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「あれっ、今日もいるんですか? あの真っ黒の化け物は? いないんですか?」
湖畔にやってくるなり路が騒いだ。にこにこと笑い機嫌が良さそうだった。相変わらず背負っている大きな木箱から、長い棒が突き出していた。
神のことなど知らないと突き放したが、気にした素振りもなく隣までやってきた。路は焚き火の跡を見る。何故野宿などしているのか聞かれたが、こちらにも答えなかった。
「秘密主義なんですか? 話し方も変だし、この辺りの人じゃないんですねえ。あ、昨日お話ししていた縁切り湖の絵巻を持ってきたんですよ。絵巻と言っても神様の姿は白く塗り潰されているのでわからないんですけど昨日見たのでもういいんですそもそも神様というか異形の化け物の存在自体はじめは懐疑的だったんですよそれが本当に実在しているなんて私の勘はさすがです、高い滞在費を払い続けた甲斐がありますよ」
路は木箱を下ろし、長い棒を引き抜いた。囲炉裏や釜戸を掻き混ぜる際に使用する火かき棒だと気付いたが、それにしては長かった。右手に持ち、嬉しそうにしながら二、三度振った。
まさかな、と思いながら見ていると、まさかは起こった。路は湖の中に火かき棒を突っ込んだ。
「おい、何しとるんや!」
腕を掴んでやめさせるが、路はきょとんとして私を見上げた。
「何って、調べ物ですよ。この前は持ってきた鍬を落としてしまったので長い火かき棒を作らせました。それに私個人の話でもないんです。まあ最初は私が湖の神様について調べたがったわけですが文献を読ませたところ村長たちが怖がりまして、虚偽の判断を任せてきたんです。昨日の化け物で当たりだとは思っていますが村長たちに見せる証拠も必要ですからね殻とか爪とか貰わないと」
「お前阿呆なんか? くれ言うてくれるような存在やないやろ」
「まさか! 文献によれば限りなく村人を慈しむ神様なんですよ? 昨日だって私を攻撃しませんでしたし春之介さんだって食われそうだったわけでもないんでしょう、なら頼みくらい聞いてくれるはずです駄目なら駄目で方法がなくはないですし」
悪寒が走る。故郷が一瞬脳裏に浮かぶが、首を振って打ち消した。
「村人達で騙し討ちする、なんてしょうもないことは言い出すなよ」
牽制のつもりで言い捨てると、
「そりゃそうでしょう多勢に無勢は有効ですよ多勢側がね」
路は明るい声で肯定する。
後少しで殴っていた。いつの間にか来ていた不知火に、腕を掴まれなければやっていた。
「不知火……」
「ハル、行こう」
ぐいと腕を引かれ、よろけながら歩き出す。湖を離れて、深い竹藪に入った。残ればいいものを、路はそのままついてきた。
「わあ、お連れさんですか? あなたは大きくて黒い赤目の化け物を見ましたか?」
呑気な様子で、本人に本人について訊ね始める。無視すると思ったが不知火は路を見下ろした。目の奥がぎらりと燃えていた。
「あの化け物を、化け物って呼ばないやつも、いるんだぜ」
「あははそりゃいるんじゃないですかね私も心底化け物と思っているわけではなくて呼称としてわかりやすいから使うだけです村長達にもその方が通じます」
「ふうん、まあおれには、どっちでもいいんだけど」
不知火はつまらなさそうに会話を打ち切った。私の腕を更に引き、邪魔だねこいつと、呟いた。
両目が鮮やかな赤に染まった。不知火は牙を剥き、爪を地面に突き立てて、獣の姿に変化した。乗れと視線で示され、急いで首に腕を回した。
路は尻もちをついていた。私と不知火を見比べて、私に定めた。
「あ、うそ、すごいじゃないですか春之介さんもしかして懐柔してるんですか? それなら捕獲おッ」
台詞の最後は不知火が飛ばさせた。鋭い爪の飛び出した前脚が、路の下腹を抉りながら踏んでいた。
絶叫が竹藪に響き渡った。痛い酷い化け物、どうしてですか、神様じゃないんですかと、路は矢継ぎ早に私たちを詰った。踏み付ける力がどんどん強くなっていると見ているだけで分かった。ぶちりと音が響き、彼女の腹は完全に破れ広がった。
叫びよりも早く、喉笛が噛み砕かれた。不知火の首に抱きついているため、散った血液が顔にかかった。生臭くて生ぬるかった。路はまだ生きているらしく、白眼は剥いているものの、隙間風のような呼吸音が聞こえてきた。
不知火が腕を退けると、肉と内臓がねとりと鳴った。そのままふいと顔を逸らし、興味をなくしたように欠伸をした。
「食わんでもええんか?」
「うん、殺せても食えるかは別だし、こいつは譲る」
燃える瞳が背後を見た。大蛇がこちらに向かって這い進んでいた。ぼこぼこと、音が聞こえた。非常に嬉しそうだとは、嗅ぎ分けられない私でも分かった。
大きく開けられた口の中は真っ暗な空洞が広がっていた。まるで湖の底だ。虫の息である路は、唇を動かした。虚な目が、不知火、大蛇と滑り、最後に私を捉えた。
なにを言いたかったのかは知らない。でも、言葉を返した。
「君は、はじめから色々、矛盾しとるよ」
聞こえたどうか確かめる暇も術もなく、路は大蛇に食い付かれた。骨の折れる音が何度か聞こえた。
湖の神を探していた女は、湖の神に丸呑みされた。
「カミサマ、先、村に行ってる」
不知火が声をかけると、大蛇は先の割れた舌を覗かせて、金色の目をゆったり細めた。すぐに追うと、頭の中で声がした。大蛇の喉元はまだ膨らんでおり、飲まれた路は時間をかけて、おそらく生きたまま、消化されていくようだった。
「行くよ、ハル。しっかり掴まれ」
「あ、うん」
不知火は走り出した。山々を駆け巡っていた不知火は風のように速く、村の姿はあっという間に見えてきた。
じわりと、汗をかいた。これから何が起こるか分かっている故の、情動だった。
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