06-03
夏休みが明けて一月もしないうちに、文化祭が始まった。
ボランティア部の割り当て教室では、名越が合間を見て作り上げたらしい資料がパネル展示されていた。「効果的利他主義の効用」。
小難しそうな題だと思って名越に概要を聞いたら、どうやら、「無理のない範囲でできるかぎり、かつ、効率的に、人にやさしくしましょう」ということらしい。ウィキペディアマニアの須川は「効果的利他主義」という言葉について知っていて、「わたしはあんまり好きじゃないんだけど」と首をかしげていた。
問題だった人形劇の方は、夏休みが終わるころには完成の目途が立って、二学期が始まってからの少しの時間で練習までしっかりとすることができた。
教室の半分がパネル展示で埋まっていたから、人形劇のためのスペースはもう半分だけで、席は十に満たないくらいしか用意できなかった。狭いぶん舞台が多少控えめな大きさで、須川はちょっと不満そうにしていたけれど、まあ、そこはあんまり問題じゃない。
じゃあ何が問題かというと、客が来ないことだった。
それは当たり前と言えば当たり前の話で、急なことだったから宣伝なんてろくにできなかったし、ボランティア部はサボり部同然の弱小部で、誰にも気にかけられていない。もちろん何もせずに満員御礼だなんて期待はしていなかったが、例年通りのはずのパネル展示すらほとんど見に来る人がいないというのはさすがに心が折れそうだった。
「位置が悪いね」と名越は言った。みんなが頷いた。部室よりはマシとはいえ、割り当てられたのは校舎の端の空き教室だっだ。何かのついでに覗いてみようと思う人はいないだろう。
文化祭の案内冊子には、人形劇をやることも、開演の時間も載っているはずだったが、ボランティア部が人形劇なんかやったところで目新しさもなにもない。気にされないのは当然のことかもしれない。
「ひとりも来ないなんてね」
「まあ、想像できたことではあるけどね」
広瀬と名越のそんなやりとりを、須川は黙って聞いていた。
「どうした?」
そう訊ねると、彼女は驚いたみたいに顔を上げて俺を見た。
「いや、なんていうか、緊張と不安で……」
須川は不思議だ。
書いているときは不安なんてまったくないように見えるし、名越と口論になったときなんかは、決して自分を譲らなかったのに、こういう場面になると、途端に不安そうにする。
でも、それも仕方のないことなのかもしれない。須川にとって大事なことなんだろうから。
「心配するなよ」と俺は言った。俺だって一応演じる役を割り当てられていたから、緊張がないわけじゃない。それでも彼女のそれと比べたら、ずいぶんささやかなものだろう。
それでも、他にかけられる言葉なんてなかった。たいして効き目はなかっただろうけど、須川は一応、うん、と頷いてくれた。
そんな話をしているうちに、最初の開演時間が近付いてきた。
客はひとりも来ないかもしれないな、と俺は思っていた。それでも仕方ない。
だから足音が聞こえたときだって、きっと織野だろうと思っていたけれど、違った。
足音の主は、おそるおそる教室を覗き込んできたかと思うと、すぐに顔を引っ込めて廊下に隠れた。
「お客さん?」と広瀬が小さな声で呟いた。須川は緊張した様子で何も言わない。
名越が外に出て様子を見ようとしたので、俺はそれを手で制した。
「なに、矢崎」
「……ちょっと待ってて」
そう言って慌てて廊下に出ていくと、すぐそばに紗雪が立っていた。
俺は本当に驚いた。
「紗雪?」
声をかけると、ゆっくりとした動きで俺を見る。
「お兄ちゃん」
と、少ししてから気付いたみたいに、紗雪は言った。
「おまえ、一人で来たのか?」
顔をこわばらせたまま、紗雪は頷いた。怒られる前の子供みたいな顔をしている。ひとりで買い物に行くのも嫌がるくせに、どうして人がごった返すような場所に、誰にも連れられずに来たんだろう。その額に汗が滲んでいるのを見て、俺は苦しくなった。
「お兄ちゃんが、人形劇やるって言ってたから」
