耳かきと料理研究家
TVの画面の中でエプロンを着た女性が微笑んでいた。元は美人だと思わせる顔立ちだが、頭に巻いた派手な三角巾と赤い縁の大きな眼鏡のせいでコミカルな雰囲気が強い。
彼女の手元には火にかけられた鍋がかかっており、その中には炒めたネギと挽き肉が入っている。それをヘラで混ぜ合わせると、
「そうしたら合わせ調味料を作りましょう。お水に、醤油、オイスターソース、鶏がらスープの素、砂糖、片栗粉を入れます。片栗粉が良く溶けたのを確認してから鍋に入れましょう」
既に用意されている小皿から順番に調味料がボールに入れられていく。
それをよく混ぜてダマがないのを見て取ると、それを鍋の中に回すように入れていく。
「木綿豆腐も一緒に入れて、とろみがつくまでかき混ぜていきましょう」
グルグルと鍋の中身が回る。
TVなので伝わりにくいが、周囲では香ばしい薫りが支配しているのを用意に想像させる光景だった。
「香りづけにごま油、黒コショウを入れると麻婆豆腐の出来上がりです」
仕上げとばかりに加えられる調味料。画面いっぱいに湯気のたつ麻婆豆腐がドカンと映し出されていいる。テロップには『簡単にお店の味!』と打ち出され、ひな壇では見覚えのある芸人や女優が満面の笑顔で麻婆豆腐を絶賛していた。
◇
「お疲れ様です」
「は~い、紗子さん、おつかれさん」
「おつかれで~す」
私は番組の司会を務めているお笑い芸人『ガリガリボーイ』の二人に挨拶する。先ほどまで頭にかぶっていた派手な三角巾はすでに脱いでおり、派手な眼鏡は縁のない薄いものに変わっている。世間ではトレードマークと言われているのだが、あれを身につけて電車に乗る勇気はさすがにないわね。
『料理研究家』
それが私――
料理人でも、コックでも、板前でもない。栄養士の資格は持っているのだが、調理師の資格はない。人前で、ハイテンションで手を振って、芸人さんたちに突っ込まれて、お喋りしながら料理を作る。それが私の仕事だ。
「紗子さん。三本目のヤツ、いつもよりハイテンションで助かりました」
「別にいいわよ。最後の方、リリカちゃんとか完全にバテてたでしょ?」
「やっぱ、そう思います?」
「まぁ、3本撮りはやっぱりキツイわよね。私のコーナーは20分くらいで撮り終えるけど、皆は出ずっぱりだものね」
今日の収録は3本撮りだったので思ったよりも時間がかかっていたのだ。特に2本目の収録で大物の俳優さんがやって来たんだけど、バラエティ慣れしていないこともあって少し時間を押してしまっていた。グラドルのリリカちゃんは大物相手の緊張と疲れ切っていて3本目は機能してなかったかな?
それでもガリガリボーイの二人が頑張ってくれたおかげで何とか無事に収録を終えることが出来ていた。
「番組の視聴率は好調なのよね? 何とかならないのかしら?」
「まぁ、予算の関係が少ないからしょうがないですね。二日かけたらボクらの
「まぁ、そもそもボクらそんなに貰ってないんですけどね」
「それを言ったら私もね」
互いの顔を見ながら私たちは笑う。それは面白半分、苦笑半分といった笑い方だ。
ガリガリボーイは下積み時代の長かった中堅どころの若手芸人だ。とは言っても、彼らはそろそろ30代後半なんで“若手”というのも違和感があるのだけど、お笑いの世界では30代や40代でも若手らしい。
そんな彼らがようやく持ったのがこの番組。しかも最近では珍しい芸人の名を冠した冠番組だ。「ボクらが不祥事起こしたら番組ごと一発アウトですけどね」というのは彼らが内輪でよく言う自虐ネタだった。
私の方も私の方で、この番組が始まるときに料理コーナーで大抜擢されて、何とか半年間の放送を持ちこたえることが出来た。なので私たちの中にはある種、戦友のような空気感があった。
「でも紗子さん、本いっぱい売れてるやないですか」
「そうですよ~。ボクらグッズ作ってもほとんど事務所が持って行くんですよぉ」
「ごめんね。今度お弁当作って来るから」
「ホンマですか!? ここの弁当毎回同じやから飽きてたんですよね」
