第5話 =恋のTKG=

 九月の大阪は夕方になっても都会の熱気が街のいたる所にこもっていた。

 地下鉄の改札口を出て、人混みの流れに身を任せながら歩いていると、人の熱気がもあもあとあふれでてくる。それほどまでに都会の残暑はやりきれない不快感を引きずるのである。

 悠人は、そんなもあもあとした熱気と戦いながら、一歩一歩、目的地へと歩を進めていく。『ピンクキャロット』は駅から徒歩五分。もう目の前だ。

 時刻は午後六時十五分。ここへ辿り着くまでに、さりげない葛藤があった。

 それは、終業時間まであと三十分というタイミングだった。


 悠人がそろそろ帰り支度を意識しだした午後四時ごろ。出先から英哉が帰ってきた。部屋に入ってくるなり、肩を落としてため息をついている。

「はあ、悠さん、やられました」

「どうしたん」

「武藤さんのワナにかかってしまいました」

「ん?例のあれか?」

「はい」

 英哉の肩がズンズン落ちていく。一体何事だろうか。

「ま、たまには付き合ってやり。それもまた仕事の一部やん」

「いや、悠さんも連れてこいと」

「ほんで?約束したんかいな」

「いや、聞いてみなわかりませんとゆうときました。せやけどボクと宮部さんは逃げられそうにありません」

 宮部とは営業部の北阪百貨店担当者のことである。

「わかった。あしたは午後からの出勤でええから、せいぜいあげあげしといて」

 するとそこにちょうどお茶を運んできた瑞穂がポカンとした顔で二人を見ていた。

「お疲れ様です。なんかあったんですか?」

「ミズちゃん、こんばんはヒマか?ボクとつきあわへんか?」

「えっ?そんなん急に言われても・・・」

 瑞穂は何やらもじもじしはじめた。

「こら、勘違いさしたらあかん。それにこの子を巻き込むのもあかん。これは上司としての命令や。瑞穂くんにはまだ早い」

「えっ?」

 瑞穂は自分の勘違いに気づいて、少し顔を赤らめたが、すぐにもとの表情に戻して、

「なんですの、いったい?」

「いや、谷口くんが今日行った北阪百貨店の部長さんでな、カラオケが大好きやねん。馴染みのスナックへ連れて行ってくれるのはええねんけど、毎回朝まで付き合わされるんや。財布が向こう持ちやから逆らわれへんねん」

「二時間ぐらいで切り上げてくれるんやったら、毎日でもついていくんやけどな、朝まではツライ」

「ま、今日はあきらめて、二人でせいぜいのど自慢聞いたげて。あそこはスナックやのに女の子がつくやろ。それで我慢しとき」

 元来スナックという形式上、ホステスが隣に座るサービスは行われない。しかし、武藤部長の馴染みの店では常連の客には馴染みのホステスがからんでくるのであった。

「やっぱり悠さんは行きませんか?」

「ボクは今晩、用事があんねん。それに今の担当はキミや。先輩に頼るにはまだ早いで。宮部くんの顔を潰すことにもなる。ここは二人で乗り切って、次の仕事につなげといで」

 英哉はガックリと肩を落としたが、

「谷口さん、頑張ってくださいね」

 瑞穂にエールを贈られて、幾分か顔色が戻ってくる。

「なあミズちゃん、明日の夜は空いてる?映画でも見に行かへん?」

 今度は直球を投げ込むデートの誘いである。

「部長も一緒にいかがですか?」

「えっ?なんでオッサンと映画に行かないかんねん。二人で行くの」

「そう、じゃあ明日までに考えておきます。失礼します」

 瑞穂は返事をあいまいにしたまま自分のデスクに戻った。

「明日の晩の約束やのに明日までって・・・」

「まあ、見込み薄いってことかもな」

「悠さんも行きます?映画・・・」

「その気があるんやったら、底力を発揮していかな」

 英哉は恨めしそうに悠人の顔を見つめたが、すぐに思い直したように、

「まだダメって言われたわけちゃうし」

「そう、その意気」

 悠人は英哉の肩をポンとたたいた。


 赤く夕日に染まるビルが目の前に現れていた。まごうことなく『ピンクキャロット』のあるビルだ。

 すでに時間は午後六時を四半刻過ぎている。店内から響いているサウンドが、わずかながら外に漏れている。今宵も賑やかにスタートしているということだ。

 いつものように扉を開けると見慣れたボーイの顔が現れる。彼も同じ感情だろう。「また来たな」と。いつの間にやら顔馴染みになった二人の間には、二人だけにしかわからぬ葛藤があったに違いない。

