3
全力で走ったせいで蕎麦を吐きそうになった。転がり込むように湖の岸辺へと戻ってきた私に驚いたのか、不知火はがばりと起き上がった。もう昼過ぎだったが、ずっと寝ていたらしかった。私だと認めれば、尻尾を大きく振ってから再び丸まった。
「ハル、どうしたの」
不知火は大きな欠伸を落とす。慌てて駆け寄り足元に縋りつき、
「あの、昨日食べた魚、あれあかんかったかもしれん」
状況だけを伝えれば、不思議そうに見下ろしてきた。
「腐ってたのか? おれが食べた骨は、そうでもなかったけど」
「そうやない、さっき村で聞いたんや」
「ああ、いないと思ったら、村に行ってたの」
「ほんまは昨日の蛇のことを調べるつもりやった」
「変なやつだったね、いい匂いだった」
急に蛇を褒め始めた。異形同士、通ずるものでもあったのだろうか。私には唸り声や、あぶくのような音しかわからなかった。
蛇について聞きかけた。そうではないと思いとどまり、村で得た伝承について、掻い摘んで説明した。彼は尻尾で私の体を撫でながら聞いていた。
「そういうわけやから、慌てて帰ってきた」
締めくくると不知火は頷いた。
「おれとあんたが、離れちまうかもしれない、って話で合ってる?」
「合うてる」
「特に問題ないと思うんだけど、嫌なの」
えっ、と思わず変な声が出る。
「嫌や、え、不知火は、嫌やないんか?」
「うん。匂いで探せると思うから、ずっと会えないってことはないだろうし」
「……せやけど、離れてる間は、寂しいやろ」
「それは、そうかもしれないけど」
尻尾が巻き付いてくる。おれはずっとひとりだったからと、小さな声で不知火が呟いた。そうだったと、はっとした。
丸まっている体の真ん中に入り込み、腕を広げて抱き締める。離れたくないのは私なのだ。私こそ、やっとできた大切な相手が彼だけだった。
不知火はぐるぐる唸りながら顎を擦り付けてくる。甘える仕草が可愛らしい。手の届く範囲を撫でてやり、伝承は結局伝承やしなと、自分を納得させるためにも声に出した。不知火も、同意のように唸った。その直後に悲鳴が聞こえた。
湖を囲む木々の合間に、一人の女性がいた。年齢はよくわからないが、大きな木箱を背負っており、旅人のような雰囲気だった。じゃれついている場面を見られて恥ずかしくなった。こんにちはと声をかけつつ体を離した瞬間、不知火が飛び掛かっていった。
血まみれになった不知火を洗ってやらなければと腕まくりをした。ところが不知火は振り上げた腕を途中で止めた。女性はその場に尻もちをついていたが、様子が少し、変だった。
「
両手を組み合わせて結びながら、どこかうっとりとした目で不知火を見上げていた。不知火が困ったように振り向いた。彼は自分に恐怖を持たない人間を食べないのだ。
女性は
「私は各地の伝説を調べて、書物にまとめる仕事をしていたんです。でも、ここに来てからやめました。縁切り湖の伝説がどうしても作り話に思えなくて、ずっと調べているんです」
「蕎麦屋の旦那さんは、縁切り鏡とおっしゃってましたが」
路は頷き、前のめりになった。
「似て非なる伝承です、それは。村内で伝聞により伝えられた結果、細部が変わり歪んでしまったものが縁切り鏡。
「あの、近いんやけど」
「あっすみません」
あまり得意ではない性格のようだ。助けを求めて不知火を見るが、無視された。
私の嫌気に気付かないまま、路は更に言い募る。
「それでですね春之介さん、縁切り鏡ではなく縁切り湖というのは人間ではなく神様が主体の話になるんです。この湖には守り神が棲んでいて天災や飢餓などに襲われるたび付近の生き物を助けたとされていますが、私がどうしても確認したくなり調べ続けていたのはこのほかでもない神様についてなんですよ。不思議なことにどんな神様であるのか見た目の記述がないんです。文献を探してみましたがはっきりとせず、一眼でわかる異形だとしか記されていない。ただ目を奪われるほど美しいとの記述は何を調べても一致しているんです、そう、あの化け物のように!」
路は勢いよく不知火を指差した。彼は全く興味のない様子で湖の表面を眺めていた。
きっと不知火は、私と同じことを考えている。
伝承の異形とはあの青白く美しい大蛇のことだと思いながら、湖を眺めているのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます