千鶴さんの耳かき屋

バスチアン

耳かきとヤクザ


いつもの定例会が終わり、俺は続々と扉から出ていくジジイ共を見送った。

いや、いちおう見送る体を取ってはいるが、実際は背中にガンを飛ばしているだけだ。

そんな俺の背中に見知った顔の若い男が声をかけてきた。


「アニキ、お疲れさんです」

「ああ」


不機嫌に俺は応える。

だが若い男――信二の内心も俺と同じで、もう背中の見えなくなったドアの方向を見ながら憎々し気に吐き捨てた。


「それにしてもおかしい話ですよ。一番、上納金を治めとるのはアニキやのに、ウチの組が一番下っ端扱いやなんて」

「言うな。余計なこと聞かれたら、オヤジに迷惑かかるだろうが」

「ああ、すんません」


信二は慌てて声を潜める。

とはいえ、俺が言えないことを言ってくれるというのは正直、気持ちが軽くなる。

一度でいいからあのジジイ共の前で「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ!」と怒鳴ってやりたいもんだ。

まぁ、俺が内心であのジジイ共を毛嫌いしてるくらい、あの連中も分かってるだろう。

何しろ、あいつ等が俺のことを嫌っているんだ。


「帰るぞ」

「はい、わかりました」


信二が携帯電話で連絡を取っているのを背中で聞きながら、俺はジジイ共の出て行ったドアへと向かう。

エレベーターではなく階段で下の階まで降りたとき、ジジイ共の姿は影も形もなくなっていた。

それに幾ばくかの安堵を覚えると、そのまま建物の入り口から外へと出る。

このビルは遠目に見ればただの雑居ビルに見えるが、細部を見れば色々とおかしいことが分かる。

窓の外から中は見えないし、その全てに格子がかかっている。

入口に至っては重い金属製の扉だ。

その扉を潜り外に出ると生暖かい外気が俺の肌を撫でた。

空を見れば日もどっぷりと沈んでいる。


「アニキ、どうぞ」

「ああ」


建物の前に停められているのは黒いワゴン車だ。

ひと昔前のヤクザの車といえば黒塗りの高級外車だったが、今はそういうのは流行らない。

下手に目立つと色々と睨まれるからだ。

この車も2年ほど前にオヤジのために用意したものなんだが、身体を悪くしてからもっぱら俺が使っている。

まぁ、公用車みたいなもんだ。

ヤクザの俺が公用車なんていうと悪い冗談みたいだけどな。


信二に促されるままに後部のドアから中に入る。

見た目はワゴン車だが、中身は快適に過ごせるように内装はしっかり整えていた。

元は国産のワゴン車の中でも一番上のランクなんで十分に広い。

L字になっているシートには俺と信二が座っても余裕があった。

真ん中の席は全部ぶち抜いてキャビネットになっている。

中にはオヤジの好きな酒の銘柄が一通りだ。

あとは冷蔵庫とテレビ、DVD。

遠出しても退屈しない程度の設備は整っている。

普段はあんまり手を出さないようにしてるんだが、こういうときは無性に飲みたくなる。


「おい」

「はい」

「シーバスリーガルだ」

「はい」


ウィスキーの銘柄を口にすると控えていた信二がグラスと酒を準備する。

冷蔵庫から氷を取り出そうとして「ストレートにしろ」と命じた。

イギリス産のスコッチウィスキー。

普段はロックが良いんだが、今日はのまま一気にあおりたい気分だった。

差し出されたショットグラスを手に取ると甘い薫りが鼻孔をくすぐる。

その香りを嗅いでから舌に乗せ、少しの間楽しんでから喉の奥に流し込んだ。

純度の高いアルコールが食道を焼き、腹の中へと消えていく。

