第4話 =瑞穂という名前=

 翌日、大事な会議があった悠人は、日の出とともに起床した。

 特別早起きしたわけではない。とんでもない朝の斜光が寝ていた悠人の瞼を刺したからでもない。すでに五つの目坂を越えている者たちにとって、朝の目覚めが早いのは世の常である。

 今朝も天気は良く、確かに朝の日差しは黄金色に輝くほど眩しい。

 心地よかった昨夜の時間を思い出しながらニヤついていると、キッチンで何やらゴソゴソと音がするのを聞いた。そっと覗いてみると、万里が立ちんぼでモーニングの最中だった。

「おはよ。今日は早出やったっけ?」

「昨日も早かったよ。なにをニヤけた顔してるん。なんぞええ夢でも見はりましたか」

「ああ、覚えてないけどな」

 冷めた夫婦の会話とはこういったものだろうか。恋愛結婚の成れの果て、そう言ってしまえば、それまでである。

「気いつけて行っといで」

 悠人は最大限の思いやりを投げかけたつもりであったが、その返事は、

「はいはい」

 いつも通りの素っ気ないものだった。こうして熱かった恋の熱は冷めていくのである。


 朝から気持ちが醒めていない悠人には、この日一日を奮い立たせる何かが欲しかった。そしてさっそく、それを得るのである。


♪ ピロピロピロ♪


 通勤途中の駅、何気に電車を待っていると、胸ポケットのケータイがメールの着信を知らせた。ショートメールだ。この朝の時間帯にしかもショートメールをよこす人物に心当たりがなかった悠人は不思議に思った。

「誰やろ」

 メールの主はなんと美月だった。

『おはよ。昨日はありがと。楽しかったよ』

 簡単な文書だったが、何より素早く連絡をくれたのが嬉しかった。受け取った後の返事はすぐに返す。最初のメールにおいては必須のマナーである。

「会えて良かった。また行くよ」

 とりあえず簡単に返信しておいた。最初のコンタクトはこれでいいのである。まずは内容よりも連絡をもらったということが大事である。

「おかげで、今日いち日頑張れそうやな。ありがとね、美月ちゃん」

 満員電車はかなりの体力を消耗する。しかし、今朝の悠人には、電車内の振動すらも心地よい波のように感じた。そんな朝だった。


 それからしばらくは何気ない毎日を過ごしていた。いつもと違うのは、メールという手段で美月とつながっていることである。

 悠人は理解していた。これは一種の営業メールであることを。だから毎日やり取りしてはいけない。今はまだ付かず離れずの距離感が必要であることも。

 最初にメールをもらった翌日、悠人はあることに気づいた。ショートメールということは、イコール電話番号であることを。だからといって、すぐに電話してはいけない。こちらのメールアドレスをわかっているにもかかわらず、ショートメールという手段で連絡してきたのである。だからこそ、こちらから電話することは憚られなければならない。

 そんなことは、悠人にとってはなんでもなかった。ショートメールだけでも美月とつながっている今の自分が、何よりも幸せだと感じずにはいられなかった。

 毎日ではないが、それからしばらくの間は、ショートメールのやりとりが楽しかった。他愛のないやり取りだったが、内容よりも言葉を交わしあう行為そのものが楽しかった。

 悠人は水曜日がやって来るのが待ち遠しくなっていた。さすがに毎週行くことはかなわないが、隔週ならなんとかなる。財布的にも家庭的にも。

 ところが、そんな想いとはうらはらに思いがけないメールが届く。

『実家のお母さんが入院だって。しばらくは、お店を休みます。ごめんなさい』

 本当は今すぐにでも会いたいのだが、母親の大事とあっては致し方ない。

『お母さん大事にしてあげてね。キミも無理しないようにね』

 悠人の両親もいまだ健在ではあるが、さすがに高齢で、いつ何があってもおかしくない。若い頃に苦労をかけた思いがあるので、こと親の話になると、慎重にならざるをえないのである。それが例え他人の親でも。ましてや愛しき彼女の親である。何かあっては美月と会えなくなるかもしれない。

 悠人はそんなことを考えていたのである。それにしても美月はいつまで店を休むのだろう。


 それからしばらくして美月からメールが届いた。

『お母さん骨折みたい、手術するかも。もう少し休むことになりそう』

 美月が店を休むことは残念だが、こうして連絡をくれることはとても喜ばしい。会えなくてもメールを通じて会話ができる喜びがあれば、それだけで満足できた。もちろん会えるにこしたことはないが、彼女の母の容体が落ち着けば、いつでも会えるだろう。

