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「ところで春之介さんは、どうしてこんなところで神様に食われかけていたんですか?」

 質問されて困った。食われかけていたように見えたことにも困ったが、我々の本当の正体やあの大蛇について話す気になれず、仕方なく嘘を考えた。

「あなたのいる村に旅の途中で立ち寄って、縁切り鏡の話を聞いたから物見遊山の気分で寄ったんです。そうしたら、あの人……いやあの獣がちょうどいて。食われかけていたわけではないですよ、可愛らしい子です。俺はその、動物が好きなので、つい構ってしまいました」

 ここまで説明し、ちらりと不知火を窺った。相変わらずそっぽを向いている。話に加わる気は一切ないらしい。

 路はうんうんと頷き、湖にいる神様の気性は穏やかだと書かれていたと納得したように話す。出会い頭で襲われかけたことを忘れたのだろうか。彼女の中ではもう、不知火が神様として君臨しているようだった。

 神様が穏やかという記述自体は合っているだろう。昨夜の蛇は我々に何もしてはこなかった。目的もわからない。湖の魚を食べたため、何事かと様子を見に来ただけかもしれない。

 考えている間に、路が不知火に寄っていった。触ろうとした途端に、不知火は湖の中へ逃げた。盛大に上がった水飛沫を浴びながら路は喜んだ。

「やっぱり湖の神様なんだ、早く帰って書き留めなきゃ!」

 路は降ろしていた木箱を背負い、湖に向かって明日も来ると大きな声で言った。不知火もどこにいるかわからない大蛇も返事をしなかったが、路は満面の笑みを浮かべたまま立ち去っていった。

 すっかり姿が見えなくなってから、湖を覗き込んだ。湖面はなるほど、鏡のように澄んでいる。

「不知火、行ってもうたで」

 声をかけると、不知火は目から上だけを出した。人の姿をとっていた。

「ハル、あんたは変な人だけど、あの女も変だね」

「人間は結構、変なやつばっかりや」

 不知火が腕を伸ばしてきた。引き上げて欲しいのかと掴めば、逆に引っ張られてしまい、湖の中へと滑り落ちた。

 ほのかに暖かかった。湯とまではいかないが、水の冷たさもなかった。不知火のおかげだと、引き寄せられてわかった。彼は赤い目をぎらつかせ、熱い腕で私の腰を抱いた。

「不知火?」

「底に行こう」

「底って、湖のか?」

「そう。あいつが、来いって」

 あいつとは大蛇のことだろう。人間にはわからない方法で意思疎通を図っていたらしい。

「底は冷えるし、おれから離れたら、死ぬかもしれないから」

「ああ、それは……煙に覆われてた時も思うたわ、不知火が来てくれて、嬉しかった」

 ふうん、と気のない返事をされた。かと思ったが、頭を擦り付けてきたので満更ではなさそうだった。人間の姿をとっていても動きは獣のようで愛らしい。

 不知火の体を抱き返す。合図もなしに潜られて驚くが、呼吸はできるようだった。魚、食べたからだってさ。不知火の呟きが、水にこもりながらも聞こえてくる。

 底に向かうに連れて暗くなった。水面を見るが、太陽は随分遠い。ここまで深度のある湖は少ないではないだろうか。時折我々のそばを魚影が過ぎった。音が段々、減っていった。

 ぼうと白く光るものがあった。あの大蛇だ。淡水の満ちた底に、一匹でじっとうずくまっていた。

「こんにちは」

 極自然に話し掛けてきた。

「あ、こんにちは」

「お呼び立てして、すみません」

「いえ、構いませんが……」

 彼と共に大蛇の前に降り立って、改めて向き合った。青白い体にばかり身惚れていたが、金色の瞳も美しい。蛇は再び、すみませんと謝る。ひどく澄んだ声だったが、ひどく悲しそうでもあった。

 あ、と思わず声に出た。不知火は昨晩、蛇の悲しみを嗅いだのではないか。隣を見る。赤い目は大蛇を真っ直ぐに見上げていた。

 異形同士、やはり通ずるものはあるようだ。一抹の寂しさを覚える。私では埋めてやれない疎通だ。

「ハルさん」

 呼ばれて驚きつつ、はい、と返事をする。大蛇は多分笑った。相変わらず、あぶくのようにぼこぼことした笑い声だ。

「魚を食べたことを気にされていたそうですが、問題はありません」

「あ、え、そう、ですか……」

「むしろ、喜ばしいことです。私はすべての生活のために、湖を育てていました。しかし他の生き物はともかく、人にはあまり関係がありませんでした」

「ああ……縁切り鏡という伝承を聞きました」

 あぶくの笑いがまた響く。

「人は面白いですね。でももう、疲れました。ハルさん、不知火さん、私はこの湖を中心に、付近を守りながら暮らしていました。竹藪も、川も、この湖から成っているようなものです。伝承は嘘です。村人は段々、この湖を都合の良い隠し場所として、使い始めました」

 蛇は長い身をずるりと解いた。月のように青白く光る体が、ゆったり波打って湖の底を照らし出した。

 腐った木がまず見えた。尾の先が揺れ、底の泥を掻き回すと、農具のようなものが現れた。骨も、続けて顔を出した。家畜の骨だと蛇が言った。

「旅人も、この湖に物を捨てることがあります。穢れていく度に、私の力も落ちていきました。今はもう庇護する力も、庇護する意思もありません」

「それはあなたの好きにしはったらええと思うんですけど、その、我々に話をする理由はあるんでしょうか」

「そりゃ、ひとつしかないだろ」

 不知火の言葉に合わせて、蛇が尻尾を振った。

「不知火さんは悔恨が、死にゆく人間の発する最後の呪いがお好きと聞きました。なので、協力してほしいのです。この湖や付近の緑を守るために、あの村を壊す協力を」

 ぼこぼこと蛇が笑った。私の隣で不知火も笑い、湖の底は青白さと赤さに包まれた。


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