05-03
部室の扉の前まで来たとき、耳に何かのメロディーが入り込んできた。
扉を開けると、広瀬が窓際のパイプ椅子に腰掛けていた。
窓の外に向けていた視線をこちらによこして、いつもみたいにふわりと笑った。その表情が少し頼りなく見える。
「ひさしぶりだな」
そう声をかけると、うん、と広瀬は小さく頷いた。なんだか疲れているみたいに見える。
彼女は膝の上に、小さな木の小箱を載せていた。メロディーはそこから響いている。
「何の曲だっけ、それ」
「ジムノペディの第一番。サティだよ」
「サティって、曲名が変なやつだっけ」
「変じゃないのもあるけど、そう」
本当は、そんな話をするために広瀬に会いにきたわけじゃない。それでも広瀬の顔を見ていたら、なんとなく、話すのをためらってしまう。人形劇のことや、須川のことなんて、いま彼女に話すようなことじゃないんじゃないかと思ってしまう。
「そのオルゴール、どうしたんだ?」
「ああ、うん……」
広瀬は曖昧に頷いた。
「むかし、ね。叔父さんがつくってくれたんだ」
「叔父さんっていうと、日曜大工が好きだっていう?」
「あれ、そんな話したっけ?」
「いろいろ工具の使い方を教わったって話は、聞いた気がする」
「うん。その叔父さん。ずっと前に、わたしの誕生日にこのオルゴールをつくってくれたの」
「やさしい人だな」
「うん。大好きだった」
過去形だ、と俺は思う。
「矢崎くん、わたしね、矢崎くんにずっと隠してたことがあったんだ」
彼女はオルゴールの蓋を閉じた。音が消える。開け放たれた窓から吹き込む風が、色の褪せたカーテンを揺らしている。いつもと何も変わらない。ただ少し、静かなだけだ。
「本当は、隠したままのほうがいいのかなって思ったんだ。言うつもりはなかった。混乱させるだけかもしれないって思った。そうこうしてるうちに、ずいぶん時間が経っちゃった。でもね、もしわたしが矢崎くんだったら、きっと、知りたいだろうなって思ったから」
「……何の話?」
「わたし、ずっと考えてたんだ。ひさぎちゃんは、どうして死んじゃったんだろうって」
それは、俺が考えていたことでもあった。きっと、簡単に割り切れてしまう人なんて誰もいないんだろうと思う。崩れ落ちて立てなくなってしまうことが怖いから、平気なふりをしているだけだ。もしかしたら、篠原もそうだったのかもしれない。
「でもね、なんとなく、なんとなくだけど、わかるような気がするの。ひさぎちゃんがいなくなっちゃう前に、わたし、ひさぎちゃんに本を貸す約束をしてたの。けっこう楽しみにしてたのに。だから、信じられなかった。でも、そういうものなのかもしれないよね」
俺だって、篠原が死んだことが信じられなかった。
やさしい人になりたいな、と、彼女はそう言っていた。
自分の振る舞いで、誰かを悲しませるよりも、誰かをほんのすこしだけ、穏やかな気持ちにできる人になりたい、と。
そう言っていたのに、彼女は死んでしまって、俺も広瀬もとても悲しい。
「……隠してたことって?」
そう訊ねると、彼女は困ったみたいに笑った。
「ねえ、ひさぎちゃんは、矢崎くんのことが好きだったんだよ。知ってたよね?」
俺は、返事をしなかった。
「わたし、本人からそう聞いたもん。『そう言ってた』ってことが、わたしの隠してたこと。ねえ、矢崎くん。知ってたよね?」
「それが……?」
「うん。絶対に言わないでね、って、言われてたんだけどね」
からだの内側で、鈍い痛みを伴った熱が這いうねるような感覚が暴れ始めた。急に、息苦しさを覚える。
知ってたよね?
そうだな、と俺は思う。篠原が生きていたときは、篠原が隣にいたときは、俺だって、ひょっとしたら、と思っていた。
でも、今となっては、そんな言葉は信じられない。
篠原は、俺がどんなに弱音を吐いたって、どんなに情けないことを言ったって、笑ったりしなかった。みっともないとか、子供じゃないんだからとか、そんなの誰だってそうなんだからとか、そんな言葉で切って捨てようとしなかった。ただ、それを黙って聞いて、そうされてはじめて俺は、もうちょっとがんばらなきゃって思えた。
俺はどうだった?
俺は篠原の悩みをどうした?
誰も彼もが、内側に、人には見せていないだけで、きっといろんなものを内側に溜めこんでる。
そんな言葉で相対化しなかったか?
