2
早く眠ってしまったせいで、朝と呼ぶには早い時間に目が覚めた。外はほの明るく、洞穴の出入り口から薄い光が漏れていた。不知火はまだ眠っていた。足元の心地よさはなく、毛玉の彼は洞穴にいないようだった。
不知火を起こさぬよう、ゆっくりと腕から抜け出した。出入り口まで張って進み、外の空気を吸い込んだ。地面は湿っているが未明の空に雲はない。早起きの鳥が、どこか遠くで囀っている。
かすかに朝霧があった。木々の合間を漂う靄は、奥が見えないほどではない。伸びをしている間に晴れていき、林の全容が顕になった。
毛玉の彼が、転がっていた。木々に当たらぬよう、ころころと器用にこちらへと向かってきた。昨晩は暗く、光が赤色だったため気付かなかったが、体毛は薄い茶色だった。なんとなく白色を想像していた。
彼は目の前でぴたりと止まった。毛に埋もれるよう空いている丸い目が、私の顔の辺りに現れた。
「おはようございます、泊めてもろて、ありがとうございました」
お礼を伝えて頭を下げると、笛のような音で鳴いた。鳥の声にも似ている。しかし何を返してくれたのかは、不知火がいなければわからない。
どうしようか困っていると、毛の中から何かが落ちた。拾ってみると栗だった。返そうとすれば更にぽろぽろ落ちてきて、数種類の茸に山葡萄や
彼の食糧かと思ったが、何か、期待を込めたような眼差しで見つめられていた。
「……食うてええんですか、もしかして」
ぴっと鳴かれる。本当に食べていいのかもしれないが、不用意に物を食べ、大変な目に遭ったことも思い出す。
「せやったら、不知火も起こしうわっ」
毛玉が体当たりをしてきた。驚きはしたが衝撃はなく、ふわふわとした毛に包まれただけだった。心地よくて眠気が若干蘇る。頭を振ってどうにか覚醒しつつ、諌めようと体毛の海を掌で掻き混ぜる。
有り得ないほど柔らかい毛だ。綿毛のような見た目でもあり、異形と呼ばれてしまう部類だろう。それにしては、人に対して友好的に思う。もっと警戒しなければ、路のような人間に捕まえられてしまいそうだ。
体を撫で続けているうちに、満足したように離れていった。ころころ移動し、落とした木の実類の前で止まって、さあどうぞと言わんばかりに再び鳴いた。そこまで勧められれば断りにくい。彼のそばまで移動して、食べやすい山葡萄から手に取った。
私が食べ始めると、彼も食べ始めた。体の中にまだ隠し持っていたらしく、殻だけになった栗をぽろぽろと吐き出している。
無言で食べている間に、薄い朝霧はすっかり消えた。清々しさのある朝陽が差し込み、周囲の景色を照らし出す。連なった木々が、私たちのいる洞穴近くからずっと奥まで続いていた。緑が多く、人力で作られた隘路は見当たらない。いや、人の気配自体が微塵もなかった。
自分達は急な雨の後、森と呼べる深い所まで来たのだなとようやく実感する。
緑の濃さは、私の頭の奥深くから過去を引き摺り出すにも、充分だった。
「……俺は、山の中……山に周りを囲まれた、孤立した村に生まれたんですよ」
茸を弄びつつ話し出すと、彼は相槌のようにぴっと鳴いた。
「変な村、いや、頭のおかしい村やったなと俺は今でも思うてます。孤立してるもんやから独自の
息を吸う。朝の清涼な空気が、震えた喉をゆっくり撫でる。
「……周りの山に異形が住んでたことも関係してるんやろうけど、みんな何でもええから縋らんと生きていかれへんかった。成り立ちは確実にそうやって、俺にもわかってるんですよ。その異形はどうしても人間が食糧やし、多分、物凄く長生きで、村はずっと戦ってたんやろうなあとは理解してるんですけど、気持ち悪かったんです。俺は長の家に生まれたから、その
そしてそのたった一回が、私に一つの衝撃と証明を齎した。ずっと覚えている。一粒の光もない闇の中に開いた、赤い光の凶暴さと美しさを、私はずっと覚えているしずっと選び続けている。
ゆっくりと息を吐いた。話を途切れさせたからか、毛玉の彼が寄ってくる。柔らかい体毛にまた埋められた。人の言葉がわかるようなので私の話も理解しているのだろう。気遣われたのかもしれない。
「朝からするような話違うな、すみません。そろそろ不知火も起きるやろうし、なんか食わせてあげんと」
『もうちょっとだけ、ききたい』
「ええけ、ど……」
はっとして毛玉を見た。ぴゅうぴゅうと、笛のように鳥のように鳴きながら、更に覆い被さってきた。押し返そうと腕を伸ばすがどこまでも毛が続くのみで届かない。掻き混ぜるような動きしかできず、掴んでも柔らかさのあまりに掌を容易く抜けてしまう。
『はじめてみたから、しりたいの』
頭の中に、子供のような高い声が響く。
『ひとと、イギョウがともだちなの、はじめてみたの』
聞こえる声は段々遠くなる。
『だいじょうぶだから、みせて、ね』
瞼が落ちる。意識が遠のく。完全に眠りに落ちる前にやっと知る。
昨日の夢も、この毛玉の彼が見せていたものだということを。
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