「いらっしゃいませ」

 対応はいつも通りだ。

「今日は誰をご指名ですか」

 言った先から笑みがこぼれている。彼はわかっているのだ。悠人が誰を指名するかを。しかしながら、わかっていてもそれを聞くのが彼の仕事であると、悠人は理解している。

「美月さんを」

 面倒だなと思いながらも、いつものルーチンを重ねていく。

 ボーイは店内の扉を開いてきらびやかな世界へと悠人を誘う。あの薄灯の世界へ。

 そのスペースはいつもの通り、あやかしの世界であった。紫に踊るタバコの煙、腹の底に響き渡るサウンド、妖しく光るスポットライトなど、今から繰り広げられる妖艶な時間を演出していた。

 悠人は見覚えのある二人がけのシートに案内されると、そこで美月の登場を待った。

「うふふ、やっと来てくれたんやね、ありがとう」

「長かったな。キミに会えるとなんかホッとするわ」

 悠人は美月の返事を待たずに、彼女の身体をグッと引き寄せた。懐かしい感じさえする美月の匂い。今はただ、その匂いを満喫したかった。

「少しやせた?」

 なんだか少しやつれたような感じに見えたのは気のせいか。

「そんなことないよ。それにやっぱりタロウさんやったら、なんか安心する」

 悠人が抱き寄せた腕を少しほどいて、美月は悠人の膝の上にまたがった。そして悠人の顔を見下ろす方角から唇を重ねてきた。

 しっとりとした彼女の唇は、ねっとりとして甘く、しびれるほど痛烈に悠人の五感を刺激する。

 何気なく悠人の右手が美月のふくよかなバストに触れた。一瞬ピクリと反応する身体に、思わず手を引いたが、

「大丈夫よ。今日は敏感かも。タロウさん久しぶりやし」

 そういうと美月は自らブラをたくし上げ、その美しい丘陵のラインを悠人に提供してくれた。

「キスしてもええかな」

 やや遠慮がちに聞いてみる。まだあけすけにしてよい仲ではない。最低限のマナーは守りたいと思っていた。

「うふふ、ええよ」

 美月は悠人の頭を抱えるようにして自らの胸元へと導いた。そっと抱きしめるように。

 悠人が最初にたどり着いた西側の丘陵では、やわらかな芳香と輝きを放っており、自然に悠人の唇はそこへ吸い寄せられていく。やがて東側の丘陵からも温かな誘惑の風に誘われて、いつのまにやら吸い寄せられていた。

 悠人はお礼のキスを捧げんがために、美月の唇を探した。美月はまるでそれを待っていたかのように悠人の訪問を受け入れ、祠の中でアンサンブルを奏でていく。

 二人の抱擁は、店という概念がなければ、まさに普通の恋人同士のよくある光景だった。いや、少なくとも悠人は本気だった。しかし、心の中の葛藤が恋に盲目とならぬようにと警笛を鳴らす。それでも悠人は森羅万象の誘惑を振り切ってでも、この恋に溺れたいと思うほど美月の虜になっていた。

 やがて悠人は平常心を取り戻すと、美月の声が聞きたくなった。ところがここで最初の水入りになってしまう。店内に美月を他のシートへ移動させるアナウンスが悲しく響くのである。

