6
クロさんは不知火のように匂いを辿る。行き先はやはり、私の故郷になった。山の異形の来襲は当然予期していたらしく、村の周りには柵が作られていた。
クロさんは物陰に隠れた。何をするのかと思ったが、不意に視界が変わって、驚いた。どうも、人の形になったらしい。
視界の中に人間の掌が映り込む。握って、開いて、動きを確かめてから、下ろした。
村の入り口に位置する所へと向かった。見張りの村人が立っていたが、クロさんを見ると、山奥の集落から来たのかと先に聞いた。クロさんは頷いた。村の中には難なく入れて、彼は辺りを見回し、深冬さんの匂いを探した。
その間に、誰かが話し掛けてきた。
「こんにちは、集落から逃げて来はったんですか?」
柔らかい、女性の声だった。クロさんは振り向き、どうも、と小さな声で言ってから、頷いた。声をかけてきた相手がどのような人間か私にはわかった。よくわかった。
母親でなければ当然父親でもなく、もっと過去の人間だろうが、これは確実に私の家系の女だった。
顔立ちが、私や父親によく似た雰囲気だ。
「村の長という立場の者です、初めまして」
「あ、ええと、どうも……」
「そんなに緊張せんでもええですよ。集落から来はったんなら、この村に移り住む目的ですよね?」
「いや、その、……いずれは、考えてるけど、今日は少し、どんな村か見たくて……」
長は口元だけで笑い、狭い所ですよ、とまず言った。
「特別見てもらえる場所があるかはわからんけど、移り住まはるんやったら知ってもろた方がええことも多いんです。なにぶん、この村にも掟やら何やら、ありますから。灰団子やったかしら、ああいう文化がうちにもあるもので」
「ああ、それは……」
「先に説明したほうがええかも知れませんね。良ければ、私の家にどうぞ」
クロさんが返事をする前に、長は家を視線で指し示した。私の家があった位置だが、家の外観は違っている。クロさんは迷ったようだが結局は頷いた。深冬さんの匂いがしたからだと、記憶を見ているだけでも、わかった。
長の家は静かだった。内装は、私の家とさほど変わらない。独り身なのか、連れ合いの姿は見当たらない。父母も住んではいないようで尚更静かだが、人の気配自体はある。恐らく、深冬さんだ。
クロさんと長は、囲炉裏を挟んで向かい合った。何から切り出すのだろうかと思ったが、先に長が口を開いた。
「お名前、聞いても?」
クロさんは言い淀んだ。不知火が前に、名前をつける習性はないと話していたと思い出す。クロさんとは、やはり深冬さんがつけたあだ名なのだろう。
彼は口籠りながらも、クロだと、一応名乗った。長は目を細め、火掻き棒で囲炉裏の灰を無造作に掻き回した。
「それやったら、失礼にならんな。良かったわ」
返事は待たれなかった。長は引き抜いた火掻き棒を、クロさんの左足に突き刺した。
クロさんは痛みに呻き、板に腕をついた。爪が生え伸び、黒い殻が盛り上がっていた。
そのまま全身を変化させたらしく視界の高さが変わった。視線の先にいる長は、異様なほど冷静な顔のまま、刺した火掻き棒を引き抜いた。
「深冬、いてますよ」
クロさんが襲いかかった瞬間に長は言った。攻撃の手は止まり、クロさんは困惑しながらも、腕を下ろした。長は口の端を僅かに上げた。
「荷物もなく、裸足のまま、擦り傷も何もなくあの山奥から降りて来られる人間はおれへんやろうと思うて疑ったんやけど、あたりで良かった。深冬が、あなたをクロさんと呼んでいるらしいことは知ってましたしね」
「……、深冬、は、無事なのか」
「ええ。迎えに来たんやったら、どうぞ連れて行ってください」
「……いいのか?」
長は笑い、立ち上がる。
「そんなわけないやろ、阿呆なんか」
奥の襖が勢い良く開いた。朔を抱いた深冬さんがまず見えた。その後ろには弓を構えた村人と、大振りの木槌を持った村人がいた。
深冬さんは明らかに、盾と人質にされている。しかし、表情に恐怖や不安の色はない。クロさんを見て、嬉しそうにする程だ。
朔が胸元に縋りつき、じゃれつくように肌を噛んでいるせいだった。
それで余計に、クロさんはなにも出来ないでいる。
「深冬……」
「クロさん、勝手に出てきてごめんな。せやけど私、村に戻ってもええらしいよ。帰ってから、話をしようとしてたんやけど……」
深冬さんは困ったように笑い、朔の背中をあやすように撫でる。クロさんは身動ぎもしないまま、長へと視線を移した。
「言うときますけど、そのつもりはありますよ」
長は火掻き棒を囲炉裏に戻しつつ口を開いた。
「なんせ、あの腕の中の子……あなたの子供なんやろう? ほな、村にいてもろて、村の警護やらしてもらうには、最適や。妙な力もあるみたいやしなあ」
「……信じろ、って?」
「人を食い殺す化け物に成り果てるより遥かにええやろ。あなたは私の夫を食い殺した仇なんや、それを思えばかなり譲歩しとるわ」
「…………それは」
「化け物の言い分はどうでもええ。何やったら、深冬と子供は要るけどもあなたは要らんから、死んでもろたほうがええんや」
「長、それやったら聞いてた話と違います」
深冬さんが割り込んだ。その瞬間に長は深冬さんを睨み付け、クロさんは板の間を蹴り上げ走り出した。
真っ直ぐに飛んでくる弓矢が見えた。クロさんは避けながら、深冬さんの着物を噛んで背中へと放り投げる。それからまた、方向を変えて走った。
入り口の戸を蹴破り飛び出すと、あちこちで悲鳴が上がった。後ろからは、弓矢がいくつも飛んできた。がくりと視界が下がり、クロさんはよろけた。後ろ足に弓矢が一本、突き刺さっていた。火掻き棒を刺された足左を狙われていた。
「深冬と夫婦になってからあいつは人を食わん、追い掛けろ!」
長の号令が聞こえた。クロさんはよろけながらもまた走り、どうにか山へと入り込んだ。しかし足がやられ、深冬さんは朔がいるために片腕でしか掴まれず、早くは動けない。それでもクロさんは走った。時折追手の声がして、その度に方向を変えていった。
不意に背中から、深冬さんの涙声が聞こえた。
「クロさん、ごめん、ごめんな、なんでやろう、私、もっと不安になったり、疑ったりせな、あかんかったのに」
「いい、いいんだ、深冬。その理由、おれは薄々、気付いてた……」
クロさんは、朔の好物を嗅ぎ取り始めていたらしい。
「だから、……おれももう、決めたよ。このまま、山を降りよう。それからゆっくり話をして……静かに暮らせるところ、探そう。おれは、人の姿になれるから、人里でも」
「朔!!」
唐突な叫び声に足が止まった。深冬さんは更に叫び、クロさんの背中からどさりと落ちた。斜面を数回転がり、仰向けになった時に、何が起こったかはわかった。
朔は深冬さんの腕を齧っていた。姿は獣に変わっていて、随分と怯えた様子だった。
二人を追ってきた村人の声が聞こえた。クロさんは朔を引き離そうとしたが、朔のほうが怖がって勝手に離れた。這いずるように木々の間を逃げ始め、深冬さんは傷口を抑えながら、朔を追い掛けた。
その先は崖だった。私は不知火の肩にあった傷口を、いやでも思い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます