06-02
そのあとは、いつもどおり、人形劇つくりの続きが待っていた。脚本の細部に挟む台詞で、名越と須川がちょっとだけ喧嘩をしたりもした。
「ここで喋らせすぎたら作為が見えすぎてわざとらしいよ」と須川は言い、「何気なく流しちゃったら台詞と物語のつながりが見えない」と名越は言った。そのどちらも、べつに間違いではなさそうだった。何を大事にするかということの違いなのだろう。
飲み物を買いに行く、と言って、俺はひとりで部室を抜け出した。自販機で紙パックのカフェオレを買って、そのまま屋上に続く階段を昇った。
誕生日、おめでとう。
ありがとう。
あまりにも突然で、驚いた。今日がそうだなんて、ずっと忘れていた。
一年前、俺は篠原にCDをもらった。好きなバンドだから、ちゃんと聞いてね、と彼女は珍しく強引だった。そんなふうにしていてほしかった。
あれから一年が経つのか、と、そう思うと、なんだかびっくり箱というより、玉手箱のようだった。
あれから俺は、なにひとつ変わっていないつもりだったのに、時間はおかまいなしに流れていた。こうやって、どんどん遠くなってしまうんだと思ったら、ひどく寂しかった。
屋上の扉を開ける。また、先客がいた。
フェンスの傍に立っていたのは、見覚えのある後ろ姿だ。
扉の音に気付いたのか、彼は振り返る。織野が煙草を吸っていた。
「ああ、矢崎か」
何気ないふうに、彼は笑って、携帯灰皿で煙草の火をもみ消した。
「昭和の不良じゃあるまいし、屋上で煙草なんて吸わなくてもいいのに」
俺が軽口をたたくと、「昭和と違って職員室が禁煙なんだから仕方ないだろう」と彼は笑った。いつもどおりのその態度に、俺は不思議と安心する。
織野は何も言わないまま、ポケットから何かを取り出した。
ルービックキューブだ。
「どうしたの、それ」
「ん。こないだたまたま売ってるのを見かけたんだ。そういえばやったことがなかったな、と思って、気付いたら買ってた。矢崎、仮にも先生だぞ俺は。敬語使えよ」
仮にも、と自分で言うあたりが織野らしくて、俺は笑った。
「ルービックキューブの色って、全部言えるか?」
突然のその質問に、俺は面食らった。六面体だから、全部で六色のはずだ。
「えっと、赤と青と、オレンジ、黄色」
あと二色が思いつかないでいると、織野は答えを言ってしまった。
「白と緑」
「そう、それ」
織野は手のひらに載せたルービックキューブを俺に見せてくれた。何のつもりだろう、と不思議に思って、俺はそれを慎重に眺めた。すべての色が、きっちりと揃っている。
「これは、オレンジの反対が赤、緑の反対が黄色、白の反対が青だ。さて、こいつをよく見てみろ」
俺は言われたとおりにもう一度その六面体に目を向ける。上が緑、横に見えるのが青と赤。
「さて、今、四面体の底は何色だ?」
俺は少し考えてから、答えた。さっき織野はなんて言った? 今は上が緑だから、その反対は……。
「黄色?」
「本当に?」
「そう言ってたよな?」
「うん。たしかにそう言った。でも、本当にそうだと思うか?」
そう言われると、なんだか不安になってくる。俺が覚え損ねたのかもしれないし、織野は嘘をついたのかもしれない。もしかしたら、別の色のマジックペンか何かで塗りつぶしてあるのかもしれない。そう考えると、どれだけ想像したって正しい答えになんて辿り着けそうにないように思える。
織野は答えに窮した俺を見て満足そうに笑うと、ルービックキューブをひっくり返した。
底になっていたのは、たしかに黄色だった。
「……なんだったんだよ、今のひっかけ」
「物事っていうのは、人が考えるより単純だ」
「そんな大袈裟な話かな?」
「そういうもんなんだよ。でもな、人が考えるより複雑でもある。たとえば」
言葉をそこで止めて、織野はルービックキューブをがちゃがちゃと無作為に動かし始めた。均一に揃っていた色はまたたく間にその彩りを変えていく。めちゃくちゃに塗り替えられていく。色がほとんどばらばらになったところで、織野はもう一度それを手のひらに載せて、俺に見せた。
「さて、底の部分は、今どんな感じだ?」
「えっと……」
赤の反対がオレンジで、緑の反対が黄色で、白の反対が青だったか……?