「ごめんね、ちょっと行ってくる」

 寂しいセリフだけを残して彼女は去っていく。代わりに悠人の隣を占領したのはケイ子だった。

「あっ、また来てる。美月ちゃん久しぶりやもんなあ。どう?やっぱええ子やろ?もう惚れた?」

 矢継ぎ早の質問攻めに答えずにいると、

「ああ、もう完全に惚れてるな。ミクちゃんのときとおんなじ顔してるやん。せやけどあの子はライバル多いで。まあウチはアンタを応援したるけどな」

 矢継ぎ早の質問攻めに何も言えずにいたのだが、最後にケイ子はこうつけ加えた。

「また泣かんようにな」

 こういう場合、泣かされるのが常になっている悠人にとって、すでに泣くことが前提になっている。いずれは寂しい別れがあるのだから。

「覚悟はしてますよ」

 悠人はそれだけ言うのが精一杯だった。

 やがてヘルプの時間が終わると、ケイ子は去り美月が戻ってくる。

「ただいまあ」

 いつも通りに声をかける美月だったが、悠人の心情はいつもと違っていた。いきなり美月をそばに寄せ、思い切り抱きしめた。

「ずっとそばにいてほしい。叶わんやろけどな」

「ワタシもタロさんのそばにずっといたい。タロさんと一緒にいると安心する」

 もちろん営業トークである。そう理解している。でも本気にしたい自分を誤魔化すことはできなかった。今はただ、彼女の身体を抱きしめて、彼女の匂いを感じるしかないのだ。

 そんな折、聞こえてくるのは延長催促のアナウンス。

「美月ちゃん、店長がおねだりせえ、いうてはるけど」

「もう帰る?」

「おねだりしてくれへんの?」

「うふ、恥ずかしいなあ。もうちょっとおって」

 そう言って唇を重ねてくる美月。

「久しぶりやし、折角会いに来たんやからもう少しおってもええかな」

 悠人はポッケから財布と懐からカードケースを取り出した。そのカードケースが今後の二人のキューピッドどなる。

「何これ?」

「カードケースやで。TKGの」

「TKG?」

「玉子かけご飯のこと」

「ワタシ毎日食べてるよ。あれって、塩を振ってゴマ油を少し垂らして食べるのが好き。タロさんは?」

 悠人はこのセリフにすごく反応した。なぜなら、悠人は一昨年までは大阪の農産物回りをしていたため、生産者をよく知っている。中でも玉子界隈については得意分野だったのである。

「それ、ボクのもっとも得意な分野やん。ええ事聞いた。へっへっへー、いいものがあるで。今度教えてあげる。俄然やる気が湧いてきたわ。また次に会う楽しみができた。ええ事教えてくれてありがとう」

 只々はしゃぐ悠人を見てキョトンとする美月だったが、

「なんかわからんけど楽しみにしてるね」

 あとは再び、先ほどと同じルーチンが繰り返される。一つ違うのは、悠人にとって一筋の希望の光が見えたこと。そこから先の時間は、今までに感じたことのない悦楽の時間となったのである。



 新しい発見を遂げた悠人の翌日は、珍しく活発な一日となった。

 普段から様々なイベントを企画してきたが、百貨店の食品イベント企画が最も得意だった悠人にとって、美月から与えられた課題は最高のプレゼントに等しかった。

 特に玉子といえば、産地直送が決め手となる最たるものの一つである。悠人はさっそく知り合いの生産者に連絡を取り、詳しい売り場を聞いた。

 さらにはお気に入りの調味料を調達することも忘れない。どこにでも販売されているシロモノではないため、すぐには入手できない。しかし、そんな手間を全く厭わないのが悠人のいいところである。これはその週の土曜日に少し足を伸ばした先で手に入れた。

 その時の悠人は相当なニタリ顔で、とてもじゃないけど、親戚一同には見せられない表情だった。

 そんな買い物が大好きな悠人は、四六時中TKGのことを考えるようになる。自らも、今までの味を思い出すようにTKGを食べるようになっていた。

 世に「三百六十五日玉子かけご飯」という著書がある。面白きことを考える御仁がいるもので、悠人のごときは先を越されたと、当時は地団駄を踏んでいた。悔しながらも、全てとは言わぬが、その中の面白い食べ方を悠人もいくつか試してみた。さすがにピーナツバターを入れる食べ方には辟易したが、醤油だけが調味料ではないと再認識させられた著書であった。

 悠人の会社では、玉子関係の業者の依頼によるイベントで、この著書を取り扱ったことがあり、その時の残りが本棚の奥にあることを思い出した。

「あれも彼女に進呈しよう」

 悠人は頭の中で、美月に献上する品物のリストを作り上げていた。それが次の訪問日までの楽しみとなっていた。

 前回の訪問日の翌週は、なぜか会議が目白押しで、特に水曜日には会議の後の打ち合わせまで長く時間がかかってしまった。

『今日は行けそうにない。ゴメンネ』

 言い訳するようで、少し後ろめたかったが、こればかりは仕方がない。

『無理しなくてもいいよ』

 美月もなぐさめのメールを返してくれる。無理をするつもりはない。単に会いたいだけである。

 隔週。ざっと月に二回。それぐらいのちょっと不足気味の方がいいのかもしれない。夫婦のようになまじ毎日顔を合わせていると、見たくないところまで見えてしまう。恋するうちは近すぎない距離の方が気持ちはたかぶるのかもしれない。

