老医者はぶつぶつと呪文を唱えながらうつぶせのケンの腰をさわって確かめた。


「お、だいぶ良くなってる。いつもの塗り薬、配合を軽めにしよう」


 そういってメモ板に書きとめると控えていた娘が受け取った。ざっと目を通して診察室を出る。青く深い目が光り、仕事用にまとめたわら色の髪がゆれていた。


「ありがとうございます。助かりました。あれ、よく効くんですが塗ってしばらくは人前に出られないから」

「はは、そりゃそうだ。口にするのもおぞましいものをさらに発酵させてるからな」


 笑いじわをさらに深く刻んでお茶をだしてくれた。


「それで、今日は腰の確認だけじゃないんでしょ?」

「はい。娘さんとお話させていただけないでしょうか。もちろん、先生も同席で」

「まあ、『尾上』さんはいつもそういうが、あいつが嫌がるから。『二人で話しなさい』」

「ありがとうございます。『日本』語、お上手になりましたね。あ、奥様は?」

「お世辞はいいよ。あいつは買い出し。たぶん夕方まで帰ってこない」


 地下室が調合室兼実験室になっている。扉の掛け金を下ろすと静寂の封印が作動する。特別な呪文を唱えるので妙な魔物を寄せ付けないための用心だが、こうして話をするときにも役に立つ。


『ひさしぶり。また活躍したんだって? 「コームイン殿」』

『からかうのはなし。あんまり長くいられないから。今日は』


 ごりごりと、あまり見たくないものをすりつぶす音がする。


『あら、なにかご用?』

『姫様、妹の方、にお茶に誘われた』

『いいじゃない。優雅で』


 ごりっ。


『ま、それはいいとして、尾上クンはなにか進展あった?』

『あ、過去の記録当たってみたけど、先輩の考え、大体当たってました。創造主が申請を受け付けるのは平均して年に十回ほど、ただしそう決まってるっていうのでもないみたい。それと、無茶な願いはだめ、却下されるし、却下も回数に入る』

『先輩ねぇ……。で、無茶って? 具体的には?』

『永遠の命とか、どんな戦いにも勝てるとか、毎年豊作とか、平和がとこしえに続く、とかですね。つまりふつうの国家で法律として制定できないとか、守らせられないような内容や、先例と矛盾すると創造主は受け付けない』

『そっか、じゃ、あたしたちを帰してってのはだめなんだ』

『それに、だれでもってわけじゃないんです。さっきとおなじで、法を制定して守らせられるだけの力ある立場でないといけません。そういうのをハンコが保証するわけです。それと、ぼくの場合はスーツが』


 先輩はふう、と息をついた。仕事着は汚染を防ぐ加工のためくすんだ茶色と灰色ですっぱい臭いがする。生地もごわごわした感じだった。

 なにか入れてまたすりつぶす。その手は白かった。姿はまったく違うのに、部活の後片付けで道具を洗っている先輩を思い出した。


『手伝いましょうか。野々宮先輩』

『だめ。これはただすりつぶしてるんじゃないから。だいなしになっちゃう。ああ、でもそうやって日本語で名前呼ばれると部活思い出すな』


 なにか液体を加えた。塗り薬になっていく。かすかにおぞましい臭いがただよった。


『先輩のほうは? 超自然は「ミィソノー」さんにまかせますよ』

『美園! いいえ、ほとんど。なんでこんな世界に来たのか。尾上クンは身体ごとでわたしは心だけだったのはなぜか。そして、戻れるのかどうか。なにもわかんない』

『でも、あの爆発がきっかけなのはまちがいないでしょう。ここ、あの世なのかな』

『あの爆発だとして、同時にここに来なかったのはなぜ? あたしはここで生まれて、十二、三歳くらいの時に自分のことを思い出しはじめた。父さん母さんはそんなあたしを受け入れてくれたけど』

『医者のところでよかったですね。冷静で頭がいいから助かった』

『そうね。そこは感謝しかないな。名前まで変えてくれたし。で、あたしが十九の時、あなたがあらわれた。大さわぎだったのよ。城も街も』


 重さをはかり、仕上がった塗り薬を密封容器に詰める。真っ白な指がひらめく。爪は短くしているが、保護剤を塗っているのかなめらかな質感になっていた。自分のインクまみれの指や爪とは大違いだと思った。


『「ケン・オノウェ・コームイン」って名前が伝わってきてびっくりしたんだから。まさか尾上健クン!って。公務員試験受かったって聞いてたから。あたしのこと知らせるの苦労したのよ』

『こっちだって先輩のこと聞いたときはびっくりしましたよ。で、名前は、あの時言葉がまだよくわかってなくて、質問を勘違いしちゃったんです。自分の名前と仕事のことを話したら、そういう名だって思われて。面倒だからそのままです。もう十年か』


 見ていると、容器をさらに密封袋に入れた。配合、軽めじゃなかったっけ?


『そう……、おたがい大変なことに巻き込まれちゃったね』


『あの、やっぱりぼくら、あの爆発で……』


『いわないで。でも、それが一番ありそう。ここ、ほんとにあの世なのかな』


『それにしちゃ、俗っぽいですけど』

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