05-04
家に帰ると、リビングには誰もいなかった。
洗濯物を取り込んで、散らかっていたテーブルの上を少し片付けた。それから、朝に使った食器を洗うことにした。
みんなといるときは、思い出しもしなかったのに、ひとりで台所に立ってシンクで食器を洗っていると、篠原のことばかりを思い出してしまう自分に気が付いた。
広瀬の言葉を思い出して、考え込む。
篠原は、幸せだったから、死んだ。
どういう意味だろう、と考える。いくら考えても、正しい答えになんてたどり着けないような気がする。それでも考えるのをやめられない。
そうしているうちに、篠原が口にしたいくつかの言葉が耳に蘇る。
そのうちのひとつを思い出したときに、唐突に、すべてがわかったような気がした。
――幸せな瞬間でページをめくることをやめてしまえば、それはハッピーエンドでしょう?
広瀬が言っていたのは、そういうことだったんだろうか。
ページをめくることをやめてしまえば、と、篠原は言った。
最後まで読んで、その結末が幸せだからハッピーエンドなのではなくて、幸せな瞬間でページをめくるのをやめてしまえば、と。
――もし続きがあったら、シンデレラはずっと幸せなままだと思う?
からだの力が、ふっと抜けてくのがわかった。
それでも俺は立ったままだ。だからたぶん、それはただ、そういう気がしたというだけのことなんだろう。そんなふうに他人事のように自分の様子を眺めている自分が、どこかにいるような気がした。
そういうことなのか?
思い上がりでないのなら、篠原は俺のことが好きで、それで幸せだったのか。
だからこそ、彼女は死んでしまったのか。
ページをめくるのが怖かったから。続く場面が幸せだけだなんて、信じられなかったから。
頭を振って考えてみる。本当にそうなのか? 何かを取り違えてるんじゃないか?
考えれば考えるほどわからなくなっていく。
冗談だろう?
不意に、手の中からするりと皿が滑り落ちていった。
まずいと思った瞬間には、シンクの中で皿は割れてしまっていた。
掴もうとして追いかけた指先に、破片が刺さって鋭い痛みが走る。
皿はもう皿ではなくなってしまった。手を伸ばしても手遅れだった。ただ指先に痛みが走るだけだ。顔をしかめながら手のひらを見る。薬指の先に、血が玉のように丸く噴き出した。
深く、刺さったのかもしれない。じんじんとした熱と痛みが、手首の方まで広がっていく。
暑さのせいで、頬から滲んだ汗が首筋に垂れた、と、そう思った。違った。ただ、泣いているだけだった。
篠原。篠原。篠原。
冗談だろう?
まだ何もしていない。
思いついた場所に、片っ端から一緒に行こうと思っていた。そこでなんにも感じ取れなくても、何にも得られなくても、退屈でも、つまらなかったねって、そう言って笑いあえると思っていた。一緒に映画を観て、同じ本を読んで、感想を言い合いたかった。好きな音楽について、もっと教えてほしかった。もっと彼女のことを知りたかった。雨の日に、彼女が青い傘を差すのを見ていたかった。少し厳しい言葉を言ったあと、恥じ入るように俯くときの寂しそうな顔がいつも気がかりだった。いつも自分のことばかりを責めてばかりの彼女を、俺は少しでも楽にさせてあげたかった。それが俺のエゴでしかないとわかっていても、それでも俺は彼女に笑ってほしかった。ひとりでいるのが平気みたいな顔をして、それでもどこか心細そうで、放っておけなかった。初めて会ったあの雨の日に、彼女の姿を目にした瞬間、俺がいったい何を感じたか、それを知ってほしかった。
その全部が、今はもう過去形でしか語れない。
冗談だろう?
