06-04


 劇を演じ終わったとき、その世界に没入していた俺は、途方もない解放感と寂しさとを同時に覚えた。


 終わったのか、とそう思った。

 俺たちは声も出せずに互いの顔を見合わせる。

 終わった? 終わったよな。そんなふうに確認しあうみたいに。


 少しして、ぱち、ぱち、と、小さな音がした。


 控えめな音は、少しずつテンポを上げて、連なりはじめる。それが拍手なのだとわかった。


「えっと……」


 何を言えばいいのかわからなかった。終わったのか? 終わったんだ。

 須川が、はっとしたみたいに口を開いた。


「あ、ありがとうございました」


 そう言って彼女は頭を下げた。


 紗雪はまた拍手をする。


 何かを聞きたげな須川の代わりに、俺が口を開いた。それは俺が聞きたいことでもあった。


「どうだった?」


 紗雪は、さっきまでの緊張なんて忘れてしまったみたいに笑う。


「よかった」


「ほんとに?」と須川が訊いた。


「えっと、ほんとに。です。あの、脚本は……」


「こいつ」と俺は須川を示した。


「よかったです。『ペーパームーン』みたいで。……あ、書いた人に、みたい、っていうのは失礼かもしれないですけど、でも、よかったです」


 そのときの須川の表情の変化は、ものすごく複雑だった。


 最初は信じられないみたいな顔をしていて、次に何かに驚いて、それから俯いて涙ぐんだ。


 大袈裟だな、と俺はやっぱり思うけれど、須川の気持ちなんて、須川にしかわからない。残りのふたりの様子をみると、須川を見て微笑ましそうな顔をしていた。


「ありがとう」と顔を伏せたまま須川は言った。


「『ペーパームーン』。……わたしがいちばん好きな映画なの。とっても嬉しい」


 紗雪は須川の表情にうろたえて、俺の方を見た。俺が黙ったまま笑うと、紗雪もほっとしたみたいに笑った。


「お兄ちゃんの演技もよかったよ」


「ほんとに?」と俺は思わず聞き返してしまった。


「うん。棒読みなのがキャラクターに合ってて逆によかった」


 その言葉に、みんなが声をあげて笑った。




 ◇




 みんなと少しの間だけ話をしてから、紗雪は帰ると言いだした。


 正門まで送ってくる、というと、みんなは黙って頷いてくれた。気を利かせてくれたのかもしれないし、ただ疲れて何も言う気にならなかっただけかもしれない。


「本当に、よかったよ。正直、意外だった」


 歩きながら、紗雪はそう言った。人ごみを気にする様子は、あまりない。


「お世辞じゃなくて?」


「うん。わたし、そういうことには嘘つかないもん」


 たしかに、そうかもしれない。


 正門までたどり着いて、「ひとりで帰れるか」と訊こうかどうか迷っているうちに、「それじゃあ帰るね」と紗雪は言った。


「大丈夫か?」


 思わず口をついて出た言葉に、紗雪はからかうように問いを返してきた。


「大丈夫じゃないって言ったら、家まで送ってくれる?」


 俺は思わず黙った。


「冗談だよ。大丈夫。バスに乗ったら、座ってるだけでもう家に着くんだから」


 どう返事をしていいか迷って、俺は黙り込んでしまった。


「大丈夫だよ」と紗雪は繰り返した。


「うん。困ったら連絡しろよ」


「過保護」


「心配くらいさせてくれ」


「うん。わかってる。ありがとう。……お兄ちゃん、がんばってね」


 そう言って、紗雪は俺に背を向けて歩いていった。


「ありがとう」


 そう声をかけると、紗雪は肩越しにこちらを振り向いて、笑って手を振った。そのあとはもう一度も振り返らなかった。そうしようと決めていたみたいに。


 角を曲がって見えなくなるまで、俺はその背中をずっと見送っていた。見えなくなってからも、紗雪が歩いていった道を眺め続けていた。


 やがて振り返ると、賑やかな喧噪やざわめきの中に、自分がいるんだと気付いた。


 今、俺の視界にうつっている人たちについて、俺はなにひとつ知らない。でも、きっと、みんな、いろんなものを抱えて、いろんなものとそれぞれに向き合おうとしている。もしかしたら、いまこの瞬間に、何かから逃げたくて、投げ出したくて、泣き出しそうな人もいるかもしれない。外から見ていても、それはわからない。


