耳かきと女子高生


夏のうだるような暑さの中、私は教室の机に突っ伏して言った。


「あ~、異世界行きた~い」

「アンタ、何言ってるのよ?」

「う~ぅ、だって~」

「そういえば、最近そういう漫画にハマってるんだっけ?」

「まぁ……そんな感じ」


実際は漫画よりもネット小説なんだけど、まぁその辺りはどうでもいい。せっかくテストが終わったというのに私の気分は晴れなかった。とは言っても、別にテストの点が悪かったわけじゃない。いや、別に良くもないんだけど、それが原因でモヤモヤしている訳じゃない。モヤモヤしながら、机の上でうんうん唸っている理由は目の前にある一枚の紙だ。


『進路希望調査』


紙の一番上にはそう書いてある。これを来週には出さないといけないのだ。

うぅ……現実逃避したい。

けっこう真剣に悩んでいる。だというのに、クラスメイトの明子あきこは不思議そうに聞いてくるのだ。


「……? でも、小百合さゆりは薬剤師になるんだから進学でしょ?」

「う~ん、そうなんだけどさぁ~」

「どこの薬学部か悩んでるの? 帝永大学が近いし、行けそうなんでしょ? まさかランク上げるの?」

「無理、帝永でギリギリだもん。いちおう……国立も受けるけど」

「なんだ、しっかり決まってるんじゃない」

「う~ぅ~っ」


サラっと答えてしまう自分が恨めしい。こうやって悩んだ振りをしているものの、答えはもう決まっているのだ。


「そんなに異世界チートハーレムで俺ツエーしたいの?」

「えらい詳しいわね……何で知ってるの?」

「アンタが薦めてきた漫画に書いてあったのよ……って言うか、奴隷ハーレムとか、ちょっとキモイわよ、あの漫画」

「いいのよ。ああいう何も考えずに頭空っぽにして読むものだから。カロリーだけ高くて栄養素がなくても別に問題ないの」

「ジャンクフードみたいね。確かに油と砂糖の塊みたいな漫画だったけど……」

「あと私がしたいのは異世界を現代知識チートで俺スゲーの方だから」

「違いが判らないわね」


明子がため息を吐く。

私の実家は祖父の代からの薬局だ。小学校のときに死んだおじいちゃんのことは大好きで、働いているお父さんや、未だに店を手伝っているおばあちゃんの姿を見続けたせいで、自然と実家を継ぐものなのだと思っていた。実際、私の「将来の夢」は昔から薬剤師で、中学から受験しているので実はそれなりにいい高校に通っていたりもする。まがりなりにも帝永の薬学部希望出来るくらいだからね。

そんな訳でちっちゃい頃から実家を継ぐためにガッツリと準備をしてた私なんだけど、いざ薬局を継ぐための本格的な道が目の前に現れたとき、私はビビった。

その結果がさっきの異世界発言だ。

インターネットで無料で読める小説投稿サイト。無料で無尽蔵に作り続けられる。それは恰好の逃げ場所だった。


「ああ……スライムに生まれ変わりたい」

「小百合、アンタ……頭、大丈夫?」


明子が訝しんで訊いてくる。

大丈夫。現実逃避したいだけで、現実を捨てたい訳じゃない。ただちょっと、スライムに転生して、ありふれた職業とか言ってチートしながら、美味しいごはんを食べたいだけなのだ。





いつものように裏口から家に入ると、最初に声をかけてきたのは母さんだった。


「あら、今日は早いのね」

「テストも終わったし、たまにはね」

「そう、安心したわ。さゆちゃんってば、ずっと勉強ばっかりしてるんだもの。いくら受験生だからって心配になるわ」

「そんなことないわよ」


うん、全然そんなことない。ちょいちょいサボってるし、ちょいちょいネット小説に耽溺たんできしている。昨日もガッツリと異世界に行ってきた。盾を武器におっきい鳥と狸娘と一緒に冒険してきたわ。

