7

 夕暮れがやってきた。夕陽か血肉か判別ができないほど、村の中が赤く染まった。音が少ない。それは言葉がないからで、耳を研ぎ澄ませれば様々な音が聞こえてきた。

 風の音、鳥の音、木々の音。人間よりも自然の音たちを選んだ神が、のそりと姿を現した。

「いるものはすべて飲み込みました、ありがとうございます。あなた方には、お礼をしなくては」

 大蛇の体は随分と大きくなっていた。不知火が食い散らかした遺体も隈なく回収したらしい。

 人が食料なのかと聞こうとしたが、その前に不知火が現れた。先程から姿が見えなかったのだ。不知火は人の姿をとっており、紐で綴じられた書物を持っていた。全身は血まみれだ。

「不知火、それは?」

「木箱の女の、書いたもの」

 受け取り、中を改めた。神と呼ばれる異形の発見について書かれており、漆黒の化け物という記述が頻発していた。

「湖に戻ってさ、焚き火で燃やそう。いらねえだろ。カミサマも、困るだろうし」

 大蛇は返事のように喉を鳴らした。なんにせよ村にいても仕方がなく、お互い血を洗い流さねば、街道を歩くこともままならない。

「不知火さん、春之介さん、行きましょう。よければ私に掴まってください」

 青白い体がすすっと伸ばされた。不知火と顔を見合わせたが、ありがたく乗せてもらうことにして、私たちは無人になった村を出た。


 湖に着く頃には、すっかり陽が落ちていた。大蛇は湖畔で我々を下ろし、湖の水は好きに使って欲しいととぐろを巻きながら言った。

 ひとまず、血を洗い流したかった。着物を脱いで、許可はとったが一応断りを入れてから、湖に浸して汚れを落とした。

 不知火は不思議そうにしながら棒立ちしている。浴びた返り血は変色して黒ずみ、中々に汚れが酷かった。

 隣に来させて、着物を脱がせようとしたが、嫌がって獣に変化した。

「こっちの方が、早い」

 不知火はどぼんと水に浸かった。それもそうかと納得しつつ、続けて私も水へと体を滑り込ませた。

 顔を洗っていると、じゃれつかれた。ぐいぐい頭を押し付けてくる行為の意味はよくわからないが、甘える仕草に思えて嬉しい。頭に水をかけて洗ってやると、思い切り首を振られて飛沫が飛び散り、驚いて叫んでしまった。

「目に入ったやないか!」

「おれも入った。ハルは、洗うのが下手くそだ」

「それは、すまんかったけども」

 ぼこぼこ、音がした。振り向くと大蛇が笑っていた。辺りはすっかり、夜だった。

 暗がりの中で、蛇はやはり美しかった。けれど、はじめに見た時よりも水底で会った時よりも、今が一等、綺麗だった。光っているのだと、気が付いた。丸められた長い体は青白く発光し、闇夜に浮かび上がっていた。光はゆっくりと膨らんでゆく。輪郭がわからないほどの白い光に包まれた時、大蛇はまるで満月だった。

 そのうちに、一欠片だけ光が離れた。掌ほどの大きさだ。小振りの光は静かに浮かび、夜空を目指して登り始めた。それを見送る前に、同じような大きさの光が次々に生まれた。ぽこぽこと膨らみ、はじめの光を追うように上へと登ってゆく。いくつも、いくつも、登ってゆく。時折連なりながらも夜の天井を目指して浮上し続け、月明かりを浴びつつ緩やかに馴染んで散ってゆく。

 あぶくだ、と声に出た。大蛇の全身から光のあぶくが次々に立ち昇っていると、私には思えた。幻のような、夢想のような光景だ。ぞっとするほど壮大だった。

 不知火は無言で光の泡立ちを見送っていた。青白い光に照らされた漆黒の獣は、どこか感動しているようにも見えた。

「命は、廻るものですよ」

 すべての光が夜に溶けた後、大蛇はそう呟いた。

「元々はすべて、小さな小さなあぶくのように儚く平等だったのですから、これもまた避けられない滅びです。私が決めたので、必然です」

「……あの、俺も一応人間ですが、見逃してもらえる理由とか、あるんですか」

 多少気になり聞いてみると、大蛇はぼこぼこ笑いながら、湖へと身を滑り込ませた。胴体がぐるりと円を描き、私と不知火を囲っていた。

「廻るもの、と今言ったように、春之介さんが廻らせてくれたからですよ。殺した魚を食べたでしょう、あれは正しい巡りです。本当に微力ではありますが、私の加護が、ついているのです。お二人を助けてくれることもあるでしょう、これをお礼として、そのままお持ちください」

「神様の加護、ですか。勿体無いくらいありがたいですが、いいんですか?」

「勿論構いません。……それに、もしもあなたもしまったら、私は無傷ではいられないでしょう。戦う力は、高くないのです」

 大蛇は尾の先端を揺らし、不知火の頭をゆるく撫でた。不知火は吠えたが離させようとはせず、光たちの溶けていった空をちらと見上げた。

「おれの母さんや父さんも、廻るってやつに、なったのか?」

「断言はしませんが、そうであれと願うのであれば、そうなっていくでしょう」

「全然わからないよ、カミサマ、あんたの言うことはむずかしい」

「春之介さんが、ゆっくり教えてくれますよ」

 教育を投げられた。不知火は私を見て鼻を鳴らしたが、尻尾を腰に絡み付けてきた。

 大蛇がぼこりと笑った。その笑みを最後に水へと潜り、もう姿を現すことはなかった。私は不知火と寄り添いながら体を清め、その後に路の書物を火に焚べた。黒い燃え滓も灰色の煙も、すぐさま消えてなくなった。

 焚き火にあたりながら、時折湖の底を窺った。じっとりと暗い湖は風が吹こうが波立たず、頭上に煌めく星々を鏡のように映し続けて、この静かな夜の中、ひたすらに満ち満ちていたのだった。



(満ちた蛇・了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る