 何の根拠もないはずなのに、悠人の考えは楽観的だった。

『慌てなくても大丈夫。ゆっくり親孝行して下さい。でも会いたい。会えるとしたらいつ頃かな?』

 大丈夫といいながら会いたいという。少しばかり身勝手な言い分だ。

『たぶん二週間後かな』

 美月から返ってきたメールを見て、すぐさまカレンダーを確認する。二週間後となれば、かなり先の話となる。それまで何もせずに手をこまねいているのが常套だろうか。否である。

 悠人はこの期間を使ってある製作に取り掛かることにした。ポートレートである。

 諸君は覚えておいでだろうか。悠人が美月との初見の際に、自ら絵を描くことが趣味であると宣言していたことを。

 今でこそ企画部に所属している悠人だが、入社当初はデザイン部だった。しかし、悠人のデザインは奇抜すぎて、とても企業のPRに使えるようなシロモノではなかった。逆にその突拍子もない発想力を買われて今の地位があるわけだが、その才能を見出してくれたのが、当時の企画部主任であった島田専務なのである。

 それ以降、悠人にとって、仕事で絵を描くことはなくなったのだが、ときおり暇を見つけては趣味の範囲で筆を取っていた。

 主な題材は身の回りの何気ない風景や動植物や小物だった。昔から人物画はあまり好きではなかったが、苦手でもなかった。

 美月のポートレートを描くと宣言している以上、それに取り組まねばならないと思い込んでいる。約束した訳でもないのに。それでもまずはデッサンから始める。描こうとしていたのは、油絵ではなく水彩画である。下書きから描くのはひさしぶりだ。最終的にはこじんまりしたものに仕上げる予定だが、美月にいいところを見せたいと思うのが人情でもあるし、男の下心でもある。

 美月との逢瀬はまだ三回である。しかし、濃密な逢瀬であったと自負している。そんな短い時間の中から、熱く燃えた彼女の表情を切り取ろうとしていた。

 彼女は決して絶世の美女というタイプではない。華奢でありながら安心感と儚さの憂いを感じるタイプである。幼なじみの感覚に似ている。悠人はそういったセルロイド感やセピア感を出したかった。

 最初に手掛けたのは顔のラインと手の角度。表情は後にしよう。構図は上半身のみで両手で髪をかきあげるポーズ。

 わずかに薄暗いライトが光る店内でしか見たことがない彼女の顔だったが、そこはイマジネーションをはたらかせて、悠人にとっての理想のポーズを想像した。

 季節はちょうど夏の盛り。さすがに日中に窓を開けることはないけど、夕暮れ時に吹く風を背景に涼しさを醸し出す演出を仕立ててみたいと思った。

 ざっくと下書きを仕上げるのに丸一日を要した。次は本番である。キャンバスはスケッチブックをチョイスした。久しぶりなので何度か描き直しを想定したからである。事実、筆を取ってからある程度納得のいくレベルに仕上がるまでに七枚の構図をかなぐり捨てた。

 そしてようやく八枚目にして気合の入った構図に仕上がったのである。

「オレにしてみたら、こんなもんかな」

 さすがにプロではない悠人の腕は素人はだしの域を抜けないが、柔らかいタッチで、上手く風を表現できていた。あとは表情である。

 元来、悠人は前述したとおり、花や虫などマクロな画角を得意としてきたイラストレーター的な感じだった。とはいえ絵描きの端くれである。描けないわけではない。

 悠人は、薄暗いライトの中で展開される美月の微笑んだ表情を思い浮かべていた。ほどよく遠くを見つめる視線の先には何があるのだろうか、誰がいるのだろうか。それが自分であって欲しいという想いを込めて描いているのかもしれない。

 その絵は完成するまでに、延べ八ヶ月を要することとなるのだが、休みの合間に家族に見つからないように描いていたのだから然りである。少し描いては棚の後ろやカバンの中にしまい込んでいた。やがては完成するのだが、兎にも角にも次の美月の出勤には間に合うはずもなかった。