俺はしばらく考えたけれど、どうしてもどんな図柄になっているかがわからなくなって、考えることを諦めてしまった。
「こういうことだよ」と織野は言った。
「物事は思っているより単純な仕組みでできてる。でも、それが複雑に入り組んで、こんがらがってる。だから難しい」
そう言って織野はルービックキューブをポケットにしまい込んだ。
「どうしてそんな話を?」
「うん。昨日の夜思いついて、誰かに話したくてたまらなくなったんだ。そしたらたまたまおまえがここに来た」
思ったよりくだらない理由で、またほっとした。
「俺もまあ、そこそこ生きていて、人には言いにくいようなあれこれもそこそこ経験してきたつもりだけど、いまだによくわからないことばっかりだ。でもたぶん、こういうことなんだろうな。簡単に断言できたり、簡単に言い切ったりできることなんてそうそうないんだろう」
「どうして俺にそんな話をするんだ?」
同じような問いを繰り返すと、やっぱり同じような答えが返ってくる。
「思いついたことを人に言いたくなっただけだ」
本当にそうなのかもしれない。結局俺は、織野のことだって、よく知らないままだ。
そう考えたところで、不意に思い出したことがあった。
「そういえば、織野って」
「先生をつけろ」と彼は遮った。
「先生って、作家志望だったの?」
今度は、敬語を使え、とは言われなかった。
「なんだそれ。誰に聞いた?」
「広瀬が言ってた」
「広瀬? なんであいつがそんなこと知ってるんだ」
「……本当にそうなの?」
口が滑った、というふうに、織野は顔をしかめた。
それから長い溜め息をついて、ポケットから煙草の箱を取り出して、俺の方をちらりと見てからしまいなおした。
「広瀬はなんて?」
「いや。前に、そういうふうに勝手に思ってるって言ってた。たぶん夢破れた人なんだよって」
「想像?」
織野はおかしそうに笑って、かなわない、というみたいに肩をすくめる仕草をした。
「まあ、そうだな。作家志望……いや、そんな大層なもんじゃない。でも、まあ、人からみたらそうなのかもしれないな。でも、そのことについておまえに話すつもりはべつにない」
「うん。べつにいい。そんなに興味ないし」
あのなあ、と呆れた声をあげた織野の表情に、俺は思わず笑ってしまった。
「でもな、一言だけ言うけど、べつに……」
そこで、織野は言葉を止めた。
何かを間違えたみたいな沈黙があたりを漂う。それも、そんなに悪い気がしなかったけれど、織野は、やがてその静けさを破った。
「なあ、矢崎。おまえの目に、ここからの景色はどんなふうに見える?」
俺は、フェンスの向こうの景色を見下ろす。
並木道、遠くに見える山稜の線、堤防を走る運動部の姿、公園で遊ぶ親子連れ。景色はなにひとつ変わっていないように見える。……でも本当にそうだったんだろうか。ただ、俺が知ろうとしなかったからわからなかっただけだったんじゃないか。きっと、気付かないうちに少しずつ、変わっているのかもしれない。
「なんでなのか、分からないけど……」
俺は、質問の答えを、自分の頭のなかから探そうとする。
俺自身もきっと、なにひとつ変わっていないつもりでも、少しずつ変わっているんだろう。篠原といた頃の俺のままでは、きっといられないんだろう。漠然と、そう思った。
「……なんだか、色褪せて見えるんだ」
篠原のことを忘れたくなかった。でも、俺は自分が篠原のことを忘れていっていることにも気付いていた。なにも気にせず、腹を抱えて笑える自分に気付いていた。それがどうしても耐えられなかった。だから俺は、立ち止まったままでいようと思った。
篠原を記憶のなかに置き去りにして、俺だけ前に進むことなんてしたくなかった。