 空っぽのようにも見えるし、そうじゃないという気もする。

 目の前の景色が、不意に、色づいて見える。


 人々のざわめきや表情が、ひとつひとつの声がまとう感情が、仕草や動き方のひとつひとつが、俺の目にやわらかな色彩をまとって飛び込んでくる。


 それは一瞬の錯覚だ。


 けれど、あざやかな、色とりどりの、かぼちゃ畑の幻が、その幻のなかに自分も含まれているんだという感覚が、しばらくのあいだ消えないまま、ちゃんと俺の中にあった。




 ◇


 


 教室に戻ろうと廊下を歩いている途中で、中からのざわめきに気付いた。

 さっきまで部員たちしかいなかった方向から、聞き慣れない人たちの話し声が聞こえる。


 よその教室からだろうかと、そう思ってボランティア部の割り当て教室に入ると、そうじゃなかった。


 中には、客がいた。

 それも、ひとりやふたりじゃなかった。


 二組くらいの親子連れ。子供の方が歩き疲れて、休むついでに劇でも見ようとやってきたのかもしれない。ほかには、うちの学校のジャージをきた三人くらいの生徒が、広瀬と話している。「コテコ」と、そう呼んでいるから、去年、広瀬と同じクラスだった奴らなのかもしれない。そのうちのひとりは気まずそうにしていた。もしかしたら、と思ったけれど、それはあくまでも想像でしかなかった。


 須川は須川で、見慣れない女子と何かを話しているみたいだった。どうしたものかと困った俺は、ひとり憮然とした顔で教室の隅に立っている名越を見つけてほっとする。


「どうしたの、これ」


 訊ねると、名越は不機嫌そうに教えてくれた。


「広瀬の知り合いが来た」


「それはわかる」


「須川の方は、演劇部の先輩だって」


「演劇部の……?」


 桐島の話だと、不仲だっただけのように聞こえたけれど、わざわざやってきたのなら、それだけじゃなかったのかもしれない。それもあくまで想像だ。


「……どうして名越は不機嫌そうなの?」


 彼は何かをこらえるみたいな顔をして、溜め息をついた。


「誰も、パネル展示には目もくれない」


 てっきりやっつけ仕事だろうと思っていたけれど、どうやら真剣につくっていたらしい。


「にしても盛況だな。さっきまではなんだったんだ?」


「時間帯の問題じゃないかな」


「時間帯?」


「文化祭を回る立場で、もし劇を観るなら、いろいろ見て回ってからにしたくない?」


 わかるようなわからないような理屈だった。


「まあ、来てもらえるんだったら、こっちとしては理由はどうでもいいよね」


「須川は、いろんな意味で真っ青になってるけど」


「やるとなったら平気でやるよ」


 須川のことをわかってるみたいに、名越は言った。


「さっきだって、始まったら堂々としてただろ」


 たしかに、そうだったかもしれない。自分のことで手一杯だから、そんなによくは見ていなかったけれど。


 それぞれに話を終えたらしい須川と広瀬が、俺たちのところにやってきた。


「時間にはまだ早いけど、どうする?」


 須川の質問に、俺たちは顔を見合わせる。


 名越と広瀬が、にんまりと笑った。


「満席だよ。やっちゃおう」


 客に席についてもらい、俺たちはカーテンを閉める。


 静まり返った教室の中で、二度目の幕が上がる。





  


 そのあとのことは、正直、よく思い出せない。

 なにもかもがあっというまに終わってしまった気がした。


 終わったときの観客の表情がどんなだったかも、よく思い出せない。ただ、たぶん、反応は悪くなかったんだと思う。広瀬も須川も名越もみんな、満足そうだったから。


 それはもしかしたら、「学生の創作劇だから」という理由の、かなり甘めの評価が理由だったのかもしれないし、あるいは、みんな作った人間たちを前につまらなそうな顔をするのが嫌だったのかもしれない。深読みしようと思えば、いくらでも深読みできる。


 でも、俺はそうは考えないことにした。


 われらが愛すべき顧問が、物事は思っているより単純だ、と言っていたから、俺はその言葉を信じることにした。


 それに、仮に誰かがつまらないと思っていたとしても、関係ない、とも思った。


 紗雪はよかったと言っていた。少なくとも紗雪は嘘をつかない。この物語は、少なくとも紗雪にとってはいいものだった。


 ひとつの物語は、それ以上の価値を必要とするだろうか。


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