3

 闇ばかりの夜の中に、私は立ち尽くしている。目の前には燃えるような赤色が二つ灯っており、それは獣の異形の双眸だ。数秒か数分か、見つめ合った。

 闇に多少目が慣れた頃、ほんの僅かに輪郭が見えた。狼のような虎のような、四足歩行の生き物だった。体は黒色だと思われた。相手が身動いだ隙に輪郭が溶け、暗闇の中に馴染み切ったため、黒だと思った。

 私の村では時折人がいなくなった。親を含めた大人は誤魔化して子供たちに伝えていたが、事実はたったひとつだった。

 この異形が人をとって喰っている。長の家に生まれた私は、物心ついた頃には知っていた。

 いずれ長になるからと、はじめに教えられるからだ。

「あの」

 異形に話し掛けた。彼か彼女か、赤い光二つだけのそれは、じっとその場に残っていた。

「食うてもらえると、助かるんやけど」

 本当にそう思っていた。親の跡を継いで呪い師まじないしになるなど冗談ではないと、毎日憤っていた。当たろうが当たるまいが信託を求めてやってくる村人達は気味が悪く、まるで神になったような振る舞いで呪いまじないをする親はもっと気味が悪かった。

 だから食われてしまえば、早かった。山に囲まれた過疎の村なのだから、子供が一人いなくなったところで何の支障もないと、体感で知っていた。

 どのくらい見つめ合っていたかはわからない。そのうちに異形は、ふいと顔を逸らして闇の中へ消えてしまった。追い掛けようとしたがどこにいるかわからず、私は暫く立ち尽くしていた。

 踵を返しかけた時だけ、遥か彼方に随分小さくなった赤い光が浮かんだ。それは私の方向を見つめていたように思えたが、すぐに散って見えなくなった。


 そのまま山へ入り、迷って死ぬ道もあっただろう。しかし私は村へと戻り、親への反抗を止めて長になるための呪いまじないの勉強を進んで始めた。親は喜んでいたがどちらでも良かった。私は一人で、家に積まれていた様々な本を読み漁った。

 私の家の呪いは、ほとんどが山の向こうからの知識だ。この家だけが持ち、村人には与えないために、長の立場が守られていたのだ。莫迦な話だと思った。どうしようもないところだと、感じてしまった。

 家にあった本の中に、この村で書かれたという書物が混じっていた。

 書かれた年代はわからなかったが、そう古いものではなく、開いてみれば時折大人が子供に話して聞かせていた作り話だと気づいた。

 私の出会った異形についての話だ。大人達の間では、一番の災厄として恐れられていた。

 周囲の山を牛耳る恐ろしい異形で、姿形は不明であり、一人で山に入れば食われてしまう。話を聞かされた子供は恐怖を煽られ、虚実にかかわらず山に近付かなくなる。

 そういった類の、ちょうどいい御伽噺……いや、実話だ。

 山の中に灯る二つの赤い火はほとんどの村人が目にしていたが、異形そのものを見たという話は一貫性がなかった。熊のようだと言われたり、鱗が生えていたと言われたり、翼のある化け物だと言われたり、様々だった。

 食われず戻ってくる人間がいないために出任せばかり語られていたのだと、私はもう知っていた。

 確かに見たのだ。だから嘘だとわかる。食われなかった理由は不明だが、獣の異形は山へと戻っていった。

 もう一度、会いたかった。炎のように燃える瞳が、どうしても忘れられなかった。


 正直なところ、村を潰そうと思っていた。どちらにせよ長くは保たない村で、人口はじわじわ減っていたのだ。異形が食い荒らしていると両親は怯えていたし、村には居られないと出て行った村人もいたし、薬が充分になく病の中で死んだ子供もいた。

 親はそれでも村と、長の立場にしがみついていた。お前が次期長としてこの村を立ち直らせるのだと、毎日のように話された。

 しかし私が長になることはなかった。その前に異形が暴れ回り、村そのものがなくなった。


 ……誰も気が付かなかったが、異形が村を潰す少し前、一人の男が私を訪ねてやってきた。


 冬だった。両親のいなくなった家の中で、私は一人で暮らしていた。山深い地であるため雪はそれなりに多いのだが、その日も朝からしんしんと降っていた。

 白色が薄く積もった村の中で、男は酷く浮いていた。

 ぼさぼさの髪は目元を隠し、着物は黒一色で、冬だというのに裸足だった。

「どうされたんですか。もしかして、山で迷わはったんですか?」

 雪の具合を見ようと外に出ていた私は、男に駆け寄った。男は棒立ちのままだったが、顔はこちらに向けていた。

「この村はご覧の通りに、旅人さんをもてなせるほどの準備があらへんのですが、私の家なら多少、は……」

 家の中に連れて行こうと手を取り、驚いた。この雪の中でも一切の熱を失っておらず、むしろ熱いくらいの体温だった。

 二の句を告げずにいると、男が私の手を握り返した。前髪の隙間から覗いた瞳が、心なしか赤く見えて、どきりとした。

「あのさ」

 男の声は低かった。返事をすると、何かを言いかけ、やめてから、私の家へと視線を移した。

「おれは……旅人とかじゃあ、ないんだ。あんたに話があって来た。あまり短い話でもないんだけど、なんていうか、復習とか理由とか、いるだろうから、聞いてくれ」

 彼はとても真剣だった。私は頷いて、彼を家へと招き入れた。


 こうして彼、不知火と、向かい合うことになった。

 全ての終わりで、始まりだ。

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