私は何だかんだで手を抜くのは得意だ。ネット小説だって、何だかんだで勉強を疎かにするほどどっぷり漬かっているわけではない。

ちゃんと計算している。

そう、私はちゃんと計算している。

ネット小説を読んで、異世界に行きたいなんてうそぶいて、適当に友人に文句を言いながら、その傍らでしっかり大学に受かるために準備している。

私はしっかり者なのだ。

進学校に入り、適度に息抜きしながら成績を上げて、帝永の薬学部に入って、薬剤師の資格を取り、薬局を継ぐのだ。

そんな私に母さんは突然言った。


「ねぇ、小百合」

「なに?」

「無理に薬局継がなくてもいいわよ」

「え?」

「お父さんがおじいちゃんの薬局継いだからって、別に小百合まで継がなくてもいいんだから。でも薬剤師にはなった方がいいわよ。儲かるからね」


母さんは言う。

この辺りは昔からの住宅街で、近所には、内科も、外科も、歯医者もあって、そのおかげで我が家は大いに儲かっている。隣の町には大きな総合病院があるので、この町に大きな病院が立つことはないだろう。つまり個人経営の病院で処方箋をもらって薬を買おうとするとこの辺りの人たちは自ずとウチにやってくる。もちろん同業者が他にないでもないが、それでも古くからやっているという地元の強みか、客足が途絶える気配は今のところない。


「だからさ。ウチがいきなり潰れるなんてことは多分ないわよ。だからね、挑戦してみるのもいいと思うのよ。外で勤めてから。それでもウチを継いでくれたら、それはそれで嬉しいしね」

「え……あ、うん」


いきなり言われて言い淀む。

言っちゃなんだが、私はしっかり者だ。サボりはするし、手も抜くが、ちゃんと節度をもって手を抜いている。だから学校でもそれなりの順位をキープ出来ている。

だけどこれは困った。私は別に天才じゃない。目標を設定してから、ちゃんと準備して、積み上げて、順番にミッションをこなすことで目標を達成する。完全な努力型の人間だ。だからいきなり「実家を継ぐ」という目標を外されて大いに困惑した。





夏のうだるような暑さの中、私は教室の机に突っ伏して言った。


「あ~ぁ、貧乏貴族の八男に生まれ変わりたい……」

「えっと……小百合、それってどういう設定??」

「そういうネット小説があるのよ」

「ふぅ~ん。よく分からないけど、男の子に生まれたらっていうのは面白そうね」

「え?……あっ!?」


ハッとする。

そんな私に明子は尋ねた。


「何よ? どうしたの?」

「ううん、何でもないわ。そうね。異世界に行くなら転生するより転移よね。聖女様になってポーション作りまくるわ」


好いわよね。生産系のポーション無双。

「あれ? 私、今なんかやっちゃいました??」

とか、言ってみたいわ。


「よく分からないけど、とりあえずいつも通りの小百合で安心したわ」

「ありがと」

「それで何かあったの?」

「うん、実はね――」


明子に昨日の出来事を話す。

小さい頃から「実家を継ぐ」と言い続けて、両親も特に反対することもなく、そのつもりだったのに。そう明子に話した時、彼女は心底呆れた顔で私に言った。


「アンタ、今、ものすごく贅沢な話してるって、解ってる?」

「え? 贅沢……なの?」

「そうよ」


机の真向かいに座る明子はため息を吐く。


「ものすごくいい話じゃない。いざという時は実家に戻って来ていいから、好き勝手にしていいって話でしょ」

「まぁ、そうなんだけど」

「言っとくけど、実家が小金持ちって、十分にチートだからね」

「え!? うちって金持ちなの?」

「いや、どう見ても金持ちでしょ。3階建てのビルに住んでて」

「ビルって……大げさね。確かにビルって言えばビルだけど」


登録上はビルになっているっていうのは、お父さんに聞いたことがある。駅前にある我が家はおじいちゃんが建てた3階建ての小さな建物で、1階はまるまる薬局になっている。んで、その上に私達家族が住んでいるのだ。


「そういうのって、世間一般では金持ちって言うのよ」

「そ、そうなのかな?」

「そうよ」


呆れた声で断言されてしまった。

あれ? ひょっとして、私、今、何かやっちゃいました?