鼻の奥に僅かに残った余韻が心地よく脳を刺激したとき、控えめな手つきで信二がチェイサーの入ったグラスを差し出した。

冷えた炭酸水の入ったグラスが手の平に馴染むのを感じると、俺はそれをゆっくりと口に運ぶ。


「悪いな」

「いえ。でもやっぱり怒ってるんスね」

「当たり前だ」


声を荒げるわけでもなく、俺は言う。

俗にいうインテリヤクザである俺は古い連中から嫌われている。

確かに投資やら不動産やらがヤクザのイメージに合わないのは認めるが、今時、おしぼりだの、氷だので、みかじめ料を取る時代じゃないんだ。

あの連中はそれが分かっていない。

もう一杯ウィスキーを呷る。

ああ、クソッ、考えてたらイライラしてきた。


「止めろ」

「へ?」

「寄りたいとこが出来た」


俺はボソリと言うと、車を止めさせる。

信二は俺の突然の指示に驚いたものの、どこへ行くのか確認することもなく俺の後姿を見送った。





胸の中がムカムカしていた。

だが原因は酒じゃない。

都合3杯ほどショットグラスでやったのだが、適量にはほど遠い。

ムカムカの原因はやはりあのジジイ共の所為だ。

こんな日は夢見が良くないと相場が決まっている。

普段はアルコールでジジイ共の記憶を洗い流すところなのだが、どうにも今日の俺の身体はアルコールを受け入れる気分ではないらしい。


夜の街を俺は歩いていく。

目指すのは駅前の雑居ビルだ。

たまたまこの近くを車で通ったのは運が良かったと言っていいだろう。

そうして5分ほど歩いて着いた駅前のビル。

そこで足を止めると、小さなビルの窓を見上げて確認した。

3階の明かりは点いている。

これが今から行く店が開いているかどうか確認する方法だった。

小さなビルの入り口の表示を見ると3階部分だけ空になっていて、その他はスナックの名前が書いている。

なので大抵の人間はここが空きテナントだと思っているだろう。

俺はエレベーターは使わず、一歩一歩階段を登って目的の店へと進む。

ガラっとした短い廊下には何も置かれておらず、味気のないドアには看板もかけられていない。

だが俺は気にせずドアの前まで進むと、そのままノブをガチャリと回した。


カランコロンとドアベルの鳴る音がした。

大きな音だが低い音なので、それほど邪魔な音ではない。

その音色が室内に溶け終わると同時に涼やかな声が俺の耳朶を打った。


「いらっしゃい」


そこにいたのは妙齢の女性だ。


「千鶴さん、すぐに行けるかな?」

「ええ、大丈夫ですよ」


切れ長の目がにこやかに笑う。

俺はそれに吸い寄せられるように彼女の下へと歩み寄っていった。

俺が脱いだジャケットを千鶴さんがハンガーにかける。

アルコールが入っているせいか、一枚脱いだだけで身体が少し軽くなった気がした。

部屋の中は畳が敷いているために、当然のように靴も脱ぐ。

するとさらにもう一段身体が軽くなった気がした。


「じゃあ、始めましょうか」


畳の上に置いてある座布団に正座になると千鶴さんは自分の膝をポンポンと叩いた。

これが施術の合図だ。

俺はそれを確認するとゴロンと転がり、彼女の膝の上に頭を乗せた。

こうして見ると何か性的なサービスを行う店のように見せるが、ここはそういう店じゃない。


いや、違うな……


「あら? どうされましたか?」

「いや、何でもないよ」

「そうですか」


俺の心の機微を感じ取ったのか、千鶴さんは首をかしいで見せる。

それを俺は笑って誤魔化した。

女性の年齢を聞くのは失礼なので聞いたことはないが、多分千鶴さんの年齢は俺よりも少し下。

恐らくは30代中盤といったところだろうか?

