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異形についての書物はいくつかあった。その中に、子供用に整えられたと思しき寓話が混じっていた。大人が伝え聞かせていたものの原典らしく、幾度か耳にしたものとは細部が違っていた。
寓話は、村娘が異形に出会した場面から始まっている。
娘は山の中で異形に出会い、見初められて攫われる。暫くして村へと帰って来た娘は腕に異形の子を抱いており、異形そのものまで連れている。
異形は村で随分暴れる。困った村人は長を中心に団結して、住み着いた異形を知恵を絞って追い払う。そして娘は正気に戻り、異形は人間を恐れて山から降りて来なくなる、という流れである。
つまり異形自体は山にいる。だから無闇に山へ入らず、どうしても行かなければならない時は、必ず大人と行くようにと親に言い付けられる。
この話には矛盾があるし、御伽噺の域を出ない。そもそも私は、一点だけが何度読んでも気になった。
異形と娘の間に出来たとされる子供だ。
娘と村で暮らしていたのか、異形と山へ戻っていったのか、姿形は人間なのか異形なのか、ろくな記述が見当たらない。
御伽噺なのだから仕方のないことだが、頭の隅に引っ掛かり続けていた。
「……おれの父さんは、よく母さんの話をした」
囲炉裏の中を見つめながら、男は独り言のように話し始めた。
「母さんは凄く綺麗な人間だった、らしい。父さんは一目で惚れちまって、毎日口説いて、山に来てもらえたんだって、話してた。でも上手くはいかなかった。父さんはおれが生まれてから、母さんだけでも村に戻った方がいいって、説得したんだ。あんたが勝手に連れて来たくせになって、おれはいつも思ってた」
口を挟む雰囲気ではなく、黙っていた。彼は視線を私に移した。
「父さんが言うにはさ、母さんは、この村の奴らに殺されたらしい。父さんも騙されて、酷い目に遭ったんだって言ってた。本当かどうかは知らないけど、おれはその話を泣きながらされたし、父さんは人間にやられたらしい右の足が潰れたままだったし、信じてる。おれの家族は父さんしかいなかったしさ、村の奴らはおれや父さんを見ると、化け物だって騒いで、震えたり泣いたり武器を持ってきたりするから、本当だろうなって余計に思った。父さんが死んだ後、おれは一人で山にいた。村のやつは、何人も襲って食ったよ。父さんは母さんのこともあるし、無闇に食うなって言ったけど……父さんの足を潰して、母さんを殺したらしいあんたらの村をおれは恨んでる。それに人間が食糧だったから、見掛けるたびに襲い掛かった。みんな怯えてて、悔しそうで、美味かった。でもおれは、少し前に一人だけ、見逃したんだ」
彼は口を閉じた。囲炉裏の中で炭が小さな音を立て、雪風が家の壁を叩いた。
見逃された一人は、私のことだと思った。だが確証もなく、目の前の男性は人間の姿だったため、困惑した。
黙っていると、彼は右手を動かした。上がった手は中途半端な位置で止まり、拳を作り、開き、私に向けて翳された。
一瞬だった。鋭い爪が生え伸びて、真っ黒な体毛に覆われたかと思えば、身を守るような殻が盛り上がった。
唖然とする私を見て、彼は変化した腕を下ろした。正面からかち合った瞳は、灯るように赤さを増していた。
「あんたに聞きたいんだ」
何でしょう、と掠れた声で返事をした。彼は腕を人の状態へと変えてから、ぼさぼさの髪を一度掻いた。
「あんたはどうして、おれの復讐を助けるようなことを、してたんだ?」
私は暫く黙っていた。その間に、今までを思い返していた。長になれと厳しく躾けられた。同年代の間では、立場が違うと邪険にされた。大人達は揃って私に
異形に、いや彼に見逃されてから、私はこの村を潰そうと決めた。わかりやすく言うのなら、出来ると思ったのだ。異形は存在していて、人を食い殺していて、山の中に住んでいる。見逃されることの方が、珍しい。
それならば、
実際に、そうなった。
「……人間というのは、狡賢さくらいしか取り柄のない、生き物です」
彼は口を挟まず、頷きを返した。
「この村、なくなってもうた方がええんです。私……いや俺が手を出さんでも、緩慢に滅ぶ道しかあらへんかったと、思います。それは責任転嫁ではあるけども、なくなるなら早いうちがええし、そう出来る算段も見つかった。あなたです。俺は立場上村人に指示を出せました。せやから、村人を山に向かわせたり、一人にしたりは、簡単に出来ました」
先ずは両親が邪魔だった。しかし彼らは絶対に山へは行かないと、わかっていた。村人が、まだ見習いだと周知されている私の話を聞かないかもしれないとも、考えた。
考えた末に、行動した。賭けでもあった。
「俺は、狡賢さだけが取り柄の人間の筆頭です」
単身で山に入り、書物で得た知識を使って山菜を選り分けた。
「山は俺もそう入らんところやから、探すのは苦労しました」
異形が再び私を見逃す保証はなかったが、運よく現れず賭けには勝った。
「すぐに致死量を食わせると騒ぎになるかもしれないので、少しずつ食事に混ぜました」
集めた毒草を毎日すり潰した。
「両親は今、床下です」
二人が不調を訴え始めてから、
「あなたのように圧倒的で比類ない存在が、化け物なんていう蔑称を使われる方がおかしいんです」
化け物。
「俺みたいなどうしょうもない奴のことを、そう呼ぶんですよ、本当は」
事切れる寸前に父親は、私の思惑全てに気付いてそう呼んだ。
「……せやから、結果的に助けになっていただけで、俺は俺の復讐を……この緩い地獄を終わらせて藪の中に沈めたいという願いを、あなたの力を借りながら叶えていただけです。この村はもう、ろくに戦えないような老人や、病や怪我をしている村人ばかりなんですよ。放っておいてもいずれ消えます。……ああもしかして、あなたはそれをわかっていて、いらっしゃったんですか?」
じっと話を聞いていた彼は問い掛けに反応したように立ち上がり、深紅の瞳で私を見下ろした。
そのまま無言で見つめあった。彼がどうなのかはわからないが、私は初めて彼に出会った、闇夜の情景を思い出していた。
不意に彼は息を吐き、髪を掻き回してから口を開いた。
「……雪が溶ける頃に、ここに来る。だからそれまでに、あんたが山を越えようとしても、追わないよ。あんたの行動が、おれにとってありがたかったのは本当だから、そうする」
彼は背中を向け、家の中から出て行った。はっとして追い掛けたがもうどこにも姿はなく、雪はいつの間にか止んでいた。
そして冬が終わり、村は漆黒の異形が破壊した。
いや、私と彼で、時間をかけて破壊したのだ。
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