おまえだけじゃないんだと、ありふれた悩みなんだと、言外にそう言いはしなかったか?
あのとき俺は、紗雪の話をした。大変なのは紗雪なのに、俺が甘えてばかりもいられない、とそう言った。
やさしいんだね、と篠原は言った。
あのときの俺の言葉が、篠原には違うふうに聞こえていたんじゃないか。そう気付いたのはあとになってからだ。
篠原には、あのとき、『自分より大変なやつがいるのに、自分の苦しみを我慢しないのは甘えだ』と、そう聞こえていたんじゃないか?
俺はそうやって、篠原の弱音を封じ込めてしまったんじゃないか。そうやって無理をさせて、追い詰めて、抱え込ませて、そのせいで篠原は死んだんじゃないのか。
篠原が俺を好きだった?
そんなふうに都合良くは考えられない。
「矢崎くん?」
広瀬の声に、はっとする。頭がうまく働かない。いつもこうだ。だからいつもは、あまり考えないようにしている。みんなに余計な心配をかけてもいられない、家事だって課題だって、こなさないといけない。俺が暗い顔をしていたら、家族にもそれが伝染して、そうなったらきっと、紗雪は自分を責めてしまう。両親も、自分を責めてしまう。誰のせいでもないのに。
でも、それだって、ただ逃げているだけだという気がする。家族を言い訳にして、考えたくないことから逃げてるだけじゃないか、と。
正しいことがなんなのか、俺にはわからない。
「ひさぎちゃんは、矢崎くんのことが好きだったよ。信じられない?」
俺は答えない。
「矢崎くん」
広瀬が俺にそう呼びかけるのは何度目だろう。そのたびにうまく頭が回らなくなる。
「わたしは、ひさぎちゃんは勝手だって思う。ひどいって、そう思う」
ぬるい風が吹き込んでくる。頬に滲んだ汗が首筋まで垂れていくのがわかる。
だったら、篠原はどうすればよかった?
篠原はがんばっていたと思う。
やさしい人間になりたい、と言った。失敗したあと必ず落ち込んで、やさしくなれない自分を責めて、そんなふうにして、彼女はいつも苦しんでいた。
そんなに考え込むことじゃないって、もっと肩の力を抜けばいいんだって、口で言うのは簡単だ。でも、結局のところ、そんなことを言う奴はいつも当事者じゃない。
やさしい人になりたい、と篠原は言った。広瀬みたいになれたら、と、そうも言った。
『そんなふうに過ごせたら、わたしはわたしのことを、今より少しだけ好きになれると思う』
彼女はほんの少し、自分を好きになりたかっただけなんだと思う。ほんの少し、自分を認めてあげたかっただけなんだと思う。自分を許したかったんだと思う。そんなふうに、あがきながら、もがきながら、苦しみながら、それでも自分の弱さと向き合って、やさしくなろうとした彼女に、死ぬなんて身勝手だと、俺はそう言えるだろうか。
生きていくのが悲しいから、篠原は死んだのかもしれない。
篠原が死んだら悲しいから、俺は篠原に生きていてほしかった。
結局、それぞれのエゴでしかない。死を選んだのが篠原の弱さだったとしても、勝手さだったとしても、どうしても俺は、それを咎める気にはなれない。
ただ、彼女に何もできなかったんだと、今はそんなふうに思うだけだ。
「ねえ、矢崎くん。わたし、ひさぎちゃんが死んだ理由、わかる気がするの」
俺は返事をしない。
ただ呼吸を整える。そうしてから初めて、自分の呼吸が浅くなっていることに気付いた。
少しだけ、迷うような素振りを見せたあと、広瀬は言った。
「ひさぎちゃんは、きっと、幸せだったから死んだんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、頭のなかで何かがはじけた気がした。
意味がわからない、と思った。実際に口に出してみた。「意味がわからない」口に出したところでわからないままだった。それでも口に出さずにはいられない。「意味がわからない」
「本当にわからないの?」
俺は答えられない。頭がうまく働かない。
幸せだったら、どうして死んだりするんだ?
広瀬は短く溜め息をついた。それで話は終わったみたいだ。
頭が重いような気がした。妙に手足の感覚が鋭敏になっている気がする。体を撫でる空気のかすかな動きすら感じ取れるような気がした。それが変に煩わしい。
広瀬はオルゴールを指先でそっと撫でる。
その様子を見て、俺は少しだけいつもの自分を取り戻す。
部室に冴えわたるのはいつものような沈黙だ。
いつもどおり、俺たちは気まぐれに言葉を交わして、好き勝手に黙りあって、それだけだ。
いまさら何を知ったところで、何を言ったところで、篠原はもうどこにもいない。
それもいつもどおりだ。
俺はこんな話をしたくてここに来たんだっけ?
……違う。そうだ。広瀬に話があったんだ。
「なあ、広瀬」
そう呼びかけた瞬間、ドアの向こうから足音が近付いてきた。
◇
「あれ、いたんだ」
扉を開けたのは須川だった。彼女は意外そうに俺と広瀬の顔を見ると、何を言うでもなく当たり前の顔をして机の上に荷物を置いた。
追いかけるように名越が姿を見せた。彼もまた俺たちに気付くと、「ああ、いたんだ」とだけ言うと荷物を床の上に置いた。
「どうしたの、ふたりとも」
広瀬の質問に、ふたりは顔を見合わせた。
「人形劇、つくろうって、名越くんが」
「名越が?」
「だって佳代、連絡くれないし。どうしようかなって思ってたら、名越くんが連絡くれて、じゃあふたりで作ろうって」
俺は思わず名越の方を見た。彼の様子はいつもどおりだ。平然としている。
「千羽折りきったから、暇になったんだよね」
「そんな理由だったの?」
須川はそう言って肩を落としてから、「ま、いっか」とすぐに立ち直った。
「そういうわけで、広瀬と矢崎は俺と須川の共作を外からぼんやり眺めててくれ」
「聞いてよ佳代、名越くん台本に思い切りダメ出しして書き直させたんだよ。ひどくない?」
「ひどいのは脚本の出来だよ」
「ほら、こんなことばっかり言うの」
「広瀬が主導だったから何も言わなかったけど、こうしたらいいんじゃないかっていうのはもともとあったしね。だいたいあのままじゃ、人形劇らしくはなかったし。だったら互いの案を思いきり入れてみようって話になったんだ」
「待ってよ」と広瀬が口を挟んだ。
「わたしやらないなんて一言も……」
須川と広瀬が、また顔を見合わせた。
「でも、もう始めちゃったし」
「わたし、仲間はずれ?」
心細そうな顔で、広瀬は俯いた。須川は戸惑ったみたいだった。
「そういうつもりじゃなかったんだけど。でも、佳代はなんか落ち込んでるみたいだったし、そっとしておいた方がいいかなあって」
そう聞いても、広瀬は俯いたままだった。
「ごめん、ごめんって。佳代も一緒につくろう?」
そうだよな、と俺は思った。
いつまでも立ち止まっていたら、置いていかれてしまう。
何もかもおかまいなしに世界は回るから、少し立ち止まっているだけで、あっというまに置いていかれてしまう。
「名越くんがね、人形劇、文化祭でやろうって言い出したんだ。織野先生にはもう話して、許可はとったんだ。まあ、ステージとかじゃなくて、部室でやる小規模な劇としてってことね」
「どうして、部長のわたしに話が通ってないの?」
「だから……まあ、うん。そうだね、ごめん」
須川は気まずそうに笑った。仕方ないなあ、というふうに。
「それで、脚本はもっと小規模のものにするって話になったの。できれば、子供向けで、もっとわかりやすいものにって。わたしとしても、良い練習になりそうだし」
「それでいいの?」
広瀬が不思議そうな顔をした。須川は困ったみたいな顔をした。
「妥協するわけじゃないよ。少し、やりかたを変えるだけ」
須川の表情は、やっぱり強く見える。その目がなんだか眩しくて、目をそらしたいのに、目が離せない。この子は本当に、好きでやってるんだ。そう思った。
「期間がないから、急がないとって話になったんだ。名越くん、急に言い出すんだもん」
「目標があったほうがやりがいがあると思って」
「こんな調子なんだよ。わたし、知らなかったんだけど、ひょっとして名越くんって考えなしなの?」
その質問には答えずに、広瀬は名越と須川の顔を交互に見て、口を開いた。
「わたしもやる」
真剣な広瀬の表情に面食らったみたいに、須川は一瞬あっけにとられてから、笑う。
「うん。だから、わかったってば」
須川は広瀬の頭をぽんぽんとやさしく叩いた。
広瀬はそれでやっと落ち着いて、今度は子供みたいに笑った。
そんな彼女の姿を、俺は初めて見たような気がする。大人みたいに落ち着き払っているより、ずっといい。
他人事のようにそう思って、俺は自分の気持ちを奇妙に思う。
そのことについて考えるのは、今はやめておくことにした。
「それで」と名越は言う。
「矢崎はどうする?」
三人の視線が、そろって俺の方を向いた。
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