7
あの長は頭が切れるのだろう。クロさんと深冬さんを声や足音で誘導し、崖の方向へと追いやったのだ。深冬さんが朔に追い付いて抱き上げたのは、あと一歩で崖の下という位置だった。
クロさんは足を引き摺りながら、二人のそばまで寄っていく。
「深冬、背中に……」
クロさんが促すも、深冬さんは首を振る。
「私は、殺されへんと思う」
「……でも、あの長の話は、信用できないから」
「ううん……違うんよ」
深冬さんは目を伏せた。朔に噛まれた腕を擦ってから、人型になっている朔を抱き直した。それからゆっくり、瞼を開けた。
「私、はじめは、長の
しっかりとした声だった。絶句するクロさんに向かって、深冬さんは今までのことを話し始めた。
急に現れたクロさんに花を渡されて、怖くて従った。長に相談すると、そのまま会い続ければ村のためになると言われた。最初こそ怖かったが、何もしてこず不器用なクロさんに、情が湧いた。
一緒に山を降りてほしいと頼んだ日は、これ以上クロさんを騙せないと、長に相談した日だった。長はわかったと言ったが、他の村人たちは、人を食い殺していたクロさんを許さなかった。
「せやから、ほんまはクロさんに、守ってもらえるような人間やないんよ。でも今はあなたが大事や。お願いクロさん、私と朔は平気やから、クロさんだけ逃げてほしい。どっちに行ったかは、絶対に、絶対に言わんから……」
「いやだ」
クロさんは即答した。
「はじめは騙してたとか、別に、いいんだ。おれは、二人とこの先も、一緒にいる。だから、行こう、どこへでも」
深冬さんは大きな涙をこぼした。それは朔の頬に当たり、雨粒のように弾けた。朔は驚いたらしく泣き出して、獣の姿に変わったが、深冬さんが体を撫でると泣き声は引っ込めた。深冬さんとクロさんは、顔を見合わせて笑った。その直後だった。
弦の鳴る音を私も聞いた。深冬さんの肩に、矢が一本、突き刺さっていた。
「深冬」
クロさんの見ている前で、深冬さんの上体が揺らいだ。咄嗟に着物を噛んで支えるが、視界がぐらりと揺れた。振り向くと、槌を持った村人がいた。その背後には弓矢や斧を構えた他の村人と、長の姿があった。
「その赤ん坊、すぐ化け物になるんなら制御でけんわ。せやったら悪いけど、一緒に落ちてもろた方がええ。騙してすまんな」
長は冷静な声で言い、村人に指示を飛ばした。クロさんは槌や斧で何度も叩かれるが、それでも耐えた。口を離せば、深冬さんも朔も、落ちてしまう。
ふっと深冬さんが視線を上げた。クロさんと目を合わせ、困ったように笑った。抱いた朔を両手で抱え直しながら、勢いよく、身を捻った。嫌な音を立てながら、着物が破けた。
「クロさん、朔は守るから」
着物が破け切る手前に、深冬さんはそう言った。崖下へと落ちる姿がはっきり見えた。クロさんは彼女の名前を叫んだ。その後に強く押されて、クロさんも崖に落ちていった。
「深冬を想うなら大人しくしてろや、この先も」
長が崖下に投げた台詞は耳に残った。
落ちながらあちこちをぶつけ、視界が一旦、ここで途切れた。
崖は深く、下は岩場で、人が落ちればひとたまりもないことはわかっていた。
目覚めたクロさんが初めに見たのは、深冬さんの遺体だ。首が折れて、明後日を向いていた。その周りには血が広がっており、死んでいると一目でわかった。
クロさんも無事ではなく、這いずるように動くのがやっとだった。それでもどうにか血溜まりに辿り着くと、泣き声がした。
深冬さんの腕の中にいる朔は、生きていた。余程強く抱き締めたのか、朔の肩には、深冬さんの爪と指が食い込んでいた。
クロさんはしばらくの間、血溜まりの中に伏せていた。辺りは夜になってゆき、朔の泣き声がふっと途切れて、クロさんはゆっくりと顔を上げた。
じわじわ弱っていく朔を、クロさんは口に咥えて抱き上げた。深冬さんの指は中々離れず、朔はまた泣き叫び、クロさんの視界が、水の中のようにぼやけた。
「深冬、ごめん、おれはただの、化け物だ……」
クロさんは朔を離し、深冬さんの遺体に噛み付いた。朔を拘束する腕を喰い千切り、飲み込んでから、今度こそ朔を抱き上げた。
遺体のそばに下ろされた朔は、クロさんを黙って見上げていた。クロさんが深冬さんの足を齧ると、倣うように、隣へと噛み付いた。彼女は死んでいるが、事切れる直前の悔恨が残っているらしく、朔は嬉しそうに喉を鳴らした。
咀嚼音はしばらく続いた。遺体は跡形もなく腹へと納められ、クロさんは一度大きく吠えた。朔も隣で声を上げ、クロさんが宥めるように頭を舐めると、驚いて身震いした。
「朔。おれも、お前も、もう朔じゃないし、クロさんでも、ない。名前のない化け物だ。……おれは何が正しかったのか、わからない。深冬を利用した村が、憎い。でもおれは、本当は、そんなことを思わない方が、よかったんだ。おれは……おれはきっと、成長したお前に、本当のことも、言えない。生き延びるために母さんを、一緒に食ったんだなんて、言えるわけがない、けど、……深冬の分まで、おれはお前を、育てるよ」
言葉を理解できない朔は、じっと黙っていた。クロさんは足を引きずり、行こう、と短く呟いた。
歩き出した姿に反応したらしい朔は、……いや、不知火は、岩場を登り始めたクロさんのあとを、懸命に追った。
視点が離れたらしく、私はそれ以上二人の姿を追えなかった。岩場に残った血溜まりの黒さだけが、不知火の知らない過去を示しながら、そこにいた。
視界がゆっくり、滲んでいった。
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