回帰の火鉢
1
旅を始めて暫く経つが、一つだけ毎回のように悩む事柄がある。毎夜の寝床だ。どこでも眠れるので野宿は構わないのだが、身なりがあまりに見窄らしいと人里で浮くため、ある程度は整えておきたい。だから洗濯や、湯浴み水浴びを行える宿場へと寄る必要がある。しかしそうなると、不知火に多少の無理を強いてしまう。人の姿を保ってもらうしかなく、時には食事の心配まで生まれてしまうのだ。
悩ましい。考えながら隣を見る。ぼさぼさの髪が風になびいて、人の形でもほんのり紅い瞳が露わになっている。不知火は何を思うのか、機嫌が良さそうに海岸線を眺めていた。はじめは潮の匂いに臍を曲げていたがすっかり慣れたらしい。海沿いが、存外気に入ったようだ。
「海の近くは、住んでる生き物が、けっこう違うね」
不知火の視線が海に隣接する林へと向いた。
「魚とか、貝が好物の鳥が多い。山ではあんまり見ないから、面白いよ。海辺に住む人間も、魚ばっかり食べてるみたいだしさ」
「すぐ近くにあるもんやからな。海やら山やらを離れた、大きい町に近付けばまた変わる。平地が多いやろうし、家畜を飼うてる民家が増えるんやないか」
「家畜か……人間だと、育てるくらいならその辺りを歩いてるやつを、襲う方が早いか」
「そらそうやろ。勝手に増えるんは、人間くらいや」
海に面した崖を進んでいたが、道が途切れて森の入り口に立たされる。そう深くはなさそうだ。まだ夕暮れにも遠い午睡の時間で、森といえど明るさに満ちている。
海沿いは、そう人里が多くもない。なだらかな山や、木々の密集する地帯に、何度も出会した。人自体は偶に見かける。釣りをしていたり、海から塩を作っていたりと、様々だ。海産物も特産物も、生活の糧としてそれなりなのだろう。
不知火と並んで森を歩く。予想通りに長くは続かず、すぐにまた海の見える場所に出た。集落などは見当たらないが、家がぽつんと立っていた。誰も住んではいないようだった。
「人がいれば、食えたのに」
不知火は残念そうだ。頭を撫でてやりつつ、ふと家の先に視線を転じた。海に突き出したような崖がある。突端には、石を組んで作られた細長い建物が聳えていた。
初めて目にして、多少心が躍った。書物で読んだことがあったのだ。私の高揚がわかったらしく、不知火も不思議そうに崖を見た。
「あれ、何か知ってるのか?」
頷きつつ、促して崖方向へと歩き始める。
「多分、
「ふうん、人って、色々考えるんだね」
「狡賢いからな。……せやけど、ええ方法やなとは思うたんや。夜に包まれた海の上で、心細く船を進めとる時に見える目印の炎、余程綺麗なんやろうな」
脳裏に浮かぶのは、初めて不知火に会った場面だ。闇夜に揺らめく紅い瞳は、何度目にしても見蕩れてしまう。
不知火と共に、灯明台のすぐ足元まで近付いた。案外と大きく、古びた台座は見上げた位置にある。石で出来た胴体は色褪せ気味で、潮による損傷が見てとれた。使われなくなり、久しいようだ。
崖の下を覗いてみた。砂浜の端がわずかに見えている。黒ずんだ木材も見切れており、朽ちた舟の残骸らしかった。かつては漁業を行う集落があったのか、港として機能した一角だったのかは定かではないが、どちらにせよ今は人の気配がない。
不知火の食事は難しそうだ。溜め息をつきつつ、まだ灯明台を見上げている彼の傍まで戻る。
「日暮れまではもう少しあるから、先に進もか。不知火の食えるもんはなさそうや」
声をかけるが、不知火は首を振って先程の家に目をやった。
「あそこで寝る」
意外な申し出だ。困惑しつつ食事をどうするか問えば、なんでもいいと返ってきた。
「なんでもって、腹が減ってないんか?」
「今日は、魚か猪か、食えそうなやつを狩ってくる。ハル、この長い建物、気に入ってるんだろ。周りに村もないんだから、夜になったら使ってみなよ。おれ、嬉しそうなハルの匂い、好きだ」
つい、言葉に詰まる。どうにか礼を伝えて、不知火の腕にそっと寄り添ってみると、いつもしているように頭を撫でられた。甘やかしたい時の動作だと覚えてしまったらしい。とても恥ずかしい。
海を渡る潮風が吹いた。それに背を押されつつ、家の方へと歩き出す。戸は立て付けが悪く、金具が潮で錆びていた。中にはいくつか家具が残っており、人はいないが生活の名残は見てとれた。部屋の真ん中には囲炉裏もある。まだ、充分住める様相だ。
床板に積もる埃を多少払ってから、荷物を置いて腰を下ろす。不知火は私の膝に頭を乗せて寝転んだ。今度こそ私が彼の頭を撫でて、しばらくゆったりと時間を過ごした。
陽が沈み切る前に不知火は海へと出掛け、魚を獲って戻ってきた。私の分もあり、彼はそのまま、私は囲炉裏で焼いて、夜の食事を済ませた。見たことのない魚だったが、淡白ながら身が締まっており、食べやすかった。不知火曰く、崖下の海にたくさんいたらしい。
それで多少納得する。売りに出すには、不人気の魚ばかり釣れる地帯なのだろう。自然と漁の回数が減り、捨て置かれたのかもしれない。
魚を食べ切り、不知火と話している間に夜がきた。火打ち石を持って外に出るとはからずも高揚した。獣状態になった不知火が、感知したように私の顔をべろりと舐める。首元を撫でてたしなめつつ、灯明台に近付いた。
しかし、崖の途中で足を止めた。何か妙な気配があった。不知火もわかったらしく、私を背に庇いながら、前に出た。
「誰かおるんか……?」
「いや、……いないけど、匂いだけ、する」
ぼっと音が響いた。にわかに明るくなり、驚いて見上げた先では、橙の炎が揺れていた。
眩しく照らし出された灯明台には、やはり誰もいなかった。
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