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 どのくらい前なのだろうか。村は私が知っている頃よりも、活気があった。或いは村という形態になったばかりかもしれない。作っている途中の住処が、数軒あった。

 山は静かだ。ふと、巽たちの向かった場所が、気になった。その瞬間に視界が一気に回り、気付けば山奥に辿り着いていた。集落も、ある。ちょうど、住人が出て行くところだった。

「山を降りたところに村ができたから、そっちに行く」

 住人は止める人々にそう言い放って山を降りた。行き先は、私の故郷らしい。なるほどなと今更知る。あの集落はこうして滅びゆき、私の村はこうして人が増えたのだ。

 不知火の父親は、どこだろうか。探そうとするが、視界は固定されて動かない。先程までとは勝手が違い困惑するも、不意に視線が揺らいで、そうだったと思い出す。

 これは不知火の父親の記憶だ。だから、私の視界は父親の視界になっている。

 山の中を走り始めた。木々の合間や灌木を掻き分けて流暢に進んでいく。不知火の背中に乗っている時のようだ。

 集落を抜けて山道を下る住人には、すぐ追い付いた。父親は間髪入れずに襲いかかって、頭蓋を一口で噛み砕いた。流れる血と、二度三度痙攣する、手足が見えた。父親はそのまま住人を引きずり、また走った。

 やがて山奥の穴倉に辿り着き、よく見知った食事風景が映った。そこで一旦視界は途切れた。


 次に見えたものは、川だった。見覚えはないが、どこであるかは察した。西側の山は比較的行き来がしやすく、崖の下には広い川が流れているのだと聞いた覚えがあった。

 私、いや、不知火の父親は、崖の上から、川を見下ろしていた。正確には、川辺に一人で佇む女性を見つめていた。

 父親は一度、その場を離れた。森の中を颯爽と駆け抜け、花が咲いている一角まで来ると、口に咥えて千切り始めた。主食は肉ではないのだろうかと思っている間に、また川までやってきた。崖を一足で飛び降り、女性の後ろに着地した。

 驚いたように振り向いた女性を見て、私も驚いた。

 近くで見た彼女は、人間の姿の不知火によく似ていた。

「ああ、クロさんか。今日も来てくれたん」

 彼女は笑い、父親が口に咥えている花を、濡れた手で受け取った。父親は唸る、というか、喉を鳴らし、彼女のそばに素早く寄った。

「ええ子やね、洗濯はもう終わるから、ちょっと待ってて」

「……」

「山には怖い化け物がおる、なんてみんなゆうとるけど、そんなことあらへんよね」

「……、いや、おれはその、化け物だとは思うけど……」

「自分でゆうたらあかんよ、私は、可愛いと思うし」

「み、深冬の方が、……、…………」

「ふふ、相変わらず、口下手やねえ」

「……すまん……」

 居た堪れなくなってきた。不知火の父親改めクロさんは、ついには黙ってしまってちょんと隣にいるだけになった。不知火の母親改め深冬さんは、この朴念仁ぶりに慣れているらしく、笑いながらクロさんの頭を撫でた。

 改めて深冬さんを見る。というか、クロさんがずっと深冬さんを見つめているので、自然とその映像ばかりになる。黒い髪を後ろで束ねた、落ち着いた雰囲気の女性だ。顔立ちは、整っている。不知火はそれなりに男前だと思っていたのだが、彼女が母親であるのならば、納得する。

 何せ、異形であるクロさんがこうして見惚れ、足繁く会いに通う女性だ。清涼な川の空気に馴染む、汚れを感じさせない雰囲気も、恐らく惚れた理由だろう。

「クロさん、終わったよ。たまには、川以外のところで、ゆっくりしよか」

 視界が縦に三回ほど揺れる。それから深冬さんに近づき、背中を向けた。恐らく、彼女はクロさんの背に乗った。

 二人が話しながら向かったのはクロさんの穴倉で、ちょっと動揺したが色気のある展開にはならなかった。二人は並んで話し、夕暮れ前に、クロさんが彼女を村近くまで送って行った。


 クロさんは絶望的なほどに口下手だった。深冬さんはそれを可愛らしいと感じているらしく、会うたびに頭や背中を撫でて愛でていた。記憶を見始めたばかりだが、もう五回は居た堪れなくなった。まるで私と不知火なのだ。客観的に見ればこのような雰囲気なのかと知って、辛かった。

 しかし、肝心な部分はいつまでも不明瞭だ。二人は逢瀬を重ねたが、肉体を重ねはせず、ただ純粋に、お互いが好きで会っているだけに過ぎない、淡い関係を築いていた。

 深冬さんがどう感じていたかはわからない。ただ、クロさんの心情は、時折ふっと匂った。共に過ごしているだけで、満足そうだった。深冬さんの膝やら腕に額を擦り付け、ごろごろと甘えることが、幸福なようだった。

 クロさんは、人を襲わなくなっていた。鹿や猪、時には熊なども襲って食ったが、集落を出る人間も、私の故郷の人間も、見掛けようが手出しはしなくなっていた。


 日々は穏やかだった。しかし、長くは続かない穏やかさだと、私は知っていた。

 ある日、クロさんの棲家までやってきた深冬さんは、酷く悲しげな面持ちだった。着物は泥で汚れていて、怪我もしているようだった。

「なあ、クロさん。私、私と、山を降りてほしい……」

 ほとんど涙声だった。実際に、不知火に似た形の良い双眸から、透明な涙が溢れ始めた。

 クロさんは動揺しつつ、彼女をひとまず塒へと引き入れた。首元に抱き付いた深冬さんの悲しみが、記憶を通じて私の中にも、流れ込んできた。

 ここにおったら殺されるかも知れへん。

 深冬さんはそう絞り出した。クロさんは何も言えず、私はただ、成り行きをこのまま見守るしかなかった。

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