 悠人は、そんな物足りなさを感じながら、その週を終えたのであった。



 そして、その翌週。

 多くの締め切りが重なる中、水曜日だけは時間を作りたいと思っていた。最も危険な状況にあったのは英哉が担当している北阪百貨店の来月から始まる四国展のイベントだった。

 先週末、二手に分かれて各地域の名産品を探索してきたようだが、百貨店が希望していた徳島県の銘菓が交渉決裂におわっていたのである。

 英哉は迷っていた。百貨店担当者は、お構いなしとしているが、英哉のプライドがそれを許していなかった。

「もう一回、行ってきてもいいですか」

 その日は朝から英哉が悠人を相手に四国行きの交渉を行っていた。

「行ってどうするん。どれぐらいの勝算があるんや」

 さすがの悠人も、たかだか一軒の交渉のための出張など、許可できるわけがない。

「勝算はあります。今度こそ熱意を持って話をしたら、今回のイベントの意図が伝わります」

「残念ながら、それは勝算とはいわん。ただの当たって砕けろや。ええか、勝算という以上は戦略が必要や。ようは落とし所というやつや。それがない限り、出張の許可は出せんな」

「・・・」

 英哉は行き詰まっていた。英哉の相棒は営業部の宮部というベテランだが、彼は彼で自分の持ち分で手一杯だった。

 悠人は自らの経験から、一旦ノーと言った店が、イエスとなる公算がほとんどないことを理解していた。あの奥の手以外は。

 百貨店というところは、実は固定客で成り立っているといっても過言ではない。その主力は外商である。多くの百貨店には外商専門の営業部署があり、売上全体の約四割を占めているとも言われている。その外商の顧客先は多くが富裕層である。つまり、売り手側としては、常にその富裕層のターゲットとなるべく、百貨店のレギュラーになりたいのである。奥の手とは、百貨店にそのレギュラーの地位を約束させることにある。

 これは簡単なようで意外と難しい。なぜならば、売場に限りがあるからだ。百貨店側としても売上に貢献する商品を最優先する。当たり前である。つまり、新規商品については、現存の商品を凌駕する魅力がなければならないのである。しかもローリスクでである。

 英哉の逆転満塁ホームランはそれしかないと悠人は思っていた。

「なんか方法はありませんか」

「おまいさんがそれほど肩入れする理由はなにかね」

「あの店の若女将がめっちゃ別嬪で、いや、そうやなくて、大量生産できひんのは、ちゃんとした材料を使てるからですねん。せやから、そんなようさん出荷できんいうことですわ。確かに数がおっつかんかったら、イベント的には穴が空くようになるんで、まずいっちゃまずいんですけどね」

 それを聞いて悠人はニヤッとした。

「その話、武藤部長にも話したか?」

「いや、まだです。了解をもろてないのに、話はしずらいですわ」

「多分な、それ、武藤さんが好きそうな話やで。持ちかけようによってはいけるかも。店は何個までやったら出せるって?」

「一日十個かな・・・」

「百貨店の希望は?」

「一日二百個換算です」

「その辺の事情を武藤さんを加えて担当者と話してみたら?」

「わかりました。武藤部長に電話してみます」

「おう、伊達にカラオケ友達やないとこみせたれ」

 英哉は喜び勇んで武藤部長に電話をかけた。そして今日の午後の面会を取り付けた。

 必要な資料を午前中までに整理して、営業の宮部に趣旨を説明し、軽くランチをとったのち、二人して颯爽と出かけていったのである。

 この時はまだ、悠人にとっての次の試練が待ち受けているとは、誰も予期することはできなかった。


 夕刻・・・。

 今日は悠人が待ちに待った水曜日である。

 そろそろ終業時刻が近づき、デスク周りを整理しだしたころ、宮部と英哉が帰ってきた。

 ところが、二人の顔は思いの外、浮かぬ表情であった。

「どうした?武藤さん、ウンて言うてくれんかったか?」

 英哉はやや口ごもりながら、

「いえ、オーケーはもらいました。但し、条件つきで・・・」

「ん?意味深やなあ」

「結局、ボクがまだまだ未熟やなってことですわ」

「どういうこと?」

 それに対しては宮部が答えた。

「武藤さんの条件は、近日中に武藤さんのカラオケに大原部長を連れてくることなんです」

「結局、武藤さんの担当は悠さんってことなんですよ。そのかわり、二十個限定の枠を取り付けましたから。これで店も首を縦に振りますよ」

 悠人は唖然とした。確かに元々は悠人の顧客である。しかし、後継者を立てた以上、担当者が引き継ぐのが常である。しかし、今回は英哉が武藤部長を引っ張り出したことによって、逆に悠人が引き摺り出されたことになり、これはある意味仕方がない。