「俺なんか、未だに家ではパンの耳しか食べてませんもん」
「じゃあ、パンの耳で揚げパン作ってあげるわ」
「えぇ~!?」
番組中と同じくおどけた仕草で二人は言う。二人が所属しているのは悪名高い大手のお笑い事務所だけど、どこまで本当かは分からない。
ただ画面から伝わってくる彼らの人柄は本物で、だからこそスポンサーが嫌がる「芸人の名前を付けた冠番組」というのが実現したのかな……とは思う。
1コーナーを任されている私が問題を起こしてもコーナーを止めるだけでいいけど、番組名になってる彼らが何かあったら番組ごと潰れちゃうもの。でも実際に接してみて彼らがスキャンダルを起こすってちょっと考えにくい。
「じゃあ、次は来月ね」
「は~い、次は揚げパン持ってきてくださいね」
「って、揚げパンかい!」
二人のボケとツッコミに笑いながら、私はTV局から出る。空を見上げれば端の方から徐々に紫色に変わり始め、白い月が登り始めている。
通勤は電車だ。地下鉄を乗り継いでまっすぐに自宅へと帰る。最近では少しばかり知名度が上がってきたせいか、トレードマークのバンダナと眼鏡を取っても気づかれることが多くなってきた。自宅のある駅に着くと改札を抜け、私はそのままスーパーに寄って買い物をする。
「人参、ゴボウ、玉ねぎ……あと豆腐ね」
数日分の食料と、何よりも撮影用の料理の材料をそろえていく。
撮影と言ってもTVの話じゃない。料理研究家、タレント、主婦、色々と肩書のある私だけど、その他にも大事な肩書がひとつある。それがユーチューバーだ。
娘とともに無一文同然で引っ越してきた私が今のような身分になれたのはネット上にアップロードした動画のおかげだった。唯一の特技だった料理が皆に注目されて、レシピ本の出版を打診されて、気がつけばTV出演のオファーがやって来て
「何か……遠くに来た気がするわね」
黄色味を帯びてきた月を見てポツリと呟く。実際に、今は無くなってしまった東北の故郷から見ればこの街は遠い。この街は、鉄道も、スーパーも、何かもが大きくて、変わらないのは月くらいのものだ。
だから時おり、こうして空を見上げてしまう。
ああ、よくない。
こういうときは大抵、気分が沈んでいる。明日も動画撮影しないといけないのにな。
一抹の寂しさを抱えながらマンションに着くと、暗証番号を打ち込み、開いた自動ドアを抜ける。
エントランスホールのひんやりした空気を感じながら私はエレベーターに乗る。止まったエレベーターから出ると、さっきよりも少しだけ近くなった月が見えた。廊下をゆっくりと歩き、最近になってようやく見慣れてきたドアの前に立つ。
「ただいま」
「おかえり、お母さん」
帰宅してすぐに迎えてくれたのはご飯が炊ける匂いと、中学生になる娘のさくらの声だった。
「遅くなってごめん、ごはん今から作るね」
「うん……そうだ、お父さんのは先にあげたから」
「そう、ありがとう」
炊き立てのご飯の匂いに少し混じって、すれ違ったさくらからは線香の香りがした。
「今日は何するの?」
「肉豆腐よ」
私の答えに娘は喜色を浮かべる。
この顔を見れば、私はもう少し頑張れる。
「さぁ、お料理を始めましょうか」
◇
「うわっ、これモッチモチ! めっちゃモチモチ!!」
「本当だ。おいし~い♪」
明るい照明が複数方向から射すスタジオの真ん中でガリガリボーイの二人とリリカちゃんがホットケーキを頬張っていた。
今日の料理は『豆腐で簡単もちもちホットケーキ』だ。ホットケーキミックスにペースト状にした絹豆腐を入れるだけ。だけど、これだけで驚くほどホットケーキの食感が変わる。普通に作ればフワフワの触感であるはずのホット―ケーキが、モチモチとした触感に変化するのだ。
「うちのオカンのホットケーキと全然違う!?」
「そんなん当たり前やんけ!!」
「アハハハ♪」
当たり前だけど誰も「まずい」なんて口にはしない。予定調和の光景だ。
