05-02



 夏休みの間の部活動の日程表を、織野は一応用意していた。それは厳密に言うと、「織野の予定が空いている日」の一覧表のようなものだった。


 ひょっとしたら広瀬が来ているかもしれないと思って、俺はその表をあてにして部室に顔を出してみることにした。

 本当なら、広瀬に連絡をとってしまえばよかったのかもしれない。でも、どうしてかそうする気にはなれなかった。


 夏休み中の校舎は、静けさに包まれていた。透明な膜を隔てたみたいに、外からの物音が遠く聞こえた。


 東校舎の三階の端、ボランティア部の部室の前まで辿り着いてから、俺はドアノブを捻るのをためらった。


 広瀬に会って何を言えばいい? 俺は何が言いたくて広瀬に会いたいんだ?


 いくら考えても、それがよくわからない。


 結局俺は、ドアノブに触れることもしなかった。何をしにきたのか、自分でもわからない。


 踵をかえしてそのまま帰ろうとしたはずなのに、俺の足は、気付くと階段を昇っていた。


 どうして間違ってしまうんだろう。


 その間違いに気付いているのに、どうしてそのまま扉を開けてしまうんだろう。


 どうせ篠原はいないのに。


 扉を開けると、夏の日差しが烈しく俺の目に突き刺さってきた。ぬるい風が吹いて、汗ばんだ肌を撫でた。フェンスの向こうに見える空は澱みのない青色をしている。どこまでも澄んでいる。飛行機雲が向こうの空にかすかに残っている。遠くの山稜の線が埃でかすんで輪郭がぼやけていた。そのどれもが、今、この瞬間の感覚だった。明日には、ただそんなふうだったと回想するだけで、今のこの感覚なんて思い出せなくなってしまうだろう。


 溜め息をつきかけたときに、先客がいることに気付いた。


 制服姿の桐島が、フェンスの傍に腰を下ろして、何かの本を読んでいた。


「珍しいな」


 そう声をかけると、彼はこちらを向かないまま、ひらひらと手を振った。


「名越に用事があったんだ。織野に聞いたら、今日は部活の日だって言われてな。名越は残念ながらいないみたいだけど」


「用事? 桐島が名越に?」


「まあ、ちょっとな。あいつに借りがあったんだ」


「それは意外だな」


「たいしたことじゃないよ。折り鶴を分けてもらったんだ」


 それこそ意外な話だ。いったい何に使ったんだ、と、訊こうと思ったけど、やめた。


「何を読んでたんだ?」


「本だよ」


 見ればわかると思ったけれど、それこそそんなことは言わなくてもわかるだろう。言いたくないと言うのなら、無理に訊くこともない。


「カイラシュ・サティヤルティって知ってるか?」


「……人名?」


「だな」


「何をした人?」


「児童労働の撤廃や人身売買の撲滅を目指すインドの活動家だそうだ。このあいだ新聞の連載記事に載ってた」


「それが?」


「タオルやハンカチや衣類なんかに、綿製品があるだろう」


「ああ」


「綿の原産地ってどこか知ってるか?」


「アメリカとか?」


「そう。アメリカとか、インドとか、中国とかな。どこかで綿を生産してるから、俺たちはさわり心地がいい綿製品を手に入れられるわけだ。アパレル関係の工場なんかも、けっこうそのあたりに建ってたりするらしい」


「なるほど」


「ところで、インドや中国なんかだと、そういう場所で児童労働者が働かされているらしい。低賃金重労働。ついでにあの国にはカースト制度っていうのがあるだろう。格差社会って奴だな。学校に行きたいといっても行かせてもらえないし、働きたくないと言っても働かなきゃいけない。親の借金を肩代わりするためだったり、家が貧しかったり、そういう理由だ。さて、栽培されたコットンは工場で加工される。その工場でも子供が働いている。製品として店に届き、俺たちは買う。素敵な手触り。それに安い。なにせ子供のおかげで人件費が安上がりだから。コストパフォーマンス。天然素材で肌に優しい。まあそんなことが書いてある本だよ。不思議だよな。チョコレートはどうだろうな? カカオ豆はブラジルか? どうなんだろうな。なあ、どう思う? 俺たちは無辜の民か?」


 他にもたくさん、あるんだろう。きっと、俺たちの身の回りに、そういうものはありふれているんだろう。普段、気にもしないようなこと。知らなくても生活できるから、誰も気にかけないけれど、本当は誰も仕組みを知らない。ブラックボックスと、そう呼ぶんだったか。