「しゃあないなあ。ええよ。プラスアルファを取ってきたんなら、喜んでつきあうわ。但し、明日以降やで」

 それを聞いた英哉は、ホッとしたように笑顔を取り戻し、間もなく武藤部長に電話を入れた。悠人もある程度は覚悟していたことだろう。今日でないだけマシである。

 この件もひと段落した悠人は、残務のある英哉を残して、事務所を後にする。百貨店のことは一切を英哉に任せて。


 カラスとヒヨドリの群れが好き勝手に街路樹の枝葉を荒らしている秋の夕暮れ時、オレンジ色の空からこぼれる陽の光をかすかに感じながら人混みを歩く悠人がいた。もちろん水曜日の『ピンクキャロット』へ行く道のりである。

 実はカバンの中には彼女への土産が入っていた。例のTKG関連のアイテムだった。悠人がウキウキしている理由は、美月がそのお土産をよろこんでくれると信じて疑わなかったからである。

 やがて店に到着し、いつものルーチンを経て店内に入ると、ほどなく美月が現れた。

「うふふ、待ち遠しかった」

 美月も悠人を見つけると、ホッとした様子である。

「今日はね、予告通りお土産を持ってきたよ。ほら」

 悠人はカバンから小さな紙包みを取り出して、美月に手渡した。

「開けてもいい?」

「もちろん」

 袋から出てきたのは、お洒落な細長いビンだった。美月は何だろうと、その正体を確かめるためにラベルの文字を探った。

「玉子かけトリュフ醤油?すごおい」

「ボクも食べてみたけど、凄くおいしかった。塩とゴマ油もええけど、これもきっと気に入ってくれると思うねんな」

「何か高そうなやつやな。ちょっとずつ食べな」

「無くなったら、また買ってくるやん。多い目にかけた方がおいしいで。それとな、ボクが好きな七味があってな。山椒が強めでちょっと辛めの七味やねんけど、オリジナルを作ってもらってんねん。また今度サンプル持ってくるわ」

「へえ、そんなんあんの。それも楽しみやなあ」

 とりあえずのつかみは完璧だ。

 美月は悠人からのお土産を手に持ったまま悠人に抱きついた。悠人は心地よい雰囲気と匂いを味わいながらも、美月の手からビンを取り上げてテーブルの上に置いた。返すその手は美月の腰へと回される。美月はそれに応えるように唇を合わせると、しばらくは蜜月の時間が重ねられていく。

 そんな時間を楽しんでいると、頭上から憎々しげなアナウンスが聞こえて来る。

『美月さん八番テーブルへ』

 悠人も早く到着したつもりだが、残念なことにもう一人、同じタイミングで入店を果たした美月ファンがいたようだ。

「何か呼ばれてるで」

 もちろん美月にも聞こえていた。

「ちょっと待っててね」

 彼女にとってはこれが仕事である。口惜しいが、こればかりは阻止する権利を悠人は持ち合わせていない。

 代わりにケイ子がヘルプに現れる。

「また来たね。ん?これなに?」

 ケイ子はテーブルの上のビンを手に取って眺めている。

「彼女がね、玉子かけご飯が好きやっていうもんやから。ボクからのお土産」

「あんたはマメやなあ。ミクちゃんのときもそうやってしきりにお土産持ってきてたな」

「女の子が喜ぶ顔が見たいだけ。とくに食べることが好きな子には、いっぱいお土産あるで」

「ウチはな、お金が好き。そんなお土産ないの?」

「あるわけないやん。どこぞのお金持ちの太客探しといで」

「冗談やん。それよりもあんまりハマりすぎたらあかんえ。また泣くことになるで。ちゃんと上手に遊びや」

「そやな」

 悠人は軽く返事をしたが、ときすでに遅しである。もうハマってしまっているのだから、いや溺れているといってもいい。彼女は今までの女の子とは違うのだ。そう、あの時の雪乃と同じ雰囲気を持つ女として惹かれているからである。