俺は、好きだって一言さえ、まだ伝えられていなかったのに。
並んで撮った写真だって一枚もない。
誕生日プレゼントだって、もらいっぱなしで返せていない。
機会なんてまだたくさんあると思っていた。
死んでしまうなんて思ってなかった。
こんな月並な後悔を、自分がすることになるなんて思ってなかった。
それがこんなに痛むなんて思ってなかった。
薬指から血が流れている。
反対の手で目を覆った。自分を憐れんでいる自分が嫌だった。泣いてしまいたくなかった。泣いてしまったら二度と戻れない気がする。
不意に、足音が近付いてくるのがわかった。
手のひらの覆いをはずして振り向くと、すぐそばに、紗雪が立っていた、俺は思わず顔を背ける。泣き顔を、紗雪に見られたくない。見られてはいけない。それも手遅れだった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
なんでもないよ、と俺は答えた。
「血、出てるよ」
紗雪は静かに近付いてきて、俺の手をとった。
「大丈夫」と俺は言った。それが精一杯だった。
「痛い?」
「大丈夫だよ」
繰り返しているうちに、本当に大丈夫なんだという気がしてきた。
大丈夫だ。少しすれば血は止まるだろうし、涙だってもう流れていない。そうやっていつもどおりにしていればいいだけだ。
「いいから、こっちに来て」
紗雪はそう言って、俺の手を無理やり引っ張った。
「破片、片付けないと」
「怪我が先。手洗って」
「大袈裟……」
でもない。血を流しながら洗い物をするのはまずい。どうやら本当に頭が回らなくなってきたらしい。
紗雪は俺をソファに座らせて、薬箱を探し始めた。
「べつに何もしなくても大丈夫だよ」
「いいからじっとしてて」
「血が出てるだけだよ」と俺は言った。「そんなに深くない」
「痛いくせに、どうして平気なふりをするの?」
そう言われて、俺は初めて黙った。
不思議と落ち着いた気分だった。
「お願いだから、無理はしないで」
縋るみたいな、紗雪のその言葉に、平気だよ、と嘘をつきかけて、やめた。
「……うん」
そうやって頷くと、紗雪はようやくほっとしたみたいにこわばっていた表情をゆるめた。
◇
その日の夜は、やはり意味のわからない夢を見た。夢なんてそんなものだ。
俺が見たのは、ただひとりで暗い夜道を走っている夢だった。月は雲に隠れていて、街灯の光だけが嫌に寒々しくあたりを照らしている。人の気配はないのに、どこかから笑い声だけが聞こえてくる。そんな風景の中を、俺は走っている。
気温や匂いは感じない。ただ、走っている自分を映画でも見るように眺めている。眺めているのに、俺は走っている俺自身として、その風景に立ち会っている。
何かに追われていることはたしかで、そして、もし追手に捕まってしまったら死んでしまう、と、そう思っていたこともたしかだ。
走っているのはよく知っている通学路だったけれど、道のつながりはひどく混乱していた。違う道から違う道に出て、あるいは通学路だったはずなのに、昔一度いっただけの遠くの街のデパートの地下に繋がっていたりもした。
逃げながらエスカレーターをのぼると、中学のときの同級生が買い物をしていて、俺に笑いかけた。そこには制服姿のクラスメイトたちがみんないた。
ああそうだ、今日は卒業を迎えた俺たちが打ち上げにデパートの中にあるビュッフェレストランで食事をすることになっていたんだっけ。そんなことを辻褄合わせみたいに思い出す。
