最奥にねむる
1
夕方の林道を進んでいると雨が降ってきた。ばらばらと葉を叩く雨粒は強く、あっと言う間に大降りになる。即座に獣に変わった不知火に着物を噛まれた。口にぶら下げたまま走られて内臓が揺れ、少し気持ち悪くなった。
運よく休める洞穴が見つかったが、穴は崖の一部にぽっかりと空いていた。自然に作られたものではなさそうだった。
何かがいたとしても、不知火ならば平気だろう。本人もそう思ったのか、迷うことなく中に身を滑り込ませた。
どっと強い風が吹く。雨は洞穴の入り口を瞬く間に濡らし、雷まで鳴り始める。穴の向こうは既に夜のように暗かった。
「酷い降り方や、しばらく止みそうにないな」
雨に濡れないよう奥へ進みつつ話し掛ける。不知火は辺りを嗅いで何かを探っていたが、なんとも言えない唸り方をした。返事でもないようだ。獣状態の時でも感情が読み取れるようになっていたが、今の唸りはわからなかった。
「なんか、おるんか?」
「うん、いる、けど……」
「なんっ」
振り向きながら進んでいたせいで壁に当たった。当たったのだが、柔らかかった。
「え、なんやこれ」
暗くてよく見えない。手探りで触ってみるとやはり柔らかく、暖かかった。
生き物だ。洞穴で生活をする生き物といえば、この付近にいるかはともかく、熊を想像した。私の故郷は熊狩りの猟師などもいたのだが、私にその技術はないため、ちょっと焦った。
しかし杞憂に終わった。不知火が目を灯らせて近づいてきた時に、柔らかい壁の正体はわかった。
見たことのない生き物だった。全身が毛に包まれていると言うよりは、全身が毛そのもので、非常に丸かった。私には巨大な蒲公英のように見えた。不知火よりも熊よりも大きかった。
巨大な蒲公英は、まったく敵意のない、丸い瞳で私たちを見下ろしていた。見つめ合っていると、笛のような軽い音が響いた。鳴き声らしかった。毛玉を見つめていた不知火が、泊めてくれるってさと、ぶっきらぼうに言った。
雨はずっと降っている。多少濡れたのでくしゃみが出た。火を焚かせてもらおうかとも考えたが、この洞穴はやはり毛玉の彼が作った
彼は申し訳なさそうに体を揺らした。ふわふわした毛が、気持ちよさそうだった。ぶつかった瞬間の柔らかさも、筆舌に尽くし難かった。
好奇心が抑えられず、触ってもいいか聞いてみる。いいらしいよと、不知火が答えた。
「言葉、わかるんやな」
「いや。匂いで判断してる。客が来ることなんてないんだろ、おれとあんたが来て、嬉しそうだよ」
なんとも可愛らしい話だ。一応口で断りを入れてから、毛玉の体に触らせてもらった。ふわふわと、私の腕は沈んでゆく。思い切って抱きついてみると想像以上に気持ちがよかった。初めての触感に、半ば衝撃すら受けていた。多少の獣臭などまったく気にならなかった。
後ろから不知火に引っ張られた。毛玉がやめさせろと怒ったのかと思ったが、怒っているのは不知火だった。
「どないしたん、不知火」
不知火は唸ってから、私の膝を巻き込んで丸まった。かと思えば人の形に変化して目を閉じてしまい、洞穴の中は一気に暗くなった。
「もう寝るんか?」
「寝る」
「この、毛玉さんは? 泊めてくれる言うても、俺らが近くにおったら邪魔やろ」
「気にしてないよ、あんたもさっさと、眠ればいいんだ」
暗闇の中、更に体を引っ張られる。眠るには早いのだが、不知火は私にぐいぐいと頭を押し付け始めるので、大人しく転がった。聞き分けのない子供のようだ。人の姿の時は成人した男の格好だが、ともすると精神的には子供であるのかもしれない。
彼の母親は人間だが、父親は同じ形の異形だ。人間の推定年齢と、異形の推定年齢はひどく差があるに違いない。実際、我々が会った大蛇は、随分昔から生きているようだった。
不知火の頭をそっと撫でる。ゆっくり撫で続けていると、そのうちに寝息が聞こえてきた。ほっとしつつ手を止めて、私も眠ってしまおうと瞼を下ろした。
足元に、暖かいものが乗った。毛玉も眠るのだろう。狭い洞穴だからどうしても触れ合ってしまうらしく、身じろいでも乗っていた。
羽毛の布団をかけてもらったかのような心地良さだ。おかげで下が硬い地面であることも忘れ、すぐさま眠りに落ちた。元々、どこにいても眠れる体ではある。故郷でも、硬い床で寝る方が多かった。
故郷のことなど考えていたからか、懐かしい夢を見た。家族が眠った隙に外へ出て、山を越えようとした子供の頃の記憶だ。故郷が大嫌いだった。私の家は村長の立場だったが、その理由が一番、嫌いだった。
村を抜け出し、山の麓まで走った。暗闇に塗り潰された景色は怖かったが、私は山へと入り込んだ。
そして出会った。
今は私を抱きしめながら眠っている、美しい異形の獣を私は、あの時に初めて目にしたのだった。
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