 これが危険な恋だということはわかっていた。しかし肌を、唇を合わせる空間の中で紡ぐ物語は、否が応でも悠人をアドベンチュラーに仕立て上げていく。この冒険にゴールがないことは悠人にもわかっていた。にもかかわらず危ない橋を渡らずにはいられないのである。

 ケイ子は悠人を諌めはしたものの、その本心が真意であったかどうかはわからない。それでもケイ子はけしかけるように悠人の尻を叩くのである。


 やがて、何事もなかったかのように、静かな笑みで悠人の隣に戻ってくる美月。いつも通りの優しい笑顔だ。

「おまたせ」

「ホンマにお待たせやで。キミがおらん時間は普段の三倍ぐらいの長さに感じるわ」

「ゴメンネ」

 しかし、美月にとってはそれが仕事なのである。

 とはいえ、悠人に与えられた時間には限りがある。おしゃべりも楽しいが、肌を重ねる時間も欲しい。匂いフェチを隠さない悠人にとって、美月との抱擁の時間は、今は、かけがえのない時間となっている。

 今日の主な目的はお土産を渡すこと。それを果たした以上、彼女自身を堪能する以外は不要なのである。

「いつかボクのことをもう少し信用できるようになったら、一緒にご飯食べに行きたいな」

 まだ出会って数回の嬢に放つセリフではない。しかし、思いがけなく言ってしまった。

「信用って?」

「お店はアカンよって、いうてるやろ?」

「どういう意味?」

「お客さんとトラブルになりがちやから、なんかあっても自己責任やでっていうことやん」

「なんかって?」

「そらみんなすけべえなおっさんばっかりやから、襲われたりするやろ?」

「タロさんも襲う?」

「さあな、ボクかてすけべえなおっさんの一人やで。美味しそうなご馳走があったら、自信ないかも」

「ウソや。ホンマにそんな悪いことしはる人はそんなこと言わへんし。だってタロさんいっつも優しいし」

「でも、もう少しお互いのこと、知らなあかんやろ。そやから、ホンマに安心できたら、ご飯食べに行こ」

「うん」

 まさか悠人も、そんな日が本当に来るなんて思ってはいない。彼女はサービスの一環で波長を合わせているだけ。いわんや、それもサービスなのである。

 でも、そんなやりとりが妙にドキドキして楽しかった。いつか美月と食事ができる日が来ることを想像するだけでも楽しいのである。夜の店というのは、そんな妄想をかきたてる場所でもあるから。

 今までに多くの御仁らが嬢たちとのプライベートな時間を楽しむためにチャレンジをしてきたようだが、上手くいった話をほとんど聞いたことがない。おおよそのおじさまたちは下心が明け透けで、嬢たちは敏感な匂いと感覚で、いざというところで、ひらりとかわすのが常であり、そんな話はあちこちに転がっている。特に、この店では、唇を重ねたり、肌を合わせたりができる店なのである。御仁たちは、それで満足すべきなのである。

 悠人はそういった過去の話から、彼女たちの約束は店の中だけの約束であるとわかっていた。だから、多くを期待し過ぎないのが悠人のモットーでもあった。

「今のことはひとまず置いといて。抱っこしてもええかな」

 悠人は店での遊びを優先させた。

「ええよ」

 美月もそのリクエストに応える。まるで今の会話がなかったかのように。

 この時の美月の心境は幾ばくか。果たして美月の目から見た悠人はどう映っているのだろうか。まさか会って間もない、かなり年上の男のことを恋愛対象としているわけもなかろう。さすがの悠人もそんな想像はしていない。しかし、かすかな希望だけは持っていた。それがいわゆる妄想なのだから。


 時間だけは無常に過ぎてゆき、本日の悠人に与えられた蜜月の時間は終了を迎える。頭上では間もなく終了のアナウンスが鳴り響いていた。

「もう帰れっていうてるわ」

「もう帰るん?もっとおって欲しいけど、あんまり無理いうたらあかんな」

「うん。また来るし」

 悠人は多くても3セットまでにとどめた。それが悠人の流儀である。あまり居座りすぎない。そのかわり多くの回数をこなすようにする。その方が嬢にとっても成績的に良いということ聞いたことがあるから。