そうやっていつか、篠原を思い出として消化して、いつか痛みや悲しみを受け入れてしまうんじゃないかと思うと、怖かった。
でも、俺が立ち止まったままでも、世界はおかまいなしに変わっていくんだろう。みんな、当たり前の顔で歩いていくんだろう。
そうして立ち止まったままの俺は、みんなに置き去りにされていく。時間だけが、ただ過ぎていく。
それをきっと、俺は、寂しい、と感じてしまうんだろう。俺はいつかその寂しさを、篠原のせいにしてしまうかもしれない。
みんな、きっと、悲しみを受け入れるなんてこと、本心ではできていないのかもしれない。
ただ、立ち止まったままで置き去りにされるのが怖いのかもしれない。
だから、しかたなく、未消化のまま、抱え込んだまま、生きているのかもしれない。
広瀬が描いていた、棺桶を引きずる男の絵を思い出す。
それをどこかに埋めるわけでもないし、祈りをささげれば癒えるわけでもない。ただ、前に進まないと置いていかれてしまうから、それでも置き去りにする気にはなれないから、だから引きずって進むんだろう。
つらくても、重くても、引きずっていくんだろう。
そんなふうに納得できるのに、それでも俺は、前に進むという言葉が、ただ流されて忘れていくこととどう違うのかわからないままだ。
きっと、だから景色が色褪せたままなのかもしれない。
俺は、篠原のいない世界を、このまま生きていくんだろう。置いていかれるのが寂しいから。なんとなく、何気なく、生きていくんだろう。篠原が祝ってくれたあの誕生日からの一年、なにひとつ振り切れずに生きてきたのと同じように。
それは、いじらしさなのだろうか。それとも、浅ましさなのだろうか。
「奇遇だな」と、随分長い沈黙のあと、織野はそう言った。
「俺もそうなんだ。おまえのそれとは、ずいぶん事情も違うから、一緒にされたくないかもしれないが……」
俺は、彼のそんな言葉を、意外に思いながら聞いていた。さっきまで考えていたことを、忘れてしまうくらいだ。織野は、目の前に広がる景色をみつめたまま、そっと言葉を続けていく。
「何を言っても、たいした慰めにはならないだろうな。でも、矢崎、俺は、教師だからとか、年上だからとかじゃなくて、おまえのために祈るよ」
「……祈る、って」
「そのまま、引きずったままでもかまわない。そのままずっと、変われないままだってかまわない。それでもおまえの心が、今よりほんのすこし安らいで、おまえの景色が色彩を取り戻すことを祈るよ」
色彩。
この、褪せた世界。どこか遠く思える世界。織野は、手のひらの中で六面体を転がしている。
「今のおまえの色褪せた世界じゃ、解けるはずのパズルも解けないままだ。だから、今のおまえは、きっとなにもかも、わからなくなってると思う。でも、いつか色を取り戻して、今わからないままのことの答えを、いくつか見つけられるかもしれない。もちろん、色の揃わないままの面だってあるかもしれない。それでも、そんないつかが、おまえに訪れることを俺は祈るよ」
そんな、そんな言葉が、白々しいって、ばからしいって笑いたくなるような、芝居がかったそんな台詞が、どうしてか今は、俺の胸の奥の柔らかいところをふわりと撫でて、感情を揺さぶってしまって、そのせいで俺は、空を見るふりをして必死に上を向いていなきゃいけなかった。
「だって、他にどうしようもないじゃないか」
織野は、苦しそうな、泣き出しそうな声でそう言った。
「俺たちは、ほかに、どうしようもないじゃないか。そんなふうにしか、生きられないじゃないか」
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