もちろん腕にだって自信はあるわよ。それでもたまに「メシを作ってるだけでTVに出れる」なんて揶揄されることもあるし、リリカちゃんも「食べてるだけでTVに出れる」なんて言われることがあるのよね。
一見したらお気楽な職場だけど、後から編集しやすいように、立ち位置を変えたり、コメントや身振り手振りで分かりやすい編集点を作ったり、けっこうコツがいるのよ。これでもね。
「おいし~い♪」
「モッチモチや~♡」
画面の中で作られる、面白さと、楽しさと、美味しさで作られた完璧な世界。今日も3本撮りの収録で、実はみんな疲れてるんだけどね。
「紗子さん、今日はありがとうございました」
「ううん、リリカちゃんもお疲れ様」
「へへ~、前回は迷惑かけちゃいましたから」
リリカちゃんが言っているのは大物俳優の前で緊張しすぎてポンコツになってしまった前回の収録の話だ。
「しょうがないわよ。あの人って芸能界のドンでしょ。粗相したらきっとリリカちゃん消されてたし」
「も~う、紗子さん、あの人、そんな怖い人じゃないですよ~」
「あら、そうなの?」
「そうですよ~。ほら、私っていちおう女優志望じゃないですか。だからやっぱり映画俳優って憧れちゃうんですよね。いまどきグラビア一本じゃあ、保ちませんから」
「そうなの?」
「はい、最近は本職のモデルの人がグラビアの仕事したりしますから」
「ああ、モグラ……だったけ?」
「そうそう、それです。他にもアイドル歌手とか、ちょっと人気が出たら誰でも使われる時代ですから。まぁ、そのおかげで私もこうやってTVに出れてるんですけどね」
「それを言ったら私もね」
冗談めいた口調で笑い合う。ガリガリボーイもそうだけど、この番組のタレントはちょうど人気が上がり始めたメンバーだけで構成されている。
理由はガリガリボーイ曰く、
だからこそ皆、必死なんだ。
そうしてひとしきり労をねぎらい合った後、リリカちゃんが控えめに尋ねてきた。
「でも、今日は紗子さんが疲れてる感じでしたね」
「え? そうかしら?」
「なんとなくですけど……あっ、でもお料理はいつも通り美味しかったし、収録もバッチリだったと思いますけど、カメラ回ってないときはちょっとお疲れオーラ出てましたね」
「そんなことは……」
そう言いかけて、私は口元に手を当てる。そして改めてリリカちゃんに言い直した。
「そうね、少し疲れてるかも」
「ですよね~、どう見ても紗子さん働き過ぎですもん」
確かに彼女の言う通り最近の私はオーバーワーク気味だ。毎日のブログ更新、フェイスブックにコメントして、インスタグラムに写真を上げる。
動画の更新も週に一回とはいえ、編集しなければいけないから意外と時間がかかる。
私のようなポッと出のユーチューバーあがりの“タレントもどき”はとにかく発信をおろそかにしてはいけないのだ。
「本も沢山売れてますもんね」
「ええ、おかげさまでね。実は明後日から初めてのサイン会なのよ」
「へぇ~、スゴイですね」
「あら、サイン会だったらリリカちゃんもいっぱいやってるでしょ?」
「私のはサインっていうか、握手会ですよね」
「違うの?」
「う~ん、微妙に……」
そう言ったリリカちゃんの顔は本当に微妙な表情だった。
何と言うか形容しがたい表情だ。私には分からないけど、きっと彼女の中ではサイン会と握手会の明確な線引きがあるんだろう。
「まぁ、体力使うのは間違いないから、明後日に向けてゆっくり休んだ方がいいですよ」
「そうね。明日はオフだし。マッサージにでも行こうかしら」
「紗子さん、明日は休みなんですか?」
「ええ」
「だったら、マッサージもいいですけど、もっといい所がありますよ」
「いい所?」
「はい、とってもリラックス出来るところです」
「?」
◇
久しぶりの休日だった。仕事が忙しくなってから休みが不定期になってるからね。でも仕事があるのはありがたいことだと思って、私は頑張っている。
頑張っている。
そう、私は頑張っている。
正直、今のような仕事がずっと続くとは思えない。だけど娘が大学を卒業するまでは何とか収入を維持しないといけない。一冊でも本を売って、ブログを書いて、インスタグラムを上げて、そうだ……あと、動画も