「まぁ、いいわ。ところで薬剤師って、薬局以外だと、どんな所で働くのよ?」

「それこそドラッグストアとか、病院とか、あとは製薬会社とかかな?」


母さん曰く、基本的に潰しの効く資格で、収入がいいらしい。私は薬局を継ぐのが目的だから、あんまりそういうのは考えたことってなかったんだけど……


「製薬会社か、何かカッコイイじゃん。博士っぽくて」

「博士……ねぇ?」

「うん、アンタって、昔から勉強得意じゃない。向いてるんじゃないの?」

「そうかなぁ?」

「そうよ」


成績はそれないにいいが、別に勉強が好きってわけじゃない。だから学校を卒業しても勉強し続けるって、何だかピンとこない。


「小百合って、ホント贅沢ね、アタマいいくせに」

「いや、国立いけるくらいいいわけじゃないし」

「ハァ……またこれか。アンタ、別に異世界行かなくてもいいんじゃない。十分、オレつえー出来てるから」

「????」


明子にまた呆れられる。

あれ? 私ってば、また何かやっちゃいました??

明子の反応を見る限り、どうやらそういうことらしい。





予備校の帰り道、私はぶらりと歩いていた。普段なら遅くまで自習しているんだけど、今日は日が落ちる前に帰途に着く。黄色味を帯びた西日は暑く、それを避けるようにして日陰から日陰へと逃げるように移っていく。

頭の中では昨日の明子との会話がこびりついていた。

どうやら私はリアルにチートらしい。

とは言っても、ちっともそんな自覚はない。

家が金持ちと言っても大財閥の令嬢というわけじゃないし、成績が良いと言っても何とか偏差値が60に届く程度だ。


「こんなのちっともチートじゃない」


チートって、もっと、こう、ワクワクして、頑張ったり努力したりしなくても苦難や困難をピョンピョン飛び越えていけるものなのだ。

そんなことを考え名がら、私はビルの影と影の隙間を切り裂く日向をピョンと飛び越える。


「こんな風に嫌なこと全部、飛び越えられたらいいのに」


異世界に行ったらピョンと飛べる気がする。そうぼやいて、影を創るビルを眺める。

どこだろうな? ここ?

普段は電車で帰る道を歩いているので、大まかな位置は想像出来るけど、よく分からない。

見上げたビルは5階建てで、うちの家よりも少し大きい。エレベーターの表示板を見れば夜のお店と思しき名前がズラリと並ぶ。女の人の名前だったり、横文字だったり、バーだったり、スナックだったり、女子高生にとっては縁のない世界。全部、日本語で書かれているにも関わらず、まるで異世界の言葉のように見える。


「異世界か……」


夜の世界。それは一種の異世界に違いない。もちろん私が行きたい異世界はそういうものではないんだけど。

そんな中で3階の表示だけがからになっていた。

そこに目が留まる。

気づけば指先がエレベーターの③のボタンに向かっていた。

ここはきっと空き室だから、きっと誰もいないだろう。

剣と魔法の異世界、エルフやドワーフがいる異世界、そんな所に行けると思ったわけじゃないが、ちょっとでもの空気に触れたくなっていたのだ。


「ちょっと見るだけだから……」


指先がボタンに触れ、ゆっくりと押し込んでいく。カチっと小さく音が鳴った。


「あれ?」


もう一度ボタンを押す。

カチっと音が鳴る。だけど本来はあかりがともるはずの③の部分は沈黙したままだ。どうやら3階はエレベーターも止まっているらしい。

隣を見れば上へとつながる階段の入口が大きく口を開けていた。





階段を一段一段上がる。

電気は点いているが薄暗い。

それに胸がドキドキする。昔、入った友達の家の屋根裏部屋を思い出す。

何だろう。すごく異世界っぽい。

2階の踊り場を過ぎて3階に上がると、そこには短い廊下と簡素なドアが一枚あった。看板の類もないので、やっぱり空き室なんだろう。

それを残念に思う反面、ほっとした。

そうしてドアを背に階段に戻ろうとした時だった。


「あら、お客さん?」


背後から声がした。

振りむけばそこには一人の女性がいた。玉子型の輪郭に切れ長の目。黒髪をアップにまとめた和装の女性だ。美人ではあるが絶世のというほどではない。だけどその人はまるで浮世絵の世界から出てきたような、どこか現実離れした女性だった。


「どうぞ、開いてますよ」


落ち着いた、琴の音を思わせる声音だった。


「えっと……あの」


お客さん?

開いてる?

えっと……何かのお店?

私、制服着てるけど、高校生が入っていいお店なのかな?

って言うか、この人いつの間に現れたの??

