閑話
長と怪鳥
夜の中に殊更昏き闇があった。人喰いの獣の行方を探る長は、ふとその暗がりに目を留めた。人間の癖に勘が良いと、鳥は笑った。
「よう人間、此処に棲んでいる筈の獣を知らないか?」
長は三度瞬きを落とし、腰元の矢尻に手を触れながら首を振った。
「おるにはおる筈やけども、あれ以来姿を見せん」
谷底へ落ちる場面が長の脳裏を過る。鳥は長の素振りを眺め回して、そうか、と独り言のように呟いた。
翼を広げ、立ち去ろうとした黒き鳥を、長は静かに呼び止めた。
「お前は人喰いの化け物やないんか。そうなんやったら、何処かの誰かのためには仕留めるべきでな。的がずれるから、其処にいろ」
随分な物言いに、鳥は瞬時驚いた。次いで哄笑を響き渡らせ、その渦の中心にいる長は、静かな動きで矢を抜いた。
放たれた一撃は黒い嘴が噛み潰した。長の瞠目の間に鳥は羽搏き、着地と同時に姿形を変化させた。
鴉ほどの大きさになった怪鳥を、長は怪訝そうに見下ろした。
「なんや、殺しやすくしたんか?」
「莫迦言えよ、避けやすくしたんだ。束になったなら兎も角、たった一人でオレ達みてえな異形に勝てるわけがないだろうが。見付けたことは称賛物だとしてもそれだけだ、どれかといえば窮地を嘆く状況だろう」
「化け物の癖によう喋る……」
「あいつは口下手だったろ、話し合いも何もないくらいには」
長は溜め息を吐き、弓の弦を引っ張った。ばちんと音を立てて肩へと固定し、鳥と目線を合わせるよう、雑草の上に正座した。
「あの化け物の、友人か?」
冷えた問い掛けに、鳥は首を横に振る。
「知り合いではあるぜ。喧嘩を何度かした」
「血気盛んで可愛らしいこと。……ほな喧嘩友達か。悪いけども、そいつは先日谷底に突き落としてな。妻と子供諸共落ちてもろたんやけど、その二人は兎も角、化け物があのぐらいで死ぬとは思わん。出ても来んけどな。何を考えて出て来んのか、さっぱりわからん」
「出て来ねえなら、良いだろうに」
「村人が報復を怖がってもうてなあ。迂闊やったわ、どうにか首くらい、持ち帰るべきやった」
「血気盛んな女だな、可愛らしいねえ」
明らかな揶揄に対し、長は緩く目を細めるに留めた。意外な返しに、鳥は多少、驚いた。
長はかすかに笑いを漏らして、張っていた背筋の力を抜いた。
「お前くらい冗談の通じる化け物やったら、苦労もせんかったかもな」
それはどうだろうかと、鳥は胸中で呟いた。異形とは結局摂理の話だ。人のみの繁栄を良しとしない、遥か上での決定に相違ない。
だが変わるだろうと鳥は思う。どのような変化を辿るかまでは考えなかったが、人と異形は冗談を通じての交流どころか、単純な話し合いも難しいだろうなとは、考えた。
「……あいつは多分、二度と村には来ないだろう」
鳥は数歩進み、すぐ傍から長を見上げる。
「だからお前達も、山深い場所は避ければいい。オレ達はお前達よりも遥かに長命だから、それを後代にも伝えて徹底しておけば、化け物に喰われる被害自体は、減るだろうさ。そのうちにあいつも死ぬだろう。役目を果たさないんなら、いる意味はないに等しいからな」
翼を広げ、長の目の前でまた変化する。闇から生まれ落ちたような鳥の異形を前にして、長は冷静そのものだった。
「私を食うか?」
「食わねえよ」
「闇色の鳥か……異形は黒ばかりやな」
「人も黒髪ばかりだろう」
「……そうか、そうやな。せやったら、あの異形が人の女に惚れた理由も、わかる気がするわ」
鳥は一声笑ってから羽搏いた。自身を見上げる長と視線を交わし、それを別れの区切りとして飛び上がる。
地上の山々を見下ろしながら旧友を探すも見付からず、どちらにしろ暫しの平定は望めるだろうとひとり呟き、炎の森を目指して去った。
一人残された長は、一先ず鳥の言うように山深くへの立ち入りを禁じようと決めた。
それらは上手くいき、長の家はさらなる飛躍を遂げて、村人達に信頼された。山奥の集落はいつの間にか潰れていた。化け物はあれ以来一度も姿を見せず、牧歌的な安寧を、長は守り続けて生きていった。
死ぬ間際に、終ぞ誰にも言い出せなかった一抹の不安を取り出した。異形の子だ。万が一生きているのであればいずれ報復に来るだろうと、自身の死後を懸念した。
寓話の形で、異形の子についてしたためた。異形と人の間に生まれた子供。娘は死に、異形は姿を見せなくなったが、その子供が復讐に来る寓話を作った。
寓話の形ではあるが、長の予想する未来が書き出されたもので、大凡は当たっていた。長の子孫である男が先導し、異形を再び追い返すが殺しはせず、和解に至るという内容だった。黒い鳥との会話により、相互理解は不可能ではないと感じたゆえの結末だった。
長の死後、次期長となった息子を中心に話し合われ、寓話の中身は変更された。皆は異形を恐れており、和解など出来るはずもないと意見が一致した。それ故の避けられない改変だった。
異形の子については暈された。当たり障りのない、子供に聞かせられる童話として手を加えられ、口頭で伝わるうちに形はどんどんと変化した。
村人を先導、誘発出来るほど優れた子孫が生まれるのは更に後になる。
春先に生まれた男児は春之介と名付けられた。
産声すら上げないほど、酷く据わった赤ん坊だったという。
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