「……あっ」
気がついたら私は駅前の雑居ビルの前にいた。
お昼も過ぎているので辺りに人通りはあるのだが、あまり人の出入りがある建物には見えなかった。入口の表示の部分を見ると各階ごとに飲み屋さんの名前がズラリ。その中で3階の部分だけが空白になっている。
正直、リリカちゃんに言われなければまず入ろうと思わない建物だった。
私はエレベーターの前に立ち、ボタンを押そうとしてふと思い出す。リリカちゃんには階段で上がるように言われていたのだ。そのことを思い出し、私は傍らにある階段を登る。
ゆっくりと登って行った3階の廊下はテナントが入っているとは思えないほど閑散としていた。思わず間違えてしまったのかとも思ったのだが、これもあらかじめリリカちゃんから聞いていたので事なきを得た。
なんとなく彼女がこれから入る店のことを説明していたときにニヤニヤ笑っていたのを思い出す。
「でも、確かにこれは戸惑うわね」
彼女の笑顔を思い出し、私の口の端が思わず緩む。見た目だけなら不気味なのだが、こういうものだと知っていれば逆に楽しむことも難しくない。
私は飾り気のないドアの前に立つとゆっくりとノブを捻る。
「いらっしゃい」
ドアベルがカランコロンという音に遅れて、静かな声が聞こえてきた。
現れたのは黒髪の女性だった。
たまご型の輪郭に切れ長の目。年は私と同じくらいかしら?
和装のせいか落ち着いた雰囲気の人だった。多分、この人が千鶴さんなんだろう。
「えっと、予約とかはしていないんですけど」
「はい、すぐに大丈夫ですよ」
予約しないでそのまま行ってください……と、リリカちゃんからは言われていた。
少し緊張している私に向かい千鶴さんが尋ねる。
「ここの事はご存知ですか?」
「あ……はい、ここを紹介していただいた方から聞いています」
「そうですか。じゃあ、早速始めましょうか」
「え? あ……はい」
気がつけば店内の真ん中に案内されている。
部屋はそれほど広くない。畳が引いてあるので分かりやすいんだけど、それこそちょうど四畳半だ。畳、土壁、恐らく特別に作っているであろう床の間。
このビルの広さを考えればもっと広いはずなんだけど、壁で区切られているのかそれだけの広さしかない。
「では、どうぞ」
そう言って、座布団に座った千鶴さんはポンポンと膝を叩いた。
膝枕で寝て下さい……そういうことなんだろう。同年代の女の人に膝枕されるなんて不思議な感じだ。
「じゃ、じゃあ……失礼します」
「はい、どうぞ」
硬い私の声に対して、千鶴さんはたおやかに応えた。その柔らかな声に緊張が解されたのか、私は自分でも驚くほどあっさりと彼女の膝に身体を
女性の膝の上。
和服で覆われた膝枕なのでいやらしさのようなものは感じない。
それどころかすごく落ち着く。
不思議。
「それではお耳を失礼しますね」
「あっ……」
「どうされましたか?」
「いえ……」
ああ、そうか。
これをしてもらうために来たんだっけ。
そのひと言で、自分がぼんやししていたことに気づく。
「何でもありません」
「そうですか」
「はい、お願いします」
短いやり取りが終わり、千鶴さんは「では」と、一声かけてから私の耳に触れた。
耳かき
それが今から私のされる行為だ。
最初、それをリリカちゃんから聞いたときは困惑した。だって耳かきだもの。小さい子どもならともかく、大の大人がお金を払ってしてもらうものじゃない。なのにリリカちゃんは自信満々に私に言った。
私に「ここの店の耳かきを受けて欲しい」と。
彼女は見た目こそ浮ついているがしっかりした娘だ。その彼女が言うのでなければ、こんな所にわざわざ足を運んだりはしなかっただろう。
だけど……
(ここ……ちょっといいかもしれない)
千鶴さんの柔らかな声を聞きながら、私は早くもそう思い始めていた。暖色系の蛍光灯の光が土壁に反射する店内は静かで私の心を落ち着かせていく。