店の前には教師たちと何人かの生徒が集まっていたが、集合時間まではまだあるらしく、みんな思い思いの場所で買い物をしたり遊んだりして時間を潰しているらしい。俺はクラスメイトだった、今となってはろくに連絡をとらない、当時だってたいして仲がよかったわけでもない男子ふたりと一緒に店内を歩き回る。
夢の中の俺は、そのふたりの顔を、なんだか懐かしいな、ひさしぶりだな、と感じながら眺めている。理屈のとおらないものだ。
三人で歩いているとき、不意に、他の女子と一緒にくまのキーホルダーを手にとって笑っている篠原の姿を俺は見つけた。なにもかもが、夢の中ではバラバラだ。
俺は篠原の横顔を低い棚越しに眺めながら、ああ、彼女にももう会えなくなるんだな、と思った。ずっと言いたかったことも言えなくなる、今までさんざん機会があったのに、なにひとつ伝えずにここまで来てしまった、俺はずいぶん時間を無駄にしてきたのだ。そう思った。卒業したら、彼女とはもう二度と会えない。
でも待てよ、とそのときの俺はハッとする。今ならまだ間に合うんだ、と俺は思った。今、篠原にちょっと声をかけて、連絡先を訊いてしまえばいい。そうすれば、卒業したからといってそれで全部が終わるわけじゃない。ここで終わりなんかじゃない。
まだ先があるんだ。なにも告白するってわけでもない。いったい何を躊躇しているんだ? 今しかない。今やらないと、後悔する。俺みたいに、俺が後悔する。
今なら間に合うんだ。今ならどうにだってなるんだ。まだ手遅れじゃない。どうにかなるんだ。何もかも変えられるかもしれない。
でも夢の中の俺は動かなかった。ぜんぜん、指一本動かさないままだった。篠原は笑っている。綺麗に笑っている。
動けよ、と俺は言う。動け。でも、動かない、ぜんぜん動かない。なにひとつ動かせない。
ちょっと待ってくれよ、と俺は思う。目の前にいるんだ。
そこで俺は一度目をさました。
窓の外から小鳥の声が聴こえる。瞼の向こう側に陽の光を感じる。けれど俺は、それらの情報を決して受け入れない。受け入れたくない。なるべく思考がはっきりとした言葉にならぬように押さえ込みながら、俺は瞼を閉じたまま呼吸を静かに続け、夢の続きを見ようとする。夢の尻尾を逃してはいけない。この夢を俺は二度と見ることができない。そう思った。
そして、ふたたび俺は、さっきのデパートに戻ることができた。けれどそのときにはもう、俺はこの夢が夢だと気付いてしまっている。だから、ああ、篠原は死んだんだと、そう思い出すことができてしまった。それでも篠原は、当たり前みたいに笑っている。
俺の視界を、誰かが塞ぐ。目の前に女の子が立っている。俺はその子を知っている。もう名前も忘れてしまったけれど、そうだ。俺は、中学のとき、彼女にほんの少し、好意を覚えていた、そんな気がする。
彼女が目の前にあらわれる。気付くと、さっきまで一緒にいた男子はいなくなっている。彼女と俺は何かの言葉をかわし(おそらく意味のある言葉ではない)、親密に笑い合う。
俺と彼女は近くにあった休憩用のふたりがけのソファに腰掛ける。
(――篠原はまだ近くにいる)
隣に座った彼女と距離が近付いている。肩と腕が触れ合い、彼女の髪の匂いがする。
その夢の中で、俺はその女の子に欲情している。それは逃れようもない事実だ。間違いなく、俺はその子に欲情している。そして、その事実にやましさすら感じていない。これは本当にそうだった。
やがて夢の中の俺自身も気付かないうちに、その子の姿が高校の制服を着た篠原へと変わっていく。まるっきり篠原の姿になってしまっても、俺はその事実を意識できない。俺は相変わらず欲情している。
これはいったいなんなんだ?
