5
「おれは、山を離れることは、できない」
クロさんがはっきりと告げた。深冬さんは表情を歪めて、なぜだと聞き返した。穴倉の中には、少しの静寂が訪れた。
「……うまく、言えないんだけど」
そのうちにクロさんが、辿るような口調で、話し始めた。
「この辺りを、なんというか、それなりに調整するのが、おれのいる意味……みたいなもの、なんだ。山とか、森とか、湖とかに、おれみたいなやつが、それなりにいる。いなきゃいけないから、いる、んだと思う。それでおれは、この山々の中で、色々……深冬には、あんまりわからないようなことを、色々、やらないといけない。だから、もう村にも戻らないんなら、山の向こうまで送っていく。でも、もしおれと、一緒にいてくれるなら、いてほしい、とは、思ってる……」
深冬さんはぽかんとした表情のまま、しばらく黙っていた。やがて首を縦に振り、クロさんの前足に身を寄せた。しっかりと抱き着いて、クロさんのそばにいると、強い声で言った。
クロさんは照れつつ困っていたが、深冬さんの顔や着物についた泥を舐め取り、宥めようとした。深冬さんは違う意味に捉えたらしく、着物の帯を自ら緩め、進んでクロさんに迫った。クロさんははじめこそ当惑していたが、意図を嗅ぎ取った後は、早かった。
二人は夜を過ごした。それからは、ずっとそばにいた。深冬さんの腹は膨らんで、クロさんは甲斐甲斐しく世話をした。そこで一度、記憶が途切れた。
視界が開けると同時に、赤ん坊の声が聞こえた。深冬さんは人の形の赤子を抱きながら、戸惑い気味のクロさんに、名前をつけると言った。
私が不知火と呼ぶ彼は、深冬さんには
「朔って、始まりの意味があるんやって。クロさんの種族と人間の間の子供、初めてかも知れへんやろ。困ることも多いかも知れんけど、初めてなんやから気にせんでええよって、私は思うから」
クロさんは唸り、恐る恐る不知火、いや、朔の顔に舌先を這わせた。朔は驚いたのか泣き出した。人の形だった全身が、みるみるうちに黒い獣へと変化した。
「クロさん、脅かしたらあかんやん」
「す、すまん……」
深冬さんは朔の背を叩いてあやし、それでも泣き止まないので乳を飲ませた。朔は吸っているうちに落ち着いて、人の形になった。深冬さんの腕の中で眠り始めた姿は可愛らしく、不知火の面影が、ちゃんと感じられた。
「私、ほんまにクロさんの所におって平気やろうかって考えたこともあるんよ。村には親も兄弟もいて、後悔した日も、正直に言えば、あったよ。もっと上手くやれたかも知れへんって悔やんだりもした。せやけど、こうやって朔の世話してると、そういう不安が綺麗になくなっていくから、子はかすがいって、ほんまかも知れへんね」
クロさんはぐるぐると喉を鳴らし、そうかも知れないと、同調した。私はできなかった。深冬さんとクロさんは気付いていなかったのかと、驚いた。
恐らく朔は、深冬さんに生じる悔恨を母乳ごと吸っている。
「でもな、おれはやっぱり、村に戻った方がいいんじゃないかとも、思うよ」
クロさんが言うと、深冬さんは苦笑した。
「なんや、またその話なん? 何回も言うてるけど、この子はほら、泣くとクロさんの形になるし、村には行かれへんよ」
「今すぐじゃなくても、子供が、見た目を使い分けられるように、なってからでもさ」
「もう、そんなに心配なん?」
「心配だよ、おれは、二人が大事だから……」
段々と小声になっていくクロさんを見て、深冬さんは破顔した。つられたように朔も笑い声を上げ、薄暗い穴倉の中は明るさで満ちた。
私はこの先を知っている。クロさんと深冬さん、それに朔がどうなってゆくのか、知ってしまっている。
だからじわじわ不安になっていた。そして、朔が生まれて二ヶ月も経っていない時に、一つの終わりが始まった。
山の中に、大きく黒い鳥が現れた。一瞬巽かと思ったが、話し始めた声は男の低さで、嘴も目も、黒かった。
「よう、すっかり日和ってるんだな、山神様」
鳥は皮肉げに言い、大きな木の枝にばさりと留まった。深冬さんはいなかった。穴倉にいるのか、朔の散歩に行っているのかわからないが、クロさんだけが黒い鳥と対峙していた。
クロさんは低く唸り、鳥を見上げた。昼の明るさの中に、影が張り付いているような鳥だった。
「日和ってるのは、否定できないけども、……何の用だ?」
「ああいや、前みたいに喧嘩しにきた訳じゃねえよ。別れの挨拶だ。オレのいる深い森が人間に開拓され始めてな、統治もクソもないんで、一旦手放すことにした」
「……それは……そうか、じゃあ次は、どこにいくんだ?」
「さあなあ、もっと偉いのに頼んで、廻らせてもらうかね」
鳥は羽を動かし、クロさんの前に降り立った。
「お前、人の色に染まってきたな。濁ってるぜ、だからどうしたってこともねえけど、気をつけた方がいいんじゃねえのか」
「……」
「まあ、ここの統治はお前なんだから、好きにすればいい。じゃあな、またいつか、廻ってるうちにどっかで会ったら、喧嘩でもしてくれよ」
クロさんが何かを伝える前に、鳥はすばやく飛び上がった。影のような佇まいはすぐに見えなくなり、クロさんはしばらく、鳥の消えた空を見つめていた。
クロさんの内部に渦巻く感情が、私にも感じ取れた。深冬さんはもちろん、朔のことも大事だが、それ故に疎かにした事柄がいくつもあった。統治とはつまり、ほどほどに間引く、ということだろう。人に限らずどれかの命が増え過ぎれば、何かの支障が起きるのかも知れない。
私が考えている間に、クロさんは移動し始めた。道順は私もすっかり覚えている。穴倉に向かう道筋だ。クロさんは旧友との別れが寂しくはあるらしく、少なからず消沈しており、早く深冬と朔に会いたいようだった。
でも、会えなかった。穴倉はもぬけの殻で、何の気配もしなかった。ただ匂いはあった。複数の人間の匂いと不穏な濁りが、漂っていた。
クロさんは穴倉を飛び出した。私と不知火、どちらの知る話が本当だったのか、明確になる時が来る。
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