◇[Beehive]

04-01



 夏休みに入って三日が過ぎた。


 ボランティア部の部員四名は、ミーティングの為に朝から部室に集まっていた。議題はもちろん人形劇の内容についてだ。


 作業机の上にはそれぞれが持ち寄った『必要とおぼしきもの』が並べられていた。


 須川は台本を手直しして持ってきたし、名越は気を利かせて『人形劇入門』や『てづくり人形劇』といったタイトルの本を用意してきたみたいだった。俺は割り箸と画用紙と子供の頃に使っていたクレヨンを持ってきたが、須川が残念そうな、それでも文句をつけにくいような、そんな悲しい顔をしていたので、「冗談だ」と言って鞄の中にすごすごとしまい直した。


 ひとり難しい顔をしていたのは広瀬だった。


 みんなが集まるより先に部室に来ていた彼女は、いつもの定位置とは違う、窓のすぐそばにパイプ椅子を置いて、ぼんやり外の景色を眺めていた。

 虚空に視線を投げ出しながら、窓枠に肘をあてて頬杖をつき、ほおっと溜め息を漏らす広瀬は、ずいぶん絵になる。


「佳代、どうしたの?」


 そんな須川の言葉にも、「ん」と小さな吐息のような返事をよこすだけだった。


 なにかあったの、という顔で、須川は俺の方を見る。俺は首を横に振って、名越に視線をやる。彼もまた首を横に振って肩をすくめた。


 はあ、とまた広瀬が溜め息をつく。

 俺たち三人は彼女の横顔に黙って視線を寄せた。


 少しして、広瀬がささやくような声で、


「……恋って、なんだろうね」


 と、そう呟くのが聞こえた。


「……恋?」


 俺が思わず繰り返したとき、名越が呆れた顔で笑って、広瀬に声を掛けた。


「広瀬、発情期?」


 その声に、さっきまでぼんやりしていた広瀬の目つきが急に現実に帰ってきた。彼女は名越の方を振り向いて、「そんなんじゃないよ!」とむっとした声で言った。


「じゃあどうしたの? 広瀬が恋って、正直似合わないよ」


「あのね、名越くん、わたしだってそういうこと言われたら傷つくよ。少しは」


 口には出さなかったけど、俺も名越と同じことを思った。べつに広瀬に恋が似合わない、という意味ではなく、広瀬が恋だなんて言い出すイメージがなかった、ということだ。


 広瀬は整った顔立ちをしているし、人望もあるし、付き合いやすい。その気になれば相手なんていそうなものだとも思うが、まあ、そういう言い方というのは、誰に対して言うにしても無神経なものかもしれない。少なくとも俺は、「その気になれば相手なんていくらでもいるでしょう?」と言われて愉快な気持ちになったという人を見たことがない。


 それでも広瀬に恋が似合わないというのは、彼女がそういうことに興味がなさそうに見えたからだ。そういうものに距離をおいている、というよりは、ただ「いまのところ必要を感じないので」というふうに。