気を抜いたら聞き取れないような小さな声で、紗雪は言った。
胸が詰まるような思いがした。
「迷ったけど、来てみた」
その表情が、どうしてか、俺のことを心配しているみたいに見えて仕方なかった。
いろいろなことを言いかけて、やめた。
無理をするなと言おうと思ったけど、それを俺が言うのは筋違いだ。
紗雪は自分の判断で、ひとりで、ここまでたどり着いた。だったら俺が言うべき言葉は、そんなことじゃない。
「よく来てくれた」と俺は言った。
「客がひとりも来なくて、みんな落ち込んでたんだ。もう開演時間だ。見ていってくれ」
紗雪はほっとしたみたいに笑った。
「わたしひとり?」
「うん。嫌か?」
「……ううん」
俺は紗雪の背中を押して、教室の中へと招いた。
三人が揃って俺たちの方を見たとき、紗雪のからだがきゅっとこわばるのがわかった。
何か言われるより先に、俺は口を開いた。
「妹」
「あ、妹さんだったんだ」
広瀬が納得したように笑ってから、「こんにちは」と紗雪に声をかけた。
こんにちは、と紗雪は消え入りそうな声で答えた。
「人形劇、見に来てくれたの?」
紗雪は黙ったまま頷いた。
「人見知りするんだ」
黙っていられなくてそう口を挟むと、「猫みたいな言い方しないで」と紗雪が俺の腰のあたりを軽く叩いた。
「そうなんだ。来てくれてありがとう」
広瀬の言葉に、紗雪は不思議そうな顔をした。歓迎されたのが意外だったみたいに。
なんだか落ち着かないような顔のまま、紗雪は広瀬に勧められた客席の一番前の椅子に座った。「特等席だよ」と名越が言った。
「じゃあ、お客さんも来てくれたことだし、始めようか」
広瀬がそう言ったとき、須川が俺の肩をトントンと指先で叩いた。
「ね、矢崎。矢崎の妹さんって、たしか、映画好きじゃなかったっけ?」
「そうだよ。その話したっけ?」
「どうしよう、きっと目が肥えてるよね」
「まあ、俺よりは」
「大丈夫かな……」
往生際が悪い。
「俺の妹がわざわざ観に来たんだ。いまさらやらないなんてどうせ言えないだろ」
須川は目を丸くした。
「……矢崎って、シスコン?」
俺は言葉に詰まって目をそらした。
◇
かくして幕は上がった。
話の筋はシンプルだった。
ひとりの男が、森の奥で暮らしている。
野菜をつくり、魚を獲り、ひとりで静かに暮らしている。
ある日、男がいつものように森の中を歩いていると、ひとりの女の子に出会う。
腹を空かせていたらしい彼女を、彼は家に連れ帰り、食事を振る舞う。
それを食べたら、男は少女を森の出口まで連れていくという。
少女は首を横に振って、帰る場所がないと言った。
男は戸惑うが、少女に請われ、一晩だけ自分の家に泊まることを許した。
次の日になっても少女は出ていかなかった。
彼女は男が畑を耕すのを見て真似をしたがり、魚を獲るのを見て目を丸くして感心した。
次の日も次の日も、少女は帰ろうとしなかった。
男は困り果ててしまった。
こんなところは子供が暮らすところではないと思っていたのだ。
結局男は、無理やり少女を納得させて、森の外の町まで連れて行った。
男にとって町は居心地のいい場所ではなかった。
少女を連れていくと、街の人たちが口々に男の噂をした。
あれは人さらいじゃないか。また子供をさらっていたのか。
いなくなっていたのは、またあの屋敷のお嬢さんだ、と。
少女に説明を求められ、男は仕方なく自分の身の上話をはじめた。
かつてはこの街で暮らしていたこと。屋敷の令嬢に恋をしたこと。ふたりは愛し合っていたが、女は望まない結婚をさせられそうになり、ふたりは駆け落ち同然で森の中で暮らし始めたこと。怒った屋敷の人間が、強引に娘を連れ戻し、男を人さらいと呼んで街から追い出したこと。それを聞いた少女は、何かピンとこないような顔をしていた。
少女を屋敷まで連れていくと、男は人さらいだと罵られた。少女は身なりのいい男に抱きしめられ、居心地悪そうにしていた。男は追い返されるようにして街を後にした。
