3

 大きな木には案外すぐ辿り着いた。辺りを見渡してみるが、特に異変は見当たらない。祭囃子は、随分と大きくなった。発生元はよくわからず不気味だが、どうも、我々を覆うように鳴っている。

 不知火の背中から降り、巨木に更に近付こうとする。着物を噛まれて止められる。不知火は唸りながら私を引きずり、遮るように私と巨木の間に立った。

「おれが見て来る」

 有無を言わせないほど燃えた目に、大人しく従った。不知火は太い幹に近付いて、匂いを確かめながら一周した。やはり、何も感じはしないようだ。なら、ほのかに漂う誰かの気配は、なんだろうか。

 不知火は幹に爪を立てて登ろうとする。盛り上がった根が複雑に絡み合っており、上手く足場にすれば私でも登れそうではある。ただ、群生する紅い苔が、緑の苔と同じく滑るかもしれない。高い位置からの落下は流石に危険だ。

 何かできることはないか考えていると、目の端を何かがよぎった。隣に顔を向ける。意外と近くにそれはいたので、思わず仰け反った。

 紅い小枝に包まれた、蓑虫だった。遥か上の枝葉から、糸を使ってぶら下がっていた。

『脅かした? ごめんね』

 蓑虫は気さくな様子で話し掛けてきた。

「びっくりしたけど、大丈夫です。この森の、なんやろう、主さん? ですか?」

『違う違う、そんなのは、かなり前に消えたよ』

「ハル?」

 不知火が戻ってきた。ぶらぶらしている蓑虫を見て即座に口を開けたので、慌てて止めた。

「不知火、別に襲われてたわけやないよ」

「え? いや、こいつ、……なんでだ? 美味そうな匂いがする」

 蓑虫はけらけらと笑った。真っ直ぐ伸びている糸に、薄い炎が伝い始める。

『それはねえ、見れば、わかるよ』

 見る?

 そう問い掛ける前に、祭囃子が膨れ上がった。耳を両手で塞ぐが貫通する。頭蓋を穿つように、鳴り止まない。

 不知火が吠えた。ぶら下がる蓑虫を再び食おうと口を開けた。勘と呼ばれるところがそれを止めた。不知火の腹に入れてはいけないものだと、咄嗟に思った。

 伸ばした両手に包んだ蓑虫は、掌の中で笑った。

『ああ、君は、誰かに言われてここに来たのか』

 石のことだとわかった。返事に困っている間に蓑虫が身動ぎ、体をつつむ紅い枝が、ぽろぽろと取れていった。

『誰かに教えられたなら、ぼくを食べるのは、君だ』

 小枝がすっかり剥がれ落ちる。現れたものは芋虫ではなく、形容するのであれば、果実だった。

「ハル」

 不知火が私の体に尻尾を巻き付ける。ぐいと引かれてふらつきながら、彼の紅い瞳を覗き見た。

 私はこれを食べなければいけなかった。そんな気にさせられていた。

『安心してもいいよ。多分君たちは、ぼくらの変化のひとつを、知ってるよ』

 果実は祭囃子の中でも明瞭に話す。

『記憶を、見せるだけだよ。大樹の集めた異形の記憶を、見たくてここに、来たんじゃないの』

 合点が入った。不知火にも聞こえていたらしく、眉を寄せながら私を見た。困惑している瞳だった。寄りかかって頬を擦り寄らせると、複雑そうに喉を鳴らした。

「ハル、なんの記憶、見たいんだ」

「……怒るなよ」

「うん」

 息を吐き、

「あなたのお父さんの記憶」

 そっと囁けば、不知火は目を見開いた。

「どうして?」

「……、色々理由はあるんやけど、一番は……」

 人間である母親と、異形である父親の間に生まれた不知火の、不知火すら知り得ない部分が知りたい。どうやって生まれたのかが知りたい。

 そう思っていたが、最も知りたいことはひとつに集約されている。

「子供が欲しいと言う不知火の望みを叶える手段を、……俺でもどうにかできるんかどうかを、確かめたいんや」

 不知火は瞠目し、手の中の実に視線を落とした。艶めた紅い果実は、黙ったまま成り行きを見守っていた。

「……なあ、あんた」

 不知火は果実に話し掛けた。

『なに?』

「ハルは、記憶を見た後、ちゃんと戻ってくるか?」

『ああ、大丈夫。ぼくをそのまま、吐けばいいよ』

「じゃあ、ハルがいつまでも起きなかったら、おれが、吐かせればいいんだな」

『うん、それでいいよ』

 私の外側で私の嘔吐が決まった。背に腹は変えられないので頷き、果実を見下ろす。それから不知火に擦り寄った。耳元に唇を寄せて、口付けた。

「ほなちょっと、見てくるわ」

 できるだけ軽く言う。不知火は目を見開いてたが、巻きつけたままの尻尾を解き、不貞腐れたようにその場に座った。

「起きなかったら、腹を踏む」

「うん、わかった」

 果実を一気に口へと運んだ。味は特になく、つるりとした舌触りだ。そのまま、噛まずに飲めと、頭の中で指定された。言われた通りに飲み込んだ。


 ふっと目の前が暗くなった。意識が飛ぶ瞬間を、私は初めて知覚した。感覚だけが浮かび上がり、まるで炎のように揺らめいた。

 意識のみが時間の中を漂った。祭囃子の音が、遠くの方で聴こえていた。あらゆる記憶の波打ちがそう聴こえているのだと、今の私には感じ取れた。命がここに、蓄えられていた。

 しばらく漂っている間に見えてきた。

 懐かしい山々の真ん中に、私の故郷が蹲っていた。

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