 美月の母の看病期間は二週間ほどで解放されたようだ。

『来週から出勤するよ。会いたいから来てね』

 もちろん営業メールだと理解していた。しかし、悠人も会いたいのは事実である。この日を手ぐすね引いて待っていたのも事実である。

『もちろん行くよ。でも無理しないようにね』

 こうして次の水曜日からは、再び悠人にとっては欠かせない逢瀬の旅が始まるのであった。


 来る約束の水曜日。暦は変わり、夜には時折り涼しい風を感じることができるようになっていた。

 だからといって、日中が涼しいはずもなく、大阪の街並みは真夏と変わらぬ陽射しとビル窓からの照り返しが厳しい毎日である。会社ではガンガンに冷房のきいた部屋から出ることが億劫になるのであった。

「部長、十五時からのなにわ広告の打ち合わせですけど、変わってもらえませんか?」

 なんだか胡散臭そうな英哉が懸命に渋い顔を作っては、悠人に訴えた。

「どうしたん、どっか具合でも悪いんかいな」

「いやもう、朝は南鉄ホテルに行って、散々歩かされて、メシ食うたんさっきですねん。腹パンパンで動きにくいんですわ」

「それやったら、腹ごなしにちょうどええやんか。何やったら新大阪ラボ行きの用事もこさえたろか?」

「うっ、やぶ蛇になってまうな。冗談ですがな。ほな行ってきます。場合によったら直帰します」

「連絡だけは入れときや」

 さっきとは打って変わってしたり顔でお出かけモードに突入した。

 壁の時計は午後二時を少し回っていたが、悠人の手元にある確認の必要な資料は某社の十周年パーティープランだけだった。これはイベント班の企画で、優秀なベテランチーフが陣頭指揮をとっているので、おおよそ間違いはない。実際、その企画は堅実に仕上がっている。先方の担当者が高齢の役員向けに、おっとりとした感じを注文してきたので、割と楽だ。あとはイメージデザインを貼付すれば完成である。悠人は担当者に特に修正はない旨を伝えて、ハンコを押した。

 その時、部屋に一人の女の子が入ってきた。悠人の記憶が正しければ、彼女は経理部の女の子である。

「失礼します。先月、企画部から提出された清算書が、こちらの記録と合わないのですが、ご確認いただけますか?」

 キリッとした立ち姿は精悍で一分の隙もない出立であった。

「あら、愛ちゃんやん。ひさしぶり、どうしてた?」

 声をかけたのは瑞穂だった。二人は同期入社なのである。

「何ゆうてんの、先週いっしょにゴハン行ったやないの」

「せやん、あれからもう一週間もたってんで、久しぶりやん」

「そんなあいさつを毎週しないかんのはめんどくさい。一年ぶりやったらどんなあいさつせなあかんねん」

「大丈夫や、ウチらは離れ離れにはならへんさかい」

 しばらく二人の会話を聞いていた悠人が、コントにも似た展開を途中でさえぎった。

「ああ、キミは経理の子なんやね。違うという書類はそれかな」

 経理部長から言付かった書類を脇に抱え込んだままだった愛は、あわてて書類の入ったクリアファイルを悠人に手渡した。

「これです。すみません」

「大丈夫。ウチの部長は優しいから。特に若くて可愛い女の子には」

「こら、知らん人が聞いたら勘違いされるから、やめてくれへんかな。それに、ボクかて怒る時は怒るで」

「ふーん、ようは瑞穂が先に目つけたから、後だししなやっていう警告やな」

「そやで。わかったら書類だけ置いて、とっとと自分の持ち場へ帰り」

 二人の会話は悠人には聞こえないくらいの音量でコソコソとした会話で成り立っている。

「二人でコソコソしてんと。それより、間違いの箇所は説明できる?」

「一ヶ所だけですから。付箋が貼ってあるんで、すぐにわかると思います。じゃ、よろしくお願いします」

 愛は書類を置いてからペコリとお辞儀をして、くるっと背を向けた。横目で視線を瑞穂に送りながら、ニヤッとひと笑い。そして瑞穂の耳元へヒソヒソと伝言を送った。

「昼休み、ウチの奢りでええで」

 そんな会話があるとは夢にも思わぬ悠人は、ファイルから書類を取り出し、付箋を確認する。悠人の記憶が正しければ、単なるタイピングミスだろう。前後の数字に大きな間違いはないように思えた。それにこの経費は木下の班の伝票だった。

「木下君、この計算書、もう一回確認しといて。多分ただの打ち間違いやと思うけど」

 悠人に呼ばれてあたふたと駆け寄る木下。ちょっと滑稽に見えて、向こうで瑞穂がクスクスと笑っている。木下が書類を受け取り、その場で目を通すと、ある一点で固まった。まさに付箋の貼られているページで、桁数が一つ多いことに気づいた。