困惑する。


「あの……」

「どうぞ」


柔らかに微笑む。

蠱惑的な声が私の中に染み込んでいく。


「は、はい……」





言われるがままに私はゴロリと横になる。

どうやらここは耳掃除をするためのお店らしい。そういうお店があるというのは聞いたことがあるけど、こんな所にあるなんて知らなかった。お値段は安くないけど、幸いにもお小遣いをもらったばかりだから財布の中は余裕があった。


「お、お願いします……」

「はい」


心のどこかが麻痺してしまっているんだろうか。明らかにおかしな状況なのに、この人の言葉に逆らえない。まるで異世界に迷い込んだように頭が酩酊めいていしてしまっていた。


頬には柔らかいタオルの感触。

その下にあるのは膝枕だ。

膝枕なんてしてもらうのはいつぶりだろう。お母さんにしてもらったのは、小学校の時だったかな。それこそ膝枕で耳かきしてもらっていた。最近は……もうずいぶんとしてもらっていない。耳かき自体はたまにするんだけど、自分で買って来た100均の耳かきでほじる程度だ。


ほら、いくら家族だからって同じ耳かき使うの気持ち悪くない?

そういえば、ここの耳かきってどんなの使ってるんだろう。使い捨て? どっちにしても多分、消毒してくれてるよね? まぁ……どうでもいいや。


膝枕の魔力か、身体はすっかりリラックス。考える力がなくなっていく。千鶴と名乗ったお姉さんは「始めますね」と優しく私に告げる。私はもう一度「はい」と答える。

すごく落ち着く声だ。

大人の女性だな。

千鶴さんて、落ち着いて見えるけど何歳くらいなんだろう?

こういう女の人って何だか憧れる。


そんなこと考えた時だ。

“それ”は突然、やって来た。


最初、千鶴さんの指が私の耳たぶに触れる。空調の効いた部屋で触れてくる指の感触は温かく滑らかだ。その心地の良い感覚にうっとりとしたとき、たおやかな指先が僅かに私の耳朶じだを引く。するとピリッと微かな痛みと快感が耳の奥へとはしり抜けた。


「…………っ!?」


思わず声が出そうになる。

帆のように引かれて張った耳にツンとした痛痒感。そこに何かが触れる。きっと耳かきの先端が当たったんだろう。

それは耳輪の溝の部分をゆっくりと引っ掻いていく。


「…………ぅ」


今度はちょっと声に出た。


「どうされました?」

「あ……いえ、大丈夫です」

「そうですか」


千鶴さんは「痛かったら言って下さいね」なんて言ってるけど、とんでもない。溝に沿って耳かきの先端が進むたびに、痛み混じりの快感が私の頭をぶん殴った。


ズズズズズゥ


引きずるような音が響く。その度に分厚く堆積した垢が掘り起こされていくのが解った。

最後に耳かきしたのっていつだっけ?

覚えてない程度には、けっこう前だ。だって耳かきなんてしなくても死なないもん。

そんな無精をしていた私の耳介が端の方からゆっくりと削られていく。その度に「ズズズゥ」と音が鳴り、私の思考力が削られていく。


ズズズ……


耳かきの匙は進む。


ズズッ……ズズズズッ……


ゆっくりと着実に進む。


ズズ……ズズッ……ズズズズゥ


ヤバイ、これ、メッチャ気持ちいい。

耳かきの先端が引きずり、止まり、引きずり、止まる。その度にズルズルと耳の外に溜まった垢が掘り出されていく。それは雪国の街を走る除雪車を思い起こさせた。


「ぁぁ…………」


無意識に声が出る。

よだれが垂れていないか心配になるが、思考能力が削られた私にはもはやなす術はない。されるがままに耳介を掃除され、そのたびに耳がポカポカと温かくなっていく。

耳輪に溜まった垢が掻き出されると、私の血流はすっかり改善されて首の周りまでが温かくなっていた。どうやら私の耳は想像以上に汚れていたらしい。


千鶴さんは私の耳から手を離す。

これで耳の外はお終いか。そうなると次は耳の中だ。

そんなことを考えた私の耳は更なる衝撃に襲われる。

サワリと柔らかいものが私の耳介に触れたのだ。


おおっ? 何だこれ!?


