5
咆哮が轟いた。慌てる余市が振り向くよりも早く、彼が煙を散らしながら飛び込んできた。私と余市の間にすばやく割り込むと、太い前足で余市の体を薙ぎ払った。
肉片が煙の中に飛び散った。頭が首から転げ落ちて、一度弾んでから頭蓋骨に変化した。眼窩からはやはり煙が立ち上る。仕組みを考えていると彼がこちらを向いた。背中に乗せてくれるのかと思えば、肩をぐっと踏み付けられた。
「わっ、なん、なんや?」
困惑するが、思い出す。私は先程まで不安を覚えて苦しんでいた。それは彼の好物だろう。なら、このまま食われてしまうのだ。
肩の力を抜く。せめて楽に殺して欲しいと言えば、彼は一度首を振り、私の顔をべろりと舐めた。ひと舐めで一気に顔全体を舐められたからか、悪寒に似た衝撃が背筋を走った。
「まずい」
「え」
獰猛な獣の姿でも、感情は多少読み取れた。彼はあからさまに顔を顰め、くしゃみをひとつ落とした。唾液が思い切り顔にかかり、ちょっと咽せた。
「不安の匂いももうないじゃないか、本当に、変な人だな」
「それは……」
来てくれたのだと思った瞬間、安心した。彼の言う通りに気を抜きすぎかもしれない。
反省していると彼の腕が腹に乗った。鋭い爪は収められていたが、ぐっと押されて堪らずえずいた。
「重た……何しとるんや……っ」
「吐いて。あの饅頭は無理かも知れないけど、飲んだ茶なら吐けるだろ。まずいし臭いし最悪だ!」
ぐるる、と喉の奥から唸りが漏れている。わかったと返事をしたかったが、開いた口からは濁った音がこぼれた。彼は更に私の腹を踏み付ける。圧迫された内臓が、体の中で悲鳴を上げた。
潰れた蛙のような情けない声が出た。直後に喉が引き攣り、胃が数度痙攣した。吐瀉物は仰向けになっていたせいで口周りを酷く汚した。咳き込みながら体を丸めようともがけば、彼は私の腹から手を退けた。
ふわりと体が浮く。彼が私の着物を噛み、持ち上げていた。背中によじ登り落ちないようにしがみつく。
彼は走り出そうとしたが、間もなく煙が消えた。私達は開けた場所に立っており、雑草がまだらに生えた大地には、棒きれがいくつも生えていた。蔦の巻き付いたものや半ばで折れたものなど、状態は散々だが何であるかはすぐに分かった。
墓地だった。山の中に設けられたその墓地は、取り囲んだ樹木に見下されながら朽ちていた。
「あの村の、墓地なんかな……」
「さあ、多分。なんにせよあんたは、ここでこいつに組み敷かれていたよ」
彼は視線を地面へと向ける。視線の先には白骨が転がっていた。余市だと、すぐにわかった。少し離れた位置に落ちた腕の骨が、蛆の這う灰団子を握り締めていた。
私たちが見ている前で、骨はゆるりと煙を吐いた。細かく途切れながら空へ登っていく白い煙は鎮火寸前のように薄く、風が一陣吹いただけで消えてしまった。
無数の棒切れへと視線を戻した。ここにあるものは、悔恨や無念ではないのだろうか。彼に聞いてみれば鼻をひくつかせたが、ぶしっと音を立ててまたくしゃみをされた。
「腐っちまってるよ、全部」
「感情がか……?」
「ああ、煮詰まって燻って、とても食えたもんじゃない。生きたままが、一番いいんだ。腹が減ったよ、早く何か食いたい」
「……腕くらい食わせようか?」
「そういうのは、おれに怯えてから言ってくれ」
彼の真っ赤な瞳が私を見つめる。綺麗な色だ。食べられてしまっても特に構わないと、初めて会った時から思っている。
「はるのすけ」
急に呼ばれてどきりとする。首元に抱きついたまま返事をすると、断りもなくまた顔の表面を舐められた。
「相変わらずひどい味だ。洗ったほうが、いいよ」
勝手に舐めたくせに文句を言った。しかしながら、自分でも臭うくらいにひどい状態ではあった。
彼は墓地に背を向けた。数分進めば木々の合間を流れる小川に辿り着き、鳥の羽ばたきが聞こえてきた。清浄な空気に満ちていた。
私を降ろしてから、彼は川の水を飲み始めた。隣にしゃがみ、顔を洗った。髪についた吐瀉物もついでに流し、少しだけ水を飲んだ。冷たくてうまかった。空になった胃袋は、自然の水分を喜んだ。
腰の辺りを頭で押された。彼は慣れた様子で私を乗せ、私も慣れた手つきでしがみついた。
「あ、待ってくれ」
走り出そうとした彼を止めた。荷物を改め、旅人から奪った分だけを取り出して、最後に再び墓地に寄って欲しいと頼んだ。彼は鼻を鳴らしたが従ってくれた。
余市の骨はもうなかった。土の中に戻ったのかもしれないが、確認する気はない。長いは無用と、荷物を棒切れたちのそばに投げ落とした。大体の元凶であるし、思うところもあったのだ。
あの旅人はともすると、余市の村を目指していたのではないだろうか。村を出た住人の子孫かなにかで、理由はわからないが、古い地図で確認しながら村を探し歩いていたと、仮定してもおかしくはない。何より旅人は、灰団子を持っていた。
ならここに放っていく方がいい。それに余市も、私と彼をはじめに見た時は残念そうだった。あの表情は出て行った村人が帰ってきたとの勘違い故かもしれないと、今は思っていた。
形式的に手を合わせて冥福を祈る。彼はぐるりとこちらを向いた。
「なんだい、その仕草」
「え? ううん、なんやろう、さっさと成仏してくれ、かな」
「ふうん」
彼は合図もせずに走り出す。必死にしがみついている間に元の山道へと戻っていた。下りに差し掛かっている。もうすぐ山を越えて、やっと我々の、あてのない旅が始まるのだと私は思った。
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