 俺は何も言わなかった。どうでもいい、とは、言わない。


 いや、けれど、そう言いたくないというだけで、本当は、どうでもいいのかもしれない。

 そんなことだと、切って捨てる気にはなれない。けれどそれだって、ただそういうポーズをとりたいだけで、そうすることで、誰かに褒めてほしいだけかもしれない。


 その誰かのために自分が何かをできるなんて、とてもじゃないけど思えない。


 篠原は俺をやさしいと言った。


 それは嘘だ。


 今だって、そんなことより、篠原のことを考えている。自分のことを考えている。


 桐島は、俺の方をちらりと見て、皮肉げな笑みをやめた。


 彼は指先から紙片を取り出して、本に挟む。


「シシリー・バーカー」と俺が言うと、桐島は怪訝そうな顔をした。


「フラワーフェアリーカード。須川が言ってた」


 ああ、と納得したように彼は頷いた。


「これのことか」


 そう言って彼は、もう一度本を開いて、花の妖精が描かれたカードを俺に見せてくれた。


「須川が、おまえのことを今度から遥ちゃんって呼ぶって言ってたよ」


「……まあ、別にいいけどな」


「いいのか?」


「あいつには言ったって仕方なさそうだ」


「そのカード。どうしてそんなもの持ってるのかって、不思議がってたよ」


「うちの母親が持ってたんだよ。古びたクッキーの空き缶に後生大事にしまいこんでさ。子供の頃に親戚の誰かにたくさんもらって、それが宝物だったらしい。子供みたいな人だったな。どうせ何の役にも立たないんだ。有効活用だよ。こいつは、夾竹桃の妖精だそうだ」


「夾竹桃……」


「けっこうありふれた木だよ。たぶん、探せばこの街でも見つけられる。誰でも簡単に触れられるような場所にある。枝をバーベキューの串にした奴がいるって聞いたことがあるな。海外の話だったと思うけど」


「はあ」


「死んだらしいよ。夾竹桃は毒の塊だから。探せばきっと見つけられるし、買おうと思えば簡単に買える。知らないっていうのは、本当に怖いことだよな」


 猫の髭を切った子供たち。彼らのことを思い出す。無知は罪だと、桐島は言った。


 俺は、考える。


「なあ、桐島。猫の髭を切ったり、犬にタマネギを食べさせたり、夾竹桃の枝でバーベキューをしたり、チョコレートを食べたり、そういうことをする奴を、バカだと思うか?」


「いや」と彼は否定した。


「バカだと思うわけじゃない。俺だってきっと、似たようなことをしてるんだと思う。でも、そうだな。バカだと思うわけではないが、バカバカしいとは、思うな。おまえはどう思う?」


 桐島の言葉に、俺は考え込んだ。


「……知らなかったじゃ済まされない、とも思うし、でも、知らなかったことは責められないとも思う」


「おまえはいつも、そういう言い方をするな」


 うんざりしたように、桐島は言う。


「中立的で公正で第三者的な言い回し。どちらの意見にも理がありますね、って感じの。外側から眺めてるような態度だ。俺は、『おまえはどう思う?』って聞いたんだ。おまえのそれはやさしさでもなんでもないよ。おまえは意見を言うのが怖いんだろう。何かを知った気で発言して、間違って恥をかくのが怖いんだろう。だから最初から何も知らないって言って予防線を張ろうとするんだろう? がっかりしたり裏切られたりするのが怖いから、最初から悪い想像をしておいて、いざ裏切られたときに、やっぱりそうだった、そうなることはわかってたって思うことでショックを軽くしたいんだろ? そのうちおまえ、自分の気持ちもわからなくなるぜ」


 反論すらない。……自分の気持ちなんて、とっくにわからなくなっていた。


 ずっと胸の内に押しとどめていたことが、今なら口に出せそうだという気がした。


 喉まで、出かかっている。口に出さなくたって、胸の内側ではずっと考えていたことだ。それなのに、言葉にしてしまうことが怖い。


 俺は許されたいんだろうか。それとも、断罪されたいんだろうか。


 わからないまま、口を開いて、吐き出そうとする。吐き出すことで、楽になりたかったのだろうか? だとしたら、やっぱり俺は、自分のことしか考えていない。自分のことなんて、自分でもよくわからない。それなのにどうして、他人のことを理解できたりするだろう。


 口から出してしまうと、言葉は白々しいくらいに当たり前に響いた。


「俺が、篠原を殺したのかな?」


桐島は、ほんのすこしだけ言葉を止めて、俺の方をじっと見た。それからバカバカしそうに笑う。


「思い上がるなよ」


 と、彼は一度そう言って、すぐ翻した。


「でも、そうかもな」


 俺は桐島に何を言ってほしかったんだ?


 俺は、知らず知らずのうちに、篠原を傷つけていたんじゃないか、篠原に対して、何かひどいことをしていたんじゃないか。俺が篠原にしたことは、ただ俺の身勝手の押し付けでしかなくて、彼女にはただ迷惑なだけだったんじゃないか。