柔らかいものが耳に押し当てられる。

ぐるりぐるりと耳の上で何かが回る。その度に残った耳の汚れが拭われていった。

そうか……これ、綿棒だ。

綿棒の柔らかい部分が、私の耳の縁の部分ににグリグリと押し当てられ、無精に任せていた私の耳輪を掃除していく。それと並行して私の耳たぶを掴む指にも絶妙な圧が込められていた。千鶴さんの指に僅かに力が篭る度ににグニグニと私の耳たぶが揉みほぐされていく。


ぐにぐに……ぐに…………ぐみ


すごい、耳たぶが、ぐにぐに、きもちいい


グニグニと耳たぶが揉みほぐされるたびに言語能力が死んでいく。


ぐにぃ…………はっ!?


うおっ、一瞬、意識が飛んでいた。

耳を触られるだけでこんなに気持ちがいいなんて。

言い知れぬ感覚に動転する。しかし本当の衝撃はここからだった。

前触れもなく……ううん、前触れはきっとあったんだろうけど、朦朧としていた私はそれに気づくことが出来なかった。

そっと、音もなく、気配さえ感じる前に、私の耳の穴の中に何かが侵入してきたのだ。


ゴボッ


え? ごぼ? なんか変な音、鳴った!?


耳の中でエライ音が鳴り響く。それを成したのは、いつの間にか持ち替えていた一本の耳かきだった。そいつが1回1回、私の耳の中に入る度に、重く堆積したものをゴボゴボと突き崩していく。


ゴボッ……ズリッ……ザリザリザリぃぃ


重機が地面を掘り起こすように耳垢の層が粉砕されていく。私の無精は耳の穴の中までしっかりと反映されていたらしい。耳かきの先についたスプーンが突き入れられるたびに、耳の奥でバリバリ、ボリボリと盛大に破砕音が聞こえてきた。


バリッ、ザリッ、ズリッ


まるで採掘作業のように私の耳の穴が掃除されていく。耳垢が溜まり過ぎてちょっと恥ずかしいと思ったのは一瞬だけだ。耳垢の層が破砕されていく度に痛痒いような感覚がツンと後頭部を走り抜け、背筋がゾクゾクと震える。これはもう耳かきじゃない。耳掘りだ。私はすっかりこの不思議な女性が繰り出す妙技に魅了されてしまっていた。耳の中で鳴り響くバリバリに私はすっかり満足する。


しかしそれがまだ序の口だったという事実を、私は次の瞬間思い知った。

これまで豪快に耳垢の壁を突き崩していた耳かきに、繊細な動きが加わり出したのだ。

千鶴さんが私に何か伝えた気がしたが、朦朧とした私の頭ではそれを理解することが出来なかった。

粉砕されて残った耳垢の滓をゆっくりと掃いているのだろう。散らばった耳垢を集めるように耳かきの先についた匙は耳道の壁を刺激する。

やわやわと掻き毟るような動き。先ほどまでが重機の掘削作業だとすれば、今の動きは化石の発掘作業だ。古代の化石や遺跡を掘り起こすかのように、千鶴さんは丁寧に、優しく、私の耳垢を掘り起こしていく。そのくすぐるような触り方に恍惚とした。


ああ、なんか、これ、すごい……


色々と悩みがあった気がするが、何だかどうでも良くなってきた。

千鶴さんが、また私に何か伝えた気がしたが、何と答えたのか自分でもよく覚えていない。


ああ、すごい……こんな世界があるなんて





ビルの3階から表の通りに出たとき、辺りはそろそろ暗くなり始めていた。

えっと……いつの間に階段下りたんだっけ?

何だか記憶が曖昧だ。耳を触ると温かい感触が残っていて、先ほどの出来事が夢ではなかったのだと教えてくれた。


「何か……異世界から帰って来たみたい」


見上げれば3階の窓からは灯りが見える。

剣も魔法もないし、エルフもドワーフもいないけど、あそこは確かに異世界だった。


「また、来ようかな……」


異世界ここにはまた来れる。

そうだな……帰ったら参考書を開こう。勉強して、大学に行くのだ。国立を目指してもいいだろう。異世界にだって行けるんだから、国立大だって超余裕だ。そんな気がする。

耳を掘られる快感を思い出し身震いすると、私は現実に向かい新たな一歩を踏み出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

千鶴さんの耳かき屋 バスチアン @Bastian

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る