凋落

lampsprout

凋落

 ――ごとり、と何かが落ちた音がした。


 フリルの可愛らしいパジャマを着た、茶色いくせっ毛の少女が、不思議そうに天井を見上げた。久し振りに訪れている祖母の家は、歴史の古い洋館で、天井がとても高かった。お洒落なテーブルセットの並ぶダイニングには、ランプに照らされるアンティークの食器棚と飾り棚が一つずつ。部屋を見渡した少女は、ガラス戸の光る飾り棚の方へ視線を向けた。

 ととと、と駆け寄り、彫刻の綺麗な棚を覗けば、落ちてきていたのは一体のお人形。

 天井近く、一番上の段の右端に、ちょうどお人形くらいの隙間があった。お人形はそこから落ちたようだった。少女は背伸びをしてガラス戸を開けると、しげしげとそのお人形を値踏みした。

 豊かに波打つブロンドに、濃緑のレースに飾られたドレス。小さな足には、やはり小さく黒いエナメルのパンプス。何より可愛らしいのは、白磁の肌と大きな碧眼。うっすら埃を被ったそれらは、それでも細かな意匠が美しかった。

 いつの間にかやってきていた祖母が、どうしたの、と覗き込む。

 ねえ、このお人形、私のにしてもいいかしら。

 少女は祖母にそう言って、少し古びたお人形を手に取った。数十年忘れ去られた美しいアンティーク人形は、そうして少女のものになった。


 その人形は、随分昔に祖母の曾祖母が買ったものだった。高価で美しい装飾品として買われたお人形は、それから一度も誰かに抱かれることなく戸棚に座っていた。

 貴女はずっと私のものよ。ずっと大事にしてあげる。

 少女は毎日お人形の服を着せ替えて、おままごとをした。毎日お人形をベッドに連れて行き、眠たくなるまでお喋りをした。時折夜更しをしすぎて、母親に叱られるほどだった。

 大好きよ、ずっと大事にするからね。

 ふわふわのドレスを着た少女は、お人形を見詰めて眩しく微笑んだ。日毎丁寧に手入れをされたお人形は、以前から見違えるように綺麗になっていった。



 ◇◇◇◇



 ――いつしか少女は新しい人形を貰い、あのお人形のことを忘れていった。綺麗な洋服を着せ替えることも、ベッドで一緒に眠ることも無くなった。お人形は、毎日じっと戸棚で待っていた。

 ご飯よ、と呼ぶ母の声に、少女は元気よく返事をして走っていく。その手には、真新しい着せ替え人形が抱かれていた。

 寂しいお人形は戸棚の奥に仕舞われて、独り少女の笑い声を聞いていた。



 ◇◇◇◇



 いっそ道端に打ち捨てて壊してくれたなら、虚しさも寂しさも感じなくなるのに。貴女を喪ってから、部品の調子が狂って気分が悪い。

 ……どうか、完膚なきまでに棄ててほしい。こんな場所に仕舞い込んで、だから馬鹿みたいな希望を捨てられない。もう一度貴女に見詰められる瞬間を夢見ては、埃まみれの自分に絶望するの。



 ◇◇◇◇



 少女はやがて大人になり、仕事で家を出ていった。中学高校の卒業式、クリスマス、少女の誕生日。何かの節目ごとに膨らんだお人形の期待が報われることは遂に無かった。

 荷造りを手伝った母親は、見つけたお人形を祖母の家へ連れ帰った。少女に忘れられたお人形はまたしても、美しい飾り棚に戻された。



 ◇◇◇◇



 もう一度貴女の腕に抱かれるのなら、私は壊れても構わない。……私を壊すためでもいいから、貴女の手で触れられたい。

 ……貴女が新しい娘と幸せならばそれでいいから。私なんかのように汚く醜い人形は、貴女がもう要らないというならば消え去るから。……私が貴女の期待に応えられなかったのが悪いんだもの。



 ◇◇◇◇



 ――暫くすると少女の祖母が亡くなって、あの洋館は空き家になった。広い広い館には、少しずつ埃が積もっていった。旧びた飾り棚の奥深く仕舞い込まれたお人形にも、埃は平等に降り注ぎ、豪奢なレースは煤けていった。



 ◇◇◇◇



 叶わないことを願い続けるのが一番辛いの。戸棚の隅で、誰にも触れられず眠っていた頃のほうが楽だった。……貴女なんか、知らないほうが苦しくなかった。一度得たものを喪うほどに虚しいものはどこにもなくて。

 ……お願いだから、要らないならはっきり毀してほしい。破滅が私への罰ならば、甘んじて総てを呑み込むわ。



 ◇◇◇◇



 幾年月が流れたころ、一人の女性が寂れた洋館を訪れた。嘗て少女だった女性は、祖母の持ち物を整理するためにやってきた。天井の高いダイニングで飾り棚を覗けば、奥深くに旧びたお人形。女性はちらりと目を遣って、すぐに掃除に取り掛かった。

 蜘蛛の巣が張ったダイニングを一通り清め終え、女性は飾り棚のガラス戸を布で磨き始めた。そうして腰を屈め、下段を磨こうとしていたとき。


 ――ごとり、と何かが落ちた音がした。


 棚から落ちてきたのは、旧い旧いお人形。戸棚の奥深くに押し込まれていたはずのお人形。それが、半開きのガラス戸からはみ出して、女性の肩口に凭れかかっていた。今も尚美しい碧玉の瞳が女性を射抜く。それは寒気がするほど麗しかった。

 ひっ、と女性が息を呑み、身体を僅かに震わせた途端。

 がたん、とお人形は床に落ち、手足がばらばらに飛び散った。見事な出来栄えの球体関節が、ひとつひとつ砕け散っていく。艶やかだった濃緑色のドレスが、跡形もなく裁断される。眼前に広がる惨状に、女性は声にならない悲鳴を上げた。


 ――どうして、どうして。

 刹那、年若い少女の泣き声が幽かに響き渡った。頭部から零れ落ちた碧い瞳が、涙のように床で瞬く。

 呆然とする女性の耳に聞こえたのは、酷く寂しげな囁き声。


 ――ありがとう、さようなら。

 無惨に壊れたお人形。その口元は、変わらず淑やかに微笑んでいた。

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