千鶴さんの白く細い指が私の右耳に触れた。暖かくて気持ちのいい手だ。
「あら、とてもお疲れですね。最近、よく眠れていないんじゃないですか?」
「はい、仕事が忙しくて」
「そうですか。じゃあ、まず耳ツボを押していきますね。少しピリッとした痛みがあるかもしれませんが、痛かったら我慢せずにおっしゃって下さいね」
言いながら千鶴さんは私の耳たぶを人差し指と親指で挟むと、きゅぅっと力を入れてきた。
同時に微弱な電流が流れたかのようなピリリとした感覚が耳に走る。
「……あっっ」
思わず声が出る。
「痛かったですか?」
「あ……いえ、大丈夫です」
「そうですか。じゃあ続けますね」
千鶴さんはそれだけ言うと、ゆっくりとした手つきで私の耳たぶを摘まんでいく。いちおう痛かったかどうかを聞いてはくれたものの、私が大丈夫だと答えるのが分かっていたのだろう。
それほど迷いのない手つきだった。
軽く抓まれた耳たぶがゆっくりと引っ張られていく。同時に耳の周囲に心地よい痺れが走り貫けた。それが頭の後ろからグルリと回り私の脳に到達したとき、引っ張られた耳がゆっくりと色んな方向に回されていく。
引く方向によって痺れの走る部分が変わり、それがゆっくりと右の頭半分に広がっていく。同時に強張っていた頭の筋肉が緩んでいくのが私にも分かった。
「血が通っていくのが分かるでしょ」
「はい……温かくなってます」
「よかった。ではツボを押しますね」
千鶴さんの和服の
飴色の光沢を持つ耳かきだ。
それが抓まれてピンと張った私の耳介の上をツンっと突いた。それはこれまでのジワジワとした刺激ではない、鮮烈な刺激だ。
「ぁ……っ」
背筋を貫くような快美感にまた声が漏れる。
だけど今度は先ほどと違い千鶴さんが手を止める様子はなかった。
しかしそれも当然。今の声はどう聞いても痛みによって出た声ではない。
続けて千鶴さんの耳かきは私の耳たぶを刺激する。
ゆっくりと、一度だけでなく複数回に分けて、何度も何度もだ。
徐々に場所を移動させながら私の耳朶を這う飴色の棒。
それは一度たりとも
「大分、緊張が解けてきましたね」
「は……はい」
青息吐息で応じる。
これまでもう何度も喘ぎ声を漏らしてしまっている私に体裁を取り繕う余裕はなかった。
足の指先までダラリと力が抜けてしまい、起き上がれるかどうかも怪しいところだ。
思えば人前でこんなにリラックスしたなんて随分久しぶりな気がする。TVというのはやっぱりすごいもので定期的に出演するようになると色々な所で声をかけられるようになった。
トレードマークになってる派手なバンダナや眼鏡を外してもだ。
そのときふと千鶴さんが自分の事を知っているのか気になってしまった。
「あの……」
「はい?」
「いえ、何でもありません」
聞きたくなったのだが、私はぐっと我慢する。もしも知らないと言われても恥ずかしい。
千鶴さんは相変わらず細い耳かきの先端で私の耳介をチョンチョンと突いている。
その度に私の足の小指がピクンと震えた。
そのときだ。
「そういえば」
「はい?」
今度は千鶴さんが話しかける。
「テレビでお見かけしたことがありますよね」
「え、あ……はい、ご存知だったんですね」
「ええ、料理は好きなんです」
優し気な声で千鶴さんは言う。私は横を向いていて分からないんだけど、きっと声と同じで優しい表情をしているのだろう。
「身体が随分疲れていますけど、やっぱりお忙しいんですね」
「ええ、お仕事がもらえるのはいいんですけど……」
「本も出されてますもんね」
「ええ、明日は初めてのサイン会なんです」
自慢げに私は言う。感じるのは少しの優越感。
最近の私はこの感覚が好きだった。
これがあれば、私はまだ頑張れる。
料理研究家、タレント、主婦、シングルマザー、未亡人、全部ひっくるめて相良紗子という商品だ。そのためなら津波に巻き込まれた主人のことだってお涙頂戴で語って見せる。
主人との大切な思い出を切り売りすることに罪悪感は感じるけど、娘が自立するまで頑張らないといけないのだ。
