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 浮浪者を廃寺にでも閉じ込め、責め苦を与えてみようと持ちかけたのは私だ。その際には不知火も人間の姿で加わり、程よく苦痛や恨みが溜まった頃合いに獣の姿に変化すれば、感情の振り幅が大きくなるはずだと仮説を立てた。ただ、生じる驚きがどのような感情に行き着くかの予測は難しかった。かなり個人差があるからだ。

 しかしこの状況なら、終着は不知火の好物になるだろう。瀕死状態の喜三郎と、決定的な怪我は与えない不知火を見比べながら、確信に近いものを得る。

「喜三郎さん」

 揺れる舟の上を慎重に歩き、二人の元へ歩み寄った。殆ど解けている猿轡を取ってやれば、不知火が威嚇するように唸った。慌てて、不知火の隣へ移動した。それから、這いつくばっている喜三郎を見下ろした。

「ええと、不知火が言うから間違いないとはわかってるんですが、俺をええなと思わはったんですね?」

 問い掛けるが、喜三郎は首をわずかに持ち上げただけだ。是非はないと困るため、傍に膝をつき折れている方の腕を粗雑に握る。彼は叫びのような血飛沫を口から飛ばした。もう一度同じ質問をすれば、何度か頷いた。

「ああ、そうですか。流石にこんなことをしてもうたから、百年の恋でも冷めたやろうけども、それなら助かります。よく聞いてください。俺はあなたに特に興味はありません。なんやったら、村を出たあの日から、不知火のことばかりです。何度も会いに行かせてもろたんは、全て不知火のためです。なので、このまま死んでもらうしかないんです」

 ここまでを話し、握ったままの腕から手を離す。喜三郎は苦悶の表情を浮かべていたが、その瞬間に目玉だけを此方へ向けた。

 目の中には怒りがあった。予想通りだったので、つい笑ってしまった。

「やっぱりですか、喜三郎さん。数時間前のことなので覚えてますよ、俺の見た目に関して色が白くて驚いた、と言うてはりましたね。ちょっとは、引っ掛かってはいたんです。あれはきっと、ですね?」

 立ち上がり、獣の形になっている不知火の腕に、寄り添った。不知火はちらと私を見たが、黙ったまま肩に頭を押し付けてきた。言わんとしていることがわかったようだ。嬉しくて、声が弾んだ。

「もっとわかりやすく言うんやったら、なんですよ。俺は、まあ、体格もあなたのように優れてはいませんし、組み敷いてもうたらどうにでもできると、思うてはったんやないですか。無意識にしろ、その思いがなかったとは言い切れないでしょう。それで今……自分よりも下に見た相手に見下されとる今、あなたは相当怒りを感じて、屈辱的で、俺をいると思うんですが、どうでしょうか」

「合ってるよ、ハル」

 喜三郎の反応を待たずに、不知火が答えた。私からすっと離れ、舟板に掌をつくと、瞬時に獣の姿をとった。舟が傾ぎ、小部屋が一気に窮屈になる。隙間からどうにか見えた喜三郎は、大きく目を見開いていた。

 そこにはがあった。不知火は喉を低く鳴らし、這ってでも逃げようともがく喜三郎に食い付いた。ぐちゃりと、咀嚼音が響いた。下腹部を噛みちぎられた喜三郎は縋る場所が私しかなく、此方を見た。止めさせてくれという懇願を感じたが、苦笑しつつ首を振った。糸を断たれた絶望感が、彼の周りに満ちていった。

 相当美味く仕上がったようだった。がつがつと食い続ける不知火は嬉々としており、喜三郎が完全に事切れた後も、しばらく肉を吸っていた。


 不知火の食事が終わってから、喜三郎を残して小部屋の外へ出た。夜明けにはまだ早く、辺りは暗いままだった。風が涼しく、心地良かった。体が血で濡れていたため、余計に爽快さがあった。

 小部屋の戸はしっかりと閉めた。舟をどうするかは、事前に決めていた。

 まずは私だけ岩場に降りた。少しよろけつつも、固定用の紐を直ちに外す。後は不知火に任せた。獣状態の彼は、舟を体で沖の方まで押していく。澱みのない動きだった。舟はあっという間に小さくなり、不知火はすいすい泳いで戻ってくる。

 見惚れている場合ではなかった。籠から出した別の着物に着替え、血塗れになった着物は布に包んで一旦籠に入れた。その間に岩場へと上がってきた不知火は、離れた場所で身震いをした。血は洗い流せたらしく、さっぱりしていた。

「不知火、美味しかったか?」

 聞いてみると、彼は笑いながら頷いた。

「ありがとう、ハル。おれは、あいつのところにハルが行くんじゃねえかなって、少しだけ思ってたんだ。でも、そんなこと、なかったね。美味かった、かなり満足したよ。ハルと一緒に山を降りることにして、本当によかった」

 その言葉を聞いて、ほっとした。私こそ不知火が、自分以外の人間を連れたいと言い出せばどうすればいいか、煩悶としていたのだ。

 仄かな蟠りわだかまりはお互いに解け、長居は無用と岩場を離れた。海か林に血まみれの着物を捨てようかとも思ったが、燃やすか埋めるかが良いかと一先ずやめた。

 宿に一度戻ったが、支払いを置いてすぐに出た。朝を待たずに離れた方が面倒が少ないと判断し、次の何処かを目指して夜道を歩いた。不知火は機嫌よく、私に頭を擦り付けてくる。撫でてやりつつ、海辺の集落を背後にした。

 完全に海が見えなくなる手前に、ふと立ち止まった。舟の姿がまだあった。極小さかったが、闇ばかりの海上に、砂の如く浮いていた。それは緩やかに揺れながら流れていった。

 鎮魂の揺り籠だと話した本人が乗っているのだから、地獄以外に着くだろう。今度こそ目を離して、数歩先で待っている不知火の隣へと向かった。辺りはずっと、夜だった。





(揺り籠舟・了)

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