第9話

 湖水のほとり  2


 白樺の林を通り抜け、湖水にそそぐ小川の丸木橋をわたり、隈笹くまざさで覆われた小径をどんどん登っていくと丘の中腹に出ました。そこには幾軒かの聚落しゅうらくが見られます。中腹のはずれ、湖水を望む高台のところに白樺の丸木づくりのきれいな家屋がありました。健太は、その家を目に留めると一瞬かすかな動悸を覚えました。「あそこに、お母さんがいる。」その思いが、健太の頭にさっとよぎったからです。


 「さあ、お家に着いた。」

 お父さんが、そう言って玄関の引き戸を開けました。そして、

 「お母さん、健太が帰って来たよ。」と大きな声で言いました。


 お母さんは、薄紫の上下の部屋着を着て、囲炉裏のそばの丸い椅子に腰をおろして縫物をしていました。それは、お父さんの服を繕っていたのです。左の手でお父さんの服をかかえ、右手の指に小針をもって、お母さんは何か物思いにふけっていたようです。でも、お母さんは、何と美しい姿だったでしょう。それは、健太が、これまでに何度も想い描いた写真のお母さんと同じく美しいお母さんでした。


 お母さんは、お父さんの声を耳にすると、ふと顔をあげました。そして、引き戸の方に顔を向け、いくぶん眩しそうにお父さんを見ると頷いて美しく微笑みました。そして、やさしい声で、

 「お帰りなさい。」

 と言いました。それから手にしていたお父さんの服と小針をそっとそばの台に置いて立ち上がりました。お母さんは、その時、健太がそばにいることにまだ気づいていなかったのです。でも、お父さんがもう一度、

 「お母さん、健太だよ、健太が帰ってきたんだよ。」

と言うと、お母さんは初めて健太の方を向きました。そして見る見る目を大きく開いて立ちすくみ、最後に、

 「健太!」

 と大きな声で叫びました。それから、健太のそばに駆け寄り健太をひっしと抱きしめました。


 ああ、それは、何とやさしく懐かしく、甘いお母さんの匂いだったでしょう。健太は、お母さんのやわらかな腕の中で、いつまでもいつまでも抱かれたままでいました。

 その夜、健太の家では、健太の無事帰還を祝って近所の人たちが集まりました。大人たちも子供たちも、みんな、健太のそばに寄って来ます。「よかった、よかった、無事でよかった。」と、言いながら。


 やがてお父さんが立ち上がってみんなに挨拶をします。

 「皆さん、今夜はよく来てくれました。健太が無事帰ってきてこんなにうれしいことはないです。皆さん、今夜は、ゆっくりゆっくりしていってください。」

 そう言って、お父さんは、みんなにお酒を注いでまわります。大人たちとは別に、丸いテーブルを囲んだ五人の子供たちの前には、お母さんが作った美味しそうな幾種類ものお菓子が添えられています。子供たちは、そのお菓子をてんでに手に取って美味しそうに口にしています。


 室内には、ランプの灯りがみんなの顔をぼうっと照らしています。健太は、お父さんの顔とお母さんの顔とみんなの顔とを見つめながら、遠い昔、今夜のようなお祝いの日があったことをかすかに憶えました。しかし、それが、いつの日のことであったのか、健太にはどうしても思い出すことができませんでした。

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