「頑張っていらっしゃるんですね」
「え?」
ドキリとした。
そのひと言に血が凍る。
先ほどまでポカポカとしていた身体に冷たい物でも注がれたようだ。
「いえ、何となくそう見えたので」
千鶴さんは言葉少なげに言う。
ただひと言、最後に「頑張るのは大変ですから」と口にする。
「今だけは頑張らずにゆっくりしていって下さいね」
「え、ええ……」
悟られた。
気づかれた。
見透かされた。
妙な気恥ずかしさが全身を駆ける。
なのに相変わらず千鶴さんの手つきは変わらない。
「また、緊張してきましたね」
彼女の声は強張りかけた私の心にゆっくりと染み込んでいく。
その声には
柔らかな指が耳に触れる。
(ああ、そうか……)
この人、今、言ったじゃないか
(今日は頑張らなくていいんだ……)
そう考えると、肩に載っていた重い物が取れたような気がした。
滑らかな指先が私の耳朶を、摘まみ、捻り、引っ張り、様々な角度から責め立てると再びジワジワと温かいものが耳を中心に全身に流されていく。
全身が総毛立った。
飴色の細い棒がゆっくりと私の耳の穴に入っていく。
ジクリ、ジクリ、薄く平たい匙の先端が浅く鋭く私の柔らかい皮膚にめり込んでいく。
強い力ではない。
皮膚のデリケートな部分が細い棒で侵略されていく。
それと同時に頭の上からつま先まで痺れるような衝撃が走った。
「ずいぶんと溜まっていますね」
クルリと匙の先端が回る。同時にバリバリとした音が耳洞の中で反響した。
「お耳のお手入れというのも中々機会がないでしょうしね」
ズルリと匙の先端が何かを引き出していく。
ゆっくりと、それでいて力強く。
私の耳の孔の上の部分を抑えつけながら、外から内へと移動して行く。
「ほら、こんなに大きなのがありましたよ」
千鶴さんの声はどこか楽し気だ。
ごっぽりとした感覚の後、涼風が通り抜けたような清涼感が耳の中を過ぎ去る。
そうして魅せられたのは耳かきの匙の上にこんもりと乗せられた垢の塊だった。
「すごい……大きい」
「そうですね」
砂浜の砂を固めたような白っぽい塊。こんな大きなものが詰まっていたのは驚きだ。
「でも、まだ沢山、残っていますね。それも取っていきましょうか」
千鶴さんは言う。
今なら耳かきが抜き出されているので、私は横目でゆっくりと千鶴さんの顔を見る。
その顔はやっぱり私の想像通り、菩薩のような柔らかな笑みを
◇
その日、私は夢を見た。
夢なんて見るのは久しぶりな気がする。
しかも主人が出てくる夢だ。
誕生日パーティーでもしているのか、あの人が昔よく焼いてくれたケーキが机の中央に置いていて、娘のさくらと、知らない女の子が一緒に祝ってくれていた。
もちろん夢でも会えたのは嬉しいわ。
ただちょっと気に入らなかったのは私の隣にいる主人を挟んで、知らない女が座っていたことね。
しかも金髪のとびきりの美人。
どうやらあっちで天使でも口説き落としたらしい。
あの人にそんな甲斐性なんてないはずだ……と思ったけど、よく考えたら当然ね。
私を口説き落としたんだもの。
こう見えて、私も若い頃は中々のもんだったんだから。
少しイラっとしたけど、まぁ、許してあげる。
アナタが作ってくれたレシピのおかげで何とかやっていけてるんだしね。
正直、ちょっと気にしてたのよ。
だけどこれでチャラよ。
うん、何か楽しいし、一緒に笑ってケーキ食べてもいいわよね。
そうして目を覚ます。
「ああ、何か……よく寝た」
頭が驚くほどスッキリしていた。
こんなに寝覚めが好いのは何年振りだろう。
身体に溜まっていた澱んだものが綺麗さっぱり抜け落ちたようだ。
「アナタのおかげ……ってことにしておいてあげるわ」
誰に言う訳でもなく口にして、私は起き上がる。
心も体もすっかり軽くなっていた。
そうして思い出す。
今日は生まれて初めてのサイン会だ。
よし!
気合を入れる。
「さぁ、今日も頑張ろうかしら」
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