「申し訳ありません。ゼロが一つ多いですね。すぐにやり直します」

「まあええやん、誰にでも間違いはあるし、経理も大事になる前に持ってきてくれてんねんから」

 木下はデスクに戻り、瑞穂を読んですぐに修正を依頼した。木下に呼ばれて、修正箇所を見つけた瑞穂が、今度はしきりに木下に向かって謝っている。どうやらタイピングミスをしたのは瑞穂のようだった。しかし、木下も大事にはせず、すぐさま訂正をするようにとだけ言い渡したようだった。

 悠人はその様子を始終見ていたが、こういった和気あいあいの雰囲気が好きなのである。職場でも争いごとを好まない悠人は、後輩たちにもあたりが良いことで知られていた。半面、やり方が手ぬるいと一部の上司からは目をつけられてはいるのだが、そんなことは一向に気にしないのが悠人の性格である。

「木下君、修正が終わったら早々に経理に持っていってな。清水君に行ってもらい。お友達みたいやし」

 木下は、瑞穂が修正した個所に目を通すと、一応悠人に見せるそぶりを見せたが、悠人が見せなくてよい手ぶりをしたので、その書類は瑞穂の手に渡り、早速経理へと走っていった。


 その日、経理部では先週末の取りまとめに追われていた。計算に慣れていない部署では細かな計算違いや入力違いが多い。営業部では経費とみなされない領収書まで紛れ込んでいる。それをチェックするのも経理部の仕事である。

「失礼します。企画部の清水です。先ほど修正依頼のあった書類を持ってきました」

 すると愛がススっと駆け寄ってきた。ニタニタした顔で。

「どうやった?部長から手ほどきしてもろたか?」

「アホか。あの後は主任のとこへ書類を回されて、そこからウチへ指示が出されて、主任に渡したら、そのままウチんとこへ戻ってきて、ここへ直行やんか。それにあんまり大きな声で言いふらしなや」

「でもええよな、ウチの部長なんかあれやで」

 愛の視線の先には経理部長が禿げ上がった頭をペンでゴシゴシしながら書類とにらめっこしている。太っているわけではないが、いかにも日蔭育ちと思われる青白い肌と黒縁のメガネが愛の不満となっている。

「あのな、ウチら仕事しに来てんねん。しかも部長や課長ってみんな妻帯者やないの。ちゃんと若いメンバーチェックしときや」

「いや、わかってんねんけどな、ウチの部署はアカンわ。見てみ、みんなおっちゃんばっかりやし、若い男はもやしみたいなんばっかや。それに比べて営業部や企画部は活きのええ男がおるやんか。はよう別の部署に移してもらおうおもて頑張ってんねん」

「あんた、経理希望で入ったんやろ。しばらくは無理やで」

「そやろな。三年は無理やろな。しばらくは合コンでつなぐしかないな。今週の金曜日、設定しよか」

「ウチは遠慮しとくわ。続きは愛ちゃん奢りのランチでな」

 瑞穂は愛に書類を押しつけて、経理部の部屋を後にした。足取り軽く出て行く姿を不思議そうに眺めている愛であった。


 その日のランチタイム。確かに瑞穂と愛は同じテーブルに着座していた。ここでも何やらヒソヒソと小声の会話が弾んでいる。体ごと会話に乗り気なのは愛の方である。

「あんたどんだけホンキなん?」

「単にあこがれてるだけやし。親子ほど年離れてんねで。そやけど人当たりがええのが一番やな。部長とおったら安心すんねん」

「って、まだ会ってからそんなに経ってないやろ」

「そやけどおんなじ部屋にずっと一緒におるで。ときどきミスらはんねん。それがええねやん」

「ウチの課長なんかミスだらけやで。せやからいつまでたっても部長になられへんねん」

「経理部と企画部とは構成が違うやん。しゃあないこともあるで」

「企画部いうたら、ウチのメイン部署やんか。社員の半分は企画部やで」

「まあ、企画会社やからな」

「あとは稼ぎ口の営業部。コッチはバイタリティに飛んだ体育会系ばっかしや。たくましいのはこっちかな」

「アンタ、男の選び方間違うてるわ」

 瑞穂が愛の恋愛観について意見を述べたタイミングで熱々の鉄板に乗った焼きそばが運ばれてきた。ここは大阪では有名な『ぼん太』という粉もんの店。熱々の鉄板に乗った昔ながらの焼きそばが人気の店である。瑞穂はイカ入り、愛はブタ入りを所望。割と定番な彼女たちのランチであった。

「ウチのことはええわ。それより確かにあの部長は面白そうやな。今度、宴会あったらウチも呼んでな」

「呼ばへんし。アンタの期待してるような展開にもならへんから」

 ツンと澄ました瑞穂の口元は、気をつけているようでも茶色く染まっている。愛の口元も同様である。

「なんや期待して損したな。高いランチになってもたわ」

「いずれ安いランチになるかもよ。しかし、やっぱり美味いなここの焼きそば」

 文字にするとわからないだろうが、実際には熱々の焼きそばをハフハフしながらの会話だったので、何をしゃべっているかなんて、本人たちにしかわからない口調だったことは捕捉しておこう。


 彼女たちが焼きそばで舌を焼いている時間、悠人はデスクで手製の弁当に箸をつけていた。誰の手製?残念ながらマイセルフ弁当である。男が作る弁当だから内容は知れている。小さな弁当箱にご飯を薄く敷き詰めて、その上に事前に買い込んであるスーパーの惣菜を乗せただけのものである。野菜が不足気味になるので、コンビニサラダと味噌汁をお供に連れている。

 企画部で弁当持ちは悠人と正木と秋山だけだった。正木は新婚で、素朴ながらも愛妻弁当である。まだ新人の秋山は毎日カップ麺とおにぎりでなんとか飢えを凌いでいる。悠人もたまに外へ食べに行くこともあるのだが、普段から倹約家の悠人は自ら朝の台所に立つことを厭わない。

 新婚の頃は万里も甲斐甲斐しく弁当を作っていた。しかし、子供が生まれて共働きとなった途端、これまでの要求は通らなくなった。

 それ以降、しばらくは秋山同様のランチタイムを過ごしていたのだが、娘が高校を卒業した頃から弁当を作り出した。唯衣の弁当が不要になると台所が空く。早番と遅番を繰り返す万里は、いないか寝てるかのどちらかであり、悠人にとっては都合が良い。元々厨房作業が嫌いではない悠人は、それ以降、自ら昼の賄いを作るようになったのである。

 そんな自作の弁当をつつきながら、悠人は『ピンクキャロット』のホームページを覗いていた。もちろん、ランチタイム中の二人に知られないようにである。

 まずは今宵の出勤情報を、そして彼女の写メ日記を。しかし、どうやら美月は筆不精、いつもながら出勤前の宣伝文句だけしかなかった。

 これは想定内である。急な欠勤がないかを確認しただけなのだから。恐らくは何かあればメールをもらえるだろうと思ってはいるが、念のため。

 それよりも気になっているのがオープンの時間。『ピンクキャロット』のオープンは午後六時。仕事を終えて馳せ参じてもオープンには間に合わない。できれば、まだ誰の手にも触れられていない彼女を抱きたい。そう思うのは客としてのわがままである。

 管理職でないならば、得意先への出張を作って、そのまま直帰するスケジュールを立てればよいが、今の環境だと、そうそう簡単に出かける用事がない。あっても相手側の都合によるスケジュールがほとんどである。

 ただ、専属で抱える案件が無いため、残業することがほとんどなくなった。休日出勤もほぼ無く、自由に使える時間は増えた。おかげてポートレート製作の方ははかどっている。

 今日はどんな話をしようか、どんな発見があるだろうか。今からワクワクしてたまらなかった。

 自作弁当を平らげてカバンに仕舞い込むと、ケータイにメールの着信を知らせる音が鳴った。

「誰からやろ。美月やったらうれしいな」

 そんなことを思いながら懐からケータイを取り出して画面をみると、果たして美月からのメールであった。

『おはよう。今日も元気で仕事頑張ってね』

 もう昼なのにこういうあいさつをするのは業界の習わしなのか。そう思ったが、彼女の昼間の仕事が接客業なら、朝晩遅いサイクルになるのかも知れない。

『いま起きたの?』

 それを確かめるような問いかけのメールを送ってみたら、

『そだよー』

 とわりとすぐさま帰ってきた。

「そうだ、今度どんな仕事をしてるのか聞いてみよう」

 悠人にとっては、一つ話題にするべき課題が見つかった、ありがたいメールとなった。

 さて、あとは時計の短い針が真下に来るまで、書類とパソコンとのにらめっこの時間とあいなるわけであった。



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