男はそれから元通りの生活を続けた。ただ何もなかったように、以前のような生活を繰り返した。そしていつものように森の中を歩いているときに、また、その少女に出会った。
少女は、あの屋敷に自分を見てくれる人はいない、と言った。
ここで、一緒に暮らしたい、どうしてもここで一緒に暮らしたいんだ、と。
男はそれを受け入れた。
◇
この劇にはいくつか問題があった。
まず、内容があまりわかりやすくないこと。須川は「自分なりにがんばってみたんだけど」と言っていたけれど、お世辞にも子供にもわかりやすい話とは言えない。それにくわえて、人形で演じるというのがネックだった。表情や小道具で展開を表現するのは難しいため、話の流れが台詞頼みになる。その肝心の台詞に対して、彼女は強いこだわりを持っていて、どうしても情報が不足しがちだった。
名越は嫌がったが、須川はこの劇にナレーションを入れることでその問題を解消しようとした。場面や時間の経過をわかりやすくするためには必要だったし、台詞だけではわかりにくい情報を補足することもできた。演劇だと考えると、そういう部分も台詞で表現しなければならないが、これは人形劇だし、いろんな人に伝わるものを、と考えると、必要な配慮だとも言えた。
須川が自覚していた問題点はもっと具体的だった。男が少女に自分の身の上を語る場面が不自然だというのだ。「この主人公なら、きっと少女に聞かれても自分の話なんてしない」と彼女は言った。「でも、ここでそう語らせておかないと、男の背景がどこでも説明されない。そうなると物語の主題が見えない」というのが名越の言い分だ。最終的には名越の意見が採用された。須川はそれが不自然に見えないようにだいぶ苦労したみたいだった。
もうひとつは、少女と男の関係性が曖昧にしか描かれていないこと。これは須川いわく、「『またあの屋敷から』って台詞があれば、主人公の昔の恋人と少女との間に、何か関係があるのかもって想像できるはず」らしい。そして年齢を照らし合わせれば、少女がかつての恋人の娘だったとわかるはずだ、と。これについては、少女の台詞の中に、母親が死んで、父親が意地悪で自分を見てくれない、と語るものがあるため、想像できる人はわかるようにはなっていたかもしれない。
名越はそこをはっきりと語らせるべきなんじゃないかと言った。
「たとえばラストで少女が男に『あなたがわたしのお父さんなんでしょう』と言わせて、男がそうかもしれないと頷く場面でもあれば、このふたりの関係性がわかりやすくなる」と。須川は徹底的にこれを拒んだ。「そこだけは譲れない」。いずれにせよ、少女の父親が主人公の男だということは、須川の中でははっきりと決まっていたらしい。
最後の問題点は、森の中で暮らし始めたふたりの今後のことだった。屋敷の人間は、一度森の中の男の家まで、かつての恋人を連れ戻しにきている。男と少女が一緒にいたことを屋敷の人間が知った以上、少女を連れ戻しにやってくるはずだ。
「だったら逃げるところまで書くべきじゃないか」と名越は言った。
「でも、それじゃあ終わりらしくない」と須川は言った。
「そのあとの生活に何が起きるにせよ、ふたりは互いに互いを求めて、受け入れ合う。そのあとの生活をどのように乗り越えていくかは、物語の中で語られなくてもいい」と。
どちらの言い分もわかるような気がした。
須川がそこまで考えたうえで決めたことならと、名越はその意見を受け入れた。
そのようにして脚本は出来上がった。
役者は、少女の役が広瀬、主人公の役が俺、須川はナレーションと街の人の声を演じ、名越が屋敷の男と、やはり街の人々の役を演じた。俺と広瀬が主役をやらされたのは、単に名越と須川の方がやることが多くて忙しかったからだった。
脚本の出来は悪くなかったと思うが、いかんせん、人形のイラストには自信が持てない。
それもまた仕方ない。
やれるかぎりのことはやったつもりだ。
だったらあとは演じるだけだ。
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