違う、と俺は頭の中で言う。そうじゃない、こんなはずじゃない。いつのまにか、俺は篠原と隣り合って座っている俺自身を眺めている。俺が眺めている俺は、ひどく、ひどく醜い姿をしているように見える。それが何を意味するのか、俺にはよくわからない。知りたくもない。
夢の中の景色は、色がないことに気付けないくらい当たり前に、モノトーンだ。
なにもかもが平坦でからっぽな世界に見える。ボール紙を切り継いで作った、書割りの風景みたいに見える。
突然、誰かの激しい足音が近付いてきた。追手がきたのだと俺は思った。
俺は篠原を放り出して(本当に彼女のことなんて気にもとめずに)駆け出した。もう逃げ出すことしか考えていなかった。
何から逃げているんだろう? それも分からないままだ。でも、俺は恐れている。とても恐れている。いつのまにか、俺は俺を眺めている俺ではなく、逃げている俺自身になっている。
衣料品の高い棚の影に隠れて、俺はじっと息を整える。追手の足音が近付いている。大丈夫だ、と俺は思う。
ほっと息をついた瞬間、肩を掴まれた。
その瞬間に目がさめた。今度は、眠り直そうなんて思えなかった。
◇
ときどき考えるの、と、紗雪が言った。
ダイニングテーブルの上に、水の入ったコップと、紗雪がいつも飲んでいる錠剤のシートが置かれている。
「この薬をね、ぜんぶ一気に飲んだら、どうなるんだろうな、って」
それはひどく蒸し暑い夜のことで、俺たちはいつものようにふたりきりだった。夏の夜だというのに、部屋の明かりがやけに冷たく寒々しく思えて仕方ない。テレビだってつけっぱなしだったのに、耳に痛いくらいに静かに感じられた。
「脳に関係する薬だから、どうなるかわからないよ、って、先生が言ってた。でも、どうなるんだろう、って思う。でもね、わかってるの。……なんにも変わらないんだよね。生き延びたって、いなくなってしまったって、きっとなんにも変わらないんだな、当たり前に、世界は回るんだろうなって。そう考えるとね、怒らないで聞いてほしいんだけど、怒ってほしいような気もするんだけど、わたしね、消えてしまいたいなって思うの。わたしが消えてもなにも変わらないなら、消えてしまいたいなって思う。その方がずっと楽だもん。傷つかないし傷つけない、笑われないし笑わなくていい。いろんなことが嫌になって、だから、消えてしまったほうが、本当はずっと楽なの」
何を言えばいいのか、わからなかった。どうすればいちばんいいのか、俺に、彼女に何かを言う資格があるのか、ぜんぶ、ぜんぶ、なにひとつだって分からない。
ただ、その言葉を聞いたときに、俺の心は四つくらいに分かたれたような気がした。
単純に悲しむ自分、ほんの少し共感してしまう自分、妹にこんなことを言わせている自分を口汚く責め立てたくなる自分、篠原のことを思い出す自分。
その自分を客観的に眺めている自分がいる。だから、本当は、五つだ。
紗雪がつらいというのなら、どうして俺がそれを強制できるだろう。俺だって、本当のところ……生き延びなければいけない理由なんて、かけらだってわからないのに。
でも、いまは、そんな言葉を聞きたくなかった。
「紗雪、俺にはわからないよ」
そういうしかなかった。
「俺には、わからない。わからないよ。なんて言えばいいのかも、どうすればいいのかも、なんにもわからない」
紗雪が俺の顔をじっと見つめてくる。その表情が、ひどく頼りなく、儚げなものとして、俺の目に映る。
椅子に座ったままの紗雪に、俺は静かに近付いていく。それがどうしておそろしいのか、そんなことすら、やはりわからない。
振り向かない彼女の頭の上に、俺は手のひらをのせた。
「つらいなら、無理なんてしないでくれ。がんばらなくたっていいから、逃げたっていいから、だから……」
こんなに、言葉は、白々しいものだっただろうか。
自分の指先が、震えていることに気付く。
「いなくなったりしないでくれ」
それが、紗雪のためでもなんでもない、やさしさでもなんでもない言葉だと、自分で気付かないわけがなかった。
紗雪は振り向かない。表情も、わからない。俺は、それをたしかめるのが怖いと思った。
長い沈黙のあと、彼女は指先で弄んでいた錠剤のシートを手放した。
「……うん」
そんなかすかな声が、たしかに聞こえた。
もし、こんなふうに、俺が篠原に言葉で何かを伝えていたら、たとえば、好きだとか、そうじゃなくてもいい、もっと違う言葉でもいい、何かたしかな言葉を伝えられていたら、結果は違うものになっていたのだろうか。
そう思うと、歯がゆいような、やましいような、腹の底がじんわりと冷えていくような、そんな感覚に支配される。
どうしてだろう。どうして景色が、冷たく色褪せて見えるんだろう。
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