けぶる骨
1
村を出た試しがなかった。出て行った村人は何人かいたが戻ってきた者はおらず、なんにせよあの村はなくなる運命だったと、彼に話した。彼は相槌を打ちながら、太い前足で押さえつけた人間の頭をかじっていた。
辺りはすっかり暗かった。私たちは、まだ山の中にいた。
「こうやってあなたと旅をするうちに、村を出た奴に会うたりするかもしれん。俺は顔を覚えとるけどもあっちはわからん、ほんまに出会したとしても特に関わるつもりはあらへんけどな、あるかも知れんから一応言うとくわ」
彼が顎を動かすたびに頭蓋の砕ける音が響いた。脈の動きに沿って、噛み切られた頸動脈から血が溢れ出ている。
「せやけど、この山がここまで深かったなんて知らんかったわ。外に出てみるもんやな。村にいても暇やったから、読書くらいしかすることがあらへんかった。ああでも、あなたの役にはちょっとくらい立つかもしれん。一般的な通り道やら、都の方角やら、使える薬草やら、雑多な知識は虫食い状に一応持っとる。……食事、終わったみたいやな」
「終わったよ」
彼は人の姿になっていた。足元に転がる遺体は無惨で、臓腑が山道に散らばっている。道に迷った旅人らしかった。所持品にあった地図は随分と古く、潰れた故郷が大きな文字で載っていた。
彼はぼさぼさの髪を掻き毟る。どうも、癖のようだ。口元は食ったばかりの血肉で赤く汚れてしまっていた。
「拭いた方がええよ、おいで」
「いや、べつに、おれは……」
「ええから、ほら」
まごつく彼の口元を、着物の袖で拭ってやった。多少の金と、気に入っている書物と、紙の束と、日々を書き記す筆くらいしか持っておらず、拭いてやるにはそれしかなかった。
大人しく拭かれている姿は少年を連想したが、体はそれなりに大きい。成人した男にしか見えず、ただ瞳だけは、陽の沈んだ暗闇の中で覗けば赤色に光る。日没した今も当然赤く、実際に目にしたことはないが、柘榴石のようで美しかった。
「そういえば、あなたの名前を知らんな」
「おれだって知らない」
即座に返され、私の名前かと思ったが、違った。
「母さんはおれに名前をつけてくれていたらしいけど、父さんにそんな習慣はなかったから、呼ばれたことがないんだ。だからおれはおれの名前を知らない。呼びたかったら、好きに呼べばいいよ。化け物でも異形でも獣でも旅人でも、なんでもいい」
そう言われてしまうと困った。少し悩むが保留にし、今日のところはどこかで寝ようと提案した。その直後に私の腹が鳴った。彼は目を見開き、噴き出すように笑ってから、足元の遺体を蹴った。
「あんたは流石に、これは食べないか」
「ううん、ちょっと試してみてもええけど」
「血肉自体はまずいぜ。でもおれに怯える味は、美味かった」
「俺にはわからんからなあ」
遺体を見下ろしつつ考えるが、どちらにせよこれを口にするほどの飢餓感はまだない。
こちらをじっと見つめる彼と視線を合わせる。二つの赤い光が、闇の中に浮いている。ウサギとか、鹿とか、適当にとってこようかと、気遣う素振りで提案までしてくれる。
「いや、……こっちにするわ」
遺体のそばに膝をついた。反射的に手を合わせてから、古い地図の入っていた荷物を再び改める。暗くてよく見えない、と思った瞬間に明るくなった。獣に戻った彼の瞳は大きく、うまく使えば明かりとして機能するようだった。
荷物の中には見たことのない食料が入っていた。芋を練って丸めたような物体で、食べてみると実際に芋だった。味は然程だったが腹持ちはしそうだ。ありがたくいただいて、ひとまずの空腹は治った。
彼は私の食事を黙って眺めていた。終われば待ち兼ねていたように、頭で肩をぐいと押した。
「背中、乗って。藪に入れば、少し休める穴倉くらい見つかるだろうし……そこで眠ろう」
頷いて、逡巡するが、遺体の荷物を拾い上げた。放っておいても朽ちるだけであり、今更罪をいくつ重ねようとも、同じだった。
私と旅人の荷物をまとめて抱えながら背中に乗ろうとした瞬間、待てと鋭く止められた。盗人の真似が許せないのだろうかと不思議になるが、彼の目は別方向を向いていた。
「あの遺体、変じゃないか?」
「え?」
振り向いたところで驚いた。
赤い光に照らされた、先程食い殺されたばかりの遺体は既に白骨になっていた。呆然と見つめていると骨はにわかに軋み始め、白い煙がゆっくりと立ち上ぼり始めたのだった。
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