「来週は来られないと思う。でもその次の週には来るから」

「無理せんと来てな」

 タイムオーバーのアナウンスとともにシートを立つ二人。美月は悠人の腕にからまりながらドアへと歩いた。

 ドアは既に開いており、ボーイが出迎える。

「ありがとうございました」

 悠人は名残惜し気に美月の方へ振り返り、

「また来るね」

 やっとの思いで、それだけの言葉を絞り出した。

「また来てね」

 単純なやり取りではあるが、別れの儀式としては大切なルーチンである。さらにはそっと悠人のほほにキスをして、まったりと送り出す。

 軽くバイバイのハンドサインを交わしている二人の間に、ゆっくりとドアが閉まっていく。これにて本日の宴は完全に終了するのである。


 悠人は、こうした美月とのやり取りを数回繰り返した。悠人にしてみれば、毎回のお土産を工夫するのが楽しかった。決して裕福な坊ちゃんではなかった学生時代も、何かと工夫をしながら当時の彼女にプレゼントをしていた。彼女らも悠人からのささやかなプレゼントを心から喜んでくれた。万里ともそういうやりとりを経て、結果的にカップルとなった経緯があった。

 美月との何度目かの逢瀬の折、悠人はオリジナルブレンドの七味を小分けにしたものを他の土産と一緒に入れてみた。以前にTKGの話題になったとき、オリジナル七味の話をしたことがあったから。

「これ、こないだ話してた七味。ちょっと辛めで山椒が強め。辛いの大丈夫かな?」

「うん、辛いの全然平気。いつもありがとう」

「もしその七味が気に入ってくれたら、一緒に買いにいこか。清水さんの近くやねん。味見しながらもうちょい辛くとか、もうちょい香ばしくとかできるから、ホンマのオリジナル七味ができんねん」

「ええなあ。そや、いっぺん京都で着物着て歩きたかってん。一緒に歩いてくれる?」

 これはデートのお誘い?脈アリってこと?

「でも、ボクは着物なんか持ってないで」

「向こうの衣裳屋さんで借りるねやんか。旅行のパックとかにも入ってるらしいよ」

 美月の話ぶりでも、すでに一緒に行く前提となっている。しかし、悠人は慎重に会話を進めていく。まだ本気にはしていない。

「早く行かんと寒うなるで」

「そやな、でも十一月いっぱいはバタバタしてるかも」

 ほうらね。やっぱりおいそれとは行けないよ、というサイン。予想できた返事だけに、悠人も落ち込むことはない。

「大丈夫。ボクは急いでないから。ひと息つけるまで待ってるし」

 そういって美月の肩を抱く。

 悠人は割と悲観的に考えていた。そうなれば嬉しいが、期待しすぎると後が痛い。なるべく深く考えないようにしようと。

 そんな時、悠人はすぐに話題を変えるのである。未来の夢物語よりも現実的な話の方が気が安らぐから。

「はい、今日のお土産」

 悠人がカバンから出したのは、黒トリュフと書かれた塩とキラキラとした瓶のゴマ油。

「塩とゴマ油で食べるのが好きって言うてたから、ちょっといいヤツ買ってきた」

「ちょっとじゃないやん。めっちゃいいヤツやん」

 美月は悠人が持参した土産を手に取って、目を見張る。

 今の悠人にとっては、こうした時間に垣間見える彼女の笑顔の方が現実的で、実感の湧く時間なのである。

「ところで、昼間はどんな仕事してるん?」

 美月の出勤は週に一度。すなわち、他の日には別の仕事をしているはずだ。

「えっとね、音楽関係なの」

「へえ、すごいな。ボクは音符も読まれへんし、音楽できる人がうらやましいな」

「タロさんは絵を描けるんでしょ。そっちの方がうらやましいけどな」

「そういえば今、キミのポートレートを描いてるけど、ようやく輪郭が出来上がった。全体の三分の一くらいかな。出来上がったら受け取ってな」

「ええそうなん。なんかドキドキするなあ。ワタシもなんか曲を作ってみよかな。タロウさんの歌」

「そんなんできるん?それは楽しみやな」

「でも今月はバタバタしてるから、なかなか時間とれへんかも」

「来月は少し楽になるん?それやったらそうなってからでええやん。楽しみは後にとっときたいタイプやから、ゆっくりでええで」

 また新たな楽しみが増えた。この店で美月と出会ってから、いくつの楽しみができたことだろう。マンネリ化していた毎日がウソのようだ。このあと、どう展開していくのだろう。そんなことを妄想するのが楽しい毎日であった。

 そういえばもう霜月。運命の年末年始まであとひと月後に迫っていた、二人にとってはあわただしい十一月が過ぎていく・・・。




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