揺り籠舟
1
初めて海にやってきた。不知火は同郷のようなものであるため、彼にとっても初めてだ。聳え立ち不動だった山に対して、風や舟によって常に変動している海は新鮮であり、興味深かった。すっきり晴れた空は清々しい。
浜辺には漁業を営む人々が見え、そばには集落の姿もあった。地引網や生簀のような囲いも見える。広大な水面は光を跳ね返しながら煌いており、どこか夜空にも似ていた。
「綺麗やなあ、不知火」
「鼻が痛い!」
不知火は鼻を押さえ、癇癪を起こしたようにばりばりと蓬髪を掻いた。潮の独特な香りが余程辛いようだった。
泳いでみたかったのだが断念し、海から多少は離れた集落へと引き返した。一先ずの宿はとり、小部屋に落ち着いてから、不知火が嫌がるならと海沿いの街道は止めようと話したが、意外にも首は横に振られた。
「慣れるまで、この辺りにいる」
「大丈夫なんか……?」
「まったく大丈夫じゃない、あんたの村を出てから変な臭いばっかりだ。もっと美味いものが食べたいよ、でも美味いものを探すなら、色んなところを見なきゃだろ。だから、我慢する」
不知火は洟を啜り、私の膝にどさりと頭を乗せる。すっかり彼の枕である。
「一番好きな味は、やっぱり悔恨……殺される恨みとか、まだ生きたいっていう悔しさなんか?」
頭を撫でつつ聞いてみると、不知火は唸ってからこちらを見上げた。
「今はそうだけど、もっと美味いものがあるかもしれないし、悔恨ももっと深いやつがあるかもしれない」
「全部を恨んで死ぬぐらいの、大きい後悔とかか?」
「そう。前に食った、蕎麦屋の人、あんたの言った通りに怖がりで、ものすごく美味かったから、関係してるんだと思う。あんたの村のやつらは、それなりに似たような味だったしさ」
ふむ、と納得する。恐らくそれは、私の村が傍に巣食う異形の存在を知識として持っていたからだ。
そう説明するが眉を寄せられた。
「おれが近くにいるってわかっているのと、おれがいるって知らないのとは、どのくらい違うんだ?」
「細かい差異までは、俺は人を食うたりはせんからわからん。せやから想像でしかないけども、異形がおると知ってた村人は不知火に出会ったとき、ああやっぱりおったんや、ほんまにおったなんて信じられん、という類のいることを前提にした驚きと恐怖を持つと思う。そこには多少の納得も含まれるやろうから、怖かったとしてもそれほど大きい悔恨には繋がらんのかもしれん。傍に異形がおったんやから殺されてしまうのも道理やと、無意識で感じたんやったとすれば、感情の揺らぎは自然と減るんやないか」
「……そういうもんなのか?」
「あくまで想像やぞ。せやけど俺の村の人らのような異形を認知しとる人間より、それらをまったく知らんかったり一切信じてへんような人を襲う方が、不知火の食いたい味には繋がるかもしれへんな」
不知火は暫く黙った。その間に私の伸びた毛先を指で弄び、下腹に頭を擦り付けていた。はじめからではあるが、随分甘えられている。やはり一人での山の暮らしは、寂しかったのだろう。彼の気に入る美味いものをどうにか探し、食べさせてやりたい。
方法はいくつか思いつくのだが、実現は難しそうだ。悩みつつ、不知火の頭を撫でる。髪は相変わらずぼさぼさだ。人のことは言えないのだが、多少は整えさせた方がいいだろうかと少し悩む。一見すると浮浪者だ。
そこでふと閃く。浮浪者。試すには、いいかもしれない。
「ハル」
ちょうど話し掛けられた。
「どないした? 鼻の調子は、ちょっとはようなったか? 慣れたんやったら、試してみたいことが」
「ハルは、母さんみたいになるのか?」
唐突な問い掛けに一瞬遅れる。
「……不知火を置いて死んでまうんか、って聞いとるん?」
「違う」
「ほな、なんや」
不知火はがばりと身を起こし、腰に腕を回してきた。距離に動揺していると、匂いを嗅がれて更に動揺する。
「な、なんや、ほんまに」
「ハル、おれのことを好きな匂いが、はじめからしてた」
「えっ」
「おれははじめ、どうしてやればいいかわからなかったけど、今はハルのこと気に入ってるし一緒にいるから、父さんと母さんみたいに、なってるんだろ」
言いたいことがわかって頷く反面で、異様な羞恥につい顔を逸らしてしまう。不知火は相変わらず嗅いでくる。
「おい、あんまり嗅がんといてくれ。今更な話をされても困るし、わかっとるなら、聞かんでもええやろ」
「でも、いい匂いだし」
「食える匂いならええけど、好物やないんやろ。せやったら、食い物探しで思いついたことがあるから、今度は俺の話を聞いてくれ」
「うん、何?」
不知火を引き離しつつ、先程思い付いたことを話した。彼はふんふんと相槌を打ちながら聞いた後、鼻が潮の匂いに慣れてからならと、嬉しそうな声で言った。
良い案だと思ってくれたようだった。ほっとしつつ、また膝に転がった不知火の頭を、よしよしと撫でた。
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