「ひどいね、矢崎くんも」


 俺はなんにも言ってないのに、広瀬はこっちを見てそう言った。考えていることが顔に出ていたらしい。


「仮にも思春期の女の子つかまえてそういう態度ってないよ。精神的ダメージのせいで食事が喉を通らないかも。名越くんがチーズタルト買ってきてくれないと餓死するかも」


「そういう小芝居はいいから、人形劇の話を進めない?」


「名越くん、ほんとうになかなかひどいね」


 こういうじゃれ合いを眺めていると、このふたりは仲がいいなあと感心する。俺には真似できない。


 あれこれと皮肉を言い合うふたりのやりとりに、須川が焦れたように口を挟んだ。


「ね、佳代。何かあったの?」


 須川がそう訊ねると、広瀬は「うん……」と妙な声を出して、口ごもるような間を置いてから、結局話始めた。


「あのね、これはわたしの話じゃないんだけど」


「そういう前置きをするときって、だいたい自分の話だよね」


 いちいち茶々を入れる名越を、須川が視線でたしなめた。


「夏休み前に、ある女の子がある男の子に告白されたの」


「告白」


 と俺は繰り返した。須川が今度は俺の方にじとっという視線をよこす。悪気はなかったのだが、ひとまず黙って最後まで聞こう、と言いたいのだろう。


 俺は口をつぐむ。


「それで?」と須川は続きをうながす。


 広瀬はきょとんとした顔をした。


「それだけだけど?」


 広瀬以外の三人は返す言葉に困ってしまった。


「それだけ?」と思わずまた口を開いた。今度は須川も文句はないみたいだった。


「うん。それで、恋ってなんだろうなあって」


 そう言われても、俺たちには反応のしようがなかった。そんなこと、とまでは言わないが、広瀬がそういうことで考え込むなんて思ってもみなかった。


「つまり、佳代は誰かに告白されて、それで考え込んでたわけね」


「わたしの話じゃないってば」


 広瀬は須川の言葉をそう否定したけれど、俺たちは誰も信じなかった。


「その女の子はね、高二にもなって初恋もまだなの。うぶなねんねってやつだよね」


 うぶなねんね。言葉の響きに思わず笑うと、広瀬がまた「矢崎くんひどい」と恨みがましい目で見てくる。べつに初恋がまだだということがおかしかったわけではないのだが。


「周りの人は、好きになったり好きじゃなくなったり、付き合ったり別れたり忙しそうだけど、その子はそういうのがいまいちピンと来ないんだよね」


「まあ人によって性欲に違いがあるからね」と名越は知ったようなことを言った。


「恋と性欲って一緒の話?」と須川が潔癖そうな調子で咎めた。


「根っこは一緒でしょ。人間なんてただの哺乳類だし」と名越は平然としている。須川はそれ以上話すのを諦めたみたいに溜め息をついた。


「それで、うぶなねんねの女の子はどうしたの?」


 言葉の響きを気に入ってなんとなく真似てみると、広瀬はまた拗ねたような顔をする。自分で言ったことなのに。


「困ってる」


「断ればいいのに」と須川が言うと、「いや、試しに付き合ってみるのもありでしょう」と名越が反論した。


「でもそんなの失礼じゃない?」


「相手のことを知ろうともせずに断るのは失礼じゃないの?」


「そういう言い方をされると、むずかしいけど」


「一緒にいるうちに好きになっていくかもしれないだろ。始まり方なんてどうでもよくない? お互いに好き合って付き合い始める場合ばっかりじゃないと思うけど」


 具体的な恋愛の話ならともかく、こういう抽象論をぶつけ合うのは、なんだか聞いているだけでも居心地の悪いような気分になる。いったい俺や名越や須川が、どれくらい恋や愛について知っているというんだろう。


 まあ、ふたりとも、俺よりはわかっているのかもしれないけど。


「名越くん、そういう経験あるの?」


「まあ、いま付き合ってる子がそうだし」


 名越のあっさりした言葉に、須川は目を丸くした。


「彼女いるの?」


「言ってなかったっけ? 矢崎は知ってるよね」


「中学時代から付き合ってる子がいるのは知ってる」


 そのうえで別の女の子と平気で遊びにいったりしていることも知っているが、今この場で口に出すようなことでもないだろう。名越の考え方に俺がどうこう言うつもりもない。


「須川は?」


「いや、わたしは……わたしのことは、今は関係ないでしょ?」


 たしかにね、とだけ言って、名越はそれ以上追及しなかった。


「矢崎はどう思う?」と、そこで須川が俺に話を振ってきた。


「なにが?」


「うぶなねんねのKちゃんは、いったいどうすればいいと思う?」


「……いや、好きにすればいいんじゃない? 断るにしても付き合うにしても、そのKちゃんの勝手だと思うけど」


「なんか矢崎、冷めてる」


「いや、他人の恋愛事情なんて、『好きにすれば』としか思わないだろ」


「まあ、それは、たしかにKちゃんの勝手っていえばそうだけど」


「ていうかなんでKちゃんってことになってるの?」


 広瀬が心底不服だというように俺と須川を睨んだ。


「仮名だから気にしないで」と須川は取り合わない。


「聞き方が悪かった。じゃあ、矢崎ならどうする?」


 その聞き方に、思わず考え込んだ。最近、須川が俺の扱い方を心得てきたような気がする。


「断るだろうな」


 ほら、というふうに、須川が名越の方を見た。


「でもそれはあくまで俺の場合であって、KちゃんはKちゃんの思うようにするのがいいと思う」


「それができないから困ってるんだよ」と広瀬は言った。


「じゃあ断るしかないだろうね。好きって気持ちだって時限式だし、相手にされないって思ったら向こうも次の相手を見つけるよ、きっと」


 名越のその言葉に、俺は思わず息をのんだ。


「返事を保留したからって相手がずっと待っててくれるわけでもないし、乗り気になれないなら考え込まずにとっとと断った方がいいよ」


 名越の言い方はどこまでも淡々としている。よどみがなく、引っ掛かりもない。


 広瀬は少し俯いてから、「でも、友達だったの」と言った。


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