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 早く眠ってしまったせいで、朝と呼ぶには早い時間に目が覚めた。外はほの明るく、洞穴の出入り口から薄い光が漏れていた。不知火はまだ眠っていた。足元の心地よさはなく、毛玉の彼は洞穴にいないようだった。

 不知火を起こさぬよう、ゆっくりと腕から抜け出した。出入り口まで張って進み、外の空気を吸い込んだ。地面は湿っているが未明の空に雲はない。早起きの鳥が、どこか遠くで囀っている。

 かすかに朝霧があった。木々の合間を漂う靄は、奥が見えないほどではない。伸びをしている間に晴れていき、林の全容が顕になった。

 毛玉の彼が、転がっていた。木々に当たらぬよう、ころころと器用にこちらへと向かってきた。昨晩は暗く、光が赤色だったため気付かなかったが、体毛は薄い茶色だった。なんとなく白色を想像していた。

 彼は目の前でぴたりと止まった。毛に埋もれるよう空いている丸い目が、私の顔の辺りに現れた。

「おはようございます、泊めてもろて、ありがとうございました」

 お礼を伝えて頭を下げると、笛のような音で鳴いた。鳥の声にも似ている。しかし何を返してくれたのかは、不知火がいなければわからない。

 どうしようか困っていると、毛の中から何かが落ちた。拾ってみると栗だった。返そうとすれば更にぽろぽろ落ちてきて、数種類の茸に山葡萄や木通あけびなど、豊富な山の幸が我々の足元に積もっていった。

 彼の食糧かと思ったが、何か、期待を込めたような眼差しで見つめられていた。

「……食うてええんですか、もしかして」

 ぴっと鳴かれる。本当に食べていいのかもしれないが、不用意に物を食べ、大変な目に遭ったことも思い出す。

「せやったら、不知火も起こしうわっ」

 毛玉が体当たりをしてきた。驚きはしたが衝撃はなく、ふわふわとした毛に包まれただけだった。心地よくて眠気が若干蘇る。頭を振ってどうにか覚醒しつつ、諌めようと体毛の海を掌で掻き混ぜる。

 有り得ないほど柔らかい毛だ。綿毛のような見た目でもあり、異形と呼ばれてしまう部類だろう。それにしては、人に対して友好的に思う。もっと警戒しなければ、路のような人間に捕まえられてしまいそうだ。

 体を撫で続けているうちに、満足したように離れていった。ころころ移動し、落とした木の実類の前で止まって、さあどうぞと言わんばかりに再び鳴いた。そこまで勧められれば断りにくい。彼のそばまで移動して、食べやすい山葡萄から手に取った。

 私が食べ始めると、彼も食べ始めた。体の中にまだ隠し持っていたらしく、殻だけになった栗をぽろぽろと吐き出している。

 無言で食べている間に、薄い朝霧はすっかり消えた。清々しさのある朝陽が差し込み、周囲の景色を照らし出す。連なった木々が、私たちのいる洞穴近くからずっと奥まで続いていた。緑が多く、人力で作られた隘路は見当たらない。いや、人の気配自体が微塵もなかった。

 自分達は急な雨の後、森と呼べる深い所まで来たのだなとようやく実感する。

 緑の濃さは、私の頭の奥深くから過去を引き摺り出すにも、充分だった。

「……俺は、山の中……山に周りを囲まれた、孤立した村に生まれたんですよ」

 茸を弄びつつ話し出すと、彼は相槌のようにぴっと鳴いた。

「変な村、いや、頭のおかしい村やったなと俺は今でも思うてます。孤立してるもんやから独自のことわりでしか動かれへんところでね。長って立場が、なんやろう、世襲制というか……呪いまじないを代々伝えとった家が、村では権力者やったんです」

 息を吸う。朝の清涼な空気が、震えた喉をゆっくり撫でる。

「……周りの山に異形が住んでたことも関係してるんやろうけど、みんな何でもええから縋らんと生きていかれへんかった。成り立ちは確実にそうやって、俺にもわかってるんですよ。その異形はどうしても人間が食糧やし、多分、物凄く長生きで、村はずっと戦ってたんやろうなあとは理解してるんですけど、気持ち悪かったんです。俺は長の家に生まれたから、その呪いまじないと呼ばれとる嘘で出来た信仰を、覚えさせられる立場で……反抗していたので子供の頃はよく床や外で寝かされましたし、一回だけ逃げたこともあるんです」

 そしてそのたった一回が、私に一つの衝撃と証明を齎した。ずっと覚えている。一粒の光もない闇の中に開いた、赤い光の凶暴さと美しさを、私はずっと覚えているしずっと選び続けている。

 ゆっくりと息を吐いた。話を途切れさせたからか、毛玉の彼が寄ってくる。柔らかい体毛にまた埋められた。人の言葉がわかるようなので私の話も理解しているのだろう。気遣われたのかもしれない。

「朝からするような話違うな、すみません。そろそろ不知火も起きるやろうし、なんか食わせてあげんと」

『もうちょっとだけ、ききたい』

「ええけ、ど……」

 はっとして毛玉を見た。ぴゅうぴゅうと、笛のように鳥のように鳴きながら、更に覆い被さってきた。押し返そうと腕を伸ばすがどこまでも毛が続くのみで届かない。掻き混ぜるような動きしかできず、掴んでも柔らかさのあまりに掌を容易く抜けてしまう。

『はじめてみたから、しりたいの』

 頭の中に、子供のような高い声が響く。

『ひとと、イギョウがともだちなの、はじめてみたの』

 聞こえる声は段々遠くなる。

『だいじょうぶだから、みせて、ね』

 瞼が落ちる。意識が遠のく。完全に眠りに落ちる前にやっと知る。

 昨日の夢も、この毛玉の彼が見せていたものだということを。

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