「俺は、篠原について、なんにも知らなかったんじゃないかって思う」


 俺の言葉を聞いて、桐島はやはりバカバカしそうに笑った。


 篠原が自分を責めるのを見ているのが嫌だった。

 だから俺は彼女と一緒にいたかった。そうしたら、そうやっていたらいつか、篠原は胸の内側に溜めこんだ何かを忘れて、笑ってくれるんじゃないか。そう思った。


 でもそれは、もしかしたら、彼女にとってはただの毒だったのかもしれない。ただ厄介な、迷惑な、邪魔なだけの代物だったのかもしれない。


 やさしさでもなんでもない。あれはただの代償行為だった。


 自分がしてほしかったことを、誰かに対しておこなうことで、そうしてもらえなかった自分を救おうとするような、ただのバカげた代償行為だった。


「篠原のことを教えてやろうか」


 桐島はそう言った。彼はただ、まっすぐにこちらを見ていた。

 俺は頷いた。


「あいつとは、昔から一緒だから、ほんのすこしだけ、おまえより知っていることもあると思う。でもそれは、あいつがおまえに知られたくなかったことかもしれないよ」


 そう言われて、また躊躇しそうになる。いまさら知ったところでどうなる? 何が確認できたところでもう手遅れだ。


 それでも俺は知りたかった。手遅れでも身勝手でも、篠原のことを知りたかった。


「中学……二年のときだったかな。篠原は三年の先輩と付き合ってた。それで、秋頃に何かトラブルがあって別れたって聞いて、随分あとになってから噂になった。妊娠して中絶したって話。まあ、そのくらいだな」


 俺は何も言わなかった。何も感じないように、頭が勝手に思考に蓋をしたみたいだった。


 桐島は、ただ何かを窺うみたいに、数秒のあいだ俺の方をじっと見ていた。それから、


「ああ、間違った」


 と、なんでもなさそうな声で言う。


「これは篠原じゃなかった。べつの奴の話だ」


 一瞬、腹を立てそうになって、こらえた。


「どこまでも悪趣味な奴だな、おまえは」


「でも本当にあったことだよ」


 桐島はどこまでも悪びれない。


「どこかで起きたことが篠原の身に起きていないなんて言えるか?」


「そういうのはもういいんだよ」


 いいかげん、俺は面倒になっていた。


「そういう話なら、俺はもう行く」


「そうだな。じゃあ続けよう。あいつは俺の名前をバカにした」


 視線を向けると、彼は肩をすくめた。


「そんな顔するなよ。俺はなんにもしてないよ」


「桐島」


「わかったよ。べつにからかってるわけじゃない」


 桐島は一呼吸おいてから、フェンスの向こうに視線を向けた。街。


「篠原の父親はあいつが小学生の頃に亡くなったらしいよ。交通事故だった。車に轢かれて死んでしまった。ボランティア部らしい言い方をすれば、交通遺児って奴だな。まあ、母親がいた。一生懸命働いてたって話だが、子供だった俺の耳に入る話でさえ、あんまりいい噂じゃなかったな。酒浸りで子供の面倒をろくに見ないとか、虐待してるとか……本当のことなんて誰も知らなかったけどな。最後には自殺したって話だ。篠原は祖父母に引き取られて、そっちで生活してたって聞いた。本当の話に聞こえるか? 嘘っぽいだろ? 俺もそう思うんだ。なんだかつくりものめいてるよな」


 桐島はなんでもないことみたいに笑った。そんなふうに何気なく笑われると、本当になんでもない、つくりものの物語みたいに思えた。


「轢いたのは、篠原の同級生の兄貴だった。運転中に何かの発作を起こしたんだって聞いた。俺の友達の兄貴だったんだ。そいつとはけっこうよく遊んでさ、兄貴も俺の面倒をよく見てくれた。年はだいぶ離れてたけど、一緒に遊んでくれた。俺はその人が大好きだった。でも、そのあとどうなったのかは知らない。そいつの家は引っ越して、今どこにいるのかもわからない。……まあ、俺が知ってることなんて、そのくらいだ」


 桐島の話はそこで終わった。差し込む日差しも吹く風も、さっきまでとなにひとつ変わらない。知ったところで知らなかったところで、なにひとつ変わらない。


「死んだ人間のことなんて、考えたって仕方ないよ」


 桐島は退屈そうに呟くと、ふたたび本を読み始めた。栞代わりのカードが目に入る。夾竹桃の妖精。


「さっき、部室に広瀬がいたよ」


 桐島は最後にそう言うと、さっさといけ、と言わんばかりに、俺に向けて手をひらひらと揺すって追い払う仕草をした。


 屋上の様子を見回す。


 桐島が本を読んでいるだけだ。


 何も変わったところなんてない。フェンスの向こうの景色も、空の色も、なにも変わっていない。


 その景色に背を向けて、部室に向かうことにした。


 ふと、須川の話を思い出した。 


『もしかしたら、藁を掴んで歩いた先でも、藁は藁のまま、ガラクタはガラクタのままかもしれない。旅に出たところでなにひとつ変わらないかもしれない。でも、旅に出なかったら、確実になにひとつ変わらないままなんだ』


 俺はその考え方が好きだと思った。そうやって、何かを手に入れようとする須川の姿勢が、本当に尊いもののように思えた。それなのに、俺には真似できる気がしない。


 歩き続ければどこかにはたどり着けるかもしれない。

 でも、そこにもやはり篠原はいない。篠原はもう、この世界のどこにもいない。


 それなのに何処に向かえばいい?

 したいこともほしいものも、本当はなにひとつないのに。


 最初からずっとそうだ。


 俺はただ生きているだけだった。ただなんとなく、生きているだけだった。


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