやろな。気分的に疲れたんちゃう?」
「うふふ、そうかも」
「さて、八坂さんだけお参りして大阪へ帰ろか」
「大阪に戻ってどうすんの?」
美月は悠人の次の行動が気にかかる。
「大人やからな・・・」
「大人やから何?」
「お酒を飲みにいこか。向こうに着く頃は、そろそろ夕飯どきやし」
美月はニコッと微笑むと、
「ご飯だけ?」
意味深なちゃちゃを入れてくる。
「おさかな食べに行こ。美味しいお店あんねん。日本酒も飲めるし」
悠人は曖昧に言葉を濁した。
「うふふ」
美月も曖昧なままの対応で悠人の腕に体を寄せる。
八坂神社のお参りは、そんな二人のもやもやした雰囲気のまま到着する。南側から入る鳥居は赤く塗られていないので、知らずに通り過ぎてしまう人もいるが、立地をよく知る悠人にとっては見慣れた風景だった。
「さあ、ここからが八坂さんや。神妙にしないかんな」
「別に罰当たりなことしてないし」
「うーん、ボクには少々耳が痛いかな」
「あっ、ほんならワタシもかな」
「いや、まだなにも悪いことしてないし。今のところは無罪やで」
美月は、やや言葉を失った様子だったが、悠人がそれを支えるように肩を抱いた。
「これからどうなるかわからんけど、みんなが幸せになるようにしないかんなと思ってる」
美月はその言葉に答えようとしたが、悠人がそれをさえぎった。
「なんも言わんでええねん。まだボクらはお互いの名前すら知らんのやから」
確かに美月は店の源氏名であり、疾風太郎は悠人のペンネームである。まだお互いの本当の名前すら知らぬ二人が今、危険な恋に堕ちようとしているのか。
「とにかく大阪へご飯食べに行こ。美味しい魚の店あんねん。それに面白い電車乗せたる」
はて?面白い電車とは何か。二人は元の笑顔の表情に戻って四条通を西へと歩いた。時折り土産物屋に立ち寄りながら。
到着したのは京阪四条駅。悠人は淀屋橋駅までの切符を買うと、さらに駅務室で何やら別の切符を買い求めた。
「何を買ったん」
「指定席や」
「そんなんあんの?」
実は京阪電車には、特急電車に限って数年前から有料席が設置されているのだ。
来る時は二階席で帰りは指定席。美月にとっては軽いサプライズになった。
京阪特急の指定席は普通のシートとは全く違う造りである。専門の添乗員がいて、シートの幅も通常シートよりやや広い。座り心地満点のシートであった。
ここでも悠人は美月の手を握りながら時を過ごす。今日あった出来事や着物の感想など、新しい話題には事欠かない。
それでも美月は少し疲れたのか、中間点を過ぎたあたりで、悠斗の肩に頭を付けて大きな深呼吸をした。
「あと二十分くらいかな。ええよ、ちょっとでも寝とき」
すでにうつろな目になっている美月は、言うが早いか目をつむり、ウトウトとしだす。悠人も少しつられそうになったが、美月の髪から香るほのかな匂いを満喫することで睡魔を退散できた。
『まもなく淀屋橋です』
車内のアナウンスが、そろそろゴールが近づいたことを教えてくれる。
悠人は美月の肩を優しく揺り動かし、
「そろそろ終点ですよ、お嬢さん」
「ごめん、また寝ちゃった。タロさんと一緒やと安心するからかな。折角ビップなシートやったのにもったいなかったかなあ」
「座り心地のええシートやったから安眠できたんちゃう?さあ、そろそろ降りるで」
冬の帳はつるべ落とし・・・。陽が落ちるのがとてつもなく早い例えである。
二人が地下の駅から地上に出た頃は、すでに夜の景色となっていた。そこは出がけに乗った駅と同じ駅。けれども、朝と夜とで雰囲気がガラリと変わる。
とくにこの時期は市庁舎の隣でイルミネーションがが開催されており、遠目からでも、その鮮やかさが垣間見られる。
「ほら、チカチカ光ってるで。見に行かへん?」
悠人が誘うと、
「うん、行く」
すぐに同意が得られた。
御堂筋に面している庁舎の南側から通りを歩き、中之島の東端で折り返して、庁舎の北側に出てくるという順路のようだ。
「どう?綺麗に見えてる?」
「うん。タロさんは見えてないの?」
「そうやなくて、男の人よりも女の人の方がキラキラした色が鮮明に見えるんやって。色の感じ方が違うらしい」
「ふーん。そうなんや。でもいっぺん来てみたかったからうれしいな」
「いつでも来れるやろうに」
すると美月は周りを見渡して、