にも関わらず、どうにもこの人の前だと子供じみた真似をしていしまいたくなる。


「じゃあ、始めましょうか」


千鶴さんがもう一度言う。

俺はそれを首肯することで了承した。

そうこれから始まるのは性的なサービスではないものの、ある意味ではそれ以上に官能的な体験なのだ。


絹擦れの音がすると、千鶴さんの手の中には既に茶い棒のようなものが握られていた。

竹で出来たその棒は指で摘まむほどの細さで先端がさじのように広がっている。

それを膝の上で寝転ぶ俺の顔の前で構えると、そっと俺の耳の穴の中へと入り込んできた。


そう、これは耳かきだ。

俺は千鶴さんに耳かきをしてもらうためにこの店を訪れたのだ。


千鶴さんの耳かきは優しい手つきで俺の耳孔を撫で上げていく。

匙の先端は薄くなっていて、それが耳壁に触れる度にツーンとした痛みと、ゾクゾクとした快感が背筋を走る。

それも一度だけではない。

何度も何度もだ。

一度ずつ微妙に位置を変えながら、耳かきの先端が俺の弱い部分を刺激していく。


「今日もお疲れですね」

「分かりますか?」

「はい、身体が緊張してますから」


喋りながらも耳かきはせわしなく動き続ける。

こうしてグルリと一周耳の奥を刺激すると、今度は入口に向かい採掘作業を始めた。

ザクリとした感覚が耳の中に走り、それが匙の部分が垢を掘り起こしたことを教えてくれる。

掘り起こした耳垢はしっかりとさじくぼみに収まると、ゆるゆるとした動きで耳の外へと運ばれていく。

すると垢と一緒に身体の疲れも取れていくかのように、緊張していた全身の筋肉が緩んでいった。


「今日は会議があったんですよ」

「会議?」

「はい、会社の偉いさんが集まる定例会議で、ちょっとプレゼンをすることになりましてね」

「そうなんですね」

「ええ」


俺は嘘ではないが真実でもない内容をぼやかしながら口にする。

彼女は俺の職業など知らない。

あまり世間様に顔向けできる職業じゃないのは百も承知だし、聞いたとしても好い気はしないだろう。

だから言ったこともない。


「でも意外ですね」

「何がですか?」

「だって沢辺さんみたいな男気のあるが会社の会議で緊張したなんていうのだもの」


千鶴さんの明るい声が聞こえる。

今は膝枕されているので表情は見えないが、きっといたずらっ子のように笑っているのだろう。

こういう和む所も、俺がこの店を気に入っている理由の一つだ。


「俺は男気なんてありませんよ」

「あら、そうかしら?」

「ええ、そうですよ」


極道が、男気やら、任侠やらでやっていけたのは昔の話だ。

いや、昔にもあったのかさえ正直、疑わしく思うこともある。

ヤクザの語源は『八・九・三』

カブ賭博のクズ手から来た言葉だ。

役なしの役立たず。

それが俺たちの本質だ。

その証拠にどんなにイキがってもヤクザは警察には敵わない。

権力という意味でも、暴力という意味でもだ。

機動隊がフル装備して10人も詰め込まれれば、たいていの事務所は制圧出来るだろう。

弱い者いじめしながらイキがっているヤクザ稼業。

そう考えるとときおり虚しくなってくる。


「俺は男気なんてないんですよ……」


もう一度言う。

どうにもここに来ると油断して弱音をもらしてしまう。

千鶴さんは特に何も言わなかったのが、何故だろう。

俺を見て微笑んでいる気がした。


耳の中では相変わらずパリパリと子気味のいい音をたてながら耳かきが動き続けていた。

掘っては運び出し、運び出しては掘る。

その際に浅い匙が耳道を刺激する。

それはよく研いだ爪の先端でゆっくりと触れられているような感覚だ。

足の裏をゆっくりと掻かれるような、背中の届かない部分を掻きむしってくれるような、異様な快感だ。

そいつがゆっくりと耳の穴から全身に広がっていき、苛立った俺の心をなだらかにさせていく。

それは引いては寄せるさざ波のようだ。


カリカリという音が少しずつ脳に浸透していき、意識が少しずつ溶けていく。

いつも思うのだが、この店はBGMをつけていない。

だが、それが正解だ。

音楽など鳴らしてしまえば、せっかくのカリカリとバリバリが台無しになってしまう。


カリカリ――こびりついた耳垢の層が丁寧に剥がされていく。


バリバリ――固まった垢が耳かきで破砕されていく。


匙の中に溜まった垢が排出されていく。

疲れやら不安やらが取り除かれていく。


こうして耳垢が除去された耳に柔らかなものが捻じり込まれていく。

それは水鳥の羽で出来た梵天だ。

そいつが完全に耳の中に埋没すると、ゆっくりと回転しながら細かい耳垢の滓(かす)を拭い取っていく。

一回転と半分。

クルリと回り終えると梵天は入るときよりもゆっくり抜き出されていった。


「はい、終わりましたよ」


千鶴さんの声が聞こえる。


「逆の方もしましょうか」


いつもと同じ優し気な声だ。

俺は千鶴さんの声に短く返事をすると、ゴロリと転がり逆の耳を向けた。





階段を降りた俺は外に出ると、もう一度3階の窓を見上げた。

そこには暖色系の蛍光灯の光が確かに灯っている。

身体の中には先ほどの恍惚感が色濃く残っており、足元が少しふわふわする。


「さぁ、帰ろうか」


誰も待ってはいない我が家ではあるが、今日はこのまま帰って寝よう。

手早くシャワーを浴びて、そのままベッドの上で横になるのだ。

この感覚を酒で汚すのは勿体ない。

得体の知れない満足感を胸に、俺はタクシー乗り場へと足を急がせた。


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