「せやかて、来てはる人らみんなカップルやんか。なかなか一人で来るには勇気がいるで。せやけど今日はタロさんと一緒やし、めっちゃうれしい」
「ボクもうれしい。やっぱり一人で来ようとは思わへんしな」
まもなくクリスマス。サンタは二人にいったいどんなプレゼントを用意してくれるのだろう。
イルミネーションを堪能した二人は今宵の宴を始める。
悠人が連れて行った店は時折り立ち寄る焼き魚がメインの店。刺身を看板にする店は多いが焼き魚がメインの店は珍しい。
「ここは開きが美味いねん」
悠人が指差した店内の壁にはいくつもの魚の種類が書かれた品書きの紙が貼られていた。
「たくさんありすぎてわかんない。タロさんのおすすめでいい」
「じゃあ普通にアジとおすすめのサーモンハラスとちょっと贅沢にキンメでどうかな?それと箸休めにナメコおろしと菊菜のひたしがあれば十分やろ」
「そんなにたくさん食べられる?」
「大丈夫やで美味しいから。あと日本酒は飲み比べをシェアしよう」
悠人は自らの経験をもとにサクッと注文すると美月に向き直って、
「今日は楽しかった?」
「うん、とっても。またどっか連れてってくれる?」
「キミの休みが取れたらね」
そうしているうちに日本酒と付き出しが届いた。
「二人に乾杯」
小さな猪口をカチンと合わせ、宴が始まる。
アジもハラスもキンメも残らず平らげ、二人のお腹は十分に満たされた。お酒もほどよく入った。問題はここからである。
悠人はもちろん明日も仕事である。美月はどうだろう。明日の時間によっては早く帰さねばならない。
「明日は早いの?」
ドキドキしながら聞いてみた。
「少しね」
これは遠からず、今日はダメだというサインである。悠人も全く期待していなかったといえばウソになるが、ここは想定の範囲内。
「じゃあ梅田まで送るよ」
そこから阪急梅田駅までは十五分ほど。急ぐ必要もなく、ゆったりと歩く。
「楽しかったなあ。お揃いの栞も買えたし、ちゃんと七味も買えた」
「またデートしてくれる?」
「こっちがお願いしたいくらいやな」
「また急に言うかもよ」
「あかんかったらしゃあないな。でもたいていは大丈夫やで」
「無理しんといてな」
「うん、大丈夫」
そんな何気ない会話で、あっという間に阪急の改札口までたどり着いた。
悠人は美月を正面に見据え、
「気をつけて帰りや」
それだけ言うと、そのまま送り出すつもりだった。
「今日はありがとう」
そう言った後、美月は悠人の唇にキスした。そして再び向き合うと、悠人の顔を見つめ直した。
「今日は最初のデートやから我慢してくれてたんね。その気持ちがすごくうれしい」
美月はもう一度悠人にキスをする。今度はかなり濃厚に。他人目もはばからない大胆な行動に驚いた悠人だったが、さらに強く抱きしめて、美月の気持ちに応えた。それは自分の気持ちに応えたことと同じでもある。
プライベートでは初めて合わせた唇。駅構内とはいえ気温は外と変わらない。やや冷えた肌と柔らかな唇の感触が悠人をさらに奮い立てた。
「次のデートはお互いに本当の名前で呼びあおう。それが本当の二人の始まり」
「うん。それとな、クリスマスの日な、お店に出ることになってん。一大イベントやから、なんとかならへん?って社長に頼まれて。ちょっと遅めの出勤やけど行くねん。タロさん、来てくれる?」
「ほんならお店には行くことにしよかな。クリスマスイベントやろ?キミのサンタ衣装も見てみたいし、プレゼントも考えてあるし」
悠人には次の訪問時に渡そうと思っていたものがあった。それが何かは、後日明らかになるとして、
「今日もらったやん」
美月は栞やお守りのことを言っているのだろう、
「クリスマスのプレゼントに神社のグッズっておかしない?」
「なんでもええのに」
「キミは自分にリボン着けて、ワタシをあげるって言うてな」
「そんなん恥ずかしいやん」
先ほどのキスシーンを目撃した乗客たちはすでに車輌へ乗り込んでいる。あの後でこんな会話が続けられていたとは誰も知らない。
悠人はもう一度美月を引き寄せて、もう一度キスの時間を楽しんだ。その大胆な行動は、多くのオーディエンスによる注目の的となってしまったけれど、すでに周囲の目を気にする二人ではなかった。
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